2 聖地へおいで
「羊肉、羊肉ね」
サクールは今朝から事ある毎に、こうして思い出し笑いをしている。おかしな寝言を叫んだファイサルが悪いとはいえ、何度も醜態を蒸し返されれば良い気はしないだろう。
ファイサルは眉根を寄せるのだが、サクールの端正な笑顔が眩しくて、これはこれで悪くはないな、と思うアイシャである。
「羊肉食えるだろ。俺の誕生日なんだから」
「ああ、もちろんさ」
サクールは笑いを収めるために、駱駝ミルクを一気にあおった。
「帰って来た時には一頭焼き上がっているように、手配しておくよ」
真面目な口調を取り繕いつつも口元が痙攣しているサクールに、ファイサルが冷たい視線を送っている。
彼らは族長ラシードのもと、この八年間を実の兄弟のように過ごした仲だ。気心知れたやり取りが微笑ましい。
そんな義兄弟の姿をやや遠巻きに眺めながら、アイシャは焚火を消してパンを掘り起こした。布を叩きつけて灰を落とす。こんがりと焼けた円形の大きなパンを切り分けながら、アイシャは浮足立つ気持ちを抑えるのに必死である。
本日、ファイサルが成年となり、二人はいよいよ聖地に足を踏み入れることができる。赤の氏族にとっての聖地、すなわち間歇泉。
つまり、これ以降いつでも、砂竜を孵す竜生の儀を執り行うことができるのだ。肝心の卵は昨年、赤の復興のために特例で二つ下賜されていて、後見人である白の氏族長ラシードが大切に保管してくれている。
一度は凄惨な事件で死に絶えた赤き砂竜。きらきらと光る赤銀色の猛々しい姿を、また目にすることができるのだと思えば、感慨一入である。
「アイシャ」
ファテナが肩を寄せて、小声で囁く。
「朝は残念だったわね。でもあの刺繍、意外と気に入ってくれたみたい?」
頷きながら、天幕前の絨毯に腰を下ろして談笑するファイサルに、ちらりと視線を向ける。
今朝、天幕内に貼り巡らした可愛らしい砂竜の刺繍は、ファイサルの印象とは不釣り合いで、アイシャとしてはそこがむしろ意図した点である。
最初は、恥ずかしい、いらない、と顔を顰めていたファイサルだが、刺繍に込めた思いとかけた時間を訴えれば、贈り物は渋々受け入れられた。不機嫌顔を、円らな瞳の砂竜が何十もまだら模様を描いて見下ろしているのが、何とも気が抜ける様子であった。
あれは、三か月前の小さな仕返しでもある。
三か月前、アイシャの十八の誕生日。まだ日が昇りきらぬ時分に、羊の鳴き声と妙な物音に睡眠を阻害され、陽射しの下に出たアイシャ。半開きの寝ぼけ眼に映ったのは、天幕を取り囲む枯色と、それを食む数頭の羊である。
いったい何の嫌がらせかと思ったが、サクールが言うにはこれは、ファイサルの仕業だという。
子供の頃はよくいたずらを受け、何度も泣かされた。ファイサルはいわば、お調子者系のガキ大将だった。
しかし白の氏族に引き取られてからは、さすがに子供じみた行動はなりを潜めたはずだった。どうしたことかと訳を聞けば、枯色と羊に囲まれたのも嫌がらせなどではなく、元々は祝いの一環だったという。
良く見れば枯れ草は家畜の餌などではなく、小さく可憐な花弁を持っていた。つまりファイサルは、アイシャに花を贈ろうと、白の聖地である断崖に赴き、高山に育つ花を摘んできたのである。
しかしその労力虚しく、砂漠の乾いた風に晒された哀れな花々は、朝には全て枯れ果てて、項垂れたようになっていた。
事の顛末を聞いたアイシャは、気まずげに視線を逸らすファイサルがあまりにも哀れだったので、最も状態が良い花を一つ摘み取って、一日中髪に挿して過ごした。あの日の花は、今でも押し花にして大切に保管しているのだから、我ながら良い従姉だろう。
砂竜の刺繍が妙に不釣り合いなのも、枯れ花の髪飾りのお返しも兼ねている訳だ。断じて、アイシャが可愛らしい物好きだから……だけではないし、もちろん祝福の気持ちはたくさん詰め込んだのだから、大切に飾っておいてもらわねば。
「食後にはもう出立かしら?」
ファイサルの様子を眺めながらファテナが言うのは、間歇泉への出立時刻のことだろう。アイシャは二枚目のパンを掘り出す手を止め、友人の顔を見上げた。輝くような美貌である。
「うん。……それなんだけど、実はファテナとサクールも招待したいの」
「私達を?」
ファテナの生来丸い目が見開かれ、いっそう大きくなる。
「良いの?」
「二人が嫌じゃなかったら」
ファテナの顔が驚きの形で硬直し、次第に歓喜に崩れていくのを見守った。ファテナはころころと表情が良く変わり、どこか愛嬌を感じさせる。
「嫌なはずがないじゃない!」
ファテナは腕を広げ、飛びつくようにしてアイシャを抱き締める。突然のことに驚いたが、彼女の喜びを肌で感じれば、自然と頬が綻ぶ。ファテナの背中に腕を回し、抱擁を返す。
「二人は家族だから、特別だよ。ファテナ、今までありがとう」
「アイシャ……」
砂竜使いにとって、卵を孵すことができる聖地に他氏族を招くことは、親愛の証でもある。族長になれば定期的に招かれることになるのだが、一般の者には滅多にある事ではない。それが、大切な砂竜が誕生する竜生の儀の日となれば、なおのこと。
サクールとファテナは、氏族を失ったアイシャとファイサルを支えてくれた友人であり、兄や姉のような存在であった。彼らが昨年婚姻を結ぶまでは、ファイサルはサクールと、アイシャはファテナと部屋を共にしていたのだ。
「アイシャとファイサルが、無事聖地に行けるようになって嬉しい。でも」
ファテナは先ほどの喜色はどこへやら、一転して洟を啜り、目尻に涙を浮かべた。
「すごく寂しいわ。砂竜が生まれたら、南に帰っちゃうのね」
どれほど心が通っていても、彼らは白き砂竜使い。対してアイシャとファイサルは赤の氏族を背負うのだ。別れの時は着実に近づいていている。
赤の氏族は二人きりなのだから、復興は前途多難である。あの事件を契機として、氏族拡大のため「ファイサルの嫁」は回避したアイシャだが、例えばそれぞれ外部から伴侶を得たとしても、全ては二世帯だけの集落から再発進するのだ。
夫人の数は四人まで許されていて、中央砂漠の遊牧民らは当然のように複数の妻を抱えているようだが、砂竜使いにとっては重婚は時代遅れだ。それに、あのファイサルが妻に囲まれて鼻の下を伸ばすなど、何やら気に食わない。
また、仮にそうしたとしても、微々たる増員だ。彼女らを養うことの出来るだけの資産もないので、まずは皇室や兄弟氏族からの援助を得ないことには暮らしもままならない。大規模な集落には家畜が必要なのだが、人手がなくては羊も駱駝も満足に育てることができないのだから、もどかしい。
誇り高い赤き砂竜使いの氏族が、零細遊牧民に成り下がるのは、受け入れ難い。この辺りの問題をどのように解決するのか、未だ皇帝の勅命待ちでもある。
本当に復興できるのであろうか。待てど暮らせど帝都から何の音沙汰もなかったらどうしようかと、不安が脳裏を過る。一方で、それならばずっと白の集落で暮らせるではないかと思うと、不謹慎ながら、このままずっと報せが来なければ良いような気もするのだ。
離別の気配に再度涙を堪えるファテナの背中を撫で、アイシャは曖昧に答えた。
「まだ、帰らないよ」
「うん、そうね。最初は帝都に行くのよね」
まさか復興ができないことを懸念している、などとは思わなかったのだろう。彼女の指摘通り、事が順調に進めば、竜生の儀の次は遥か東方、水と緑溢れる帝都へ向かうことになる。
族長就任時には、残り三氏族の聖地に参り、その後帝都におわすマルシブ皇帝に拝謁するしきたりであるからだ。アイシャとしては当然のように、族長となるのはファイサルだと認識しているので、同行するつもりはなかった。
ファテナは目尻の涙を拭い、少し身体を離す。アイシャの灰色の瞳を真っすぐ見つめ、小さく笑った。
「先のことを悲しんで、馬鹿みたいね。聖地に行く準備をしてくる」
やや虚勢じみた感が拭えないものの明るく宣言して、ファテナは天幕に戻って行った。その背中を見送ってから、アイシャは頬を緩め、パンの掘り出し作業に戻る。
ふと傍らを見遣れば、羊ミルクを入れた皮袋が放置されている。ファテナは、仕事を忘れて天幕に戻ってしまったらしい。どこか抜けたところのある親友に呆れた笑いを漏らしながら、アイシャは胸の痛みを覚えた。
この平穏な暮らしは、もうすぐ終わりを迎えるだろう。




