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老いたる美姫の告白

作者: 砂虎
掲載日:2024/01/25


時間の流れは何と残酷なものだろう。

揺れる馬車の中で乾いた自分の指先を眺めながらアナスタシアは憂鬱になった。

その身1つで故郷を飛び出した20年前は何の手入れなどせずとも身体は弾けんばかりの瑞々しさで輝いていた。

今はもう違う。

故郷へ向かう馬車にはこれまでの人生で多くの男たちから贈られてきた宝飾品が山のように積まれているが

それと反比例するかのように帝都の至宝と呼ばれた女の美貌には厚塗りの化粧でも隠しきれない衰えが陰を指していた。


きっと今夜には魔女の都落ちの噂は社交界を彩る絶好の贄として残酷な笑い話になっていることだろう。

それは別にいい。昨日までは自分もまたその輪の中で哀れな落伍者を笑い者にする側だったのだから。

アナスタシアの恐怖は去りゆく都ではなくこれから待ち受ける故郷にある。


「いったい何を考えているのかしら、私は」


来年の冬には四十路を迎えるとはいえ仮にも帝都の至宝と呼ばれた女である。

勲章代わりに欲しがる男はまだいくらでもいたし大貴族の正妻話に限っても片手の指では足りなかった。

受ければ死ぬまで富と名声に困ることはない。

そしてそれは故郷を飛び出す際にまだアンナと呼ばれていた彼女が何より望んだはずのものだった。


家は貧しく兄弟は多かった。

昼の農作業で華奢な指は荒れ夜になっても蝋燭の暗がりの中で内職が待っている。

親の目を盗んで会うテオフレッドとの僅かな時間だけが救いの日々に彼女は絶望していた。


寵愛深き全盛の時代、嫉妬深い競争者たちは恋人を捨て金のために都へ来た卑しい農婦と蔑んだが笑わせる。

生まれたときから一生の食い扶持を約束された者たちに何が分かるというのだ。

誇りや正しさなど衣食住を満たされた者だけが気にできる贅沢品だ。

世の中は金、金がなくては何も始まらない。

そしてテオフレッドは若く誠実で優しいがそれだけの金を持たない猟師だった。

金のある人生。金のない人生。選べるならば誰だって前者を選ぶに決まっている。

だからアンナは村に残って結婚してくれと頼むテオフレッドを捨てアナスタシアへと名前を変えた。

アナスタシアの意味は復活。哀れな農民の娘は帝都に輝く夜の蝶へ生まれ変わったのだ。

蝶は男たちの合間を優雅に飛び回り金の蜜を集めた。

そしてその金でアナスタシアは村に残っていたら叶わなかった全てを手に入れた。

手に入れた、はずだった。



この世に永遠は存在しない。

30を過ぎた頃にはアナスタシアは帝都で一番の宝石ではなくなっていた。

その頃からアナスタシアはよく眠れなくなった。

頂点を知らぬ者は不思議に思うだろう。

最優秀ではなくなったとはいえ引く手数多には変わらず前途の心配など無用。

そんなのは頭の中で組み立てた机上の空論だ。

高いところから落ちれば誰だって傷つく。そしてまた落ちるのが怖くなる。

美食も宝石も求愛もその不安を和らげてくれることはなかった。

不眠は美貌の陰りを加速させ社交界は眠れずの魔女と意地の悪い二つ名をつけた。



不眠が解消されたのは妹の話がきっかけだった。

金の無心をしてくる家族たちとはとうの昔に縁を切っていたが

雑貨屋に嫁いだ末の妹とだけは年に何度か手紙のやりとりをしていた。

妹は姉のために故郷で起きた話をいつも便箋いっぱいに書き連ねてくれていたが

18年間一度も戻らなかった故郷の出来事などアナスタシアには遠い異国のようなもので

ほとんど興味を引かれることはなかったがその冬の手紙は違った。

内容は簡潔で夫が病で亡くなり寡婦となったこと。

一人で店を切り盛りしようと頑張っているがなかなか上手くいっていないこと。

心配したテオフレッドさんが何かにつけて顔を見に来てくれて助かっていることが記されていた。



テオフレッド。手紙でその名を見ただけで笑顔が浮かべた自分自身にアナスタシアは驚いた。

まるで足元に財宝が転がっていたことにようやく気がついたような気分。

大昔の思い出が次から次へと浮かんでくる。

初めて仕留めた鹿を二人でさばいた。娼館へ売り飛ばそうとする父親を殴ってくれた。

困ったような笑顔。たくましい背中。転んだ私をお転婆娘とからかう優しい声。

その記憶に心を浸しながらベッドに入ることでアナスタシアは熟睡することが出来た。



年に数度の手紙は月に一度へと変わった。

アナスタシアは妹の不幸を慰める言葉もそこそこに巧みにテオフレッドの近況を聞き出す。

彼がまだ独身だと知った時、蝶の心は生娘のように舞い上がった。

テオフレッドはまだ独身。たったそれだけの事実で心は魔法のように満たされていく。



しかし魔法はやがて呪いへと変わった。

手紙のやりとりを重ねるうちに彼女はあろうことか末の妹に嫉妬し始めたのだ。

自分からテオフレッドのことを尋ね彼の現在を聞き出してくれと頼んでいるというのに何という矛盾。

だがアナスタシアは真剣だった。何といっても妹は寡婦、独り者なのだ。

その容姿は自分には遠く及ばないものだったが人並み以上ではあったし何より彼女はまだ若い。

女が金のある男を選ぶように男は若い女を選ぶ。

全盛を過ぎ色褪せつつあるアナスタシアはそれを嫌というほど理解していた。

嫉妬と焦燥が蝶を焦がし彼女は再び眠れずの魔女となった。


かくして今アナスタシアは故郷へと向かう馬車の中にいる。



「いったい何を考えているのかしら、私は」



旅立ちから何度となく繰り返してきた問いだ。

20年前に捨てた恋人が今も自分のことを愛していて戻ってきた彼女を抱きしめてくれる。

そんな都合の良い物語があるわけがないではないか。

自分がテオフレッドならば絶対に許さない。

殴り、踏みつけ、二度と顔を出すなと怒鳴りつける。


そう、そう分かっているのに。

震える手で涙を拭う。化粧が崩れる。そんな顔は見せたくない。見せられない。


振動が止む。馬車が止まる。到着したのだ、故郷に、テオフレッドの家の前に。


両手を合わせて震えを抑える。

落ち着け、今日まで何度も練習してきたではないか。

いつもように仮面を被れ。優雅に、美しく、落ち着きをもって。


三回目のノックで扉が開いた。

20年ぶりに見たテオフレッドの顔は当たり前だが自分と同じだけ年月を重ねていた。

その事実にほっとして浮かべた笑顔はすぐに凍りついた。


あぁ神様。やっぱりそんな都合の良い物語はなかったわ。

かつての恋人が浮かべる表情は夢見た理想から程遠いものだった。


被った仮面は粉々に砕け散った。用意してきた言葉は彼方へと吹き飛んだ。

自分の足が壊れた機械のようにガクガクと震えている。

今すぐ馬車へ飛び込んで誰もいない世界へ連れて行って欲しい。


けれど、ダメだ。それだけはダメだ。

ここへ来る前に誓ったではないか。この身勝手な恋の結末がどんな無様な終わりを迎えようとも。

せめて、あの日の別れを謝ろうと。



―――出来なかった。



どれだけ頑張っても言葉が出てこない。

声にならない嗚咽だけが繰り返される。


アナスタシアは地面に崩れ落ちた。

ごめんなさい。ごめんさない。ごめんなさい。

心の中で何度も叫んでいるのにどうして私の口は動かないの。

どうして。どうして。

程なくして彼女は理解する。これは身体の反乱なのだ。

かつて彼と口づけした唇が、撫でられた頬が、繋がれた手が

許しの言葉をもらい楽になろうとする卑しい女の心を許さないのだと。


その時ふっと身体が重力から解き放たれる。

気がつくとテオフレッドの手が脇の下へと入り子供をあやすように魔女を立ち上がらせていた。

その顔は見えない。彼は顔を空へ向け、何度も荒く深呼吸を繰り返している。


長い時間が過ぎた。

それは永遠にも思える審判の時だった。


やがてテオフレッドはゆっくりとアナスタシアに視線を合わせる。

苦いものを飲み込むように最後にもう一度だけ深呼吸をして。

それから20年前と同じ笑顔を浮かべて言った。言ってくれた。



「お互いに老けたな、お転婆娘」



アンナは飛びかかるようにテオフレッドの胸に飛び込む。

この奇跡を逃してはならないと必死に背中を掴む。

泥だらけのドレス。ぐしゃぐしゃの顔。何てみじめ。

帝都の至宝など何処にもいない。


分かっている、これは彼の優しさがくれた一瞬の許し。

20年前に捨てた恋人が今も自分のことを愛しているなんて都合の良い物語は存在しない。

それでもいい。それでも私はこの恋に殉じよう。

たとえ今一瞬の奇跡だとしても、彼は私に笑ってくれたんだから。



愛しい男の胸の中で老いたる美姫は告白する。

20年の時を超えて思いよ届けとありったけの勇気をこめて。



「愛してるわテオフレッド」


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― 新着の感想 ―
[一言]  歳を重ねてやっとわかることも許せることも、別れも一つの愛と知る日も、戻るべき故郷の大切さに気づいて死を回避することもあるのです。  彼女も彼も勇敢で、多くの罪を重ねてなお衰えない誠実とい…
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