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砂竜使いナージファの養女  作者: 平本りこ
紫の章

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4 竜と少年と深い淵

「あれ、お客人……アイシャさん」

「ワ、ワワワワシムさんこんばんは」


 砂竜(さりゅう)の柵辺りで目を丸くしている長身を見上げ、どこまで聞かれていたのだろうかと気を動転させつつ、咄嗟にアジュルの口を押さえる。手の中で、不満気な唸りが響いた。


「眠れませんでした?」


 ワシムが目元を和ませて、歩み寄って来る。アイシャは、静かに、と指を唇に当てて言い含めてからアジュルを解放し、腰を上げた。


「はい……あ、いいえ。この子に会いたくなってしまって」


 ワシムは、足元で月光を照り返す赤銀色の竜に視線を落とす。アジュルは、先ほどアイシャに飛びついた際に放棄していた嚙み嚙みトビネズミさんを咥え直し、見慣れぬ少年をやや警戒気味に見上げていた。


「ああ、この子が。本当に赤みがかっているんですね。撫でても?」

「はい、もちろん」


 ワシムの細長く形の良い指が竜の額に伸ばされる。角の辺りまで近づいた時、意外にもアジュルは身を引いて、アイシャの背後に逃げ出した。アイシャの脚の陰から顔だけ覗かせて、アジュルは何やら人見知りをしているらしい。


「アジュル、怖くないよ。この人は良い人だよ」

「気になさらないでください。初対面だから仕方がないです」

「ううっ、すみません」


 いっこうに全身をさらけ出そうとしないアジュル。アイシャは肩を(すぼ)めて謝罪しつつも、戸惑いを隠せない。


 白の集落では誰にでも愛想を振り撒いてくれたのに、ワシムに対しては警戒心を(あら)わにし、時折低く唸り声すら上げていた。


 白の集落での様子を知らぬワシムは、アジュルの態度は性格由来のものだと思ったのだろう。特別気に留めた様子もなく、美しい笑顔を崩さない。


「もしよろしければ、向こうでお話しませんか。この辺りは民家が多いでしょう。意外と声が響くので」

「あ、はい。……いえ、でも」


 成人前の少年が相手とはいえ、歳はほとんど変わらない。こんな夜更けに家族でもない男性と二人きりで過ごすなど、はしたないことだろう。断ろうとしたのだが、そこは地味の代名詞のように扱われてきたアイシャである。悲しいかな誘いを(かわ)した経験など一度もなかったので、対応に困惑し情けなくもただ視線を彷徨(さまよ)わせた。


「その子も一緒ならいかがですか。僕もなんだか眠れなくて」


 アジュルは相変らずぬいぐるみを咥えつつ、じっとワシムを見上げている。この提案は何も悪意あってのものではないのだし、アジュルがいれば、三人だから問題はないだろう。おそらく。


「そうですね、それなら」


 顎を引けば、目に見えてワシムの顔が輝く。鼓動がひと跳ねし、気恥ずかしさに視線を逸らせる。ファイサルがいれば、「出たよ面食い」と溜息を吐いただろう。


「ではこちらに」


 慣れた足取りで砂地を進むワシムの隣に並ぶ。アジュルが一度だけ不満そうに唸ったが、柵に戻らずアイシャとワシムの間に割り込んだ。少年は気を害すこともなく、小さく笑い声を上げた。幼い竜の悋気(りんき)だと思ったようだ。


「可愛らしい砂竜ですね。名前は?」

「アジュルです」

「暁ですか、素敵です」


 どうも大人びた様子の少年だ。口調だけではない。アイシャの歩幅に合わせるのはもちろん、アジュルの歩みまでも気にしつつ進む年下の少年に、心底感心した。これがファイサルならば、がっちりと手首でも掴んで強引に引っ張っていくだろう。ワシムを見習わせたいものである。


「ああ、幼竜(ようりゅう)は可愛らしいな」

「ワシムさんも来年成人ですよね。もうすぐ砂竜を孵せますね」

「いや、僕は」


 何事かを言いかけて、ワシムは口を閉ざした。どうかしたのかと怪訝に思い彼の顔を覗き込めば、薄明りの中、夜と同じ色をしたワシムの目が笑みに弧を描く。鼓動がまた、ひと跳ねした。


「なんでもありません。それよりも」


 ワシムは何やらにこやかに話し始めるのだが、彼の横顔に見惚れていたアイシャの耳には届いていなかった。


 気づけば町の外れまで来ていたようだ。先ほどまで砂に覆われていた地面は気づけば小石が無数に転がる(れき)砂漠の体を成していて、進行方向の地平線には、乳白色の星の川が広がっている。アイシャの口から、感嘆が漏れた。


「わあ、とても広々とした場所ですね」

「ええ。この集落で一番美しい場所だと思います」


 地平線が見えるということは、この先は果てしない平地なのだろうか。広大な砂漠はもちろん見慣れているとはいえ、通常は砂丘の山谷や岩石、灌木の茂みが地の果てに曲線を描くため、雑然としている。こうも一直線の地平線上に星々が煌めく様は、神秘的にすら思えた。


 知らぬ町での夜の冒険にもかかわらず、全く恐ろしさを感じないのが不思議である。アイシャは吸い込まれるように足を進め、そして。


「ぐあああアイシャ!」


 不意にアジュルが声を上げ、アイシャの長衣(ちょうい)の裾に噛みついた。放り投げられた哀れな嚙み噛みトビネズミさんが、小石の上を転がっていく。


「アジュル、急にどうしたの」


 落ち着かせようと、アジュルの頭を撫でる。不意に背後にワシムの気配を感じ、肩越しに振り返る。月光に煌めく夜色の視線がこちらに注がれていた。


「アイシャさん、だめですよ。その先は深い淵になっているんです」

「え、淵?」


 視線で、爪先(つまさき)から前方へと砂地をなぞる。言われてみれば、アイシャの腕の長さ分ほど進んだ先の地面が、より深い漆黒に染まって見えた。おそらくそこは、深淵(しんえん)の入り口なのだろう。危うく足を踏み外すところだった。


 どれほどの深さなのかはわからぬが、アジュルが教えてくれなければ、二度と日の光を見ることは叶わなかったかもしれない。アイシャは戦慄に身体を震わせて、腕を抱いた。


 死のすぐそばまで自ら歩んでしまったことが恐ろしい。しかしそれだけではない、不穏な予感も胸に込み上げた。それは漠然とした不安であり、言語化することができない、直感のようなものでもあった。


「アジュルが気づいてくれて良かった。僕も空に見惚れてぼんやりしていたから、すみません」

「ワシムさん、あの」

「そちらにいると危ないですよ。もう少し戻って来てください。ほら、あの岩に座って星を見ませんか」


 無邪気な様子で言われてしまえば、一人不安を抱いていることが、とても礼を失した思考に思え、アイシャは引き()った頬を無理やり笑みの形に引き上げて、ワシムの隣に腰掛けた。

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