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D05.豊穣の女神を騙る者 王女アレサ

 ボレアス神殿、大食堂。

 それは単なる食事の場ではございません。神殿の住人だけでなく宿泊する貴人や巡礼者をもてなすことを想定した大食堂は、礼拝堂に次いで人が集まる重要な場所といえます。


 果てしないほど長く連なった三列の食卓はまるで小川のよう。椅子の数は一列につき百を越えますので、少なくとも三百人以上が座ることができます。

 この三列の長大な食卓から一段高く区切られて、豪奢な食卓があります。

 神殿の長をはじめ、この神殿における特別な人間をそれ以外と差別化するための工夫でしょう。


 朝昼晩の食事のたびに、お偉い人が大食堂の上座からありがたーい説法をなさるわけですね。

 きっと食事の運ばれる間に、その一日ごとの大事な話を伝えてしまえば効率が良いのでしょう。けれども、朝飯前に長話を聞かされるのはきっと気だるくてなりません。

 長話はよ終われ、メシまだか、と念じる者はさぞ多いかと。


 その豪奢な上座の食卓の奥側、神殿の北側に祀られるのが北風の神ボレアスを象徴する神像です。

 白石の像は雄々しい翼に風なびく外套を纏った威厳ある初老の男、といった造形でした。

 ああ、なんとなくクレオパトラ様の野蛮、こほん、勇猛果敢さは父親譲りなのかなと感じます。


 わたくしが今まさに身を隠す吊り燭台をはじめ、壁面には神々にまつわる故事を元にした絵画が飾られており、神殿として権威づけしようと飾りつけに工夫しているのでしょう。

 北風の神ボレアスを頂点として、神に仕える大神官たち、それ以外の者達という序列づけがなされているこの空間は、だれが偉いのかをはっきり示している秩序だった空間です。

 冒険者酒場を振り返ってみれば、上座も下座もなく円形の食卓を雑に並べてたので差は一目瞭然。


 この大食堂の上座に座る者こそ、ボレアスの次に偉大な権威であると誇示しているのです。

 この冠雪山麓都市ボレアポリスの支配者の座――。


 豊穣の角笛コルヌ・コピアを愛しげに懐中に抱く、その者は見るからに神殿の長ではありません。

 マケドニア高地王国、王女。

 彼女は今、滞在する客人でありながら大神官であろう老人を傍らに立たせて、頂点に座します。


「アレサ王女殿下、神殿の者達のご無礼をどうかお許しください……! お見苦しい限りですが、どうか手打ちにすることは……!」


 大神官は苦渋の表情をして、頭をお下げになっていました。

 今しがたわたくしが大食堂に突入した折、空腹に苦しむ人々が大扉を破って侵入してきました。王女の護衛として必要とあらば侵入者を切り伏せるよう、兵士は命じられているのです。

 それを即刻に実行に移さないのは、意思決定権を有する女王の一声がなければ、兵士達にも飢餓感に突き動かされるだけの人々を傷つけようという害意がないからでしょう。


 アレサ王女の傍らにはもう一人、ペガサス三騎兵の筆頭、レモニアが控えております。

 赤鎧のミャ、青鎧のドロシー、黄鎧のレモニア。

 ペガサスに騎乗こそしていないものの、印象強い家紋つきの鎧の親衛騎士をわたくし見忘れるはずがございません。

 即断即決でいきなりわたくしを殺害したレモニアならば、王女の望みとあらば有象無象の者を斬り殺すよう王国の兵士に命じることに躊躇せずとも不思議ではございません。


 このボレアス神殿は今、完全にマケドニア高地王国のアレサ王女の支配下にあるようです。

 次に彼女の発する言葉ひとつで、多くの生命が失われかねない。

 わたくしは罪悪感からなにかできないか、どう行動すればいいのかを考え巡らせるものの、その暇もなく、アレサ王女は不敵にお笑いになって、こう命じました。


「レモニア、彼らをもてなしてあげて。丁重にね」


「はっ! 親衛隊長レモニアが命じる! 各員、交戦を禁じる! 礼節を以って歓待せよ!」


「しょ、承知しました! レモニア様!」


 あわや流血沙汰という状況が回避され、兵士らはほっと胸を撫で下ろしては武器を収めます。

 突然に歓待すると告げられた神殿の人々が何だどうしたと困惑していると、王国側の従者らしき身なりの整った給仕役が「どうぞお席に」と着席を案内していきます。


 そして運ばれてくる料理、料理、また料理。

 この飢餓に蝕まれたボレアス神殿において、誰もが恋い焦がれるできたて熱々の料理が次から次へと運ばれてくるではありませんか。

 ああ、シャンデリアに身を隠しているわたくしまで立ち昇る美味な匂いに口中が潤います。


「さぁどうぞ、神に感謝の言葉を捧げ、お食べになってください」


「あ、ああ、ぜひそうさせてもらう! 感謝します! 偉大なる北風の神ボレアスよ!!」


 そう言葉した一人の男を、侍女長とみられる眼鏡の似合う女が殺害しました。


 ……え? 殺害?

 わたくし、突如のことに言葉を失いかけてしまいました。


 神殿に仕える雑用の男の首を、侍女長は流れるような所作で喉笛掻っ切って殺害してしまったのでございます。そのためらいのない冷徹さは神殿の人々どころか兵士さえも戦慄させます。


 一体なにが理由で男は殺されねばならなかったのか。

 二の舞になるまいと空腹に腹の音がなろうとも、神殿の人々は静止して沈黙せざるをえません。


「……侍女長のロリスです。皆さんの疑問にお答えしましょう。彼の死んで償うに値する愚行とは、なにか。それは豊穣をもたらした今ここで感謝すべき“神”の名を唱えず、恵みに授かろうとした不敬と無礼によるものです。正しき名に感謝を捧げる限りには、この温かな食事を以って、我々は皆さまをおもてなし致します。どうか、ご了承を」


 感謝すべき神とは。

 人一人を殺めておいて顔色一つ変えずにナイフの血を手ぬぐいで拭う侍女長ロリス。


 感謝すべき神とは、誰か。

 それを問い尋ねる勇気を持つものは誰もおらず、しばし沈黙の後、侍女長ロリスは言葉します。


「豊穣の女神、アレサ様と。我らが王女に感謝することです。たったそれだけですよ、皆さん」


 冷たい言葉、温かい料理。

 神殿の者達は皆、迷いの果てにお互いの顔を見合わせて、両の手を合わせて神の名を唱えます。


「豊穣の女神アレサよ! お恵みに感謝いたします!」


 王女アレサは薄っすらと笑って、言葉します。

 豊穣の角笛コルヌ・コピアを大事そうに撫で擦りながら、とても愉しげに仰るのです。


「お食べなさい、存分に」


 我慢の限界だったのか、誰ともなく、恐る恐る料理に口をつけました。

 勇気ある、もしくは我慢弱かった一人がごくんと喉を鳴らしたのを見届けて、恐怖と空腹から逃れたい一心の神殿の人々は眼前に供された料理を食していきます。

 けれど異様なのは、狂おしいほど腹が減っていても、誰も見苦しいような食べ方をできないこと。

 涙ぐみ、染み入る滋味に感動こそすれど、心の底から食べ、飲み、笑うことができない。


 自由なき恵みに縛られる人々の物悲しい姿に、わたくしは悟ります。

 豊穣の女神を騙るアレサ王女に、コルヌ・コピアの所有者たる資格は決してない。


「ああ、こうも心惹かれぬ美女と出会ったのはいつ以来であることか」


 冷徹で傲慢なるアレサ王女。

 その忠実な下僕たる三騎兵に侍女長。


 いかにして彼女らを出し抜いて、コルヌ・コピアを奪還するか。

 わたくしがそう考え巡らせておりますと、すくと立ち上がったアレサ王女が天井を見上げます。


「小鳥さん、いつまでも隠れてないで降りてらっしゃい」


「……ああ、お気づきでいらっしゃる」


「扉を蹴破っておいて隠れるも何もなくってよ。まさかここで捕者劇を演じて、食事中の罪なき人々をそのシャンデリアの下敷きにするのが小鳥さんのお望みかしら?」


 侍女長ロリスに男を殺害させたのは単なる見せしめではなく、わたくしへの脅迫でした。

 一人を躊躇なく殺せる以上、全員だって殺せる。

 もしわたくしが犠牲をいとわなかったとしても、それは王国側にも痛くも痒くもないことだと示す。


 一石二鳥という嫌な言葉をものの見事に実践してくるのだから恐ろしい人でございます。


「さぁおいで、小鳥さん。おいしいお菓子もあるわよ」


 いと愉しげに、アレサ王女はわたくしへ微笑んでみせるのです。

 その無邪気とも邪悪ともつかない笑顔と誘いに今は乗るほかなく、わくしは王女と向かい合って上座の食卓、ボレアス神像のそばに着席することになりました。


 黙して忌々しげにわたくしを睨む、三騎兵筆頭レモニア。

 涼しい顔して淡々と食器を運んでくる、侍女長ロリス。

 まるで赤子のように豊穣の角笛を抱く、王女アレサ。


 わたくしは密かに冥府音メイフォーンを操作して隠し持ち、王国との対峙に臨むのでした。

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