C07.雪風の涙
◇
霊魂のみで活動する、というのはじつに不思議な心地でございます。
地上に舞い戻ってすぐに感じたのは、冥界と違って、ここでは肉体がなくては“感覚”というものがうまく働かないのでございます。
物事を目にして耳にすることはできても何かに触れるものができません。
冠雪山麓都市ボレアポリス。
その名の通りに雪に覆われた街の真っ只中にあって、ちっとも寒くないのです。
大通りを往来する住民の誰もがわたくしとエリス様の、実態なき霊魂を見ることができません。
「……にゅあ」
ネコです。
野良猫です。
ああ、よく動物は見えないものが見えると申しますが、野良猫には見えているのでしょうか。
黒い野良猫がこちらをじっと興味深そうに路地裏から伺っております。
「あーあ、ボクらを見ちゃったからには殺すしかないねー、かわいそーに」
「何をおっしゃる邪神さん!? 冗談が過ぎます!」
「もう燃やしたけど」
エリス様の掌をかざした先には跡形もなく焼け焦げた灰だけが残っておりました。
なんと、わたくしが驚いてエリス様の方を見やった一瞬のうちに野良猫は焼却されたのです。
エリス様は楽しげになさるでもなく、視線はもう大通りの方に向いておられます。
「にゃ、……にゃんてことを!!」
「うわ、すぐそうやって愛玩動物を贔屓するんだから。ん、あ、そっか。今のはボクの説明不足か」
エリス様は掌に黒い炎を滾らせて語るのですが、そのさまを通行人の誰も気にしません。
突如として焼死した路地裏の野良猫についても、誰も気づきません。
「今のは使い魔だよ。魔術師なり何なりが使う定番の偵察手段でね、キミの起こした一連の騒動を様子見しようと誰かが操ってたのさ。跡形もなく消えちゃったのは実体がない証拠」
「つ、使い魔……」
エリス様の仰る証拠をより定かにするのは積もった雪の上に猫の足跡がないという事実です。
実体のない使い魔であったがために、雪の上に物質として触れた痕跡がないのでございます。
「実体のある動物を操る時もあるけど、どっちだろうと鬱陶しいから消すに限る」
「そんな殺生な!」
「そりゃーボクは殺生を司る神様だもん。……あ、でも今のヘカテーの使い魔だったかも?」
「ヘカテー様!? 冥界のナンバー3ではございませんか!?」
「気にしない気にしない。あの魔女神の使い魔なんて一匹見つけたら三十匹は隠れてるんだから」
「黒光りする名伏すべきアレみたいに仰るのはおやめください!?」
「あにゃははは! ……さてカラット、キミの死体を探そうか」
エリス様は黒翼を力強く羽ばたかせます。
するとわたくしの左胸――心臓のある位置から一直線上に光の糸がどこかへ伸びて見えました。
「生命の糸だよ。キミの死体と霊魂をまだ結びつけているんだ」
「では、この先にわたくしの遺体が!」
「急ぐよ、ボクの手を離さないで!」
「わわわっ!?」
エリス様は地上までのお姫様抱っこにつづいて、今度はわたくしの腕をがしっと掴み、雄々しく黒翼で羽ばたいて大通りを突っ切ります。
飛矢より速く、わたくしが自力で飛ぶより十倍は速く。
わたくしは振り落とされぬようにと、自らの手でエリス様の褐色の細腕を掴み返します。
何十人、何百人という町人とほんの十数秒のうちにすれ違い、後方へ遠ざかっていきました。
「到着! ……ん、なんだこりゃ」
いざ死体の元へ辿り着いた時、エリス様はその不可思議な光景に驚かれていました。
わたくしとエリス様の眼前に立ち塞がるのは猛吹雪にございます。
ペガサス三騎兵と戦ったボレアス神殿前の広場は凄まじい雪風が暴れ狂い、その激しさに見物人も追い払われて姿はなく、わたくしの遺体を守る白銀の城壁を形作っていたのです。
「……パティ?」
雪風の精霊クレオパトラ様。
彼女以外の誰がこの雪風を操り、わたくしの亡骸を守ってくださるというのでございましょうか。
「カラット! 何かいる! 凄いボクのこと睨んでる気がする!」
「エリス様、ここでお待ちください。わたくしひとりであれば彼女は通してくれるはずですので」
「……どゆこと? 知り合い? じゃあボク味方だって教えたらそれでよくない?」
小首を傾げ、頭上に疑問符を浮かべるエリス様。
ここまで運んで頂いた親切と、とても胸躍る興奮の余韻に浸りつつ、エリス様にこれを説明せねばならない申し訳なさにわたくしは軽くため息をつきました。
「親切なオオカミに助けられたとして、子ヤギが母ヤギにこの人だよって紹介できますか?」
「ボクのこと気遣った例え話をありがとう! ボクみたいな嫌われ者が一緒じゃ説明がめんどくさくなるからついてくんなってことだね! そうだね!!」
聞き分けのいいことにエリス様はぎゅっと掴んでいたわたくしの腕を離してくださり、猛吹雪の向こう側へと送り出してくださいました。
少々心苦しいのですが、やむをえないとご理解くださって助かりました。
『あ、クレオパトラ様! こちら災いの母にして殺戮の女神で戦争の神であらせられるオリュンポス十二神で一番嫌われてるアレス様でもある争いの女神エリス様でございます!』
なんて説明をしたが最後、事情説明が長引くのは必至。
しかもクレオパトラ様は思い込んだら一直線なところがあるので誤解が解けるまで無駄なドンパチが生じかねません。ふたりの出逢いのきっかけがそうでしたからね。
気を取り直して、わたくしは生命の糸を手繰り、猛吹雪の城壁をすり抜けます。
霊体のわたくしは凍てつく吹雪に冷たいと感じることもなく。
雪のかまくら。
積雪を固めたドーム状の穴ぐらの中にわたくしの遺体、そして傍らに氷翼の乙女が在りました。
千切れたはずの我が首、手足は氷雪を包帯代わりにして胴体に繋ぎ止められておりました。
「カラット……ごめん、ごめんね」
ポロポロと。
雪風の精霊クレオパトラ様の涙が頬を伝い落ちるたびに、凍てつき、青い宝石に変わります。
わたくしの亡骸のそばには涙の氷粒が十や二十どころではなく散らばっているのです。
彼女もまた神霊、死後に精霊となった者。
一声かければわたくしのことに気づき、見聞きできるはず。でも。
彼女を悲しませてしまった申し訳なさ。
彼女が悲しんでくれる有り難さ。
わたくしのちっぽけな心に到来する、言葉にしきれない熱い情念の整理に深呼吸を要しました。
ほんの少しだけ、もう少しだけ。
わたくしのために泣いてくださる愛しい人の顔を、味わい、眺めていたい。
ああ、卑しくも後ろ暗い我が心。
エリス様の仰っていたように、なるほど、わたくしは愛されたくて仕方ないのでしょう。
愛されるより真に愛することを望むならば、きっと、一も二もなく、クレオパトラ様の涙を止めて差し上げたいと声を掛けることをためらなかったはずなのです。
……いつまでもこうしては居れません。
己の醜き心を、浅ましき心を、ここに在りと認めることに致します。
バカの考え休むに似たり。
心のもやもやを思い悩むよりもまず、この凍てついたカラダを蘇らせなくては。
そしてクレオパトラ様の涙を止めて差し上げることです。
たとえ、その涙が悲しき愛の宝石だとしても、まばゆき笑顔の輝きには及ばないと心して。
毎度お読みいただきありがとうございます。
おかげさまで観覧数が5000PVに届きつつあり、当方の過去作に比べると勢いを感じております。
なるべくは毎日更新ができるよう励みますので、今後とも、どうぞご贔屓のほどよろしくお願い致します。
それにしてもこの暑い中ずっと雪風や地底といった冷たいひんやりした舞台ばかりです。
順調に連載がつづけば、いずれポセイドンをはじめとする海の神のおはなしで水着回と洒落込みたいところですが、真冬の連載時期にバカンスするカラットを見ることになるやも。