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砂竜使いナージファの養女  作者: 平本りこ
赤の章

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8 パンとミルク、ついでに涙が止まらない

 火の中から、薄い円形のパンが掘り出される。男が布を叩きつけて灰を払った後、四等分に切り分けられて、それぞれの膝元に配膳された。


 紫紺(しこん)に砂金が散らばるような満天の星空の下、搾りたての駱駝ミルクで喉を潤す。慣れた味とはやや異なるようだった。餌や駱駝の種類が異なるのだろうか。故郷のミルクよりも、少し苦みがあるような気がした。そのことが、遠く別の場所に来てしまったことを嫌でも思い出させ、郷愁(きょうしゅう)に苛まれる。


 ナージファやギナは、間歇泉(かんけつせん)から帰って来ただろうか。急に失踪したので、セルマが心配しているだろう。そういえば脱走した羊と山羊は、皆無事に柵に戻っただろうか。


 何度目かの涙が浮かびかけたのだが、唇を噛んでこらえ、パンをひと千切りして頬張る。こんがりと焼かれて水分が程よく抜けた、絶妙な食感を堪能した。しかしその手は、すぐに止まってしまう。


「嬢ちゃん、食欲ないのか」


 長い髭の男に問われ、アイシャは顔を上げて首を横に振る。男の名前は聞いたけれど、気が動転していたので忘れてしまったな、などと考えながら、もう一口駱駝ミルクを嚥下した。やっぱり少し苦みが強い。


「何だよアイシャ、食べないならもらっていい?」


 アイシャは、呆れるほど図太い従弟(いとこ)の顔をまじまじと見つめた。よくもまあこの状況で、緊張もせずに食が進むものだ。じっと見つめてやれば、ファイサルは少し気分を害した様子で、眉間に皺を寄せる。


「何?」

「別に何も」

「ふうん。じゃあ話戻るけど、パンいらないの?」


 アイシャは微かに溜息を吐き、手元の扇型を半分裂いてファイサルに手渡した。


「こんなにくれるのか。ありがとう」

「どういたしまして」


 皮肉を込めて言ってみたのだが、ファイサルには通じなかったらしい。従弟は喜々として食物を咀嚼して、ミルクともども胃に流し込む。あっという間に器が空になるので、男らがお代わりのミルクを注いでくれた。その量、尋常ではない。これほど飲んでしまったら、夜半に尿意で目覚めてしまうのではないかと思う。一方で、睡眠が深いファイサルならば朝まで持ちこたえるのかもしれないとも思った。


「ほら、ミルクはたくさんあるから、たんと飲めよ」


 短い髭の男が乳白色を注ぎながら促した。駱駝のミルクはよく泡立つ。器の縁から溢れんばかりのもくもくをぼんやりと眺めてから、アイシャは男らの手元に視線を遣った。子供らに勧める割りに、彼ら二人で回し飲みをしている方の器は減っていないようだ。


「あの」


 アイシャはおずおずと声を出す。


「こんなに飲んでしまったら、おじさんたちの分が……」

「子供はそんなこと気にしなくて良いんだ」

「ああ、そうだぞ」


 長い髭の男が言い、短い髭の男が同調する。ついでにファイサルまでもが頷いた。


「せっかくの善意だろ。ありがたく受け取らないと失礼だぜ」


 果たしてその善意、無償の代物(しろもの)なのだろうか。アイシャは胸に巣食う不安を上手く言葉にできぬまま俯いた。


「なんだおまえら、性格が真逆だな。二人で駱駝追っかけるくらいだから、仲は悪くないんだろうけど」


 闊達(かったつ)に笑いながら、長い髭の男が言う。声が大きいので少し怖い。やはり僅かなりとも怯えを抱かないらしいファイサルが、口の周りにミルクを付着させて胸を張る。


「アイシャと俺は仲良しだよ」

「おお、妬けるねえ」


 揶揄(からか)うというよりは、微笑ましいといった口調である。


「幼馴染か?」

「というより、従姉弟」

「ああ、どおりで」


 短い髭の男が手のひらを拳で打つ。


「将来の嫁さんか。一緒に迷子になんてならないで、ちゃんと守ってやれよ少年」


 ファイサルは一片の違和感もなく頷いたのだが、アイシャは思わず手を止めた。急に、座り込んで移動を拒否する羊のように一切の動きを止めるアイシャに、ファイサルが怪訝な眼差しを寄越す。アイシャは視線を返し、従弟の彫り深い顔立ちを凝視した。


「アイシャ?」

「嫁って」

「なんだよ。歳の近い従姉弟はみんなそうだろ。ギナ(姉ちゃん)とナルジスとか、アーキルとイバーとか、後は」


 なおも具体例を挙げ続けるファイサルだが、アイシャの耳には届かなかった。


 言われてみれば、腑に落ちることばかりである。子供とはいえ、集落での男女間交流はさほど盛んではないのだが、どんな時もファイサルだけは特別扱いで、いつもアイシャの側にいた。確かに親戚同士の婚姻は多かったし、むしろ推奨されている節がある。少し考えればそうであると気づくことができたはずなのに。


「おーい、アイシャ」


 ぼんやりと手元に視線を落とすアイシャに、ファイサルが(やかま)しく呼びかける。やっぱりファイサル、圧が強いのだ。


 将来ともに過ごすなら、優しくて穏やかで、ついでに女性のように細身で綺麗な顔立ちをした男性が良い。対して従弟は真逆をいく。彼の名誉のために好意的な表現をすれば、強くて胆力に優れ、同年代と比べても体格が良い。


 そんなファイサルの嫁。ファイサルの嫁。ファイサルの……。


「お、おい!」


 裏返りかけた声が至近距離で耳を刺す。きん、と残響が頭蓋に響くような錯覚を覚えたが、それどころではない。膝元の砂地に、大粒の涙が音を立てて打ち付けていた。水が豊かな土地に住む者が見たならば、「雨のよう」と表現しただろう。狼狽(うろた)えたファイサルが、顔をやや紅潮させて、こちらを指差した。


「なんだよおまえ、そんなに嫌なのか!」


 さすがにファイサルに申し訳ないとは思ったが、溢れ出した涙は止まらない。別に彼だけが原因ではなく、日中からの心労が(たた)った結果である。これまでだって幾度も落涙(らくるい)を押さえ込んできたのだ。此度の事実が、涙腺の(せき)を切るきっかけとなっただけ。


 だがそんな従姉の繊細な心の動きなど知る(よし)もないファイサルは憤然として、アイシャの手元から器を奪った。


「……飲まないなら俺がもらう」


 そのまま一気に飲み干すファイサル。呆気に取られて見守っていた男らは、子供の諍いとはいえ気の利いた言葉が思い浮かばぬようで、なんとも気まずい空気が漂い始めた食卓は、早々にお開きとなる。


 天幕の中、隣同士に布を敷き、肩を並べて横になったものの、憤懣(ふんまん)やるかたないファイサルは、とうとう一度もこちらを向くことなく、いびきをかき始める。耳障りなのだけれど、規則的でどこか落ち着く呼吸音に耳を傾けているうちに、砂に沈み込むようにアイシャの意識も眠りに落ちた。

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