1 今日からは大人だよ
濃紺の夜空は次第に淡く、光の中に溶けてゆく。砂丘の谷間から、微かに曙色を帯びる朝焼けが早起きの羊の目をこじ開ける頃。快適な天幕の中、人間はまだ、呑気に寝息を立てている。
規則的な呼吸音が響くその部屋に、二つの人影が忍び込む。含みのある視線を交わし合い、垂れ幕の隙間から身体を滑り込ませると、二人は各々、天幕内の壁になにやら細工を始める。
無論、家主の許可は得ていない。その証拠に、忙しく動く闖入者の足首辺りで、一人の男がいびきをかいていた。
「できた」
「こっちも」
若い女の声が囁き合う。
「本当に起きないのね」
「寝つきが良いから」
くすくすと、抑えた笑い声が天幕を微かに揺らしたが、男が目覚める気配は皆無。二人のうち大人びた方の女が、早々の撤退を促す。
「行きましょう」
だが、早計であった。
何やら気配を感じたのだろう、男が眉間に皺を寄せ、呻きながら寝返りを打ったので、枕元にいた小柄な女が驚きの悲鳴を呑み込んだ。辛うじて声は押さえたものの、口を両手で覆った時には手遅れで、鋭く息を吸い込む音がすでに反響していた。
「うーん。朝から煩いな……サクール?」
渋々といった様子で瞼が持ち上がる。赤茶色の瞳が覗き、眼前の女の足首映してから、辿るように上方へ。そのまま数秒の沈黙。互いに硬直したまま見つめ合い……男は目を細めてからもう一度微睡の中に沈みゆく。
「アイシャ。……なんだ、夢か」
そのまま健やかな寝息を立て始めるので、女……アイシャは詰めていた息を吐き、壁際で立ちすくんでいた共犯者に視線を遣る。飴色の髪をした彼女は笑いを堪えるのに必死のようで、口元を押さえて肩を震わせていた。
「ファテナ、声出さないで」
小声で諫めてから、アイシャはもう一度忍足で離脱を試みる。
あの日、赤の氏族が消え去って白の氏族に引き取られてから、もう八年が経つ。ちびでのろまと言われ続けたアイシャも幾らかは背が伸びた。少食ゆえか、それとも体質なのか、残念なことに娘らしい身体の丸みには乏しいのだが、それでも三か月前に誕生日を迎え、晴れて大人の仲間入りをしたばかりである。
その間、足元でいびきをかいているこの男は順調に成長して、皆の予想通り精悍な青年に育っていた。次期族長で友人のサクールや、その妻のファテナなどは、「アイシャの分を全部持って行った」と笑うほどだった。
体格はともあれこの男、中身はまだ子供のようである。昔から変わらぬ安らかな寝顔を観察して頬を緩め、一仕事終えたアイシャはファテナを促し、天幕を出ようとしたのだが。
「ああ、よ、羊肉!」
不意に天幕内に響いた何の脈絡もない叫び。奴の寝言である。アイシャは大きく身を震わせた後で石になり、ファテナがぽかんと口を開く。室内の女二人は辛うじて物音を堪えたのだが、不意に垂れ幕の向こうから湧き起こる低い笑いが、全てを台無しにした。
「サクール、静かに」
天幕の外、垂れ幕の隙間からこちらを覗き込んでいたサクールは、ファテナが諫めても、どうにも笑いが止まらぬようだ。次第に大きくなる声に、再び寝床から呻き声。そしてとうとう、彼は半身を起こした。
「ん、いったい何だよ」
目を擦り顔を上げ、アイシャとファテナの姿が視界に入れば、もはや再度夢だなどとは思わなかったようだ。
彼は、いるはずのない二人の姿を交互に見遣り、それから天幕内の奇妙な物をぐるりと見回した。壁一面に見慣れぬ赤い装飾が成されていて、目がちかちかする光景だ。
円な目をした可愛らしい赤き砂竜が何十も、彼を見下ろしている。つい先ほど、ファテナとアイシャが仕掛けた刺繍の壁飾りである。
続いて彼は、垂れ幕の隙間から覗く青年の飴色の瞳に視線を向ける。そこでやっと、全てを悟ったようだった。
「これは」
「ファイサル!」
アイシャは前傾し、声を張る。本当は寝起きに一人でびっくりして欲しかったのだけれど、こうなってしまったら仕方がない。アイシャは胸元で手を合わせ、心からの祝福を述べた。
「お誕生日おめでとう。今日からは大人だよっ!」




