第1話 『秒針は折れた』 ③
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「ただいま!」
早朝、彼の住まう古民家へ到着した。予定より三十分ほど遅れはしたが、大した問題では無いだろう。ただ、彼の返事は無い。
当たり前の事だが、毎度のこと、その声を期待しては落ち込んでばかりだ。それでも、帰宅の合図を欠かすことは絶対にない、辞めたくない。辞めてしまったら、今度こそ彼の死を確定づけてしまう気がするから。
「元気にしてた? 昨日さ、ボーっとしてたら煙草買っちゃってさ。らしくないよね」
こんなところを誰かに見られでもしたのなら、おそらく『変人』と罵られるのだろう。人間というのは、そういう生き物だ。その場の出来事をあるがまま受け取る。
つまり、この状況は物に話しかけているも同然、独り言を連ねているに過ぎない。おかしい、と揶揄されるのだ。でも、そんなことは気にしていない。
――私に今更、何を言うのか
『化け物』と呼ばれ、叫ばれ、嘆かれ、これまで生きてきた、慣れている。
ただ、眠る前の彼との約束である『むやみに自分を責め立てるな』という契りは、未だかつて果たせたことはない。散々、注意されてきたはずなのに、この習慣だけは、どうも抜けきれない。心の中だけに留めておくのが、精一杯だ。
「まだ、寝てる?」
彼の寝室兼、部屋である和室に、起きていないかの確認と共に、足を運ぶ。そこへ向かうと、布団に身を包んでいる彼の寝顔が見えてきた。
「っ!」
艶やかな黒髪に、凛と澄んだ寝顔――何度も見てきた顔だというのに、やはり久しぶりだと緊張してしまう。
「――今からおまじないかけとくね」
脚を折り曲げ、畳に膝を付け、彼の手を握る――、
「まだ、起きないの? 早く起きてきてよ……」
起きる気配のない彼の手は、とても冷たい。だから、不格好ながらも、私の手で彼の手を優しく包み込むのだ。微弱ではあるが、手から送るエネルギーで、冷たく整った彼の手の平は、だんだんと温かみを持つようになる。
非現実的と言われることもあるだろうが、実際温かくなってはいるし、この瞬間だけは自分の生も彼の生も感じられる気がして、至福に浸ってしまう。
――あの時も、こうやって少し手を伸ばせていたのなら
いい加減、自己嫌悪に嫌気がさしてくる。私は、ここまで情けなかったか。
「よし、とりあえずこれで終わりかな。それじゃ、ご飯作ってくるね」
そう言って、約四時間の彼への元気づけと、会話を済ませると、彼の寝る布団際を立ち上がり、開けっ放しだった襖の方へ向かう。
すると、和室よりかはわずかに広い、埃を纏った台所が視界に入る。この古民家は彼に別れを告げる前日、徹底的に清掃をしていたはずなのだが――二週間も空けてしまうと、古民家らしく、すぐ汚れてしまう。
「まずは、掃除からかな」
そうぼやくと、錆びついた鉄製の掃除用具入れから、バケツと、ナイロン製の淡いピンクの雑巾を取り出し、台所の蛇口からバケツに水をひたひたに注ぐ。そして、そこに雑巾を投げ入れる。水が、少し溢れた。
「――痛っ。って、あー、傷出来ちゃってるじゃん。ミスなんてらしくも無い」
自分は、あの事件の失態を除けば、ミスとは縁遠い存在――これは、自意識過剰などではなく、紛れもない事実なのだ。失敗という体験は、ほぼ無いに等しい。
なのに、何故こんな初歩的なミスをしてしまったのだろうか。振り返ると、その原因の出来事が頭にちらつく。
おそらく、あの時だ。異様に肝が据わっていたあの男――、
「いやいや、そんなこと、どーでもいいし。てか、なにこの匂い、雑巾? いや私か」
先程から気掛かりだった、生臭さの犯人を見つけた所で、掃除が必要なのは古民家なんかではなく、自分であることを確認する。振り返れば、ここ二週間は、まともに風呂も入ることが出来ないでいた。異臭が漂っていても、何ら不思議な事ではない。
彼には、この匂いがバレていなければ良いのだが――、
「なんか段取り悪い? いつかは、こういうのも慣れておかなくちゃ、困らせちゃう」
この辺境、いわゆる田舎に住んで数年が経つが、中々、生活を営むというのも難易度が高いらしい。家事全般を器用にこなすというのは、どうにも苦手だ。
こんなことをするようになった切っ掛けは、私自身にあることは承知の上、それでも家事は好きになれない。そんな状態で、嫌々行ったとしても不格好になるのは無論である。
「お風呂行ってくる……覗かないでよ?」
覗かれる心配など不必要だというのに、彼が起き上がる期待を込めて、心配する素振りをする。体一つ見せるだけで、彼が起き上がってくれるのだったら、なんだって見せるつもりだ――という本性を隠しながら。
だから、彼には早く起きて欲しくて――、
「ちぇ、起きてくれないの? まぁ、知ってるけどさ」
それでも、誘惑に負けることのない彼に、頬を膨らました。自業自得、自分が蒔いた種だが女としては結構、体を張ったつもりだ。なのに、眠る彼がそれに答えることはない。
私は諦めて、風呂場に足を進めた。
「ふぅ……久々だけど、風呂も捨てたもんじゃないよね。すぐ汚れちゃうし、不要だと思ってたけどさ!」
ヒノキの香りが漂う洗面所で、裸でずぶ濡れの私は、大声を出す。覗き魔が出た、わけではない。いや、彼が覗いてくれるのだったら、それはそれで良かったのだが――、
「てか、まだ掃除も済んでないじゃん。家事って、大変過ぎない?」
彼が独り眠る寝室、そこへ届くように声を荒げる。こんな時ぐらいは、独りにさせたくない。声を聞かせて、少しでも安心できるようにさせてあげたいのだ。それは、日々への愚痴も例外ではない。包み隠さず、私の全てを知っていて欲しい。
「可愛くできてるかな……」
体を拭き、髪を乾かし、純白のワンピースに身を包む。そして仕上げに、蒼のペンダントも忘れてはいけない。この二つは、彼が選び、プレゼントしてくれた一生の宝物だ。
が、それに似合う自分で居られているのかが、物凄く不安になる。それに普段は、外に出るとかなり服が汚れてしまうため、宝物は部屋着へと成り下がってしまっていた。
その双方への杞憂の波が、私を襲う。
「でも、あの時は可愛いって褒めてくれてたし――自信持っても、いいのかな?」
そんな不安を募らせながら、掃除を放棄し、彼へワンピース姿をお披露目しに行く。彼の待つ寝室までの道は、その時だけはバージンロードのようで――、
「こんな花嫁でも、いい?」
心配ではあるが――いや、心配だからこそ、女としては、彼の一言が欲しい。
――本当に可愛いよ
彼の言葉が、一言一句間違えられることなく、頭の中で蘇る。その流れから、欲深い私は新婚生活への妄想も脳内で、すかさず起こす。
「っー! 何考えてるの私、ここにはしけこんでる訳じゃないでしょ!?」
目の前の襖が開けられ、裸姿の彼が姿を現す。自身の妄想が具現化したのだろうか。私とて、いくら化け物と呼ばれようとも、一応、人間の皮は持っている。卑猥な想像をするときも、あるだろう。正に今、その最中であった。
だが、彼を裸で寝かせているのと、この妄想は無関係なものだ。彼を寝かす際は、長時間家を空ける都合上、体温調節が効きやすいように、裸に下着で布団を包ませてもらっている。昏睡状態なのだから、そんな配慮は無意味――だと考えがちだが、これが案外、勝手に彼が体温調節をしてくれていることも多い。
夏場は布団が畳に落ちていたり、逆に冬場は布団をこちらが三枚ほど用意することもある。そう、彼が一人で立ち上がり、襖を開け、こちらを見つめてくることも――、
「おい、お前――」
「ち、違うの! ごめん、ごめん。これはね、そういう卑しいのじゃなくて――」
一番、心を覗いてほしくない時に限って、彼は全てを見透かしたような口ぶりをする。本当にやめてほしい、と心の底から願う。
――え、今なんて
「今、なんて――」
「……誰だよ」
これは幻か――いや、違う。どう見ても、裸の彼が目の前に立っている。長年、千年、待っていた出来事だ。とても喜ばしい、嬉しい、はずなのに、なのに――、
「へ? あー、うん。忘れちゃったか――美奈だよ……ミナちゃんって呼んでくれて……ひぐっ、た、んだよ?」
大粒の涙が、視界を埋め尽くす。涙が止む気配は、微塵もない。今起きていることは、待ち望んでいたものに近しく、全くの別物だ。私は最悪の事態が発生していることを、一瞬のうちに理解した。なぜなら、予期していたからだ。
――彼が記憶を失くしているであろうことを
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