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砂竜使いナージファの養女  作者: 平本りこ
白の章

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14 行くか行かぬか


「アイシャ、本当に良いの?」


 垂れ幕の隙間から灼熱の陽光が一筋、室内に差し込んだ。無遠慮な光芒(こうぼう)は、寝具に包まるアイシャの瞼を照らし、眠りを妨げる。アイシャは呻きとも返事ともつかぬ声を上げつつ、光に抗議するかのように掛け布を頭頂まで引き上げた。


「ファイサル、もう白の聖地巡礼から帰ってきたの。北へ行ってしまうわよ」


 ファテナの困惑が(にじ)んだ声が鼓膜を震わせても、アイシャは横になり強情な羊のように微動だにしない。


「アイシャ」

「いいの。放っておいて」


 不貞腐(ふてくさ)れた子供のような返答に、天幕の横で改心を待っていたらしいファテナは、しばしの沈黙後、溜息を漏らして去って行く。砂を擦る足音が遠ざかり、耳に届かなくなってからも、アイシャは布に包まれたまま、自身の腕を抱いていた。


 我ながら、子供のような振舞いに辟易する。羞恥に頭を搔き乱したいほどであるが、どこか素直になれない捻じくれた感情を持て余し、アイシャは今朝、寝具から出ることを拒絶した。ファテナが何度か呼びに来てくれたのだが、どんな言葉もアイシャを突き動かすことはできなかった。


 ファイサルは今、旅装を整えて、知人らと出立の挨拶を交わしているのだろう。本当は見送るべきであるし、しばしの別れだと思えば伝えたい言葉には事欠かない。それでも動けずに不貞寝を決め込むのは、アイシャの幼稚さゆえだろう。


 先日、風吹く高所での出来事で、この身には聖地巡礼など到底できぬと再確認させられた。日が経ち改めて考えてみれば、母の言葉は幻聴だったような気もしてきて、それならばファイサルが言う通り、白の氏族に混ざり放牧をして安穏(あんのん)と過ごせば良い。今朝は自らにそう言い聞かせ、白の聖地について行くことはしなかった。


 自分でも、ふらふらと定まらない軟弱な意志に失望する。(やす)きに流されそうになれば、微かな罪悪感が胸を刺す。今この瞬間も、母の意向に沿わぬことをしているのではなかろうか。


 聖地は願いを叶える場所で、唯一水神マージに近づける聖域。頭で理解できぬことが起きても、何ら不思議はない。


 だからあれはもしかしたら、本当に母だったのかもしれない。ナージファは今も生きていて、彼女自身ではどうにも解決できぬほど困っている。縋るような思いでアイシャに助けを求めたのに、頼みの綱である娘は、一人布に包まっている。


 そして、何だかんだと言ってもファイサルの旅立ちが、アイシャの胸を孤独で満たしていた。自分でも、意外なほどの感情であった。もし、道中予期せぬ事態に遭遇して、彼が帰って来なかったらと思うと、腹の奥に重苦しいものを抱えたような気分になるのだ。


 巡礼は同胞である砂竜族の集落を巡るので、ほとんどの場合、さしたる危険はなく進む。だが、過去には不慮の事故により行方知らずになった次期族長がいなかったわけではない。まさかあのファイサルが、巡礼果たせず道半ばで干からびることはないだろうと思えども、暗雲のように心を覆う憂いを退けることはできなかった。


 アイシャは不安に押しつぶされる胸を抱え、いっそう身体を縮こめた。そのまま強く目を閉じて、全ての感情に蓋をする。瞼の裏に、揺蕩(たゆた)う水の煌めきが映った。



『アイシャ』


 中性的な声がする。うるさいな、と漏らしてから無視を決め込むのだが、呼び掛けは次第に大きくなって、いっこうに止む気配はない。


 何度目かの呼び声に我慢の限界を迎えたアイシャは、思わず(まなじり)を決して叫んだ。


「もう、静かにしてっ!」


 八つ当たりじみた声が周囲を震わせた刹那、この身を包むものがいつもの薄布ではなく、ねっとりとした密度を持つ水であることに気づく。アイシャは慌てて両手で口元を覆い、水を飲まぬようにするのだが、身体は空気を求めている。


 水面へ出なければ、溺死してしまう。アイシャは必死に手足を振り回し、頭上の方へと進む。そこで気づく。上下左右どちらの方向を見ても、暗黒である。ただ、アイシャの身体を包み込むように淡い光が浮かんでいるだけ。これではどちらへ泳げば地上に出られるのか、判然としない。


 呼吸を奪われた苦しみに喉を掻きむしり、いよいよ意識が遠のきかけて、我慢の限界を迎えたアイシャは大きく口を開く。体温よりもやや冷たい水が、舌に触れ喉を冷やし、気管に滑り込む。だがそれは、さらなる苦痛を生みはしなかった。


『タスケテ』


 懇願を受ければ、それが初めて耳にする声ではないと気づく。天竜の声だろう。ああ、いつもの夢かと気づき、小さく安堵の息を吐く。


 幼き日、宮殿の泉での邂逅(かいこう)を皮切りに、アイシャはよく天竜の夢を見た。竜はいつも、助けを求めてアイシャを呼ぶのだけれど、あいにく救う(すべ)は知らぬのだ。


 水中で目を凝らせば、先ほどまで黒々としていた水の中にぼんやりと浮かぶ黄金色。


 アイシャは思わず手を伸ばし、竜の鼻面に触れる。夢と(うつつ)の狭間のような世界に、いつもと寸分違わぬ(なめ)らかな鱗。指先を這わせれば、額に変わらぬ裂傷(れっしょう)。出会う度に、助けを求めてくる姿に、アイシャは問いかけた。


「助けるって、どうやって。どうしてあたしのところに?」


 竜の七色に光る瞳が、アイシャを捉える。幻想のように美しい虹彩(こうさい)が、滲むように色を変える。青、赤、黄色、緑、転じてまた青。その瞳に蒼天(そうてん)を見た刹那、思わずアイシャは声を上げた。


母様(かあさま)の瞳」


 間歇泉(かんけつせん)での母との邂逅が脳裏に蘇る。「助けて」。そう、母も天竜と同じ言葉で助力を請うた。


 不意に、粘度のある水が濃縮し、アイシャの胸を突き飛ばす。突然の衝撃に思わず目を閉じて、やがて瞼を上げた瞬間視界に入った姿に、アイシャは言葉を失う。


 竜は消えていた。代わりに水中の闇に浮かぶのは。


「母様」


 何度か瞬きをする。眼前に佇む長身は、赤の聖地で再会した時と同じ、母の姿である。だが先日と異なるのは、その表情。やや目を見開き、口元が引き締められている。僅かな失望を帯びた表情だ。


「アイシャ、どうしてここにいる? 巡礼はどうした」


 低い叱責の声に、アイシャは肩を震わせた。


「だって母様。やっぱりあたしには無理だよ」

「なぜ」

「いつも見ている白の聖地ですら怖かったの。足が(すく)んで動けなかった。ファイサルが一緒だったのに」

「自分がやりたくないことを従弟(いとこ)に押し付けるのか」

「そうじゃないけど」

「死ぬぞ」


 母の口から飛び出した不穏な言葉に、アイシャは口を閉ざす。ナージファは、娘の表情を覗きながら、淡々と続けた。


「巡礼の旅で、ファイサルは死ぬ。アイシャが行かなければ」

「し、死ぬって。どうしてそんなことがわかるの?」


 ナージファは小さく首を振るが、明確な答えはない。ただ子供騙しのように「水のみぞ知る」と呟いた。


「そんなの嘘! 母様は、あたしを言い(くる)めたいだけ」


 言いつつも、溢れ出した不安に身体が小刻みに震えるようだった。


 以前から、ファイサルがどこか遠くへ消え去ってしまうような錯覚を覚えることがあった。赤の氏族集落が焼かれた晩や、昨日の聖地での語らいの折。それ以外にも、思い起こそうとすれば、具体例は枚挙(まいきょ)(いとま)がない。


 まさかナージファが言う通り、本当にファイサルは戻って来ないのではなかろうか。


「アイシャ、おまえが行けば全て円満に進むんだ。勇気を出せ。おまえはあたしの娘。誇り高い赤き砂竜使いだろ」


 アイシャの心が行動的な思考に傾くのを察し、ナージファは口の端を持ち上げる。すると母の姿は淡く発光し、水の粒子に溶け込むように輪郭がぼやけ始める。


「か、母様!」


 間歇泉での再会時と同様に、突如消えゆくその姿に手を伸ばすが、やはり指先は水を握るだけ。


「さあ、アイシャ」


 ナージファは、最後に豪胆な表情で言った。


「ファイサルを追え」

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