A03.冥府の渡り守カロン様とふたりっきりで 2/2
「時にカロン様、この縄をお解きになってくださいませんか?」
「なぜだ」
わたくしは憐憫を誘うように、そして扇情的に、縄で縛られた肢体をよじります。
仮面の美女と川面の上にふたりきりの言わば密室、これで縄に縛られていると来ましたら――。
なんだか興奮をそそるシチュエーションではございませんか。
「手荒い死者の縄遣いが乱雑なせいで手足が痛いのです。せめてカロン様のお手で、やさしく、正しく、わたくしを縛り上げてはくださいませんか?」
「……逃げようという算段ではあるまいな」
「ご心配であれば、翼はそのままで構いませんよ。非力なわたくしがもし暴れたところでカロン様のお力に及ぶべくもなく。まさか、この細腕に万一にも負けるのが怖いということもないでしょう。それに痛がるわたくしを見て楽しむご趣味も」
「うるさい! 縛り直してやるからおとなしくしていろ」
「どうぞ、お手柔らかに……」
カロン様はまず両足首の縄を、次に膝の縄を、最後に両手首の縄を結び直してくださいます。
この一連の作業、慎重に、丁寧に、わたくしのカラダに近づいて行わねばなりません。
ちいさな小舟の船上ですから、軽い密着状態で行うことになるのです。
「んっ、あ、もうちょっとおやさしく……」
「こ、こうか」
「あ、いたっ! カロン様、いじわるをなさらないでくださいまし」
「む、むう」
わたくしは意図的に、ちょっとずつ、嗜虐心をそそるような声で喘いでみせます。
するとカロン様は口では堅苦しいことを申しつつ、次第に興に乗せられていきます。
それはまぁ、無理からぬこと。
わたくしの取り柄は歌――ひいては声にございますれば。
魅了。
そうした魔性を秘めたる美声は旋律にして歌わずとも、ほんのすこしずつ、老若男女神魔人妖を問わず、その心を揺さぶることができるのでございます。
ご清聴くださる皆さまご期待の、わたくしの反則めいた特殊能力にございます。
無論、無条件無秩序に人の心を操るなんて代物ではございません。
されども、ここまで状況が整っているのであれば、カロン様が心の内に秘めた願望にちょっと素直にさせてあげるくらいのことは造作もございません。
つまりは彼女自身、このわたくしに端っからご興味があったというわけで。
わたくし、美女を虜にすることが大好きなのです。鳥だけに。
「カロン様、ああ、カロン様。わたくし、冥府の渡河の船賃を持ち合わせていないことを思い出しました。カロン様はなかなかの守銭奴とお聞きします。連行は命令とはいえ、渡し賃をタダにするというのは守銭奴の名折れと存じますれば、どうかここはひとつ」
朗々とわたくしはささやきます。
まるで歌うように、そう、歌うように。
「このわたくしのカラダで支払わせていただけないでしょうか……?」
ああ、なんとふしだらで妖艶であることか。
わたくし、自画自賛ながらよくもまぁこんな言葉をすらすらと思いつくものでございます。
これを受けてカロン様、大いに葛藤なさっている様子のなんとおかわいいことか。
わたくしはそっとゆるく縛られた両手を伸ばして、カロン様の仮面を取って差し上げます。
するとご覧ください。
泣きぼくろの艷やかな、中性的ながらキレ長の目つきが麗しいカロン様のご尊顔がそこに。
厳しく容赦なく死者に渡し賃を払わせる彼女の顔つきは今やほんのり紅りんごの色づきに。
魅了と理性のはざまにぐらついていらっしゃる様子。
ああ、たまりません。
仕事熱心なカロン様をわたくしのふしだらに誘い堕とすこの愉悦ときたら。
このまま理性にすがって誘惑を断ち切ったとしても、魅了されてやまないわたくしと交わる好機を逃したことに悶々として後悔することを思えば、それもまた愉悦。
されどもやはり一番はコロッと籠絡せしめ、一時の戯れに興じることにございましょうや。
わたくしはじっくりと縄に縛られた肢体を魅せつけ、カロン様のお答えになるのを待ちました。
「渡し賃は銀貨一枚と決まっている。それ以外はまかりならん」
「なるほど、カラダで支払うのは規則に反する、そうおっしゃるのであれば――」
わたくしは悪戯げに微笑んで、縄のゆるんだ両足をもじもじとすりあわせます。
魅了、誘惑、妖鳥の十八番と心得ますれば、自信たっぷり余裕しゃくしゃくと魅せつけて。
「どうかわたくしにカロン様の銀貨一枚をお恵みあれ。それで支払えば規則に反しませんよね」
「う、ぐ。あ、ああ、規則には反しない……」
おや、墜ちましたか。
きっとお仕事お仕事と生真面目に渡し船と金勘定の日々に退屈していたのでしょう。
秘めた願望に素直になってくださったカロン様はわたくしと一時お戯れになってくださいました。
その一部始終をわたくしが語るのはこの場ではご勘弁を願いたく。
とかく、こうして行く先々で自分好みの愛しく麗しき人々を誘惑するのはわたくしの生き甲斐でありますので、もしも地獄の牢獄タルタロスに閉ざされるならよい思い出作りになりました。
堅物のカロン様がわたくしの手玉にとられるがまま求めてくださることの何と愛しいことか。
手足翼を縄に縛れたわたくしを、カロン様は心ゆくまでイジメてくださいました。
冥福、冥福。
え? 冥福ってのはそういうこっちゃない? ご冥福をお祈りしますはエロい意味ではないと。
わたくし忘れっぽい性分ですが、覚えている限りはおぼえておきましょう。
「はぁはぁ……約束の、銀貨一枚だ」
カロン様は冷たい銀貨をわたくしの豊満なる鶏むね肉、もといお胸の上に置いてくださいます。
「ぴゃっ!」
とわたくしの火照ったカラダには少々温度差がありすぎて、思わず艶声を漏らしてしまいます。
ああいえ、今のは半分はわざとですがね。
両手首をまだ縛られているわたくしは胸上の銀貨をそっと舌と唇でつまみ、カロン様へ口渡し。
お互いの舌と舌で冷たかった銀貨を温め、きちんと受け渡しました。
一時の戯れ。
嘆きの川の静けさに、わたくしとカロン様の余韻さめやらぬ息遣いだけが隠れて響きます。
「これでお前は弱みを握ったわけだ。ハルピュイアのカラット、わたしに何を望む?」
カロン様はお乱れになった髪や衣服を整えながらそうおたずねになります。
あれだけ情熱的に盛っておいて、冷静になり急に格好つけはじめる滑稽さがたまりません。
はぁ、すこぶるかわいいカロン様。
しかしはてさて。わたくしはこてんと小首を傾げて、肌蹴たままのいでたちで答えます。
「え? 弱み?」
「……色仕掛けの魂胆は何だと聞いているんだが」
「あやや、あややや」
わたくし困ってしまいました。なにやら大きな誤解がある様子で。
「わたくし、ただ貴方様とヤリたかっただけでございますけど」
「本音を言え!」
「お疑いならば、この純粋な目をじっとご覧ください」
そう申し上げて、わたくしはじっと誠心誠意、性心性意を込めてカロン様を見つめます。
いわゆる目がハートにございます。
「……疑って悪かった。確かにお前は今、純粋にエロいことしか考えてないようだな」
「ええ、わたくし、カロン様を軽ん《カロン》じてなどおりませんとも!」
「つまらない洒落をよくもまぁぺらぺらと」
カロン様はあきれつつ、また船を漕ぎはじめます。楽しい時間はあとわずかのようです。
「もしまた渡し船に乗る日がきましたら、次もどうかわたくしに銀貨をお恵みくださいな」
「このおしゃべりエロバードめ」
カロン様の一言の何と辛辣で痛快なことか。
当人は照れ隠しのつもりでしょうが、わたくし、心にグサッと罵倒の矢が刺さりました。
ああ、でもこれはこれでゾクゾクと鳥肌の立つような被虐心をそそる快感が……。
はぁ、ツンケンしてるカロン様も麗しゅうございます。
そーこーしてる間に嘆きの川の船旅は早くも終わり、やってきました冥府の城へ。
この先に待ち受けるのは冥府の神々のお裁きなるか。
わたくしカラットは心胆を冷やしつつ、カロン様に見送られて冥府の城に入るのでした。