8 ナージファとニスリン①
締まらぬ空気感ながらも、ひと段落ついたところで、ラシードはアイシャの腕に噛みつく黄金の竜の腕輪に言及した。
「これは間歇泉の側に落ちていたと言ったな」
「ああ、ちょうど湯に打たれる位置で、半分土に埋もれていた」
「妙だな。八年間も風に晒されて、砂上に露呈しているだなど」
「そりゃ、毎日湯に打たれていれば、砂に埋もれることもないんじゃねえの」
「私は水のことには無知だが、しかし」
ラシードは、なおも胸に引っ掛かるものがありそうな様子であったのだが、悶々と思考を巡らせていても栓無きことと結論付けたらしい。徐にアイシャに手を伸ばし、指先の動きで腕輪を渡すよう指示した。アイシャはずっしりと重量がある金の竜を外し、ラシードの手のひらに乗せる。
「間違いない、ナージファの腕輪だな」
「はい。あたしも母様の物で間違いないと思う」
ラシードは軽く頷いて、金の竜を引っ繰り返したり垂れ幕の間から差し込む日差しに翳したりして観察し、満足するとアイシャに返却する。美丈夫で知られる族長の、意外にも大きく節くれ立った手が、アイシャの指ごと腕輪を包み込んだ。
「肌身離さず身に着けていなさい。ナージファが大切にしていた物だ」
母の腕にいつも煌めいていた黄金色。記憶を呼び覚ませば同時に、ナージファの屈託ない笑顔が浮かび、アイシャは胸を詰まらせて、小さくはい、と呟いた。
「それにしても、奇妙なものだ。この腕輪がアイシャの所へ巡ってくるとは。まさに水が繋いだ必然というべきか」
言葉の真意が掴めず首を傾けるアイシャとファイサル。ラシードは二人の被後見人の顔へと順に視線を向けてから、居住まいを正した。
「この腕輪がどういった経緯でナージファの手に渡ったか、知っているかい」
アイシャは首を横に振りながら答える。
「皇妹……あたしの叔母様が母様にあげたんだってことくらいしか」
ラシードはそうか、と呟き、どこか遠い目をした。
「宮殿内廷の泉。四つの頃、アイシャが落ちたあの泉だ。ずっと前にも同じように、水中に引き込まれた皇女がいた。これはナージファから聞いた話だが……」
※
あれは、ナージファが年端も行かぬ子供の頃。年に一度の帝都参りである竜卵の儀の折、当時の族長の長子として、宮殿を訪れていたナージファは、持ち前の好奇心を遺憾なく発揮した結果、畏れ多くも宮殿内で迷子になっていた。
心細さを抱えて父の姿を探す中、彼女は奇しくも内廷中庭に迷い込み、天竜の泉の側で、ある少女と出会う。当時は皇子であった天竜帝ダーウードの末の妹姫、ニスリン皇女である。年齢が近い少女を目にし、これ幸いと道を尋ねようと近づくナージファの眼前で、あろうことか皇女は泉に突っ伏すように吸い込まれて行った。
慌てて駆け寄る幼き日のナージファ。泉を囲む石積の縁に腕を突き、水面を覗き込めばそこは一面の紺碧である。水深は不明だが、つい今しがた水飛沫を上げて落水した少女の影が見えぬことを鑑みれば、相当な深さがあると思えた。
「だ、大丈夫か!」
ナージファはおろおろと辺りを行ったり来たりした後に、居ても立っても居られなくなり、泉に上半身を突っ込んで、少女の姿を探した。
ねっとりとした密度のある水が、ナージファを包む。不自由な視界の中、少女の姿は意外にも、手を伸ばせば届く距離にある。水面からではなぜ目に映らなかったのかはわからぬが、呑気に思考を巡らせる暇もないナージファは、さらに身を乗り出して、少女の腕を掴み一気に引き上げた。
水を吐き咳込む少女を引きずって、泉から距離を置く。ナージファも荒い呼吸を繰り返してから、声を張った。
「おい! 危ないだろう。何やってたんだ。まさか身投げ……」
ナージファの怒声に打たれて、少女は顔を上げる。その真っ直ぐな眼差しと出会った刹那、ナージファは息を吞んだ。
少女はこの世の物とは思えぬほど、端正な顔立ちをしていた。艶やかな長髪は月夜の紫紺を練り込んだかのように煌めいて、通った鼻筋の下にはふっくらとして小ぶりな薄紅の唇。ナージファとそう変わらぬ子供であったのに、すでに成熟した女性のような、どこか官能的なものすら漂わせる容貌だった。
何より特徴的なのはその瞳。一見、灰緑に見えたのだが、光の加減で七色に色調が転ずるその眼は、一度目にすれば誰もの記憶に残るだろう。
少女は束の間驚きに硬直していたが、やがてふわりと表情を和らげた。水神マージの眷属かと見紛うほどの、神々しさを纏う微笑みだった。
「助けてくれたのね、ありがとう」
「あ、ああ」
妙に鼓動が速いことに気づいたナージファは、ついと視線を逸らす。
「人が死にかけていたら、助けるもんだろ。あんた何者? どうしてあんな場所に」
「まあ」
少女は己の無礼を悟り、目を見張り口元を手で覆ってから、姿勢を正す。
「失礼、申し遅れました。天竜帝の第十一皇女ニスリン。あなたのお名前は?」
ナージファはいよいよ石になり、眼前の少女を穴の空くほど凝視した。




