3 毛嫌いと溺愛
族長ニダールの妻、つまりアイシャの叔母にあたる女性は娶るつもりはないらしい。さらにはあの性格なので、客人をもてなすような甲斐性もない。したがって、アイシャらは族長の親族の家に滞在させて貰うことになる。
例の青年は、名をワシムと言った。歳はアイシャらの一つ下で十七歳。成人前ではあるものの上背があり、細身と相まって人目を引く出で立ちだ。さらに、前述のとおり端正な顔立ちをしており、砂漠の民らしく日に焼けていなければ、帝都の貴公子と言われても頷けるような容姿である。
自他共に認める面食いのアイシャは、ワシムの家に招かれて泡立つ駱駝ミルクを振舞われる間、少年の美貌にどぎまぎしつつ視線を彷徨わせていた。
かといって、先ほど族長から受けた屈辱に関し、完全に気が紛れたとまではいかぬのから、我ながら執念深い。あまりにも紫の族長|に苛立ちを募らせていたので、ワシムの母親とニダールが兄妹だと知った時には、大層驚いた。
ワシムの母親リムは、淑やかで微笑みを絶やさぬ女性である。若かりし頃はさぞかし、美人と評判だったことだろう。髭面で淀んだ瞳を持つニダールとは似ても似つかぬ姿。さらに性格も真逆とくれば、本当に兄妹かしらと失礼にも首を傾けたくなるアイシャである。
「ニダールは誤解されやすい性格なのよ」
リムが上品な声で兄を庇うので、頭ごなしに否定しては悪いと思うのだが、どうもニダールのことは好きになれそうもない。アイシャは曖昧に微笑んで、紫の族長の話題をやり過ごした。
リムの夫であるカイースは、リムよりも更に穏やかな男であった。彼は東方青の氏族出身だということで、どこか大人しい印象があるのは入り婿だからであろうか。
彼はちょうど帝都へと向かう所用があるらしく、アイシャらに丁重な挨拶をしてから、砂竜に乗って町を出て行った。
このように、父母ともに温厚な家庭であるためか、ワシムはもちろんのこと、三人いる彼の姉たちも同様に、砂竜族にしてはのんびりとした気性である。
他愛もない話にひとしきり花を咲かせ、紫の町で採れた小麦で焼いたパンの香ばしさに舌鼓を打ち、ナツメヤシの濃厚な甘みを堪能すれば、時は疾風のように過ぎ去った。
気づけば、窓からは月明りが差し込んで、室内には火が灯された。ゆらゆら揺れる朱色の明かりを眺めていると、日中の疲労ゆえか、座したまま何度か意識が飛びかける。
駱駝の鞍上で身を任せるかのように、うとうとと前後に揺れるアイシャ。その黒い頭頂に、ファイサルは苦笑を落とすのだが、彼の方も目の下を青くしているので、似たようなものだと思う。
二人のやつれようも無理はない。
白の集落からここ、北方紫の町までは、日中は日陰で休息を挟みつつ、丸々三日の旅程であった。アイシャが集落を飛び出した際、どうも抜けたところのあるファテナの手による即席の旅支度だったものだから、本来であれば駱駝の荷袋に詰めるべき旅の必需品には不足があった。
革水筒は半分空であった。食料は乾燥ナツメヤシがほんの少し。簡易天幕も積んでいない。
アイシャは結局、ファイサルが長旅用に準備した水と食料を食らう割りに、何の役にもたたぬ穀潰しとなり、挙句の果てには、どう頑張っても二人の人間が横になるのは不可能な大きさの一人用天幕を、三日間一人で占領した。
季節は夏。外で夜を越しても凍え死ぬことはない。しかしアイシャは幼少期、パン屑を放置したまま居眠りをして、身体中ゴミムシダマシ塗れになってから、屋外での睡眠ができない体質になっていた。
気合いの問題ではないと思う。どう頑張っても恐怖で目が冴えて、風が灌木を揺らす音にすら、びくりと身体が震えるのだ。睡魔など訪れてくれやしない。
だからこの三日間、竜の瞳に照らされながら星空の下で眠ったのは、いずれの日もファイサルだった。そのこともあってか、彼は始終眠たそうにしていたのだから、さすがに少しは罪悪感を覚えるアイシャである。
そんな他愛もない話をしていたら、幾らか気も解れてくる。
夜が更けた頃合いに、滞在用の客室に案内されたアイシャだが、慣れぬ日干し煉瓦の家。硬い壁の圧迫感に押し潰されそうである。
どうにも寝付けず、アイシャは夜の帳に滑り出た。勝手知らぬ異郷の地だが、日中に一通り案内を受けていたので、目的の場所へ向かうのに迷うことはない。
アイシャは、泉の側に並ぶ柵の端に手を突いて、小さく呼びかける。
「アジュル」
囁き声に、囲いの中の砂竜が数頭頭を上げた。声の主が見るからに弱そうな人間だと気づけば、彼らは何事もなかったかのように再び眠りの底に潜っていく。
薄闇の中、月明りを微かに照り返す紫銀の群れの中に一頭、赤みを帯びる姿がある。それはアイシャに気づくと休めていた身体を持ち上げて、跳ねるように駆け寄り、鼻先で柵を押して、囲いを開けて欲しいとねだる。細く隙間を作ってやると、とてつもない勢いで胸に飛び込んで来たので、アイシャは仰向けに引っ繰り返った。
「もう、アジュルったら。本当に、甘えん……坊、さん……なんだか、ら」
いつものように顔中を舐めまわされながらの言葉は細切れになる。アイシャはひとしきり、アジュルの大きすぎる愛を受け止めてから、肘を突いて上体を起こす。動きを察したアジュルは素直に砂上に下りてくれた。
「いい子だねえ」
角の間を撫でれば目を細める竜が、愛おしい。出来ることならば、この子が満足するまで甘えさせてやりたいものであるが、そうもできない事情がある。
アジュルが竜卵を破り出て、ひと月も経っていない。子竜は日々成長し、すでに大きさは誕生時の倍以上になっていた。アイシャの膝よりも体高があり、成長によって増加した体重を腕で支えようとすれば、筋肉が軋むほどだ。
竜の雛の成長は、赤や白の集落で幾度も目にしてきたのだが、アジュルは特別、成長が早いらしい。そのこと自体は喜ばしいことである。だがしかし、一つ大きな懸念があるのだ。
「イイコ、アジュル、イイコ」
そう、アジュルが人の言葉を真似る件である。まさか、言葉の意味を理解して、巧みに操るなんてことはないだろうけれど、過去に人語を発する砂竜には出会ったことがない。いらぬ騒動を避けるためにも、人目がある場所では、アジュルには口を閉じていてもらわねば。
「うん、アジュルとっても良い子。良い子は皆の前で喋っちゃだめですよ」
「アジュル、シャベル?」
「ううん、喋らないの」
「ベラナイ……」
円らな瞳が月光を浴びて無邪気に輝くので、アイシャの頬はだらしなく緩んでしまう。思わず竜の身体に腕を回した。
「もうっ、可愛いんだから」
「カワイイ、カワイイ」
「あれ、誰かいらっしゃるんですか?」
突然風に乗ってきた涼やかな声に、アイシャはアジュルに抱き着いたまま、一切の動きを止めた。




