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砂竜使いナージファの養女  作者: 平本りこ
赤の章

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13/91

9 無償の善意はなかったかもしれない


「……だ」

「の方が」

「ああ、日の出とともに」


 低く囁き交わす声に鼓膜が震わされて、アイシャは目覚めた。天幕の布地の隙間からは、まだ太陽の光が見えない。夜は明けていないらしい。


 隣に目を向ければ、ファイサルが呑気に(よだれ)を垂らしながら熟睡している。仕切り幕の向こう側で眠っていたはずの髭男たちの姿は、忽然と消えていた。


「駱駝は結構年増だな」

「まあ、売れないことはないだろう」


 アイシャは束の間躊躇(ためら)ってから、音を立てぬよう注意深く、出入り口にあたる垂れ幕の側へと向かう。男らは、外で何やら話し込んでいるらしかった。


「ガキも微妙だしな」

「男の方はあと何年かしたら、良い体格になりそうじゃねえか」

「阿呆か。あの食いっぷり見ただろ。育つまで何年かかると思ってんだ。食費で赤字だ」

「そんなの、買い手に言わなきゃわからねえよ」

「女の方は地味だよな」

「地味だろうが何だろうが、女だから売れるだろ」

「子供でも?」

「人の趣味はそれぞれだぜ」


 下卑(げび)た笑いに、アイシャは息を吞む。粟立つ肌を治めようと腕を(さす)ったが、気休めにもならなかった。


 つまりあの男らは、アイシャ達をどこかに売りつけるつもりだったのだ。やはり、資源が枯渇する砂漠の地。奪い合いにて成り立つ遊牧民の世界には、無償の善意など存在しなかった。


 アイシャは這うようにして敷布の側に戻り、ファイサルの肩を揺する。


「ファイサル、ファイサル。起きて。大変なの」


 反応はない。音が出ない程度に軽く頬を叩いたが、相変わらず眉間に皺すら寄せないので、今度は頬を両側からつねり、引っ張ってみた。やはり寝息は乱れない。


「ファイサル、起きてったら」


 ここまでして覚醒しないのは奇妙である。それこそ、何か薬を盛られたとしか考えられない。それではいつ?


 顔面蒼白のアイシャの脳裏に、昨晩の食卓が浮かぶ。そういえば、あの駱駝ミルク、少しおかしな味がしなかっただろうか。単純に餌の違いかと思ったが、もしかすると睡眠薬が混ざっていたのでは。あの男らの器は一向に減らなかったし、ミルクをファイサルに奪われたアイシャが先に目覚めたのにも、納得がいく。


 もしそれが真相だとすれば、絶望的だ。底なしの胃袋を持つファイサルは、尋常ない量のミルクを飲み干していた。


 アイシャは頭を抱えつつ、思考を巡らせる。このまま日の出を迎えればきっと、どこかに売られてしまうだろう。砂漠にはそういった盗賊まがいのならず者が多くいる。


 一刻も早く逃げ出さねば。しかし、ファイサルが目覚める気配は皆無である。置いていくのは論外だが、アイシャにはファイサルを負ぶって砂丘を越える自信などなかった。


 じんわりと浮かんだ涙を拳で拭い、アイシャはファイサルの頭側に膝を突く。脇に両手を差し込んで、強く引いてみた。かなり重たいが梃子(てこ)でも動かぬ山羊を引きずるよりは、まだましだった。


 アイシャはそのまま、髭男の声が聞こえるのとは逆側に位置する横幕の固定具を外し、僅かな隙間から半ば放り投げるようにファイサルを外へと連れ出す。砂にしたたかに背中を打ち付けても、従弟は呑気な寝息を崩さなかった。


 ならず者の男らは相変らず天幕の逆側で、捕らえた獲物の売り付け先について議論を続けている。かなり夢が膨らみ盛り上がっているようで、獲物の脱走には気づいていないらしい。下衆(げす)な言葉の数々は不快極まりないのだが、会話に夢中でこちらに意識が向かないという点は、幸いである。


 アイシャは歯を食いしばりながら、従弟(いとこ)を引きずり砂丘を登る。月明りの下、小動物の足跡や蛇の活動の痕跡と並び、子供が引きずられた一本線が砂に刻まれていく。その進みは遅々としており、早くもアイシャの心は折れそうだった。


 腕が痛い。子供にとっては結構な斜面である。一人で登るのも難儀(なんぎ)するだろうに、大きなお荷物を運ぶのは骨が折れることだ。アイシャは脚を止め、痛む腕をもみほぐそうとファイサルの脇から手を引っこ抜く。途端にずるずると従弟の身体が斜面を滑り落ちるので、慌てて腕を掴んで引き止めた。


「うう、ファイサルの馬鹿……」


 何度目かの泣き言を呟いた時である。アイシャの視界の端、天幕の側で、何やらうごめく影があった。

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