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C03.カラットという名の“卵の殻”

 ニレの樹というものをご存知でしょうか。

 ニレとぶどうは仲良しこよし、良縁の象徴だとされております。


 ニレという広葉樹は古来、ぶどう畑でいっしょに育てられてきました。この樹木を支柱としてぶどうの蔦を絡ませて育てるのでございます。

 とある高名な詩人をして「楡はブドウを愛している。ブドウも傷ついた楡を見捨てない」と謳ったほどにブドウとは縁が深いのでございます。

 ブドウの果実はワインに、ワインは血の象徴とされます。


 そしてここ冥界に一本、とても巨大なニレの木が生えておりました。その巨木ぶり、地底の天井にまで届かんばかり。燦々と地上から注ぐ裂け目の陽光を緑葉で浴びております。


「この木ニレの木ふしぎな木……いやぁ、ご立派すぎますね」


 ぷるぷると頭を振って川水を払いのけ、わたくしはニレの巨樹を唖然と見上げております。

 その無数にある枝葉のひとつに人影がありました。

 水鏡の向こう側に見えた、あの黒翼の幼き女神その人でございます。


「あはははははっ! いつまでぽかーんとしてるのかな? 早くこっちに来てよ、このボク様がわざわざ待ってあげてるってのに~ぃ」


 うわ、ボク様ですって。

 きっと偉いんでしょうけど、それにしたってボク様はないでしょう、ボク様は。


 このニレの巨樹を我が物顔で専有する黒翼の女神が凡百の精霊や神々でないことは明白なのですが、それにしたってなんという生意気ぶりでしょう。

 ……あ、でもこれはこれでわたくし嫌いではありません。

 小憎らしさに愛くるしさが重なって、甘いだけでない酸味の効いた果実のような魅力です。


「は、はい、ただいま参ります!」


 遥か高くの樹上にいる黒翼の女神を目指して、ばさばさ飛んで辿り着きます。

 近くに寄ってみれば、ニレの巨樹にはぶどうの蔦が纏わりつき、果実が実っておりました。


「はーむ♪」


 ぶどうの果実を皮ごと食み、舌でもむもむコシて、んべっと吐き出される黒翼の女神様。

 ぱったぱたとサンダルを履いた生足を跳ねさせ、どうにも落ち着きがありません。

 わたくしがそばに辿り着けば、枝葉がイスやベッドを形作って快適な居場所を用意してくれます。


「カラット・アガテール。それが今のキミの名前だっけ? あにゃははははっ、へんぴょこな名前だね! ボクそれ好き~、クソダサくていいよね!」


「むむむ、ほめられてる気がしません」


 むくれっつらしてみせたわたくし相手に、黒翼の女神は嘲り笑います。

 子犬みたいに尖った犬歯を見せつけて。


「わー賢い! バカにしてるってちゃんとわかるんだ? あにゃはははははっ!」


「ぐぬぬぬぬぬ」


「はーあ、でも言い返さないんだ。それつまんない。もっと口汚く争い合おうよ? 口は災いの元、災いは愉悦の種なのにさ、えにゃははは!」


 だぼだぼに余って指先まですっぽり覆い隠した黒衣の長過ぎる袖をパタパタと振る女神様。

 わたくし、この小うるさいおしゃべりっぷりもなにか親近感をおぼえてなりません。


「でさ、キミさ、ボクのこと忘れちゃったんだっけ?」


「忘れるも何も、わたくしにとってみれば覚えている方が不可解なのでございます。前世だなんて言われたって、その前世の記憶がちっとも思い出せないのですから」


「……本当にぃ?」


 まっすぐに見つてくる黒瞳。

 わたくしは沈黙した黒翼の女神の問いかけに、強く動揺させられてしまいます。

 ウソを見破られてしまったからです。


「ウソつきカラット。虚言はボクの子だから嫌いじゃあないけどさ、何をボクに隠してるの?」


「あなた様の名前を、わたくしはもう思い出している……ということを」


「じゃ、答えてみてよ。不正解だといいね、あはっ」


 目を細めて、じっくりとわたくしの言葉を待ってくださる黒翼の女神。

 彼女の名は――。


「エリス」


 によによと見守る黒翼の女神――エリス様。

 彼女の不可思議な振る舞いや姿容も正体を思い出せてしまえば、納得いくものでした。


「殺戮の女神エニューオー、争いの女神エリス、そしてオリュンポス十二神の一柱、戦いの神アレス。これらすべてがあなた様の名でございます。……違っていることを祈るのですが」


「残念、大正解♪」


 あどけなく、いえ、あくどく笑ってみせる黒翼の女神――エリス様。


 彼女がエリス様その人であることがいかにわたくしにとって最悪であることか、皆さまには今ひとつ、ピンと来ないでしょう。


 彼女こそ、地上の人間たちに一番に嫌われた最上位神にしてこの世の数多の災いの母、そして天帝ゼウスの“嫡男”として次世代の最高神と目されるトリックスター。


 飢餓、忘却、戦争、戦闘、殺害、殺人、紛争、虚言、空言、紛争、破滅、それら災いの母。


 あまたの蛮族の生みの親。ラミアやワーウルフ、アマゾネス、有翼人のルーツ。


 ペルセフォネ様をはじめとして冥府の神々は、地上の生命をみだりに死なせたりはしません。

 なぜならば、彼女こそが地上の生命を死へと導く役目を司っているからです。


 戦争と殺戮。

 不幸と災い。


 およそ地上の人間にとって彼女ほど悪辣な神はいないでしょう。


「あにゃはははははっ! ボクに恐怖してるの? いいねェ、血が滾るなぁ! それとも記憶の断片を思い出せちゃったってことの残酷な意味に気づいちゃったァ? あーあ、賢いと損だね!」


 エリスはおなかを抱えてバカ笑いしてみせます。

 ぶどう色に黒っぽく染まった舌を晒して、哀れでかわいい小動物の失敗を笑うのです。


「カラット、キミって“卵の殻”なんだよ? キミが死ぬたびに、キミの奥底に眠っている本当のキミ、疾風の女神アエローの目覚めが近づく。ひよこが生まれる時、卵の殻ってのはどーなる? ねえ、どーなる? あにゃはははあはっ!」


「……わたしが、卵の殻、でございますか」


「砕けちゃえば卵の殻なんてゴミとして捨てられる。ひよこでも目玉焼きでも、大切なのは中身でしょ。それなのにキミってば、素直にペルセフォネの口車に乗せられちゃってバカわいいよね!」


「なっ、ペルセフォネ様のことを悪くおっしゃらないでください! あの方は……!」


 争いの女神エリス。

 不和と争いを司る彼女の口車に乗せられて、時には神々さえも争い合い、地上には戦乱がもたらされたと言い伝えられております。

 彼女がわたくしのペルセフォネ様への不信感を煽ろうという狙いは見え透いております。


 しかし、根も葉もない嘘八百でないと心のどこかでわかってしまいます。

 不和と争いは必ずしも、虚偽虚言のみから起こるわけではないのですから。

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