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砂竜使いナージファの養女  作者: 平本りこ
紫の章

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8 紫の聖地

 ()れ川は大きく蛇行して、集落が位置する谷間を取り囲む。


 鳥瞰(ちょうかん)すれば、大蛇がオアシスを抱くような地形に見えるだろう。最下流は集落の端にぽっかりと空いた淵に続いている。豪雨の際、水は最終的に深淵に吸い込まれていくので、底が見えぬほど深い穴の奥には常に、地下水が溜まっているのだという。ちょうど、昨晩アイシャが落下しかけた淵の逆側が、聖地の終点だという訳だ。


 祭壇は涸れ川の砂地中央に佇む。薄紫色を帯びた石は水害と風塵による浸食で、角が取れて(まろ)やかな姿である。


 ファイサルが、背負っていた絨毯を祭壇の前に敷く。二人の巡礼者はニダールに促され、膝を突き、胸の前で両手を組んで目を閉じた。


「始めよう」


 紫の族長は合図とともに、低い旋律を口ずさむ。聴き慣れたようでいて、どこか新鮮さを感じさせるその曲は、祈りの歌だ。


 氏族によって若干の変調があるものの、大元(おおもと)となった旋律は同一なのだろう。ニダールの声に重なって、記憶を詰め込んだ宝箱の奥から、いくつもの情景が瞼の裏に浮かび上がる。


 聖なる祈祷日、母ナージファが()れたような声で奏でるのは、炎宿す砂竜に相応(ふさわ)しい、猛々しさを纏う旋律。一方、白の氏族長ラシードの唇から滑り出すのは、微風のように滑らかで優しい音楽であった。


 赤の集落が灰燼(かいじん)と化して以降、祈りの日にはファイサルと手を取り合って、南に向かい聖なる歌を捧げた。この広い砂漠の中で、ナージファや故郷の家族が奏でたこの歌を知るのは、もう二人だけである。


 ファイサルは少し調子外れな声で歌うので、次代に誤った旋律が受け継がれてしまわないか心配でもある。未だ見ぬ彼の家族に歌を教えるのはアイシャだと、密かに心に決めているほどだ。ニダールは太い美声を響かせるのだが、ファイサルの歌声が脳裏に蘇り、場違いにも頬が緩みそうになる。


 郷愁を誘う歌が響く赤の聖地、赤の集落。懐かしく、胸を焦がす。最後の日にいったい何が起こったのか、アイシャ達はまだ知らない。叶うことならば、真実を目にしたい……。


 瞼に遮られ、視界情報のない世界。紫の旋律は、赤の旋律と重なり脳内に響く。現実と空想の境目が曖昧になる。感覚が溶け出して、自分が自分ではなくなるような心地がした。


 夢の世界に旅立ちそうなのは、聴覚だけではない。乾燥した砂漠の空気は、どこかで嗅いだような香りに変貌し、幾重(いくえ)にも層を成して嗅覚を刺激する。燦々(さんさん)と降り注ぐ陽光の暖かさが暑さとなり、熱さへと変容した。その刹那、薄い瞼を透かし、強烈な光が眼球を焼いた。


 あまりの出来事に、光が落ち着いた途端思わず目を剥いて、アイシャは周囲を見回す。誰もいない。涸れ川もない。いや、それよりも驚愕を誘ったのは、眼前に広がる赤である。アイシャは炎に囲まれていた。


「ファイサル!」


 隣にいたはずの従弟を探すが、忽然と消えていた。前方で何かが()ぜて、轟音(ごうおん)とともに焼け落ちる。


 悲鳴すら声にならず、引き()った呼吸で(あえ)ぐ。恐怖に膝が震え、直立もままならず、アイシャはとうとうその場に蹲った。


 熱い。右手首が、熱い。炎が燃え移ったのだろうか。様子を見るために、頭部を押さえていた腕を下ろしかける。しかしその動作は、次に耳に入った声によって停止した。


「マハ!」


 母の砂竜の名である。まさか今更、その名を耳にすることになるとは思わなかった。そればかりか、鼓膜を震わせたのは、聞き慣れた(かす)れ気味の声。アイシャは顔を上げ、涙に濡れた目を見開いた。


母様(かあさま)?」

「マハ、待て!」


 眼前を、長身の女が駆け抜けて行く。無造作に一括りに結われた茶色の髪が風に揺れる。女はアイシャの姿など目に入らぬようで、真っ直ぐに砂竜の元へと走る。その姿は紛れもなく、母ナージファである。


「そっちは危ない。早く戻って来い」


 炎の中に佇むマハを追い、ナージファが燃え盛る天幕の間に吸い込まれて行く。劫火の中、何かが爆ぜる音がして、小さな悲鳴が聞こえた気がした。母の声であるかのようにも思え、アイシャは大きく身震いをする。


 この時にはすでに気づいていた。これは赤の集落である。きっとこれは、村の最後の記憶。水のみぞ知る真実であると。


「母様、行っちゃだめ!」


 アイシャは震える身体を叱咤して、母の背を追おうとするのだが、恐怖に(すく)む身体はほんの少しも従ってはくれない。膝を拳で叩いて自身を奮い立たせようとしたものの、努力も虚しくその場に立ち尽くすことしかできなかった。


「やだ、また全部焼けちゃう。誰か、助けて」


 震える声は、天幕が崩れ落ちる音に掻き消される。音の出どころを見上げ、アイシャは目を疑った。強欲な炎がアイシャを呑み込んでしまおうと赤い舌をちらつかせ、天幕の残骸と共にアイシャの頭頂へと向かって来る……。

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