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<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

婚約破棄された日に攫われた私。次の夫は鉄仮面、しかも子持ち。

作者: おもちDX

 

「ロゼッタ、婚約は破棄だ」


 公爵子息であり、私の婚約者だったエドガー・レヴォン様が告げる。


 驚きはない。

 遅かれ早かれこうなる気はしていた。


 彼は女癖が悪い。私が婚約者としてこの家に入った次の日には、女を連れ込んで遊んでいた。


 もちろん頭は真っ白だ。


 あれ?私、この人と結婚するのよね?──そう何度も反芻した。


 さりげなく注意したこともあったけれど、改善はない。数えることが馬鹿らしくなるほど愛人を作っているし、屋敷の中で顔を合わせて気まずい思いもした。


 捨てられるのも時間の問題だと、心の準備はしていた。


 それでも、理由ぐらいは確認しておこう。


「随分急な話ですね。理由を訊いても?」


「なぁに、深い理由はないよ。君よりいい女性が見つかっただけさ。紹介しよう。さあ、入ってくれ」


 エドガー様が合図する。

 扉が開き、胸元が主張する真っ赤なドレスを着た女性が入室する。


 彼女はエドガー様の隣に位置取ると、私に向かってほくそ笑んだ。


「なるほど、八番ですか」


「何か言ったか?」


「いえ何も」


 私はエドガー様の浮気相手に番号を割り振っていた。


 きっかけは、メイド達。

 主の浮気相手であっても番号で呼称すれば、噂話や悪口を言ってもバレる危険性が格段に減るのだそう。


 いくら奉仕を生業にしている彼女らといっても同じ人間。ストレスを解消するための苦渋の知恵ね。


「お綺麗な方ですね」


「ありがとう。あなたは普通ね。でももうエドガー様に惨めな思いはさせないから安心していいわよ。これからはわたくしが隣を歩くんですもの」


 おい。私はつい数分前まで隣の男の婚約者だった女だぞ。

 愛しのエドガー様が見る目のない人だって言ってるのと変わらない気がするのだけど、いいのかしら。


 ……まぁ、満足そうだからいいか。


「エドガー様。最後にお聞きしたいのですが」


「なんだ」


 エドガー様と目が合う。

 出会った頃は恥ずかして合わせられなかった青い瞳。たった数年で、こうも好意が消失するなんて思いもしなかった。


「私と過ごして楽しかったですか?」


「どうだったかな。僕は過去を振り返らない主義でね。もう忘れてしまったよ」


 エドガー様は数秒考えてそう答えた。




 ☆




 私は十七から三年間お世話になったお屋敷を振り返った。


 見送りもなければ、お別れの挨拶もない。

 このお屋敷で結構な数の人と関わったはずなんだけどな。

 せめて、身の回りのお世話をしてくれたメイドや美味しい食事を作ってくれた料理長ぐらいには一言お礼を言いたかった。


 玄関先の馬車が視界に入る。


 今日、来客の予定なんてあったかしら?

 ううん、もう私には関係ない。


 これでも幸せを手に入れようと努力してきた自覚はある。


 彼の要求には極力『No』を言わず、慣れないパーティーにも全て顔を出すのは当たり前。顔を顰めたくなるような大胆なドレスにも文句をつけずに我慢した。


 商談相手と口論になって破談した時は後の利益を考えて謝罪に遣わされたこともある。


 外出先であってもところ構わずベタベタしてくるし、断れば機嫌が悪くなってしばらく相手にしてくれない。


 全ては幸せになる為。


 私が我慢していれば、私が不満を言い返さなければ、彼は羽振りいい態度を周囲にばら撒く。


 結婚とはそういうものだ。

 片方が我慢すればことは収まるべくして収まる。


 でももうそんな苦労もしなくていいのよね。心なしか気が楽になったわ。またド田舎の子爵令嬢に戻るだけ。ちょっとした寄り道をしちゃっただけと考えれば大したダメージにはならないわ。


「ロゼッタ様ですね」


「そうですけど……」


 馬車のそばに立っていたメイドらしき女性が声をかけてきた。


 初めて見る顔。氷で固めたような表情が少し怖いかも。


「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」


「へ?」


 ガシッと腕を掴まれた。

 とても振り払えるような力の強さじゃない。


「あの……ちょっと。手、引っ張らないで……」


 弱々しく嘆いて、私は馬車の中に無理矢理連れ込まれた。


 この強引な感じ。これはいわゆる拉致というやつでしょうか。人攫いって随分堂々と行われるのね。


「メイドさん、質問してもいいですか?」


「アンナです」


「アンナさん。私、どこに連れていかれてるのでしょうか?こういってはなんだけど、ついさっき婚約を解消されてただの小娘に落ちぶれた女ですよ。箔はすっかり剥がれたと思います」


「そんなことはありません。ロゼッタ様の髪は艶やかでお顔も小さく、思わずキスをせがみたくなる色っぽい唇をお持ちです。特にそのお胸。私からは申し上げませんが、世の中の男が放っておくわけがありません。あなたは素敵です」


「あ、ありがとうございます……」


 なんで初対面の人に容姿を褒められているんだろう……。

 というか逃げられるかな?走ってる馬車から飛び降りたら間違いなく怪我するだろうけど、こうなったらしかたない。


 せーのっ……


「痛っ!」


「開かないように鍵をかけています」


「先に言ってくださいよ。大事な商品に傷が付いたら大変でしょ」


「商品?」


 豪快にぶつけた頬を労りながら言う私にアンナさんは首を捻った。


「もしかして聞いてないのですか?ロゼッタ様は今からエヴリル公爵邸に行き、当主であるアスラン様の妻になっていただきます」


「……ちょっと待ってくださいね。夢かどうか確認するので」


「頬をつねらなくてもさっき痛いのは確認したじゃないですか」


「あっ、そっか」


 アスラン様とは面識がある。

 あれは確か、エドガー様との婚約パーティーの時だ。


 真夜中のような黒い髪と、蜂蜜色の瞳が印象的な青年。

 物静かな性格で、一言二言喋って会話が途切れたような気がする。

 表情も読めず、何を考えているのか分からなかった。

 あまり得意なタイプではないな。


 ……って、冷静になってる場合じゃない!


「私、降ります!もう誰かと結婚とか婚約とかしたくない!面倒くさすぎておかしくなっちゃう!自由!自由を私に!」


「お止め下さいロゼッタ様。馬車が倒れたらどうするんですか」


 鍵!鍵はどこ!?

 アンナさんが持ってるのね。あの胸ポケットの影が怪しいわ。


 私はアンナさんに襲いかかった。

 揉み合いになるけれど、彼女は私の手を俊敏な動きで躱し続ける。


 すると、「仕方ありませんね」と聞こえた気がして。


「うっ」


 首の辺りに強い衝撃が走る。

 意識がどんどん遠くなっていく。


 今のって手刀?

 私が住んでたお屋敷にはそんな特技持ってた使用人はいませんでしたけど……?


 ああ、ダメだ……視界が真っ暗に。


 私の意識はそこで途切れた。




 ☆




「ここは……」


 目が覚めると知らない天井に見下ろされていた。

 体を起こした私は、首の鈍い痛みで記憶を蘇らせた。


「絶対ここエヴリル邸だわ……私のカンがそう言ってる。どうしましょう、本当に来ちゃった。いや、ぶち込まれた。私にとってはとんだ牢獄よ」


 ガチャ──。


「お目覚めですか、ロゼッタ様」


 扉が開いて、アンナさんと奥からスラリとした長身の男性がやってきた。

 三年前と変わらない印象のエヴリル・アスラン様。


 やっぱり苦手なタイプだ。


「先程は手荒な真似をして申し訳ありませんでした。しかし、暴れたロゼッタ様にも責任はあります。次は気をつけて下さい」


「次があるなんて考えたくない……」


「ロゼッタ」


「ひゃい!」


 透き通った声で名前を呼ばれる。慣れない声色に背筋が伸びた。


「子供は好きか?」


「子供ですか?嫌いじゃないですよ。仲の良かったメイドのお子さんと何度か遊んだこともありますし、自慢じゃありませんが、レヴォン家が支援している孤児院に行った時にはそれはもう人気者です。お姫様になった気分でした。……それがなにか?」


「いや、よく分かった。突然連れてこられて混乱しているだろう。だが慣れてもらうしかない。今日からここが君の家で、俺が夫だ」


 その言葉で私がアスラン様の妻になるのが嘘じゃないのだと実感した。


 頭を抱えたくなる。

 数時間前に晴れて私は自由の身になったんじゃないの?

 もう誰かの駒のように使われるのは嫌。取り返しがつかなくなる前に行動は起こすべきよ。


「あの!ちょっといいですか!──って、もう居ないし!」


「アスラン様ならご予定があるので出ていかれましたよ」


「そうですか……公爵様は忙しいですもんね。知ってます知ってます」


 アスラン様がいなくなったからか、体の力がフッと抜ける。彼には周囲を緊張させる不思議なオーラがある。長時間同席したら体の節々がバキバキになりそうだ。


「何かお飲みになりますか?果物もすぐに用意できますが」


「結構です。今はひとりにして」


「承知しました。何かあれば私か、近くのメイドにお申し付けくださいませ」


 部屋に一人残されると、途端にしんとする。

 私はベッドに倒れ込み、体を丸めた。


 アスラン様の妻になるなんてエドガー様を相手にするより難易度が高い。彼の相手をする時は笑顔を作っておだてていれば表面上は上手くいく。けれど、アスラン様はどうだ。私が笑えば微笑み返してくれるだろうか……。全く想像出来ない。




 ☆




「ここがアスラン様の執務室ね。まったく、どうして公爵様のお屋敷はこうも部屋の数が多いのかしら。壁に穴を開けて繋いじゃえばいいのに」


 メイドから聞いてやっとたどり着いたアスラン様の執務室。


 アスラン様には悪いけど、ちゃんと断らなきゃ。

 泣いて懇願すれば、私の気持ちも伝わるはず。


 コンコンコン


 ノックをして入室の許可を待つ。


 ……ん?反応がない。


「留守?メイドにアスラン様の今日の予定も訊いておくんだった」


 ふと、ドアレバーに手を伸ばす。

 軽い引き心地でこちら側へ扉が開いてしまった。


「うそ……開いちゃった」


 そっと中を覗く。執務机や応接用のソファーの上にも姿はない。

 これはもう行くしかない。


 廊下に人影がないことを確認して、素早く部屋に忍び込む。


「散らかってる。ちょっと意外かも」


 アスラン様の机の上を見て驚いた。乱雑に散らかった書類と分厚い書籍が塔のように積まれている。

 整理整頓には余念が無さそうなのに、子供っぽいところもあるのね。


「大切なものでしょうに。仕方ないわね」


 私は倒れていた写真立てを起こした。

 写っていた人物に思わず二度見する。


「この写真……私とアスラン様!?」


 近くで見ても間違いなくロゼッタ(わたし)だ。

 エヴリル邸を背景に微笑む私と無表情のアスラン様。


 でも、どうして私とアスラン様が一緒に写ってるの?

 こんな記憶はどこにもない。写真の中の私が着ているドレスも初めて見る。


「何をしている」


「アスラン様!?どうしてここに!?」


 振り返った先にいたのは、今絶対に居合わてはいけない人だった。


「自分の執務室ぐらい自由に使わせてくれたっていいだろう」


「そ、そうですよね……あはは」


 アスラン様は私が持っていた写真に気づいた。

 呆れて大きなため息を吐く。

 しかし、咎めてはこなかった。


「わざわざ執務室まで来るなんて、何か大切な用でもあるのか?」


「ああ……えっと、お茶でもご一緒にどうかと思いまして……」


「お茶?」


 私ったら咄嗟にお茶だなんて。

 まぁ、問題ないでしょう。

 お日様の下、楽しくお茶をする趣味があるようには見えない。


『今は忙しい。また今度にしてくれ』


 微動だにしない表情で言うアスラン様が容易にイメージできる。


 ここは一度退散して体制を整えるのよ。

 部屋に忍び込んでひしひしと感じてる罪悪感が消えてからでも遅くないわ。

 諦めるなロゼッタ。


「お茶か。またにはいいかもしれないな」


「へ?」


「ちょうど君に会わせたい人もいる。ここは散らかっていてあれだから外にしよう。庭にいい休憩場所があるんだ」


 私が思ってたのと違うんですけど。

 この公爵様、お茶にノリノリなんですけど。




 ☆




 上級貴族特有の広大な広さを持つ敷地。

 その隅にドーム屋根の白いガゼボがあった。


 ──カチャ


 ソーサーとカップが擦れる。

 淹れられた紅茶が目の前に運ばれた。


「ありがとうございます」


 私は困惑気味にお礼を言った。


 紅茶を淹れたのはアンナさんではなく、アスラン様だった。

 彼は目の前に座り、湯気が漂うカップに口を付け、吟味するように目を閉じる。


 ゴクリと一口飲み終えると目が合った。


「そんなに見ないでくれないか」


「あっ、ごめんなさい。少し意外だったものですから」


 フー、フーと紅茶を冷まし、慎重に口に含む。

 言葉遣いやマナーはレヴォン家の教師によって矯正できたが、この猫舌だけは直らなかった。

 癖で熱い飲み物には息を吹きかけてしまう。


 アスラン様の視線に気付き、私はハッとして口を押さえた。


「すみません、つい癖で」


「気にしなくていい。それより、味はどうだ?」


「とても美味しいです。けど、ちょっと苦いかも」


 私は正直な感想を伝えて角砂糖を入れる。

 レヴォン家にいた時は、全てがエドガー様の好みに合わされる。砂糖やミルクを自由に使えるのはひとりの時だけだった。

 でも、今はもう自由にお茶を楽しめる。


「甘くて美味しいです!」


「そうか」


 アスラン様の口元が緩んだ気がした。

 私はカップをソーサーに戻す。


「そういえば、私に会わせたい人というのは?」


「そろそろ来ると思うんだが」


「アスラン様」


 アンナさんの声がした。


 まさか会わせたい人ってアンナさん?

 ちょっと待って下さいよ。私を迎えに遣わせた人ですよ?おまけに手刀まで浴びせられて、最早、そこら辺の人より深い仲と言えます。

 そんな人を改めて紹介するってまさか……二人はデキてるの!?主人と従者が関係を持つなんて世間的には許されない。

 なるほどね。私は二人の関係を隠すための見せかけの妻ってことね。


 あー、ハイハイ。私には脇役がお似合いですよ。


「お嬢様をお連れしました」


「お嬢様?」


 不貞腐れた私の視線は急降下して、アンナさんの手を握る小さな少女に釘付けになった。


 目が合うと、女の子はビクッと体を跳ねさせてアンナさんの影に隠れる。


 か、可愛い〜っ!

 今の仕草なに!?小動物みたいでキュンキュンしちゃうんですけど!?

 今もアンナさんに隠れてチラチラ私のこと見てきてる。蜂蜜色の瞳が綺麗で──蜂蜜色?


「アリーシャ、こっちに来なさい」


 アリーシャと呼ばれた女の子は、アンナさんの手を離した。早歩きでアスラン様の元に行くと、両脇を抱えられて、膝の上に乗せられる。

 私と顔を合わせるのが嫌なのか、体のほとんどがアスラン様の方を向いている。


 あっ、やっぱりだ。どこかで見たと思ったら。

 アスラン様と同じ瞳の色。


「紹介しよう。娘のアリーシャだ」


「娘……もうやることまでやってたなんて」


 いけない。予想を遥かに超えた事実に目眩がする。アスラン様がメイドに手を出すような人だったなんて。


 紅茶を一口頂いて落ち着こう。


 いや、落ち着けるか。もう甘いのか苦いのかも分からなくなってる。味覚おかしくなっちゃった。


「アンナさん。何があってもお金だけは払ってもらいましょう。相手は公爵です。お金なんて無尽蔵にありますし、どうせ地下に秘宝の一つや二つ隠してますよ」


「勘違いしないでください。お嬢様は私の子ではありません。アスラン様とビオラ様の間に産まれた、正真正銘、なんの濁りもない公爵令嬢にあらせられます」


「えっ、そうなの?なら安心ね。うん、紅茶も美味しくなったわ」


 あー、よかった!

 そうよ。アスラン様がむやみやたらに手を出す訳ないじゃない。

 それにほら、思い出してみて。

 パーティーで会話した時だって、まともに続かなかったんだから。男女の関係に至るまでに幾つ壁があるのかを考えたら、そうそうたどり着けるものじゃない。


「……ビオラ様?」


 初めて聞く名前に私は首を捻った。

 嵐のように襲いくる情報量に一息入れる暇すらない。


「説明は俺からしよう」とアスラン様。


「執務室にあった写真を見ただろう」


「……はい」


 アスラン様からすぅーっと視線を逸らす。

 これでも悪い事をした自覚はあります。


「君によく似た女性だが、彼女がビオラだ。俺の前妻にあたる」


「前の奥様……それを聞いて少し安心しました。私、記憶喪失にでもなったのかと」


 世界には同じ顔の人が三人はいるという根拠の無い説がある。馬鹿馬鹿しいと鼻で笑っていたのだが、本当に存在してるとは思わなかった。誰が言い出したのか分からない噂も案外馬鹿にできないのかも。


「それにしても、アスラン様がご結婚なされてたなんて知りませんでした」


「俺には勿体ないぐらいできた女性だった。……二年前に事故でな」


「えっ」


 アスラン様のシャツを掴むアリーシャの手に力が込もる。


 二年前となると、私と初めて会った時にはもう……。そんなの辛すぎる。アリーシャはまだ幼い。アンナさん達メイドが上手くやってるんだろうけど、彼女らはあくまで仕事だ。踏み込めない部分がほとんどだろう。


「……分かりました。アスラン様の妻になる話、お受けします」


「すまない」


「謝らないでください。私も納得の上ですから」


 私はアリーシャの前で屈み、頭を撫でた。


「これからよろしくね、アリーシャ。アスラン様のことはなんて呼んでるの?」


「お父様」


「じゃあ私はお母様がいいかな?」


 アリーシャはゆっくりかぶりを振った。

 いきなりは厳しいか。まだ会って数分だもんね。


「じゃあ、ロゼッタがいい?ロゼって愛称で呼んでくれても嬉しいな」


「ママがいい」


 驚いた私はアスラン様に目配せする。

 アスラン様もしばらく固まっていたが、やがて私に向かって何度か頷いた。


「ダメ?」


「ダメじゃないよ。むしろ嬉しい」


 私が微笑むと、アリーシャも僅かだけど頬を緩めてくれた。


 あぁ、やば。可愛すぎて心臓止まりそう。

 この子が今日から私の娘ですって。下手したらおはようからおはようまでずっと抱き締めてるかもしれない。


「ん?アリーシャ?」


 アスラン様の膝から降りたアリーシャが私の耳元でクンクンと鼻を鳴らす。


「ママのにおい、お母様と全然違う」


「匂い?」


 えっ、もしかして私って臭い?


 自分の腕や胸元に鼻を近づけて確認する。


 ……分からん。自分の匂いなんて自然とそこにあるものだ。無臭と等しい。


「私って匂いますか?」


「子供の言うことだ、気にしないでくれ」


 否定はしてくれません、と。


 一時期、エドガー様から香水を振るよう命令されていた。指定された香水は、頭痛を起こしてしまうぐらい甘くてキツい匂いだった。


 後に知ったのだが、香水は匂いで女を判別するために付けさせていたらしい。


 匂いが染み付いてしまったのかもしれない。お風呂に入った時に擦って落とさなきゃ。


「お嬢様、そろそろお部屋に。また風邪をぶり返してしまいますよ」


「うん。またね、ママ」


 アリーシャはアンナさんに手を引かれ、お屋敷に戻って行った。


「アリーシャ、体調を崩してたんですね。大丈夫でしょうか」


「子供は体調を崩しやすいからな。心配たが、アンナたちに任せていれば大丈夫だろう」


「だといいんですけど」


 私の嫌な予感は的中した。

 月が真上に昇った深夜。アリーシャは四十度近い熱を出した。


「はあっ……はぁっ……おとう、さま……」


「アリーシャ!しっかりして!」


 苦しそうに呼吸を繰り返すアリーシャの手を握る。

 熱い。こっちの手が火傷しそうだ。


「お医者は?」


「さっき連絡がつきましたが、到着までしばらく時間がかかるそうです」


「そんな……っ」


 私の焦りが伝わったのか、アリーシャが「ママ」と呻くような声で呼ぶ。

 心配させてはいけない。笑顔を作ってアリーシャを覗き込む。


「大丈夫よ、もうすぐお医者様が来てくれるわ。それまで一緒に頑張りましょう」


「うん」


 冷たいタオルをきつく絞って額の汗を拭う。

 温度差が気持ちいいのか、険しい表情が僅かに緩んだ。しかし、それもほんの数秒間だけで、アリーシャはすぐに荒い呼吸を再開させる。


 代わる代わるメイドがやってきて、桶の水を交換する。

 メイドは赤くなった指先を心配して交代を進言してくれたけど、これだけは代われない。


 アリーシャの母親になったんだもの。娘の看病くらい出来なくて母を名乗れるものか。


 そういえばアスラン様は?


 私はアリーシャの手を握ったまま、部屋を見渡した。

 アリーシャが熱を出したと聞いて、私はすぐに駆けつけた。アスラン様は私より先に来ていたのだろうか?


 私はメイドに小声で問いかけた。


「アスラン様は?」


「執務室におられます。用事を済ませてから様子を見に行くと」


「用事?もっと早く来てくれるお医者様を探してるとか?」


「いえ。本を探していたみたいでしたが」


 唖然とした。

 アスラン様はアリーシャが苦しんでると報告を受けているはずだ。

 用事なんて後でいくらでも済ませられる。


 私は奥歯を噛み締めた。


 あの男に一言ガツンと言ってやる!


「少し離れるけどすぐに戻ってくるからね」


 聖母のような表情をアリーシャに注ぎ、部屋を出た瞬間、鬼の形相に変える。

 廊下を歩くメイドたちが怯えて道を二つに割るほどだ。効果は絶大。


 沈黙の化身アスラン・エヴリルともいえど、間抜けな声を出して腰を抜かすに違いない。


「アスラン様!こんなところに居ないでアリーシャの──」


 ノックもせずに執務室に殴り込んた私はしりすぼみに言葉を弱めた。


「違う……これも違う。くそっ、どこだ!」


 アスラン様は荒々しく本棚を漁っていた。表紙を確認しては床に投げ捨てる。足元に積もった本の山で数分の出来事ではないと分かる。


 反対の本棚に移ろうとした時だ。

 アスラン様と目が合った。


「あぁ、君か。すまない、気がつかなかった。アリーシャの様子は?」


「熱が高いままで、お医者も到着までもうしばらくかかるそうです」


「そうか」


 アスラン様はまた本棚を漁り始めた。


「私も手伝います」


「君はアリーシャの側にいてやって欲しい。きっと心細いはずだ」


「それなら早く探しものを見つけて二人で行きましょう。アリーシャもアスラン様が手を握ってくれたら何倍も早く元気になってくれますよ」


「……」


 アスラン様は無言だ。

 一応、許しが出たみたい。


「私は下の方を探します。どんな本ですか?」


「茶葉の解説書だ。昔、この辺りにしまった記憶がある」


「茶葉ですね、わかりました!」


 腕まくりをして、「よし!」と気合いを入れる。


 そんな私を見て、アスラン様も作業を再開させた。隣に私がいるからか、本は床に積み上げていく。

 分厚い本だ。角が頭に当たりでもすれば、出血騒ぎになりかねない。

 当然の配慮と言えるけれど、さっきの焦りようからすれば、そこに考えが回る程度には平静を取り戻したみたいだ。


「あった!ありましたよアスラン様!」


「本当か!?」


 積み上げた本が三列目に差し掛かったところで、私は歓喜の声をあげた。


 間違いない。タイトルに『野草も炒れば飲めなくない!〜世界の飲める草完全解説〜』って書いてるもの。これで違うのならとんだ詐欺よ。


 アスラン様は表紙を確認すると、本を片手に持ち替え、ペラペラとページを捲って文字を目で追っている。


「解熱作用のある茶葉が載っていたはずなんだ」


「やっぱりそうだったんですね」


 滅多に感情を出さない彼が、必死に本を探していた姿はまさに父親のそれだった。

 私用を優先してるんじゃないか、なんて考えた自分が本当に憎い。


 アリーシャは熱にうなされながら最初に誰を呼んだ?


「私、アスラン様に謝らなくちゃいけません」


 アスラン様はページを捲る手を止めた。


「アスラン様がアリーシャを大切に想ってないはずがないのに、ほったらかしにしてるんじゃないかって」


「いいんだ。実際、アリーシャの近くにいたのは俺じゃなくて君だ」


「それは本を探していたからです……っ!私は苦しんでるアリーシャを見てるだけしかできなかった。時計ばっかり気にして、お医者様はまだかってそればっかりで──」


 今にも泣きそうな私の頭にポンと優しい感触が触れる。


「ア、アスラン様?これはいったい……」


 困惑気味に視界を上げると、アスラン様は私の頭を撫で始める。


 人に撫でられたのなんて子供の時以来だ。アスラン様は慣れているのか、手つきが柔らかく、心地よい。アリーシャにも毎回こうなのだろうか。だとしたらちょっと羨ましい。


 やがてアスラン様の撫でる手は頬に降りて、顎の方へ。


「んっ」


 あっ、これ擽ったい。

 顎の下を指先で引っ掻くみたいなこの撫で方、どこかで──。


「私、猫じゃないです!」


 私はアスラン様の手を払い除けた。

 アスラン様は自分の手と私を交互に見ている。


 なんだその予期してなかった反応が返ってきた顔は。成人女性が顎をくすぐられたら誰だってこうなるわ。


「すまん、つい」


「ついで猫扱いされてたまるか!人間です!ちゃんと二足歩行してるから!」


「でも気持ち良さそうだった」


「ぐっ……それは否定できない」


「とにかく、君が落ち込む必要はどこにもない」


 アスラン様は私を追い抜き、廊下に出る。

 動けずにいる私をアスラン様は肩越しに振り返った。


「二人で行くんじゃなかったのか?ロゼ」


 ドクン、と心臓が大きく跳ねた。

 ただ名前を呼ばれただけのに、感じたことのない幸福感が全身を包み込む。


 何、この気持ち。

 正直、アスラン様の長所なんて片手で数える程しか見つけられていない。それどころか、短所の方が多いぐらい。


 彼の妻になって、まだたったの二日。

 知人という間柄の方がまだしっくりくる。


 なのに、私の名をを呼ぶ彼の声を愛おしいと思ってしまう。


「えぇ、行きましょう!アリーシャが待ってます!」


 照れ隠しに鼻息を荒くして、私はアスラン様とアリーシャの元に急いだ。




「もう大丈夫だ。数日安静にしていれば治るだろう」


「本当ですか!?良かったぁ〜」


 お医者様が処置を終えた頃には、カーテンの隙間から朝日が注ぎ込んでいた。


 アリーシャの顔はまだ熱帯びているものの、呼吸はすっかり落ち着いていた。


 私はイスに座って大きく息を吐いた。

 安心したからか、疲れがどっとのしかかる。


「夜中に呼び出して悪かったな」


「いや、こっちこそ遅れてすまない。薬を渡しておくから、忘れないように飲ませてあげてくれ」


「わかった」


 親しげな口ぶりからして、アスラン様とお医者様は長い付き合いのようだ。


 見た感じ、 アスラン様と同い歳ぐらい。

 所々混じってる白髪が苦労を思わせるが、眼鏡の奥の涼やかな目元と細いシルエットが正しく美男子といった印象を与える。


 お医者は枕元のテーブルに薬が入った小袋を置いた。その時、笑みを浮かべた。彼の視線の先にあったのは、アリーシャに飲ませたお茶のカップだ。


「悪くない判断だ。ただ、水が多いな。これではせっかくの解熱効果も薄まってしまう。まずポットに茶葉を入れて熱湯を底から2センチほど──」


「分かった分かった。その話はまた今度満足するまで聞いてやるから」


「おい待て!まだ話は終わっとらんぞアスラン!」


「ロゼ、アリーシャを頼む」


 アスラン様はお医者様の背中を押して出ていってしまった。


 めちゃくちゃ早口だった……たぶん、ああなると長いのね。せっかく眠ったアリーシャが起きちゃうわ。アスラン様、ナイス!


 私はアリーシャの手を握って寝息に耳を澄ませた。


「あれっ、なんだか……眠くなって……」


 しばらくすると急激に眠気が襲ってきた。

 こくんこくん、と船を漕ぎ始めるがなんとか意識を繋ぎ止める。


 ここはアスラン様に任せられてるんだから寝てはダメ。

 寝ちゃ……だ、め……なのに……。


 結局、睡魔には勝てず、私は意識を手放してしまった。


 この時の私は実に気楽だった。

 今度こそ、アスラン様とアリーシャの三人で平和でそこそこな生活を謳歌するのだと。


 しかしまぁ、婚約破棄された日に新たな夫が爆誕するぐらいには破天荒な人生だ。これで、はいどうぞ、となるはずがなかった。


 エドガー様が私を連れ戻しにやって来たり、アリーシャが友達といざこざをおこしたり。


 そして、アスラン・エヴリル。

 決して他人に心を開かず、打ち解けない。

 世間的には慎ましやかな令嬢として通っていた私が、まさか手を上げることになるなんて思いもしなかった。


 兎にも角にも、指を折り始めると止まらない問題の数々が私を待っていた。


 それはまた次の機会に語るとしよう。



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― 新着の感想 ―
[一言] 続きが出るのでしょうか?楽しみなんですがロゼッタとアスランの先がとっても気になります
[一言] これは…連載、少なくともシリーズ化に期待! 前向きなロゼに好感度!(笑)
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