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EX03.アレスの丘 -世界最初の殺人裁判- 1/X

今回は外伝、法の女神テミスと軍神アレスにまつわる神話のおはなしです。

数話の掲載後、後ほど同名短編として単品で投稿させていただく予定です。

 世界初の裁判というものを皆さま、ご存知でしょうか。

 

『アレスの丘』


 と今は呼ばれる小高い丘にて、大昔、神々によって最初の裁判が執り行われました。

 被告人として鎖に繋がれて法廷に立つのは何者か。


 彼の名を、アレスと申します。

 この地にて裁かれし戦神アレスの名を取って、原初の裁判の地をアレスの丘と呼んだのです。


 では、アレスは何の罪によって法廷に立たされたのか。

 それは殺人の罪にございます。


 つまりこの物語は、世界最初の殺人事件の裁判物語にございます。

 ご清聴の皆さまにおかれましては、どうぞ傍聴席に座った心地でお聞きくださいませ。



 アレスの丘とまだ呼ばれる前の、この小高い丘はとある都の北西にありました。

 八百万の神々も都市の人間も、裁判という初めての聞き慣れぬイベントに興味津々でした。


 法廷を仕切るのは法と掟の女神テミス様。

 皆さまよくご存知の、裁判所に飾られている美しい彫像の元になった方でございます。

 しかしこれは世界最初の裁判です。

 つまり、これはテミス様にとっても初めての法廷でございました。


「参りました。こうも早く、神々の法に照らして裁判に臨む日がやってこようとは……」


 テミスは冷静沈着にして公平で良識ある女神です。

 しかしこれから裁かれる被告人はオリュンポス十二神、それも主神ゼウスの嫡男アレスです。

 そして告訴人は同じくオリュンポス十二神、海の神ポセイドンでした。


 天のゼウス、冥のハーデス、そして海のポセイドン。

 三界の支配者の一人が、その長であるゼウスの後継者候補に厳罰を求めているのです。

 どちらも身内に違わず、これを主神ゼウスの一存で差配する訳にはきっといかなかったのです。


 そこで法の女神テミスの出番です。

 オリュンポス十二神ではなくティターン神族の生き残りである彼女は、私情に囚われずに誰もが納得できる公平な裁きを下すことができると選ばれたのでございます。

 ……しかし。


「……ああ、胃がキリキリ痛む。世界初の裁判で、よりにもよって世界の支配者たちを裁くとは。法律にはまだ不備が多いというのに、裁く側の苦労も知らないで」


 と、テミス様は重責に苦しんでいました。

 そのような苦悩など聴衆は知る由もなく、白だ黒だとざわざわ論じて盛り上がっております。


 アレスの丘は現代的な法廷の建築様式ではありません。

 せいぜい石造りの柱や台座があって、縄を張って聴衆を遠ざけている程度でございます。


 天高く太陽のぼり、三月の温かな風が吹く。

 きっと手弁当や酒を持ち込んでいた不敬な人間や神々もいたでしょうね。


「おいおい、まだはじまらないのか」


「乱暴者のアレスがどんな罰を受けるか愉しみだなぁ、ええおい」


「俺はポセイドンの負けに賭けるぞ!」


 やれやれ、見物人はのんきなものでございます。


「被告人、アレスをここに」


 テミスの言葉に従い、義憤の女神ネメシスが被告人アレスを連行してきました。

 ここで聴衆が色めき立ちます。

 鎖に繋がれた戦神アレスの哀愁漂う美貌が狂おしいほどに美しかったのでございます。


 アレスと申せば、天界でも一、二を争う美男子と名高い方でした。

 ああ、語り部のわたくしは美男に興味は乏しいのですがね、しかし魅力的な美貌に名声を兼ね揃えた者が罪に問われて手枷をハメられ、鎖に繋がれて歩くさまは背徳的な趣がございます。

 乙女と見紛うような美少年を鎖につないで拉致監禁したい、深夜の公園をわんこのように歩かせてみたいというよからぬ願望をお持ちの方もどこかにいて不思議ではありません。


「ああ、うるさいなぁ、もう……」


 アレスはやつれていました。

 義憤の女神ネメシス、彼女は復讐の女神とも呼ばれており、罪に問われたアレスは手酷い取り調べを受けていたのでございました。


 暗くジメジメとした岩の牢屋に閉じ込められて、アレスは裁判の日を待っていたのでございます。


「ボクは嫌いなんだけどなぁ、キミたちみたいな有象無象のゴミカス女どもなんて」


 足を引きずりながら悪態をつくアレスのつぶやいた小さな言葉も虚しく、色めき立つ女神や精霊、そして人間の子女たちは声援を送ります。

 いえいえ、しかし何も美貌だけが理由ではございません。


 彼女らとて外見容姿のみでアレスを好いて応援しているのではなく、確たる理由があったのです。

 アレスの殺人事件の“動機”こそ、その女性人気の真なる源でした。


「被告人アレス、これより汝の罪を問う裁判を執り行います」


「……テミス、何だいこの茶番は。裁判? なんの意味があるの? ボクの首を刎ねてタルタロスの深淵に投げ入れる、それで終わりだろう? 無駄に長引かせて、笑いものにしないでほしいよ」


 アレスの態度はひどく無礼でした。

 しかしテミス様は無闇に咎めはせず、凛として「裁判とは、真実と正義を見極めるものです。はじまる前から結果の決まっている裁判などあってはなりません」と告げ、着席を求めました。


 つづいて、原告側の海神ポセイドンら被害者親族が入廷します。


 さて、この裁判、まだ検事と弁護士といった法制度は確立されておりません。

 それどころか、揉め事があったならば仲裁人や上役が独断で裁定を下したり、それでもまとまらなければもはや石と棍棒、剣と矢で殺し合う他に解決法がなかったのです。


 法律という概念など、まだ神々にも人々にも根づいていませんでした。

 そうした原初的な裁判において、罪を追求する側、検事の立場にあるのは告訴人である海神ポセイドン、その関係者、そして義憤の女神ネメシスでした。


「我、ネメシスは海神ポセイドンの憤りをここに代わって表す。罪を犯せし者、アレス。汝は海神ポセイドンの息子、ハリロティオスを殺害した。これは事実であるか?」


 殺害。

 この言葉の重みに聴衆はどよめきます。

 誰もが事件の全容を知るわけではなかったので噂の真実を求め、やがて皆、静まり返ります。


「……ああ、ボクが殺した」


 アレスの言葉に一気にドッと見物人たちがざわめきます。


「静粛に!!」


 それを制すべく、法の女神テミスは司法の剣で石床を叩き、その激震で大地を震わせます。

 かつて古の神々との大戦、ティタノマキアーで武威を揮った彼女の武力に皆、私語を慎みます。


(……はぁ、先が思いやられます)


 テミスは苦悩を鉄面皮に隠しつつ、アレスに「事実と認めるのですね」と再確認します。

 そうするとそっけなく「テミス、キミにウソをついて騙し通せると考えるほどボクはバカじゃない。ボクを愚弄してるのか?」 と軽く睨みつけてきます。


 その眼差しは昏く、眼光は弱く、それでも恐ろしいものでした。

 負の戦いを司る神のひと睨みに動じぬ調停者など、テミスの他にそうはいないでしょう。


「ポセイドンの息子、ハリロティオスを殺したのはボクだ。ボクに謝罪も反省も後悔もない」


 そう言い切ったアレスの態度に、激怒した海神ポセイドンが怒声を浴びせます。

 大海の支配者の叫びは荒れ狂う大海原のように恐ろしいものでした。


「テミス! 即刻こいつの四肢を割き、タルタロスの暗黒に投げ捨てさせろ! 儂がやる!!」


 三又槍を手に憤るポセイドンを相手に、これまた法の女神テミスは一歩も退きません。

 司法の剣を掲げて、こう言い返します。


「黙れ青二才! ティタノマキア―の折、貴様らの心の臓を貫かずにおいたのはお前たちクロノスの小童どもにも一縷の正義があると見逃してやったまでのこと! 暴力で法を軽んじるというのならば、今ここでお前を刺し違えてでも原初の海ポントスに捧げる贄にしてくれる!」


 冷静沈着で知られる法の女神のキレっぷりに、ポセイドンもアレスも観客も唖然とします。

 その背後には幻視できたことでしょう。

 山をも越える、巨神ティターン神族たち最後の一柱、テミスの巨大なる威容が――。


「……失礼した。テミス、息子を殺されたことで頭に血が昇っていたのだ。裁判を続けてくれ」


 ポセイドンが三又槍を収めた。

 これはとても大きな意味がございました。


『剣無き秤は無力にすぎず、秤無き剣は暴力にすぎない』


 司法とはかくあるべし。

 法の女神テミスを象徴するのは剣と天秤、そのどちらが欠けても正しき裁判は執り行われない。

 こうして世界最初の裁判が開廷したのでございます。

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