12 異変
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「そのならず者の駱駝はきっと、砂竜の気配に怯えたのだろうな」
集落に保護されるまでの経緯を聞き終えて、白の氏族長ラシードは顎を撫でた。
時刻は朝食時。族長の天幕の正面に鮮やかな色合いの絨毯を敷き、その上に豪華な食事が並べられる。本日、アイシャとファイサルは早速赤の氏族に送り届けてもらう予定なのだが、何事も腹ごしらえが大事である。兄弟氏族からの歓迎を受け、二人はやっと肩の力を抜くことができた。
「駱駝って、そんなに臆病だっけ?」
ナツメヤシにかぶりつきながらファイサルが首を傾ける。
「竜から逃げる駱駝なんて、見たことないけど」
ラシードは無遠慮なファイサルの振舞いに目くじら立てる様子もなく、むしろその食いっぷりに感心しているようですらあった。興味深そうな眼差しでファイサルを観察しつつ、彼は答える。
「君達が連れてきた個体や我が氏族の駱駝は、砂竜に慣れているのだろう。動物は本来臆病なものだからな。知らぬ生き物を恐れるのは至極当然だ」
「じゃあ、アイシャはすごく動物らしいってことだ」
無神経なことを口走ったファイサルを睨んでやろうとしたが、悪意のない無邪気な口調だったので、アイシャは黙って羊のチーズを齧る。昔から食が細いアイシャは、一口の大きさも小さい。ちびちびと固形物を齧っていたら、不意に自分が鼠にでもなった気分に陥り、いっそう食事の手が鈍る。ファイサルが余計なことを言ったせいだ。
「確かに砂竜の方がずっと大きいもんな」
「砂竜に対する恐怖心は、西方蛮族討伐の折、数で劣る僕らが勝利を治めた大きな要因の一つでもあるしね。父上が単騎敵の騎兵に突撃した時も、まるで馬や駱駝が道を開けるようだったとか」
息子の言葉に、恥じらうでもなく驕るでもなく、ただ目を細めるラシード。父と子の様子を眺めれば、自ずと母の姿が思い出される。ナージファならば、アイシャに武勇を誉められたら何と言うだろうか。
きっと、くしゃりと顔を綻ばせる。それから白い歯を見せ豪快に笑い、アイシャの頭をぐちゃぐちゃに撫でるだろう。
ナージファの愛情に満ちた隻眼を思い出し、アイシャは胸が痛むのを感じた。勝手に村を抜け出したことをひどく叱られても良い。早く母の温もりに包まれたいと思った。しかしそれは、我ながら幼子のような願望だったので、決して口には出すまい。顔には出たかもしれないが。
「何はともあれ無事でよかった。しかし次はこれほど上手くことは運ばないだろうから、今後決して、子供だけで抜け出すだなんてしてはいけないよ。ナージファも心配しているだろうし」
ラシードは目尻の皺を深め、アイシャに微笑みかけた。
「彼女は君のことをとても大切にしているようだからな。正直、あのナージファが母になりたいなどと口にした時には、残りの三氏族長が全員ひっくり返るかと思ったよ」
「母様が」
「かねがね『男などいらない』と公言していたナージファだから、まさか急に母性が芽生えたのかとか、いよいよ婿を取るつもりなのかとか好き勝手に噂して、私だけでなく他の族長らも同じように驚いていた」
「母様は男の人が嫌いだった?」
五年以上母子として過ごしたが、そうは見えなかった。無論、特別男好きということもなかったが。
案の定、アイシャの無邪気な視線を受けたラシードは首を横に振る。
「嫌いではないだろうが、何というか女性同士の方が……気が休まるようだった。今思えば以前から、婿は不要でも娘は欲しかったのかもしれないな」
アイシャには、ラシードの含みのある物言いを十分に咀嚼して理解することはできなかったが、何はともあれ母が自分を心より求めていたことを知り、胸に温かなものが流れるようだった。
早く会いたい。そして、昨日の朝、心にもない暴言を吐いたことを謝りたかった。娘の謝罪を聞けばきっとナージファは、「そんなこと気にしてたのか」と軽い調子で笑い飛ばすだろう。
「母様……」
意図せず呟いた時だった。不意に、集落に騒めきが走る。最初に声を上げたのは、山羊だった。彼らが突然叫び出すのは常のことである。しかし今回は、束の間の呻きでは終わらなかった。
山羊の慄きが伝染したかのように羊が鳴き、駱駝が威嚇じみた声を上げる。仕舞いには、いつも泰然と構えている砂竜までもが、低い唸りを漏らした。
「何事だ」
集落の異変に、温和な表情で旧友を語っていたラシードの目元が強張る。途端に、誇り高き砂竜使いの顔に変貌する。
「ラシード、見知らぬ駱駝が」
「今行く」
促されたラシードは腰を上げ、集落の南端辺り、騒ぎが最も大きい場所へと向かっていく。ラシードのすらりと伸びた背中を見送り、残された子供らは不安げに視線を交わし合う。アイシャの怯えたような視線にファテナが強張った頬で微笑みを返し、サクールが険しい顔で山羊の悲鳴に耳を傾ける。あのファイサルですら食事の手を止めて、族長ラシードが消えた辺りを眺めていた。
しばらくして、天幕の小山の谷間から現れたラシードは、傍目にもわかるほど血の気が引いた顔をしていた。先ほどナツメヤシを齧っていた姿からは想像もつかぬ豹変ぶりである。
ラシードは子供らが待つ絨毯の側へ戻るなり、低く命じた。
「ファイサル、来てくれ」
「俺?」
突然の指名にぽかんと口を開け、ファイサルはひとまずミルクの器を膝元に置いた。やがて思考が追い付いたらしく、彼はチーズの粉が付着した手を砂上で叩き、素直に腰を上げた。
「アイシャ、行こう」
「いいや」
間髪を入れず、ラシードが遮る。かねてより、白の氏族長ラシードの温厚さは耳にしていた。しかし彼の口から飛び出したのは鋭く硬い声音である。
「ファイサルだけで良い」
やはり、異常事態なのだ。アイシャは不安で胃の奥が締め付けられるような感覚に苛まれる。こちらに気遣わし気な一瞥を残し、族長の背に続くファイサルを見送って、アイシャはぶるりと身震いをした。
しばらくして戻ってきたファイサルは、ラシードよりもさらに蒼白な顔をして、心なしか膝が震えているようにも見えた。お気楽で豪胆な従弟の常にない様子に、気づけばアイシャは駆け寄っていた。
「ファイサル、どうしたの」
赤茶色の瞳は、ぼんやりと虚空を眺めている。アイシャはファイサルの頬を軽く叩き、声を張った。
「何があったの? しっかりして」
何度目かの叩きを食らってやっと、視線は焦点を結ぶ。彼の瞳に自分の姿を見ながら、アイシャは言葉を待つ。やがてファイサルは、固く噛み締めて紫がかった唇を解き、絞り出すように言った。
「姉ちゃんだ。駱駝に乗ってるのは」
「え、ギナ?」
どんな恐ろしい言葉が出るかと恐々としていたアイシャだが、知った名前にほっと息を吐く。しかし安堵は、一瞬にして打ち砕かれるのである。
「焼けていた」
「え?」
「背中から、炎で炙られたみたいに焼け爛れていた。それで駱駝にしがみ付くような恰好で、ここまでやって来たんだ。何かから逃げて」
「焼け……」
ファイサルの声は、どこか遠くで交わされる囁きのようだった。
「姉ちゃんは……もう死んでいた」
言葉が砂風に巻き上げられて行く。それきり、ファイサルは口を閉ざした。




