2 予期せぬ冒険
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「アイシャ」
居丈高な声に呼び掛けられる。アイシャは肩を縮こまらせて、回廊の柱に身体を寄せた。まだ四つの歳の幼子である。広大な迷路のごとく後宮の壁面に張り付けば、小柄な体格も相まって、誰に認められることもない。
マルシブ帝国十一代皇帝ダーウードの第十六皇女。それが、幼き日のアイシャの肩書きである。
母親は奴隷身分の側女であり、皇帝の寵姫ではない。ダーウード皇帝は己が娘ながら、アイシャのことなど一顧だにせず、その母親の顔など覚えてもいないようだった。あまりの無関心さに、そもそもなぜアイシャが生まれたのか、後宮の多くの者が首を捻ったほどである。
無論、そのような宮殿のいざこざなど、この頃のアイシャは知る由もない。アイシャが知るのは、ただ一つ。母はずっと前に病に倒れ、もうこの世にはいないということだった。
だが、早世した母親がどのような身分の女であろうとも、皇帝の子は皆平等に扱われるものなのだ。それゆえ、さしたる後ろ盾もない第十六皇女であっても、虐げられることはなかった。しかしそれはあくまでも、公の場においての建前でしかない。
「アイシャ。どんくさいアイシャ。どこへ行ったのかしら」
事ある毎にアイシャをいびる娘がいる。歳の近い姉姫たちである。
肩書き上は皇女の身分に貴賤なしとはいえ、人の口に戸は立てられない。後宮での噂……つまり、アイシャはのろまで、母亡き子であり、美貌を持ち合わせていないどころか、何やら眠たそうなぼんやりとした顔立ちをした娘である、などという暴言が横行することを、止める術はないのである。もちろんそれらの噂を耳にして育った姉姫らは、幼い妹を格好の餌食にして揶揄うのだ。
「何よ。せっかく遊んであげようと思ったのに」
「あの子はのろまだから、庭園の生垣にでも嵌っているのではなくて?」
「いいえ、もしかしたら回廊で迷子になって干からびているのかも」
「まあ」
水神マージの眷属のような美しい声で、しかし残酷に笑う幼い声が、アイシャが身を寄せた白亜の列柱側を通り抜ける。いかに地味な子供であるとはいえ、すぐ近くに寄られてしまえば、認められてしまうだろう。アイシャは慌てて周囲を見回して、大理石の床にぽつんと放置された籠を見つけるや、転がるように駆けだしてその中へと飛び込んだ。
植物の蔓で編まれた籠には、丸められた布がぎっしりと詰め込まれている。おそらく洗濯場に運ばれるべき物だろう。滑らかな綿布からは微かに汗の臭いがして、蔓から発せられる植物特有の香りと混じり合い、鼻を刺激した。
決して心地良い環境ではなかったが、姉姫にいびられるよりはましである。アイシャはそのまま、薄闇の中で息を殺す。やがて姉姫の足音が回廊の果てに消えて行ってからやっと、アイシャは小さな身体から力を抜いた。
ほっと息を吐き、不快な臭いから逃れようと身じろぎをするアイシャだが、不意に浮遊感に苛まれ、一切の動作を停止する。生来気弱な質であることも災いし、声も上げられずに再び身体を小さくした。
「ああ、重い。何でこんなに毎日汚れ物が出るのかしら」
女官の悪態が、妙に近い。腹ばいになった籠の底、網目の隙間から、微かに外の光が差し込んでいる。さらには、女官が垂れ流す文句と調子を合わせるように、アイシャの身体は左右上下に大きく揺れた。どうやら籠は、女官の手に吊るされる格好で、洗濯場に向かっているようである。
状況を察したアイシャの顔面から、血の気が引く。皇女は通常、後宮から出ることはない。アイシャも例に漏れず、特殊行事を除き、常にこの女の園で気配を消して過ごしていた。
姉姫の中には、そのことを不自由と感じ不満を漏らす者も多かったのだが、アイシャにとってはむしろ、広い世界というものは恐怖の象徴でしかなかった。このまま意図せず後宮から連れ出され、未知の世界へと飛び出すのは、遠慮したい事態である。まあ、洗濯場も結局は宮殿の敷地内なので、全くの別世界へと連行される訳ではないのだが、幼いアイシャにはそこまでの思慮はない。
アイシャはぶるりと身体を震わせて、布の間から目より上だけ覗かせ、外界を見回す。木々の緑と色とりどりの花。鋭い陽光が燦々と降り注ぎ、アイシャの黒髪を温めた。見慣れぬ光景に怖気づき、弾かれたように頭を引っ込めて……思い直して再び顔を突き出した。ふわりと、嗅ぎなれない芳香に包まれた。外廷の庭園に咲き誇る花々の香りである。
「本当に、重いわ」
ぶつくさと呟く女官の声が斜め頭上から降ってくる。小柄とはいえ、子供一人が紛れ込んでいるのである。いつもより籠が重いのは当然だろう。アイシャは女官の顎先を見上げ、こちらに気づいていないことを確認した上で、用心深く離脱の機会を推し量る。やがて女官が、陽に晒された石柱の側に籠を置いて肩を回したので、隙を縫って薄闇から飛び出した。
早く部屋に戻りたかった。冒険心の欠片もないアイシャは、目についた門から建物内へと忍び込んだ。
瑠璃色のタイルが貼り詰められた壁面が、壮麗である。だがそれらは、緊張に圧迫されるアイシャの目には入らない。壁沿いに進み、知っている場所へ戻ることができるのを心から願ったが、祈りも虚しく、たどり着いた大部屋からは、知らぬ低い声が漏れ出ていた。
「西方蛮族平定十年の節目、心よりお祝い申し上げます、陛下」
陛下、というのが父皇帝の敬称であるということは、幼いながらに理解をしていた。アイシャは部屋の格子窓の端から目を覗かせて、室内を窺い見る。
天蓋に覆われ、鮮やかな色合いの絨毯が敷かれた玉座。その向い側には平伏をした成人男性が三人と、成人女性が一人。場違いにも、子供も三人いた。子供らは男性の斜め後ろに控えていたので、おそらく父子なのだろうと思った。
先ほどから話しているのは、来客の中でも最も年長と見える、壮年の男だった。
「偉大なる水神マージと使徒たる天竜の寵愛を受けしマルシブ帝国に、永遠の忠誠を」
「天竜帝の御世が永遠たることを」
唱和された、幼子にはひどく難解な言葉に、アイシャは目を丸くしながら室内を見回す。金を基調とした豪奢な装飾に目が回りそうだ。そしてその中でも最も絢爛な玉座の上に、父がいる。精緻な縫製の衣に身を包んだ父皇帝に、目を奪われた。その姿がとても珍しく思えたのだ。
アイシャは皇帝ダーウードの娘ではあるものの、さして覚えめでたくない子供である。父と親密に話すことはおろか、その顔をまじまじと見つめる機会すらほとんどなかった。そもそも後宮の男性と言えば宦官くらいのものだったので、父の厳しい髭面はとても奇怪なものにすら見えた。
ぽかんと口を半開きにして、傍から見れば阿呆面極まりないだろう。しかしそれを見咎める者などいないので、問題はない……はずだったのだが。
不意に、謁見の間内で最も年少と見える少年が、こちらに顔を向けた。もしかしたら、格子窓越しに彼らを見つめるアイシャの眼差しを感じたのかもしれない。少年の目が驚きに開かれ、続いて唇が微かに開くのを目にした瞬間、アイシャは反射的に脱兎のごとく逃げ出していた。
もはや、何が恐ろしいのかもわからぬほどであったが、闇雲に走り続けたアイシャの目の前にはやがて、内廷の庭園が現れる。その中央部に、小さな泉が滾々と湧き出ている。水面の紺碧に吸い寄せられるように、アイシャは泉へと歩を進めた。
覗き込んでみれば、天の青を映すその泉は、底が知れない。あまりの水深である。光の加減次第では暗色にも見える水面に、己の顔が映る。その何やら眠たそうな、悲しいかな自分で見てもどうもぱっとしない顔立ちが、さざ波に合わせてゆらゆらと歪んだ。眺めるうちに揺れは次第に大きくなり、続いて地鳴りが鼓膜を叩く。
異変に気付いた時には、もう手遅れだった。水面が大きく波打ち、水の触手が飛び出して、アイシャを泉に引き込んだ。
声を上げる間もない。いったい何が起こったのか分からぬままに、気づけばアイシャの身体は冷たい水の中にあった。