13 炎は全てを焼き尽くし
「南で、何かあったのかもしれない」
痛々しい様子のギナを布で包み、白い手綱の駱駝の背に乗せて、ラシードは淡々と告げた。
「駱駝も臀部を火傷していた。おそらく、火を使う誰かに追われたのだろう。単騎逃げ出した状況を鑑みれば、可能性は大きく二つ。一つは、ギナが何等かの事情で集落を離れた隙にならず者に襲われた。そしてもう一つは」
彼は、震えて自力で立つのがやっとのアイシャを抱き上げ鞍に乗せ、自身はその後ろに腰を下ろす。
「赤の氏族に、何かがあったのか」
ギナは昨日、ナージファらとともに間歇泉に赴いた。そこで竜の卵を孵し、彼女自身の砂竜を得るはずだったのだ。記憶に間違いがなければ、道中は駱駝に乗っていたはず。しかし、白の集落で治療を受けているあの駱駝は、儀式の時に跨っていた個体ではなかった。だとすれば、彼女は一度、村に帰っているはず。集落に何かあったのだろう。それも、とてつもなく恐ろしいことが。
「嫌だ」
思わず口走っていた。
「嫌、行きたくないっ」
「アイシャ」
「降ろして!」
鞍上で手足をばたつかせれば、駱駝が苛立ち足踏みをし、不満の叫び声を上げる。背後からラシードに拘束されているため、大した動きはできぬのだが、背中の瘤から伝わる振動に、駱駝は不快感を覚えるらしい。
「落ち着きなさい」
「嫌だ」
「アイシャ」
「……アイシャ、行こう」
駱駝の脇腹の高さから硬い声。思わず動きを止め、涙の雫を目の端に乗せながら視線を落とせば、そこにはいつになく毅然とした表情を浮かべるファイサルがいた。
「一緒に行こう。俺達は、誇り高い赤き砂竜使い。しかも族長ナージファの親族だ。氏族に何かあったのなら、俺達が解決しないと」
常日頃おちゃけている従弟が不意にとても大人びて見え、アイシャは駄々をこねる口を閉ざす。降り注ぐ陽光を浴び、ファイサルの赤茶色の瞳が揺れた。心なしか白目が充血していることを知り、やっと思い至る。恐怖や悲しみに沈んでいるのはアイシャだけではない。
駱駝と共にやってきたギナは、ファイサルの実の姉である。姉の痛ましい姿を目にしてもなお平常心でいられるほど、彼は冷淡ではないし、達観してもいない。きっと、この場で最も辛いのはファイサルだ。それなのに、従弟は気丈に振舞い、アイシャを導こうとしてくれる。
二人は束の間見つめ合う。アイシャの心が決まったことを察すると、ファイサルは何も言わず駱駝に跨る。その小さな背中を視線で追い、アイシャは胸の痛みを押さえた。
一行は、白の族長ラシードとアイシャとファイサル、数人の大人のみの小所帯。砂竜は体高があるので子供が跨るには不便である。大人は白銀の鱗の砂竜に乗っていたが、アイシャとファイサルは駱駝の上。
真っすぐに南へと向かえば、この季節、集落同士はさほど遠くないようだ。
砂竜使いも遊牧の民である。もちろん縄張りは明確だが、草を追い年に複数回村を移動する。この時期は、赤は南部の北西、白は西部の南に夏営地を構えていたらしい。昨晩の冒険後、無作為に進んだ二人の子供が白の氏族に辿り着いたのは、こうした幸運の賜物であった。そしてきっと、ギナがアイシャ達の所へやって来れたことも、様々な要因が作用した結果である。
しばらく蹄を進めれば、日差しが垂直になる頃には異変の片鱗が垣間見える。最初に気づいたのは、駱駝であった。不意に天を仰ぎ鼻をひくつかせ、気が立った様子で視線を彷徨わせる。やがて彼らは一様に脚を止め、砂丘のある一点から先には一歩たりとも踏み出そうとしなかった。
「どうしたんだ」
アイシャを支えながら後ろに座すラシードが、手綱を引き首を叩いたが、駱駝は微動だにしない。痺れを切らしたらしいファイサルが言葉なく、しかし迷いのない動作で鞍から滑り下り、徒歩で砂上を進む。
「待って」
置いて行かないで、と懇願の形に開きかけた唇を撫でるように、不意に風向きが変わる。微風が運ぶ異臭が鼻を突き、言葉は形を結ぶことはなかった。
喉を刺激する、何かが焼け焦げたような臭い。しかし、それが単なる焚火の残滓ではない証拠に、熱風は不快な臭いを孕んでいた。初めて知った臭いだが、本能的な部分で理解する。これは、集落が……そしてそこに住む全ての生き物が、悉く焼き尽くされた臭いなのだと。
ファイサルの小さな背中が砂丘の頂上を越え、丘を下る。ラシードが駱駝を座らせて、アイシャを抱き下ろした。足先に砂が触れるなり、アイシャは恐怖も忘れて橙色の世界を駆け抜けた。
「ファイサル!」
叫ぶように呼んだが、従弟は振り返らない。胸騒ぎがする。アイシャは腕を伸ばした。
砂丘の向こう側に行ったファイサルが、忽然と消えてしまうのではないかと思った。それほどまでに、思考が混乱していた。混沌の渦に落ちたかのように、頭には靄がかかっている。
砂に脚を取られながらも従弟の軌跡を辿り、砂の頂から地上を見下ろす。
視界に入った光景に、アイシャは息を吞み言葉を失った。一面が、黒く変色していた。
小山のように建ち並んでいた天幕は崩れ落ち、瓦礫と化した。ぴったりと閉じられた柵の中、逃げ場がなかったのだろう哀れな羊と山羊が、恐怖に慄いた恰好のまま、息絶えている。あの気高く強靭な砂竜さえ、絶命し砂に還っていた。そして。
「父さん、母さん」
聞き慣れた少年の声が、耳を打つ。場違いにもアイシャは、詰めていた息を吐く。惨状の中ではあるものの、ファイサルの姿は消えていない。
覚束ない足取りで集落に入り、二つの黒い塊の側に立ち、ファイサルは脚を止める。そこは、彼の住居であった天幕の辺り。
アイシャは、あまりのことに思考が追い付かない。幻覚を見ているかのような心地で、村を遠巻きに眺めた。視界の真ん中でファイサルが、父母であったものの側に崩れ落ちるように膝を突くのを見た。
「これは、なんと惨い」
頭上から降るラシードの呟きも耳に入らず、自身の鼓動だけが異様に大きく響く世界で足を進める。
全てが焼け落ちた。南方に覇を轟かせた赤き砂竜使いの氏族は、一晩にして消え去っていた。アイシャとファイサルという、なんとも頼りない子供をたった二人だけ残して。
吸い寄せられるかのようにファイサルの元へと向かうアイシャ。しかしその歩みは、視界の端に映った細長い黒により、ぴたりと停止する。
「……」
意図せず緩慢な動作で視線を落とす。炭化した黒が、辛うじて人間の形を成す側に、棒状の何かが投げ出されている。杖だ。この集落で杖を持っていた者など、一人しかいない。いつだって慈愛に満ちた眼差しをくれた、集落最高齢の老女。アイシャにとっては祖母であり、第二の母でもあった人。
「セルマ?」
問いかけても、答えはない。当然だ。それは、セルマの形をしただけの、単なる抜け殻なのだから。
そのことに気づいた途端、アイシャの膝から一切の力が抜け去った。下肢に力が入らない。アイシャは半ば這うようにして塊に近づいて、震える手でそれを抱いた。
「セルマ、セルマ」
亡骸を掻き抱けば、アイシャの腕や胸、涙に濡れた頬を灰が染める。それすらもセルマがここにいる証のように思え、さらに強く身体を寄せた。
追ってきたラシードは言葉なく立ち尽くしていたのだが、しばらくしてからアイシャとセルマを強引に引き離す。次第に黒くなっていくアイシャを哀れに思ったのか、それとも幼子の様子に狂気を感じたのかもしれない。
セルマの側に戻ろうと四肢を振り乱すアイシャを抱きかかえ、ラシードは囁いた。
「アイシャ。耐えるんだ。今は、彼らを弔わなくては。……誇り高き砂竜使いとして」
彼の言葉自体は、アイシャの胸には響かない。しかし不思議なことに、白き砂竜使いの声が微かに震えを帯びていたことだけは、妙に鮮明な記憶として残った。




