10 竜が見守る砂丘にて
まさか髭男が勘付いたのだろうかと思い、息を吞む。しかし、影の動きは鈍い。
恐る恐る目を凝らせばそれは、長い首をこちらに向けて、三本足でゆっくりと前進してくる。左右の前足を縄で固定され、遠くまで行けぬように制御された、アイシャ達の駱駝であった。
彼女のことは、すっかり頭から抜け落ちていた。食用にもならぬほど年を取った駱駝なのだから、どこかへ売りつけられても赤の氏族にいる時より処遇が悪くなることなどないだろう。だが、あの駱駝も同郷のよしみ。アイシャ達を真っすぐに見つめ歩み寄ってくる姿を見る限り、彼女の方も同じ気持ちを抱いているのではなかろうか。まあ、そうでなくとも砂漠を逃げるのなら、駱駝に乗るに越したことはない。アイシャには扱える自信はなかったが、弱音を吐いていられる状況ではないのだ。
アイシャはファイサルをその場に放置し、斜面を転がるようにして駱駝に駆け寄る。顔を寄せてくる駱駝の首を撫でてから、足を固定している縄を解き、手綱を取る。斜面の中腹まで滑り落ちてきたファイサルの側へと導けば、駱駝は拍子抜けするほど素直に従った。
ファイサルの尻の辺りに穴を掘り、これ以上滑らぬようにしてから、アイシャは記憶を引っ張り出す。村の大人たちは駱駝をしゃがませる時、膝を叩いていたはず。そう、ちょうどこの辺り。
緊急事態だと理解しているのだろうか、嘘かと思うほど、簡単に従う駱駝。アイシャは苦労しつつファイサルを担ぎ上げ、駱駝の背に乗せる。
このままだと立ち上がった時に前後に吹き飛ばされそうなので、荷袋から布を取り出し、三枚ほど固く結んで長さを出して、ファイサルの腰を固定した。自身はその後ろに恐々よじ登り、手綱を強く掴む。子供二人など軽いものなのだろうか。駱駝は難儀する様子もなく立ち上がり、砂丘を登り始める。
突如高くなった視界に驚き、思わず目を閉じてしまう。砂竜とは違う、駱駝独特の脚の進め方に頭がくらくらしたが、少し進めば慣れてきて、アイシャは薄っすらと目を開く。細い視界を月光が満たす。さらに開けば星々が煌めく。
古くから、月は竜の瞳、星は竜の身体と言われてきた。巨大な竜が、アイシャ達を見下ろしている。
夜半、子供だけで駱駝に揺られるだなんて恐ろしいこと、この身に起こり得るだなんて思ってもみなかった。だが、竜の眼差しを浴びて砂丘を進むこの景色は、神秘的でとても美しいと思えた。しかしその感動は、太い怒声によって打ち消される。
「おい、クソガキ!」
アイシャは息を吞み、肩越しに振り返る。見れば髭男がそれぞれの駱駝に乗って、砂丘を駆けてくるところだった。アイシャは声にならぬ悲鳴を上げて、駱駝の首を叩いた。
「は、走って!」
強く叩かれたので気分を害したらしい。駱駝は少し怒ったように呻いたが、背後から迫る二頭の駱駝に気づくや否や、急に歩調を速めた。
「うわあ」
あまりの揺れに、脳震盪を起こしそうだ。前後に大きく身体を揺らしつつ、アイシャは再び目を閉じる。命運はこの、四足歩行の相棒にかかっている。しかしこの駱駝、もう若くはないのである。次第に疲労が蓄積したらしく、歩みが鈍る。対して髭男らの駱駝は見るからに若くて健康だ。後ろを確認する余裕は心理的にも身体的にも皆無だが、徐々に距離が狭まるのが気配でわかる。
「待てガキども……うお⁉」
不意に、男が潰れたような声を上げた。続いて駱駝の悲鳴のごとく鳴き声が、広々とした砂丘にこだまする。その声が次第に遠のいてゆくので、何らかの問題があり、背後二頭の駱駝は歩みを止めたのだと理解する。アイシャは細目を開けて相棒駱駝の首筋に視線を向けるが、彼女の方は何の動揺もなく、確かな足取りである。
いったい何が起こったのだろう。視線を駱駝の首から横に逸らし、振り返ろうとしたアイシャの目はしかし、眼前の淡い光に釘付けになる。あれは、集落だ。
天幕が建ち並び、取り囲む柵の側には篝火が焚かれている。そして何より、アイシャを驚かせたのは。
「砂竜がいる。色は白銀……西の白の氏族」
遊牧民族は、互いに奪い奪われの関係性。だが、マルシブ皇帝から竜を下賜された四氏族は、同じ砂竜族として兄弟も等しい仲である。アイシャ達は冒険の末、故郷の隣に位置する白の氏族集落に辿り着いていたのだ。
アイシャは安堵に脱力感すら覚え、項垂れるようにして大きく息を吐く。
「よかった」
その呟きを、アイシャの膝辺りに括り付けられたお荷物が、掻き消した。
「ううん……あれ、頭がぐらぐらする。病気か?」
ファイサルである。最も恐怖に打ち震えた時間を呑気に眠って過ごし、万事解決した頃合いになり夢の世界から戻ってきたお気楽な従弟。涎の跡が残る頬を一瞥してから、アイシャは八つ当たりのように叫んだ。
「ファイサルの馬鹿! 嫌い!」
寝起きで頭がぼんやりとしていたのだろうファイサルは、束の間アイシャの顔を凝視していたが、暴言を浴びせられたことを理解すると、負けじと言い返すのである。
「な、なんだよ! まだ機嫌悪いのか、この泣き虫!」
なるほど、ファイサルの言う通り、アイシャの頬には何度目かの涙の痕があった。




