6 やっぱり遭難
集落の出入口には、一頭の駱駝が待機していた。大きく膨れた荷袋を背に乗せて、集落の喧噪をぼんやりと眺めている。
草を反芻しながら、長い睫毛に縁どられた円らな瞳でこちらを見下ろしてくる姿は可愛らしいものだったが、なにぶん彼らは見上げるほどに大きいのだ。アイシャは不本意ながら、ファイサルの背後に隠れるようにしながら駱駝に近づく。
「ほんと情けないなあ」
言いつつも、兄貴風を吹かせたい質のファイサルは、まんざらでもない様子である。彼は慣れた手つきで、駱駝の前足を固定していた縄を解き、手綱を引いて砂漠へと足を進めた。ファイサルの砂埃に塗れた指に手首をがっちりと掴まれたまま、アイシャは肩越しに集落を振り返る。黒色の天幕が並ぶ村が、少しずつ小さく遠くなっていく。
間歇泉に行きたい。竜が孵る瞬間を、この目で見たい。自分でも不思議なほど、強い願望だった。しかし、ファイサルと二人、子供だけで村を出て、砂丘を越え聖地へと向かうだなんて大冒険、望んだわけではなかった。それなのに。
「さあ、出発進行!」
お気楽なファイサルが手綱を引けば、駱駝は従順に歩き始める。雄駱駝は下手に背後に立つと後ろ蹴りを食らうことがあるので、この日連れ出したのは、比較的歳を重ねた穏やかな気質の雌駱駝だった。乳は出ないようなので、食料や水は村から拝借してきたらしい。
優しい性格の個体とはいえ、大柄な成人男性ほどの体高がある。獣の巨体を子分か何かのように遠慮なく引っ張るファイサルは、アイシャと同じ十歳。駱駝が全力疾走を始めれば、引き摺られて行ってしまうだろうと思える体格差である。どうも心許ないのだが、ここまで来てしまったのなら仕方がない。もうどうにでもなれ、という気分でファイサルの隣を歩くアイシャである。
広大な砂砂漠を、太陽の位置を頼りに北西へ進む。枯色をした灌木が斑に自生しているので、時々駱駝が停止して、文字通り道草を食う。そうなると、いくら手綱を引こうとも、梃子でも動かぬ様子であった。
橙色の砂丘が雲一つない蒼穹を切り取り、世界を二分している。灼熱の陽光が燦々と降り注ぎ、アイシャは幾度も水分補給をした。セルマの素早い救助のおかげですっかり元気ではあるのだが、病み上がりであることには変わりない。もう二度と倒れはするまい。臆病者の長所は、同じ失敗をせぬように、慎重になれる点だろう。アイシャは、ファイサルが怪訝な視線を寄越すほど、頻繁に皮水筒を傾けた。
そんな様子で歩き続けることしばし。相変らず広大な砂丘が眼前を占領する。歩けども歩けども茫漠とした景色は変わらない。
時折地図を引っ張り出しては難しい顔をしてみるファイサルだが、あれほどに大雑把な表記では、何の役にも立たないだろうと思えた。アイシャは一向に変わらぬ橙色の光景に不安を募らせ、とうとう口を開いた。
「道、合ってる?」
ナージファも従姉のギナも、ほんの軽装で出発をした。間歇泉は、さほど遠くはなかったはずだ。
アイシャはファイサルの横顔を窺う。彼は相変らず、緊張感がない。
「何言ってんだ。合ってるよ」
「本当に?」
「本当だよ。ほら、あれ」
ファイサルは沈みかけて大きく引き伸ばされた朱色の太陽を指差す。
「太陽は西に沈むんだ。そこから少し北に進路をとれば……」
ファイサルは薄い胸を張る。それからぐるりと半身を返し、概ね北西と思われる蒼天を仰いだ。
「聖地間歇泉に着くはず」
「でも、それって正確じゃないよね」
「大丈夫だろ。間歇泉って大きいんだぜ。だいたいそっちの方に行けば着くって」
「でもでも!」
アイシャは思わず立ち止まった。ファイサルは不満げな顔をしたが、一人先に進むことはない。さすがにそこまで薄情ではないらしい。急に手綱を引かれて歩調を乱された駱駝が、不満そうに鼻をひくひくさせた。
「もし違う方向に歩いていたら? ファイサル、やっぱり戻ろうよ」
「ああ! ほんとおまえ臆病だな」
「だって、セルマがきっと心配してるよ」
「羊の柵のことで頭に竜角を生やしているかも」
「あたしは悪くない。ファイサルのせいだもん」
いよいよ涙すら湧いてきた。罪悪感と苛立ちが胸を押し潰す。陽射しがある今ならまだ、引き返せるだろう。砂漠には駱駝と二人の子供の足跡がくっきりと残っている。それを辿れば、集落に戻れるはず。
「アイシャ、おい。泣くなって……」
言われて初めて、涙が頬を伝っていることに気づく。羞恥に頬を染め俯いて、雫が砂に染み込み瞬時に消えて行くのを睨む。ファイサルは柄にもなく動揺しているらしい。別に彼に泣かされたのは初めてではないのだが。
「ったく、わかったよ」
しばしの沈黙の後、ファイサルが頭を掻きながら譲歩する。
「今日を逃したら竜生の儀は、いつになるかわからないけど、良いんだな」
アイシャはしゃくりあげながら頷いた。
「後悔しないな」
もう一度顎を引けば、ファイサルはわざとらしく溜息を吐いた。
「しかたないなあ。せっかく連れ出してやったのに」
連れ出してくれなどとは頼んでいない。だが、もしかしたら。もしかして、もしかすると、従弟はアイシャの望みを叶えるために一肌脱いでくれたのかもしれない。いや、撤回。彼は、そんな他人思いの性格ではないか。
アイシャは小さく息を吐いて拳で涙を拭い、方向転換をする。目指すは赤の氏族の集落。二人の住む村である。
こうして結局、幼い冒険は道半ばで断念せざるを得なくなった……はずなのだが。
「嘘だろ……」
いよいよ太陽が砂丘の裏に隠れた時分。自らの足跡を辿り引き返す二人と一頭の目に、無数の蹄跡が映る。砂に刻まれた、羊や山羊の放牧の跡。アイシャたちの足跡は無残にも踏みつけられ、消し去られていた。これでは帰るべき道が判然としない。方角の頼りになる太陽は、翌朝まで見えない。これは誰がどう考えても。
「やっぱり、遭難」
アイシャは呟き、もう一度涙を浮かべたのだった。




