EX03.アレスの丘 -世界最初の殺人裁判- 4/4
◇
真実。
世界最初の殺人裁判、その被害者ハリロティオスは強姦未遂事件の加害者だった。
強姦未遂事件の被害者アルキッペは、駆けつけた父アレスによって助けられた。
そしてハリロティオスはアレスとの格闘戦の末、撲殺という末路を辿った。
泉の精デーローの告発を皮切りに、他の目撃者も重い口を開いた。海神ポセイドンによる逆恨みの復讐を、義憤の女神ネメシスが防ぐと約束してくれたことが幸いした。
「ハリロティオス、何故だ……」
ポセイドンは呆然とします。
海の皆に愛されるハリロティオス、自慢の息子の死ぬ理由としては受け入れがたいものでした。
なにかの間違いでは、とポセイドンの親族が質問を投げかけてみても、証言は崩れません。
真実は明らかとなったのです。
しかし、それが裁判の終わりを意味するわけではありません。
「当法廷は評議者による審議に移ります。翌日、判決を言い渡します。これにて閉廷!」
テミスは結審を明日と定めて、波乱の裁判初日を終わらせます。
(ああ、ここからが地獄だ……)
十柱の神々との審議は必ずや揉めに揉める。
その調停役として、この世界の支配者たちの十人十色の意見を取りまとめねばならないのだ。
調停者テミスと十柱による評議は一夜を通して行われた。
即ち、天帝ゼウス、結婚の女神ヘラ、知勇の女神アテナ、太陽の神アポロン、愛の女神アフロディーテ、狩猟の女神アルテミス、豊穣の女神デメテル、鍛冶の神ヘパイトス、家庭の女神ヘスティア、伝令の神ヘルメスという十柱である。
これがこの世界最初の殺人裁判における、もっとも難儀なところである。
真実は一つ。
しかし意見は十人十色。
『ポセイドンの息子ハリロティオスを撲殺したアレス』と『愛娘アルキッペーを助けたアレス』という相反する善と悪の行いを、それぞれの最高位の神々が独自の物差しで評価する。
画一的な共通の価値観を有しないのは己の司る権能が異なる以上、やむをえないことです。
それらのまとめ役をこなす責任を、テミスは寝ずの話し合いで決めねばなりません。
「アレスを罰すべきです。正しき理知あらば、ハリロティオスを殴り殺さずとも生け捕りにして罪に問えばよかった。激怒に身を委ねての撲殺は不正義に他ならない」
一番に厳罰を望むのは知勇の女神アテナです。
かねてよりアレスとは仲が悪く、同じゼウスの兄弟姉妹の中では一番に対立的でした。
「愛よ! これは愛ゆえの行い! アレスは無罪にすべきよ!」
愛の女神アプロディーテは逆に一番に無罪を望みます。
なにせ、彼女はアレスと恋愛関係にあります。私情ありきとの批判、それさえも愛と一蹴します。
「父の愛ですか。しかしハリロティオスの両親も我が子を愛している。愛という尺度だけで無罪か有罪かを決定づけることはできない。息子を殺した者に厳罰を求めるポセイドン達は偽りの愛を述べているとでもいうのですか?」
鍛冶の神ヘパイトスが割って入ります。
「……我が妻アプロディーテ、君はアレスを恋人として愛している。俺にとっては不貞の愛だ。しかし見逃しているのは感情に支配されず、理知的に、冷静に物事を見据えているからだ。激情に任せて愚行を働いてもいいと訴えるのならば、俺はあいつをとうにこの槌と火で始末している。冷静になれ。俺も私情を挟まずに、ちゃんと考える」
「……わかったわ、ヘパイトス」
愛の女神がおとなしくなると今度は狩猟の女神アルテミスが発言します。
貞淑の女神、処女神として純潔を重んじるアルテミスは弓矢を背負ったまま勇ましく申します。
「万死に値する! 罪なき乙女アルキッペーを陵辱せんとしたハリロティオスは万死に値する! アレスは父親として正しいことをしたまでのこと! 私がもし泉に居合わせていたならば、ハリロティオスを鹿に変えて、絶命するまで森中を追いかけ回し、必ずやこの弓矢で息の根を止め、そして野良犬のエサにしたことだろう! ポセイドン達はむしろ身内の不始末を詫びるべきだ!」
一番に過激な物言いに、アレスを助けたい一心のアプロディーテまで言葉を失います。
今しがた理知の重要さを説かれた直後に、これなのです。
神々の長として主神ゼウスが「アルテミスよ、まぁもうすこし冷静に……」とたしなめようとすると、これが火中の栗を拾う行為でして、アルテミスは激怒します。
「私そっくりに化け、私の愛する美しき妖精カリストと密通したこと! 忘れたとは言わせませんよ! お父様!!」
「ひいっ! 今その話を蒸し返すのはやめてくれ! すまん! お父さんが悪かった!」
「がるるるるるる!」
森と野獣に関わるアルテミスの睨みはまさに大熊もかくやというものでした。
最高権力者のゼウスといえど、同じ十二神の地位にあり、なおかつ実の娘に負い目があるとなれば、情けないことながら強くは出られません。
白い目を向けるのはアルテミスだけではなく、正妻のヘラもです。
ゼウス最大の天敵ともいえる恐妻ヘラが隣で睨みを利かせている以上、ここで身から出た錆を取り繕おうとうかつなことを言えば、どんな目に合うかわかったものではありません。
今回、十柱中六柱、テミスも含めて過半数が女性陣なだけにゼウスは立つ瀬がありません。
「……我が夫ゼウスの不徳を問うのはまたの機会にして、私は一人の母親として意見します」
結婚の女神ヘラ。
威厳ある天界の女王は、王冠と王笏を携えて象徴としております。
天界で最も美しいといわれる女神の一人である一方、それ以上に嫉妬深く激情家だと知られています。一夫一妻の掟を重視する彼女は、ゼウスの浮気性に常々目を光らせています。
(ああ、なんて苦行だ……もうどこが痛いかもあやふやになってきたぞ)
テミスはゼウスの前妻、ヘラとゼウスが結婚するために離別させられた経緯があります。気まずいどころではありません。
神々の家系図マジややこしいでございます。
「私は母親として愛する息子アレスの行く末を、こうして話し合っていること自体が愚かなだと言いたい。アレスは私とゼウスの子。我が子を重んじるポセイドンとハリエーの気持ちを汲んでアレスを地獄に送るというのは、母である私の気持ちを汲まないということ。理知を問うならば、家族感情を排して語ることべきだわ」
「う、む。ヘラの言う通りじゃ。儂とて父親、アレスを望んでタルタロスの牢獄に送りたくはない。しかしそれだけの理由ではポセイドンは納得すまい。理不尽はならぬ。こうして話し合って納得のいく解決ができねば、最後には戦って決めるしかなくなる。もし儂とポセイドンが全力で戦えば、巻き添えに地上は滅ぶやもしれぬ」
ゼウスはテミスの目を見て、問いかけます。
「テミスよ。そなたの守護する法律とは、そうならぬ為に編み出された知恵であるのだな」
ゼウスは数多の大戦を生き残ってきました。
天地を破壊し尽くすような愚かしい神々の戦争を、もう繰り返したくはないと思っているのです。
そのために、かつてティターン神族として刃を交えた法の女神テミスの助力を願ったのです。
テミスは薄い羊皮紙の法律書を撫ぜ、高らかに掲げます。
「理を以って、和と成す。今一度、この幼く拙き法の可能性を信じて、論じようではないか!」
調停者テミスの言葉に異を唱える十神はいませんでした。
◇
翌日、裁判の結審は昼でも夜でもない夕刻に行われることになりました。
アレスの丘には裁判の結果を見届けようと天神地祇に貴人も庶民も集まっていました。
石造りの法廷に再び、関係者一同が並んでいます。
義憤の女神ネメシスに鎖を引かれて、被告人、戦神アレスが力ない足取りでやってきました。
この場の誰よりもアレスは裁判に価値を見出していないのです。
「……くだらない」
テミスに向けて、昏く力ない眼差しを向けながらアレスは言葉しました。
「所詮、裁判なんてごっこ遊びに過ぎない。悪趣味な見世物だ」
「一理ある。裁判を娯楽として楽しむ者はきっと後世にも後を絶つまい。形骸化した、公平性のかけらもない裁判や法律もまかりとおるでしょう。法を司る者、司法が正しくなければ、法が正しくとも機能しない。それをごっこ遊びと断じるのは正しい認識です、アレス」
テミスはまっすぐにアレスを見つめて言葉します。
もう頭痛はしません。
結審が夕刻になってしまったのは昼前まで評議を続けた後、テミスは心ゆくまで寝たからです。
十分に議論して、十分に苦悩して、十分に休息を取ったのです。
「法は幼い。司法はより幼い。何百年、何千年を下手としても老人にはなるまい。それは法律という知恵が常に成長するからです。アレス、貴方はその大いなる最初の成長を我々にもたらしてくれたのです。法と掟の女神として、そのことに感謝し、その成果を披露するとしましょう」
「……長いんだよ、話がさ」
「年寄りの長話を禁じる法律はまだない。残念ですね、アレス」
テミスは羊皮紙に記された判決文を読み上げます。
ポセイドン、ハリエー、証言者のデーローやキツツキ、十柱の神々、関係各位が固唾をのみます。
「主文、被告人アレスを無罪とする」
淡々と、粛々と。
テミスは判決文を口にします。明朗に大きな声で、穏やかな大河のように。
天も地も海も、風も鳥も人間も、何もかもが静かにテミスの言葉を聞こうとしていました。
「当法廷は、ハリロティオス殺害について被告人アレスを無罪とする。理由は以下の通りである。
第一に、被害者ハリロティオスには被告人の娘アルキッペーを婦女暴行せんとする悪質な問題点が認められる。これは事実として複数の証言より明らかである。家族親類への暴行を阻止せんとする被告人の行動は明白な正当性が認められる。
第二に、被害者ハリロティオスを殺害した行為の是非について、当法廷はこれが“決闘”による結果に過ぎないと判断する。被告人アレスと被害者ハリロティオスは拳闘によって応戦しているが、この時、被告人は帯剣をしていた。現地に急いで駆けつけた際、天翔ける神馬の戦車に乗っていた被告人は、その強力な攻撃手段を用いず、わざわざ素手のハリロティオスに合わせて拳闘で襲いかかっている。ここに両者合意の上、一方的に卑劣な殺害行為に及んだのではなく、両者は戦いの結末として片方の撲殺という結末に至ったと認める。そして第三に――」
テミスはアレスに問いかけます。
「被告人、貴方は自らの無罪を主張することができたはずだ。それをしなかったのはなぜか」
「……無罪なんだろ? じゃあ答える意味はない」
「意味はあるとも。お前は無罪を与えられようとしている。しかし、まだ無罪を“勝ち取った”わけではない。真に人々に認められなければ、判決を不服とする声は止まないだろう。そうなれば、お前だけではない。お前の娘、アルキッペーにも法廷の外で危害が及びかねないのだ、わかるな」
「くっ……!」
アレスは苦虫を噛み潰したようにテミスを睨みます。
しかし観念したのか、静かに答えます。
「良いやつだったんだ。ハリロティオスは最後まで良いやつだった。真実が明るみに出たら、ハリロティオスは単なる悪人として後世に語り継がれる。
……あいつは皆に愛されていた。自信に満ち溢れていた。親しいボクの娘、アルキッペーもきっと愛してくれると信じてたんだ。でも何事にも例外はあるもんでさ、あのじゃじゃ馬娘、こっぴどくフッちゃったんだ。その時にさ、父親のボクみたいな強くて立派なやつが良い、みたいなこと言ったみたいでね」
「……それで駆けつけた後、被告人と被害者は拳闘による決闘に至ったのか」
「ボクは激怒してた。売り言葉に買い言葉、無我夢中で殴った。殴り返されもしたけど、終わってみればボクは惜しい友人を一人、亡くしてたんだ。我に返ったボクは真実を隠すことにした。ハリロティオスの名誉くらいは守ってやりたかったし、アルキッペーの名を盾に無罪を訴えてしまったら、みんな面白がって彼女をさらに傷つけるだろう?」
アレスは丘に集まった観客達を誰ともなく睨みつけます。
事実、後世に伝わるおはなしにはアルキッペーのことを「犯された」と記載する話もあります。未遂より劇的にするためか、話に尾ひれがついてしまったのか。
アレスは自ら泥をかぶることで娘と友を世間の悪意から守ろうとしたのでございます。
「ボクはポセイドンの叔父貴に償いをしたい。無罪といわれて、心の底から喜べる訳がない。無罪だなんて馬鹿げている。今からでも遅くない。テミス、ボクを罰するべきだ」
「いいや、判決は覆らない」
テミスは指差します。真実を知り、泣き崩れるハリロティオスの母ハリエーを。その傍らでそっと慰める海神ポセイドンを。
そして冷淡にたずねます。
「告訴人、ポセイドン。汝はこの判決を不服とするか」
「……いや」
ポセイドンは答えます。
激憤に怒髪天を衝く開廷当初の姿と打って変わって、彼は凪の海のように静かでした。
「異議はない。儂はこれ以上、死んだ息子の名誉を汚す気はないのでな」
テミスは遺族の言葉を受け取り、結びの言葉につなぎます。
「以上の通りである! よって被告人、アレスは無罪とする!!」
判決を告げる小槌が鳴り響きます。
静まり返っていた法廷は、テミスの見事な裁きに大いに打ち震えました。
「……テミス、ボクは喜ばないぞ」
「アレス、私がいつお前を喜ばせたいと言ったんだ?」
テミスは鉄面皮を崩さず、不機嫌なアレスに輪をかけて不機嫌そうに言ってやります。
「私は真実を求め、正義に味方した。この無罪、真実を隠そうとしたお前の“負け”だよ」
痛快に言い放って、あー疲れたとテミスは背伸びします。
これまでの頭や胃の痛みもとれて、テミスはじつにスッキリした気分でございます。
そして無罪と負けを宣告されたアレスはどちらも異議を申し立てることはありませんでした。
こうしてこの小高い丘は後にアレスの丘と呼ばれるようになります。
そして、アレスの丘の近くに法と秩序の女神テミスの神殿が建てられることになるのでした。
これで世界最初の殺人裁判はおしまいです。
あの薄く幼き十数枚の羊皮紙は、いつしか人を殴り殺せそうな法律書に育ってしまいましたとさ。
でも、決して鈍器代わりに乱暴に扱わないでくださいね。
法の女神テミスの頭痛の種が増えかねませんから――。
毎度お読みいただきありがとうございます。
外伝、アレスの丘、当初の予定より長くなってしまいました……。
本編とは関係あるなしはっきりしないところがありますが、テミスとアレスの神話の一解釈としてお楽しみいただけたらとおもいます。
ちなみに神話としては大いに本作独自のフィクションを含みますので、そこはあしからず。
では、今後ともよろしくおねがいします。