12 噛み噛みトビネズミさんと祝いの宵
祝いの晩。軽快な音楽が集落を包み込む。幾つもの篝火が、天幕の群れを朱色に照らす。
人々の喧噪に、今晩ばかりは羊も山羊も寝ぼけ眼を冴えさせて、柵の隙間から賑やかな一画を眺めている。駱駝は膝を折り長い首を地面に横たえて、微睡の中、耳をひくつかせる。砂竜は祝いの気配を察し、興味深そうに目を輝かせていた。
今宵の月は、一切の欠けもない。竜の瞳とさえ比喩されるその神々しき輝きは、地上で踊る者らの足元に影を生むほど鮮やかである。
アイシャは久方ぶりの羊肉に舌鼓を打ってから、腕に抱いた幼竜の頭部を撫でた。砂竜は知性に優れ、気高きものである。水神マージの使いである天竜の子なのだから、当然のこと。しかし腕の中で愛撫に目を細める雛を見る限り、竜といえども子供は子供。何やら母性を刺激されるアイシャである。
「間歇泉で孵った子は、本当に赤いのねえ」
「今日生まれたばかりかい」
「可愛いねえ」
集落の女性陣は皆、アイシャと同様、幼竜に首ったけ。竜を褒められれば我がことのように嬉しくて、赤子を抱いた母の気持ちがわかるような気すらした。
「アイシャ、名前は決めたの?」
隣に腰を下ろし、小さな竜に熱い視線を送っていたファテナが、竜角を指先で突きながら言った。アイシャは頷き、滑らかな鱗に覆われた背中を撫でる。
「うん。アジュルという名前にしたの」
「アジュル」
アイシャは頷く。
「暁って意味なの。赤の氏族がもう一度輝きますようにって。ほら、この子が最初の砂竜だから」
ファテナは、素敵ねと微笑んで、アジュルの口元に微細で上質な砂を差し出した。幼い砂竜は、すでに大量の砂を食べた後であるものの、出されたものは拒まぬ食いしん坊のようだ。二、三度匂いを嗅いだ後、大口を開けて砂を食む。
小さいものの、鋭利な牙が、ちらちらと篝火の明かりを反射する。彼らの食事姿は幾度も目にしてきたが、あの牙は無用の長物ではなかろうか。
遥か昔、人間が砂漠を席巻するよりずっと前。世界の覇者は、巨大な竜族であったと聞く。
もはや伝説のような物語。しかし数年に一度、涸れ川の氾濫や風による侵食を受けた砂の中から、巨大な骨が化石として露出することもある。それが果たして古代の竜なのかはわからぬが、彼らは砂竜と同じ鋭利な牙を持っていたことが、骨格から明らかになっていた。無論、砂竜は死すれば一晩にして文字通り砂に還るので、砂竜の化石ということはあり得ない。
「すごい食べっぷりね」
ファテナの指摘通り、この竜は先ほどから絶え間なく砂を嚥下している。誰も彼もがアジュルの無邪気な姿に鼻の下を伸ばし、手ずから砂をやりたがるのだから、きりがない。竜の子がどれほどの胃袋を持っているのは知らぬものの、さすがに消化器官が心配になり、アイシャはアジュルの口に布を突っ込んだ。
急なことに驚き、束の間硬直した竜の雛はしかし、次の瞬間には満足そうに布をしゃぶるのだから愛嬌がある。
ファテナが、思わず、と言ったように笑い声を漏らす。それから、アジュルの口元で唾液塗れになった布の形状を見て、首を傾けた。
「あれ? 何かしら、この形」
「あ、それね。噛み噛みトビネズミさん」
「噛み……?」
「噛み噛みトビネズミさん」
アイシャはゆっくり明瞭に発音をしなおして、嚙み嚙みトビネズミさんをアジュルの口から引っこ抜く。
「アジュル、よく甘噛みするでしょう。だからおしゃぶりの代わりに作ったの。さっき作った即席だけど、どうかな。可愛い? もうぼろぼろなんだけど」
アイシャはお手製のぬいぐるみをファテナの眼前に差し出した。気弱な性格ゆえか、相手が姉貴分とはいえ、自らの作品への感想を求めるのには照れが生じる。
慌てて作ったため、何度か針で指を刺し、布地に血液が滲んでしまった。染みは絶妙な加減で中心部に押し込んだので、見栄えに影響はないはずだ。
灰茶色の古布を丸めて縫い合わせ、長い尾と大きな耳を取り付けて制作した嚙み嚙みトビネズミさんは、すでに幼竜のお気に入りになったらしい。取り上げられたおもちゃを物欲しげに見上げたアジュルは、やがて不満そうに人の腕をもぐもぐとやりはじめる。
腕に走った甘噛みの痛みに、アイシャは慌ててぬいぐるみを竜の口に戻した。鋭い牙で親の仇か何かのように噛みつかれ続けるトビネズミが、少し哀れにも見えてきた。
「可愛い……けど、ちょっと可哀想だわ」
「や、やっぱり?」
アイシャもやや胸が痛み始めた頃だったので、トビネズミさんは早々に救出して、今度は素直にパン型のぬいぐるみでも作ろうかと思案する。だが、ただの平べったいパンには、特段可愛らしさはない。作っても何ら楽しくないのだから創作意欲は湧いてこない。
「とりあえず、今度は動物はやめるね」
そのまま他愛もない会話が止まれば、耳朶を震わせるのは、祝いの歌である。ファイサルの成人かつ赤き砂竜復活の日。日中には予期せぬ事件も起こったが、今はただ、手放しに陽気に過ごすべきなのだ。
そう理解しているのだが、アイシャの心の片隅には、孵らなかった卵が鎮座している。アジュルのあどけない仕草を目を細めて見守りながら、ぼんやりと思いを馳せてしまう。あの卵の中からはいったい、どんな子が生まれるはずだったのか。
昨年、天竜帝より下賜された双子の卵。あれが孵らなかったから、アジュルは弟妹を失った。
もし、アイシャがこの茫漠とした砂漠の中で、たった一人きりだったなら。白の氏族の庇護を受けず、唯一の家族であるファイサルもいなかったとしたら。アイシャはとうに、孤独に沈み、砂の下で骨になっていただろう。
意図せず、アジュルを抱く腕に力が籠る。この子に孤独は似合わない。今はたった一頭の赤き砂竜。しかしそれは、長い時を経ればまた、一つの群れになるだろう。その礎を築くのはアイシャでありファイサルである。母が愛した赤の氏族を、必ずや――。
「アイシャ、まだ生贄をしゃぶらせてんのか」
無遠慮な声が降って来る。声の主を特定するには顔を上げるまでもなかったが、アイシャは素直に従弟を見上げた。
「生贄じゃないもん」
「肉食わないのに鼠噛ませてるんだから生贄だろ」
ファイサルはいつもの通り、呆れたような目をして肩を竦める。その後、気を取り直して腰を屈め、座したままのアイシャへと徐に手を差し伸べた。
「まあいいや。なあ、聖地の近くまで行こうぜ。ラシード小父さんから許可貰ったんだ」
何の前触れもない提案に、アイシャは目を白黒させたのだが、そこは幼少の頃より強引なファイサルのこと。アイシャの腕からアジュルを奪い取り、次いで嚙み噛みトビネズミさんを引っこ抜いてから、共にファテナに押し付ける。
それからアイシャの腕を引き、口の端を持ち上げた。
「ほらほら、月夜の冒険だ。ファテナ、アジュルのことは頼んだ」
「冒険⁉」
「え、ちょっと。いったい急に何なのよ!」
アイシャの怖気づき引き攣った声も、ファテナの困惑に満ちた叫びも、ファイサルを引き止められやしないのである。
ややつんのめりながらも、仕方なくファイサルの背中を追うアイシャ。最後に一つ抗議する。
「あたし、冒険嫌い!」
「でも行きたがってただろ」
何のことかと首を傾けるアイシャを肩越しに振り返り、ファイサルは微笑みの中に一筋の緊張を孕んだような顔で言う。
「白の聖地だよ」
聖地巡礼。母の言葉が、アイシャの脳裏にこだました。




