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砂竜使いナージファの養女  作者: 平本りこ
白の章

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31/91

13 待っていてくれるなら

 聖地近辺までは、過去に幾度も踏み込んだことがある。白の聖地である断崖(だんがい)に近づけば、平地よりも僅かばかり年間雨量が多くなり、放牧地としても適切である。集落の者らは、この辺りまで日常的に羊を連れて来ているのだ。


 とはいえ、実際に聖地内を訪れたことは一度もない。正式な巡礼は明日以降、ファイサルが旅立ってから行われる儀式であるが、今宵はその予行とでもいうべきか。


 聖地へと続く高山は、前述の通り雨に比較的恵まれている。それでもやはり、砂漠帯らしい砂と石の大地であるのだが、微細な砂よりも、硬質な岩石を多く含む地形のため、集落近辺とは地質が大きく異なる。


 日中、燦々(さんさん)と降り注ぐ日差しの下で観察したならば、岩の割れ目から小さな白い花弁の花が咲き、(まだら)に残る白茶けた砂地には、半ば枯れた灰色の草が茂るのが視界に入るだろう。


 しかし今夜、二人の足元を照らすのは、紫紺(しこん)の空に浮かぶ巨大な月と、乳白色の微光を発する星の(うすぎぬ)。竜の瞳と竜の身体。その輝きが、山地の傾斜に降り注ぐ。


 やがて、斜面のある一点から上、地面の色が白色を帯び始めるのが目に入る。白の聖地である。振り仰げば、白き山頂を月光が照らし、宝玉を散りばめたような夜空に絶壁が(そび)え立つ様が神々しい。アイシャは思わず感嘆の声を漏らした。


「綺麗」


 しかしその感動は、突如横殴りに吹き付けた突風により、文字通り吹き飛ばされた。


 身体中に打ち付ける砂粒に目を閉じ声を上げ、ファイサルの腕にしがみ付く。断崖が近い。白の氏族は風纏う砂竜の民である。その名に相応しく、聖地の断崖には時折想像を絶する暴風が吹き荒れる。


 二度目の風に煽られて、アイシャは足を踏み外しかける。滑落(かつらく)は免れたものの、少し歩けば絶壁で、風に吹かれて足を滑らせれば命はないだろう。危険を意識してしまえば、膝が震えるのを堪え切れなかった。


「こここ怖いい」

「大丈夫だって」

「やだやだ、進まないで!」


 不本意ながらも必死で縋りつく。情けない従姉(いとこ)の様子に、ファイサルは小さく溜息を吐くのだが、何やらまんざらでもない顔をするのが幼少の頃からの癖だった。相手がアイシャでなくとも、誰かに頼りにされれば俄然(がぜん)やる気が出る奴なのだ。


「そんなに怖がるんじゃやっぱり、聖地巡礼なんて無理だな」


 断言してからファイサルは、アイシャの手を引き近くの岩場に腰を下ろす。風に煽られつつ直立しているのも辛かったので、アイシャはそそくさと座り込んだ。


 確かに一人旅は無理難題。聖地巡礼、しなくても良いのではなかろうか。間歇泉(かんけつせん)で見た母の姿は、寝ぼけたアイシャが見た幻覚だったのかもしれない。ついそう思ってしまうほど、崖下(がいか)からの突風はアイシャの心を萎えさせた。


「もうちょっと行ったら、西の大草原やその向こうの海原が見えるはずだ。夜だから真っ暗だろうけど、気分だけは清々しくなる」


 見に行こう、と言外に促されたのだが、アイシャ大きく首を横に振り、拒絶した。押しても引いても梃子(てこ)でも動かぬ意思を見せつければ、さすがに無理強いされることもない。


「俺がいない間、ちゃんと生きていけるのか?」


 自惚(うぬぼ)れも良いところである。アイシャはやや頬を膨らませ、言い切った。


「別に大丈夫だよ。今日だって、ファイサルに無理やり連れて来られなければ、こんな場所で(うずくま)ることもなかったし」

「良くそれで帝都へ旅に出ようとしたな」


 痛いところを突かれたアイシャは顔を上げ、ファイサルの横顔を()め付けた。こんな小言を述べるため、聖地の近郊まで連れ出したのだろうか。そうだとすれば、どこまでも嫌味な奴だ。


 ファイサルは一度こちらに視線を寄越す。次いで、遥か天上で瞬く竜の煌めきに視線を戻し、不意に生真面目な口調になった。


「出立は、アジュルが落ち着いたらすぐ……少なくとも数日以内にしようと思う」


 咄嗟に言葉が出ない。先ほどまでの苛立ちは、より強い感情に上書きされて、引っ込んだ。


 巡礼の旅は、ほんの数日で済むものではない。ちょっと隣の井戸に行って来る、という程度の気軽さで決定するようなことではないのだ。


 驚愕するアイシャをよそに、ファイサルは空を仰いだままである。


「聖地を巡り、帝都に行って、帰って来るまで結構な時間がかかるだろ。出来る限り早く用事を済ませたいんだ。陛下に嘆願して、人員と家畜と竜卵を都合付けてもらって、一日でも早く氏族を再建する。急いで戻ってくるからさ、おまえはどこに天幕を張ろうかとか、放牧路はどこがいいかとか、考えておいてくれよ」


 どこか遠くを眺めながら、ファイサルは目を細めた。


「一度は滅びた赤の氏族だけど、俺達が元通りに……いや、それ以上の氏族にしないと。それで、誰にも屈することなく誇り高い赤き砂竜使いとして、生きていくんだ。理由もわからず焼けてしまった皆の無念を晴らすためにも」


 無念を晴らす。その言葉が妙に熱を帯びているように聞こえ、アイシャは従弟の横顔を凝視する。あの日。赤の氏族が灰になった悪夢の日。襲撃の真相は判明せぬまま、砂中に埋もれるように皆の意識の表層から消え去った。


 アイシャはふと、思いを馳せる。


 幼少の頃ファイサルが、憎しみに任せ、無鉄砲にも単身、犯人捜しのため砂漠に出たことがある。一度や二度ではない。その度に後見人である白の族長ラシードは、赤き兄弟氏族の遺児に言い聞かせたのだ。「危険を冒さず今は堪えろ。生き残りがいることを(いたずら)に敵に知らせるな。二人が死ねば、赤の氏族は本当に消え去ってしまう」と。


 元より臆病なアイシャは論外だが、胆力のあるファイサルならば、首謀者を探し出すために無茶をしても何ら不思議はなかった。


 報復を(よし)とする「目には目を」の精神は、砂漠の民に脈々と受け継がれてきたものである。だが、ラシードの言葉の正当性は、子供ながらに痛いほどよく理解ができた。


 憎悪と哀嘆を押し殺し、白の氏族の庇護下で愛情に満ちた暮らしを送った八年間。アイシャの胸の中で、あの日の嘆きはどこか遠い過去の傷痕のようになり、ふとした拍子に微かな疼痛をもたらすだけだった。しかし、ファイサルにとっては、今もまだ血が滴るような生傷なのかもしれない。


 従弟の精悍な横顔が月明りに照らされ陰を帯びるのを、どこか知らない人物を見ているような心地で眺める。不意に、胸が締め付けられる心地がした。


「ファイサル」


 言葉が滑り出す。


「真相は、水のみぞ知る、だよ」


 ファイサルは弾かれたようにこちらを向く。


「何が?」

「村を焼いた犯人、捜そうとしているでしょう?」


 図星を差されたファイサルは落ち着きなく視線を彷徨(さまよ)わせ、頭を掻いた。誤魔化しは無駄だろうと観念した様子である。


「水のみぞ知る。だから聖地で水神に尋ねるんだ」

「水神に?」

「ああ。聖地の水は、人の思いに共鳴して願いを叶えるだろ」

「でもそれは迷信」


 夢も希望も信心深さもなく言ってのけたアイシャに、ファイサルは束の間幻滅したような目をしたが、すぐに気を取り直したらしい。


「迷信でもいいじゃねえか。願うだけはタダだから。それに、砂漠や帝都で得られる情報に手がかりがあるかも知れないから、ついでに」

「ファイサル、だめだよ!」


 アイシャは(たま)りかねて身を乗り出す。ずい、と接近した従姉の顔に、ファイサルはやや身を引いた。そのようなことはお構いなしに、アイシャは言い募る。


「絶対にだめ。お願い、危ないことはしないで。ファイサルまでいなくなっちゃったら、どうしらいいの」


 砂漠の真ん中で、独りぼっちで取り残されることを想像し、アイシャは胸が張り裂けそうだった。


 幼少の頃はファイサルのことが苦手だった。集落が消え、白の氏族に保護されて、二人きりの家族になっても、特別気が合うとは思っていなかった。しかし、辟易するほど側にいた従弟の温もりが急激に遠くなってしまうことを思えば、心細さに押しつぶされそうだった。


「約束して。元気で早く帰って来て。……そ、そうだ! やっぱりあたしも行く。ファイサルを止めないと」


 二人は束の間見つめ合う。ファイサルの赤茶色の瞳にアイシャが映る。アイシャの灰色のそれの中にはきっと、ファイサルの姿があるはずだ。先に視線を逸らせたのは、ファイサルの方だった。


「いや、おまえがいても足手まといだろ」

「ひ、ひどい」


 照れ隠しのように、つっけんどんな回答である。しかし、ややして戻ってきた彼の瞳には、柔らかな光が宿っていた。


「良いからおまえは集落でゆっくり過ごしてくれよ。砂竜の雛にしゃぶらせる生贄の形とか考えながらさ。下賜(かし)される卵もこれから増えるだろ」

「生贄じゃないもん」


 ファイサルは愉快そうに声を上げて笑ってから、目元を和ませた。


「ありがとうな、アイシャ」


 いつになく殊勝な言葉に、アイシャは目を見張る。今度はファイサルも視線を逸らさなかった。


「おまえが待っていてくれるなら、真っ直ぐ帰る。氏族の幸せを守るのは、ナージファ伯母さんの甥である俺の役目だ。もちろん、弱虫アイシャの面倒を見るのもな」

「ううっ、ファイサル、一言多い」


 星々の川が、白茶けた大地を照らす。大きな月が空にぽかんと穴を空け、二人を優しく見下ろしていた。

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