4 ナージファの養女
想像を絶する苦痛がアイシャを苛む。
泉の中では難なく肺に出し入れでき、言葉を発する源として利用することができた水は、一歩そこを出てしまえば、異物でしかない。アイシャは呼吸を奪われ、激しく咳込んだ。狼狽した女の手が、蹲ったアイシャをうつ伏せに抱きかかえ、背中を強く叩く。
「しっかり! 水を吐くんだ。おい、医師を!」
アイシャの頭上で切羽詰まって叫ぶのは、やや嗄れたような声質をした女だった。
周囲が慌ただしい。この身に襲い掛かった苦痛も、辺りに響く取り乱した叫びも、水中に引きずり込まれたことも、今思えば全てが恐ろしかった。
アイシャは水を吐き終えるや否や、熱いものが目の縁から溢れ出し、頬を流れるのを感じた。同時に情けない泣き声が漏れ、庭に反響した。
通常であれば、子供が泣き出せば慌てふためくものだろうが、女はむしろ安堵したらしかった。アイシャを自身の膝の上に座らせるように抱き締めて、頭を撫でてくれる。女の腕で、硬質な物が黄金色に煌めいた。天竜のような姿を模した腕輪だった。後から聞いた話では、懇意にしていた皇妹から贈られた品だという。
「ああ、無事で良かった。怖かったね……」
その優しい声音と慈しみに満ちた愛撫に、アイシャは涙で曇った視界の中、女の顔を見上げた。
大人の年齢は、幼子にとっては判別が困難だ。せいぜい、若者か老人かを見極める程度である。だからこの時のアイシャには眼前の女がどの程度歳を食っているのか分からなかったのだが、口元の皺や少し白い物が混じり始めた茶色の頭髪を見る限り、若年ではないのだろうなと思った。
そして何より、女の容貌で目を引いたのは、右目の辺りを覆う赤い布である。それが、負傷して失った眼球を隠すための眼帯であると知ったのは、ずっと後のことだった。
女はアイシャの真っすぐな視線を受け止め、少し目を見張ったようだ。アイシャの方も、知らぬ女の顔を凝視しつつ口を半開きにして、気づけば涙もぴたりと止まっていた。
二人の間に訪れた沈黙を破ったのは、無邪気な声だった。
「赤の族長様、ほら申し上げた通りでしょう。女の子が庭園の方に走って行ったって!」
目を遣れば、得意げに胸を張った少年が一人。飴色の髪と瞳をした、整った容貌の子供である。先ほど謁見の間でこちらに気づいて視線を向けてきた少年だ。
目が合うと彼はにっこりと笑ったので、アイシャはなぜだか恥ずかしくなり、目を逸らして赤の族長と呼ばれた女の胸に顔を押し付けた。
「なんだ、懐かれたな」
「女傑とはいえ、どこか母性でも感じたのか」
「ナージファ、子供の抱き方はこうだ」
辺りで男らが、やいやいと揶揄ったり世話を焼いたりするので、アイシャはいっそう身体を小さくする。もう冒険なんてしたくなかった。一生後宮の狭い部屋の中で静かに暮らしたい。そう思ったのだが、不思議とこの女の腕の中は居心地が良い。
「ナージファ」
不意に、低く太い声が呼びかけた途端、空気が引き締まる。アイシャを抱いたまま赤の族長ナージファが砂地に膝を突いたので、アイシャの身体が自然と後傾する。心許なさを感じて、さらに強くしがみ付いた。
「陛下」
「抱いているのは……皇女か」
「無礼をお許しを」
ナージファの言葉を受け、皇女の危機にもかかわらず遅れてやって来たらしいダーウード皇帝は、動揺の欠片も感じられぬ声音で返す。
「顔を上げなさい。それを溺死から救ったこと、礼を言おう」
「畏れ多くございます」
娘が溺れかけたわりには平坦な口調だが、ダーウードにとってアイシャは何十人もいる子供のうちの、ぱっとしない一人にすぎないのである。
「褒美を取らせよう。……先の西方蛮族討伐の褒章に他氏族には皇族を降嫁させた。しかし赤の氏族には、百の羊と五十の駱駝をやっただけだった」
「あたしは女だし、息子もおりませんので」
ダーウードはしばし、何かを思案するような間を空けてから、低く「そうか、相変わらず欲がないのだな」と言った。
結局、駆け付けた医師による診察を受けた後、浴場に連行されたアイシャは、湯を頭頂から何度も浴びせられ、屋外の泉で得た垢をこれでもかと擦り取られることになる。
ナージファの腕の温かさや飴色の少年の端正な顔が脳裏を過ったが、あれはまるで、恐ろしい夢の中の出来事であったかのようだ。いや、紛れもなく悪夢だったのだが、あの女の温もりだけは、恐怖の対象ではなかった。
あの日から、アイシャはぼんやりと物思いに耽るようになった。母の温もりを知らぬアイシャだが、ナージファの腕の柔らかさや慈愛に満ちた隻眼が脳裏から離れなかった。もう一度会いたいとすら思った。そしてそれは、赤の族長も同じだったらしい。
「アイシャ皇女」
ある日女官に呼ばれ、渋々後宮の門から外廷の庭園に出てみれば、そこには赤い眼帯の女性が正装で立っていた。
「ナージファです。今日からあなたの養母となる。……よろしくたのむ、皇女……いいや、我が娘アイシャ」
そうしてアイシャの世界は突如、広大な砂漠へと飛び出したのである。
序章 終