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砂竜使いナージファの養女  作者: 平本りこ
紫の章

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6 特別なチーズ


「眠れなかったのか? せっかく暖かい寝床を貸してもらったのに」


 翌早朝、まだ低い陽光が砂丘の稜線を淡い赤橙(あかだいだい)色に染める時分。アイシャのやつれ顔を見るなり、大袈裟に眉を上げたのはファイサルである。


 昨晩、星空の下での語らいの後、気絶寸前のアイシャを連れ帰ってくれたのはもちろんワシムであった。別れ際、清々しい微笑みを浮かべ「さっきの件、考えておいてくださいね」と言い残した端正な横顔が、脳裏に焼き付いている。


 生まれて初めての経験に、ときめきがない訳ではない。しかしアイシャの本質は臆病で、それが高じれば相手の真意を、心の奥底まで穿(ほじく)り出さねば気が済まないほどの、疑り深さへと転じるのだ。


 アイシャは自他共に認める地味な娘であって、初対面で求婚されるような器量は持ち合わせていない。ワシムの思惑はどこにあるのか。困惑が脳内を掻き回すようだ。


 寝不足と相まって、いつにもましてぼんやりとした表情のアイシャに、ファイサルは怪訝そうな視線を注ぐ。


 試しにその見慣れた顔をじっと見つめてみたのだが、ほんの僅か足りとも鼓動は速まらないので、ワシムに対して感じたものは、やはりときめきだったのだろう。彼にならば、騙されるのも良いかもしれない。いや、やはり冒険や楽観は性に合わないか。


「わかった、またいつもの変な夢見たんだろ。ほら、竜の泉で溺れ死ぬやつ。昔みたいに泣くなよ?」

「泣かないもん」


 無神経な発言に強い語気で返してそっぽを向く。ファイサルが眉を寄せながら首を傾けていたが、なぜだか昨晩のことを相談する気になれず、アイシャは反対側壁面のタペストリーを睨んだ。


 四角く切り取られたような窓の横、縦長の布が一つ、天井辺りから垂れ下がっていた。色鮮やかに優美な曲線を描く伝統的幾何学(きかがく)模様の真ん中で、水色の砂竜(さりゅう)が一頭、室内を観察しているような構図である。


 赤の集落で暮らしていた時も、天幕内の装飾品として砂竜は見慣れたものだった。白の集落でも、白き砂竜を模した調度品は身近であったし、北方守護の紫の氏族でも同様の文化があるのだろう。しかし。


「あれ、水色の砂竜?」

「父が東方青の氏族出身なんです」


 不意に耳元に息がかかり、アイシャは危うく飛び出しかけた悲鳴を呑み込んだ。


「ワシムさん」


 不自然なほど近くで発せられた声にアイシャが身を引けば、何事もなかったかのように距離を置き、ワシムは爽やかな笑みを浮かべる。


「おはようございます、お客人。昨晩は良く眠れましたか」

「ああ、おかげさまで」


 にこやかに答えるファイサルの隣で、アイシャは未だ収まらぬ鼓動に胸を押さえつつ、小さく何度か頷いた。実のところ、よく眠れないどころかほとんど一睡もできなかったのだが。


 ワシムは、食卓についているアイシャの頭頂に含みのある視線を注いでから、朝食を載せた平皿を客人二人の膝元に置く。紫を基調とした絨毯の上で、陽光を受けた銀食器が煌めいた


 皿の上には乾燥ナツメヤシと干しブドウに山羊のチーズ。搾りたての駱駝(ラクダ)ミルクは一人分ずつ器に注がれて、泡立っている。「秋であれば生のナツメヤシをお出ししたのに」とやや残念そうにワシムが言ったのだが、アイシャは彼の顔を直視することができなかった。


 黙したまま少年の話を聞けば、高齢の祖母がまだ目覚めていないため、ワシムやその家族は後ほど朝食をとるらしい。特別に早朝の食事を用意してもらったことに恐縮するアイシャだが、ファイサルは素直に礼を述べ、遠慮なく食事を始めた。その手がチーズに伸ばされた時、ワシムが、あっと声を上げた。


「いや、すみません、ファイサルさん。このチーズ、少し欠けていますね」

「まあ言われてみれば。でも別に俺はこのままで」

「いいえ、それはいけません」


 ワシムは問答無用で平皿を引っ込めて部屋から去り、戻って来た時には別の皿を手にしていた。なるほど、先ほどのチーズは角が崩れていたのだが、こちらは綺麗に鋭角に切り取られていて、心なしか色が濃く美味(うま)そうである。


「これは伯父……族長ニダールがお客人に振舞うために特別に用意させた食事で、特に山羊チーズは逸品なんです。僕たち家族の分も貰ったので、お皿ごと交換しましょう。どうぞこちらをお召し上がりください」


 そもそも出す際に気づかぬものなのか、とやや(いぶか)しく思ったが、目が合えばワシムに柔和な笑みを返されて、アイシャの心から疑念の(もや)は吹き飛んだ。小さく礼を言い、黄色い塊を一つ口にする。


 爽やかな酸味が口内に広がる。濃厚で、これまで食した中でも一二を争う美味である。咀嚼(そしゃく)をすれば止まらなくなり、食の細いアイシャにしては珍しいことに、今朝は存分に腹ごしらえをしたのであった。

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