5 再会
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「ファイサル?」
歪にうねる視界の中、時を止めたかのように、全てのものが動きを忘れる。硬直した従弟の手を引いてみるが、反応はない。
「ファテナ、サクール」
声を掛けてみたものの、二人も同様に微動だにしない。サクールの腕の中の幼竜も、その可愛らしい口を半ば開いた体勢のまま、石像のようになっている。
遠く激しく噴き出していた間歇泉すら、白い柱を上げたままである。宙に浮かびいっこうに落下しない湯柱を見れば、世界、もしくはアイシャが狂ったのだと知れた。
アイシャは途端に恐ろしくなり、身震いしてから首を巡らせる。異様な世界に独りぼっちだ。アイシャは受け取ったばかりの黄金の腕輪を抱き締めた。
「母様……」
「相変らず弱虫だな」
不意に耳朶を震わせたのは、嗄れたような声。豪快で勢いのある話し方は、聞き間違えるはずもない。停止した世界で人の声を耳にすることは、どれほど安堵を呼ぶだろう。それが、もう何年も焦がれた者の言葉だったなら、胸に広がる熱は一入である。
アイシャは、強張り急に動作が不自由になった首を、ゆっくりと声の方へと傾ける。灰色の瞳が映したのは、いるはずのない女の姿。それが幻影だったとしても、アイシャは歓喜に涙を流さずにはいられない。
「黙ったままでどうした。あたしの娘なのに、どうしておまえは泣き虫なんだろうね」
呆れたような溜息交じりの声音だが、柔らかく細められた、蒼天のような隻眼は、慈愛に満ち溢れていた。どうした、ともう一度問われ、アイシャは震える唇を薄く開き声を絞り出した。
「母様」
「うん」
優しい微笑みで、母の目尻に皺が寄る。懐かしい姿にアイシャは顔を歪め、母の胸に飛び込んだ。
「母様っ、母様だ。本物?」
「あたしの偽物がいるのかい?」
「だって母様、もう八年も」
「ああ、久しぶりだ。……まったく。もう大人なのに、中身は子供のまんまだな」
相変らずちびだし、と心無い発言をするナージファだが、それすらも彼女らしい。アイシャはナージファの背中を撫で輪郭をなぞり、腕の中で深呼吸をして、安らぎの象徴である母の匂いを吸い込んだ。
紛れもなく、ナージファだった。あの悪夢のような日から八年が過ぎ、ナージファと共に過ごした六年間よりも長い時を白の氏族で過ごした。それなのに、母の姿に何よりも大きな安心を覚えるのだから、不思議なことである。
「母様、会いたかった」
「あたしも同じさ」
「今までどこへ行っていたの。これからはずっと一緒にいられる?」
ナージファが身じろぎをして腕を緩めるので、アイシャもそれに倣う。近距離で見つめ合えば、母の頬に浮かぶ一片の憂いを察した。心に冷たい風が吹く。
「母様?」
「アイシャ、あたしは今、おまえの助けを必要としているんだ」
「あたしの」
「ああ、アイシャにしか頼めない。あたしを助けてほしい」
「どうすればいいの? 今、大変な状況なの?」
ナージファは曖昧に頷く。
「大変だが、大丈夫。アイシャがあたしの言う通りにしてくれたら」
「何でもする。母様のためなら」
ナージファは愛し気に目を細め、もう一度娘を抱き締める。アイシャの背丈はナージファの頬の辺りまでしか伸びなかった。身体の成長はだいぶ前に止まってしまった上に、中身も大して育っていない。いつまで経っても子供のようだ。ナージファの例えを借りるのならば、「すかすかのナツメヤシ」。アイシャは母の頬に額をすり寄せる。
「赤き砂竜を連れて、聖地巡礼へ。帝都から新たな族長の呼び出しがある頃合いだろうから、ちょうど良いだろう」
「でも、それはファイサルが」
「だめだ、おまえが行ってくれないと」
「ううっ、一人で?」
「別に一人じゃなくてもいいが」
「あたしが巡礼することと母様に、何の関係があるの」
「それは」
ナージファは束の間言い淀み、アイシャをさらに強く抱きしめてから、腕を解く。そのまま一歩、二歩と後退るように距離を取った。
「母様?」
体温の名残を求めて伸ばしたアイシャの指先が、宙を掻いた。母の身体に触れたように見えたのだが、そこには実体がない。
「どうしよう、消えちゃう!」
「時間だ。アイシャ、頼んだからな」
自身の身体が光に溶けようとしているにもかかわらず、ナージファは穏やかな笑みを絶やさない。一方的に、彼女は言い残す。
「信じてる。あたしを」
――た す け て――。
言葉は細切れになり、世界が再び時を取り戻す。




