第20話『眠らない鴉』
黄金の月は相も変わらず、冷たい真夜中を静かに照らし続ける。
ルーンフルムの地に生きる者たちを、じっと見守るように。
その中でも有数の大都市、第42区。
そこに身を置く一人の少年・辻黒飛鳥は小さな部屋でまた泣いていた。
淀んだ川に沈むようにしてベッドに身を預け、ほのかに熱を帯びた涙で枕を濡らし続けている。
小さくしゃくりあげる声は、彼以外の誰にも届かない。
半分開いたままの窓から、月の光を運ぶように風が舞い込んだ。
白いカーテンの裾が、風をはらんで、ふわりと音もなく浮き上がる。
――ゆーくん。
涙声で、飛鳥はその名を呟く。
冴えた頭で無理やり眠りにつこうとする代わりに、彼は俯きがちにそっと身を起こした。
わずかに空中をさまよう右手は、今は完全に人間のものだ。
――ゆーくん。
囁くように、また呟く。
英雄と呼ばれる少年が戦う姿を、彼は離れた場所から常に追っていた。
人間の群れと距離を置きつつ、それでも彼の姿を視界に収められる場所から。
あの群衆どもは、彼を尊敬しているように見せて、『自分はあの英雄を見た』という優越感に浸っているだけだ。
しかも中には、それを写真や映像にして自己顕示欲を満たす道具にしている愚かな連中もいる。
だけど、僕は違う。
あの有象無象と違って、僕は……。
そんな思いで、彼は群衆を内心で見下していた。
遊魔の放つ威光に惹かれ、それを追うことが彼の最大の楽しみだった。
日を追うごとに、あわよくばあの光に直接触れたい、という気持ちも強まった。
そうすれば、己の内なる闇も綺麗に溶かしてくれると、飛鳥は信じてやまなかった。
彼の内側に強く根を張る、どす黒い闇を。
飛鳥は何度もそのタイミングを伺った。
そして彼はとうとう、彼に直接声をかけた。
あの有象無象と違って、僕は、僕だけは、彼との接触が赦されている。
僕にはその権利がある。
そう思い込んでいたため、躊躇いはなかった。
「やあ、近くで見るともっと輝いてる」
彼は、独り言のようにそう言った。
この輝かしい光はきっと、いずれ僕の鬱屈としたもの溶かしてくれる。
そう信じて、遊魔に対して友達の関係を求めた。
だが、無愛想な孤高の戦士はそう甘くはなかった。
でも、僕には彼が必要だ。
彼のそばにいたい。
何が何でもそばにいたい。
あの光に触れていたい――。
どんなに拒まれても、飛鳥はそんな思いが募る一方だった。
そんな飛鳥の執念深い行動が続くうちに、とうとう遊魔は彼を受け入れた。
飛鳥は己の日々に充実感を持つようになり、自身の内なる闇も消えてくれると信じていた。
だが、そう簡単にはいかなかった。
光が強くなればなるほど、その分影も濃くなっていくのと同じように、遊魔をそばで見るうちに、飛鳥の内なる闇は膨張していくばかりだった。
それは、遊魔への敬意や憧憬と共に抱えていた、嫉妬心だった。
僕と違って彼は――ゆーくんは『英雄』として民衆に称えられている。
僕は誰にも褒められたこともなければ、尊敬されたことも一度もなかった……。
けれど、遊魔から離れようとは一度も思わなかった。
次第に膨れあがり、内側に押さえつけられたものは、ある夜の遊魔の告白で、爆発した。
――なんだ、それでよかったのか。
ゆーくんが本当にそれだったのなら、引き摺りおろしちゃえ。
この夜がきっかけで、飛鳥の怪物としての人格はさらに濃くなった。
遊魔に初めて接近した時から、ディアロイドの人格は既に芽生えていた。
だが、それは遊魔の真実を知るまでは無自覚であり、遊魔への嫉妬心も含めた、単なる『負の感情』として捉えていた。
飛鳥がぼんやりと己の右手を見下ろすと、次第に黒く変化している。
ああ、やっぱり、怪物になっちゃおうかな……。
そうしたほうが、きっと楽になれる。
彼は短く息を吐く。
それでもなぜか、人間としての人格を捨てきれない。
もはや、人間として居続ける意味は無いはずなのに、どうして……。
侵される。蝕まれる。飲み込まれる。飲み込まれる。
右手を覆う黒が、袖の中で次第に肩のほうへと範囲を広げてゆく。
それがさらに広がり、彼の心臓まで届くのは、もう時間の問題だった。
僕は怪物だ。僕はディアロイドだ。
全てのディアロイドの頂点であるゆーくんを落とし、孤独から解放し、永遠に守るために生まれてきた――!
――辻黒飛鳥!
不意に、飛鳥の頭の中でその名は呼ばれた。
思わず彼は身を強張らせた。
どうして僕を、人間としての僕を知っているのだろう。
滅多なことで声を荒らげない彼は、どうしてあれほど必死だった?
……ああ、そうだ。僕は人間で居なければならないんだ。
また、大切なことを忘れるところだった。
そうでないと、意味がないんだ。
ベッドの縁に腰掛けながら、彼は深いため息をついた。
右手はいつの間にか元通りになっていた。
10分もしないうちに、彼はまたベッドに横たわった。
板挟み状態になっている飛鳥は、寝つきの悪い夜を幾度となく繰り返している。
冴えた頭で身を起こしては、かの少年の姿を思い出し、そう遠くない過去の記憶をなぞる。
それでも、穏やかな眠りが来ることはなかった。
頭にもやもやとしたものを残しながら身をよじらせ、無駄だとわかりつつも、そっと目を閉じる。
――「往生際の悪い奴」
自身に囁くような声が聞こえ、飛鳥は思わず目を開いた。
恐る恐る首をひねり、声の主の正体を確かめる。
「とっとと僕に委ねりゃいいものを……」
暗闇に光る、見下すような一対の瞳。
飛鳥はそれを見た途端、慌てて起き上がり、後ずさりしようとしたが、すぐ後ろにある壁によって阻まれた。
「やれやれ」
と影は呆れるように言った。
「同じ僕でも、こんなに違うものかねえ……」
「はっ……?」
彼を見下ろしている眼は、暗い緑色。
何かに嫉妬するような陰鬱さを含んだ、光の宿っていない緑色。
飛鳥の瞳――英雄のそれを真似た金色ではない、本来の黒い瞳とは大きく違っていたため、彼は言葉の意味をすぐには理解できなかった。
「お前……もう一人の僕だっていうのか……!」
「やっと気づいたの?」
『やっと』の部分を間延びさせながら、声の主は、闇の中から徐々に実体を現した。
暗闇の中で辛うじて見える姿は、正真正銘、飛鳥のものだった。
人間ならざるものと融合したような自身の姿を見せられ、飛鳥はさらに絶句する。
「寝ても覚めてもあの英雄君のことばかり考えてしまうのは、おおよそ僕のせいだろうね」
すると影はニヤリとしながら、からかうようにこう言い換えた。
「……否、『ゆーくん』だったね」
三日月形に微笑む口元。
飛鳥はキッと正面を睨んだ。
「……馬鹿にしてんの?一体僕の何が分かるっていうの?」
だが影は一切動じない。
「僕は君自身だけど?」
「っ……!」
「え、何? 『とっとと消えろ』って?」
影は不思議そうな表情で言った。
「ああ、そうだよ」
飛鳥は観念したように、低く唸るように答えた。
「残念だけど、そりゃあ無理だね。自ら失せたいだなんて当然これぽっちも思わないし、何しろ、僕を形成しているモノがあまりに強すぎる……」
影はそう言いながら、徐々に姿を変えてゆく。
地面から植物が生えるようにして、体中から禍々しいものを現し、さらに魔物に近い姿になる。
――それがきれいさっぱり無くなることは、当分ないだろうね。
飛鳥は自身の闇の部分から、そんな声を聞いた。
「強い憎しみの対象どもを抹殺し、憧れと同時に深い嫉妬の相手である、あの英雄くんを僕のものにしない限りはね……」
もう一人の自分。
緑色の眼をした怪物。
今現在の彼を待ち構える、成れの果ての姿。
「僕がこうしていられるのは、君のあまりに強すぎた負の感情のお陰なんだよ?」
黒の怪物は、満足そうに不気味に微笑んだ。
「ねえ、僕にも分かるように教えてよ。どうしてそう頑なに、人間のままでいようとするの?」
暗闇の中で、緑色の眼の怪物はそう言った。
黒い羽根を纏った長い尾が、白いベッドシーツの上で不気味に動く。
飛鳥はそれを何度見ても、それが自分自身の一部だという事実をなかなか受け入れられなかった。
「完全に僕に侵されるのが、そんなに怖いの?」
瓜二つの顔同士が一気に近づく。
白く骨ばった手の甲の上に、怪物の手が重なり合う。
そして、まるでベッドシーンの一場面のように、上に乗った指がそっと絡みつく。
「ねえ」
「違うよ」
絡んだ指がわずかに緩む。
「お前の言いなりになったら相当マズいことになるって、僕の直感が言ってるんだよ」
「……何それ」
影は口元を歪めた。
「完全に君に委ねたら、本末転倒なことになりかねないんじゃないの?」
黒い瞳の飛鳥は自身の影を見ながら、言った。
瞳の色を偽っている時に比べれば、その眼光は弱弱しかった。
「相変わらず、勘は鋭いね。当たりだよ」
影は息を洩らしながら、あっさり肯定した。
それからこう付け加えた。
「その人間の負の感情エネルギーが極限に達し、完全なる怪物になり果てる時、その人間は本当の意味で死ぬ。……つまり、他全ての記憶からも消え去る、ってこと」
そんなことだろうと、思ったよ。
飛鳥はそう言う代わりに、正面をじっと睨み続ける。
本来聞き手を怯ませ、おぞましいビジョンすら見せるはずの言葉は、飛鳥には一切ダメージを与えなかった。
だが、彼は構わず続けた。
――「けど、やっぱり僕には分からないな。実際そうなったところで、君に……否、僕たちになんの問題があるのさ?
別に忘れられたところで、僕らの望みを果たせなくなるってわけでもないってのに」
影はあきれ顔だった。
「いいわけないじゃん」
飛鳥は強気だった。
「どうしてさ」
影は不可解な様子だった。
「……僕が追っているのは、あくまで『僕を認識しているゆーくん』なんだよ。僕という人間を知ってるからこそ意味があるんだよ
でないと、『僕がゆーくんを孤独から救った』という事実がゆーくんの中からなくなっちゃう。僕はゆーくんの最期の時まで、……否、死後の世界に落ちても、永遠にゆーくんの中に居続けたいんだよ……‼」
ズブズブズブ――。
まるで飛鳥の激しい感情に共鳴するかのように、彼の手の甲に絡みついたままの黒い手が、溶けるように入り込んだ。
「バケモノの君に、この気持ちは分からないだろうけどさ」
飛鳥は貶すように言った。
「で? 結局そいつを道連れにするために、僕の力が必要ってわけ?」
「……そういうことになるね」
ズブズブ。
黒い手が、さらに深く入り込む。
「でも」
「そのくせ、完全な僕にはなりたくないって言うの?」
影は冷たく言った。
「ああ」
飛鳥は伏し目がちに言った。
「お前の力を利用してやる。僕のままでゆーくんを捕らえるために」
飛鳥は強気だった。
それは未知なるものに対する宣言であり、宣戦布告でもあった。
はあ、と短いため息。
「呆れた。そもそも君は、そんな無茶なことができると思ってるの?」
「やるんだよ」
飛鳥は真剣なまなざしで言った。
「本当におかしな奴だ。普通なら僕をどうにか退けようとするものを、君ってやつは……」
黒い怪物は徐々に前のめりになり、やがて人間の飛鳥にぴったりのしかかる姿勢になった。
「なんとでも言えばいいよ」
僕の最大の目的を果たすためなら、他者に何を言われても構わない。
飛鳥はそう言う代わりに、自身に溶け込んでくる影を迎合する。
「一体僕はいつまで、この不公平な関係に耐えられるかな?」
影は自身の下の少年を試すように笑う。
そしてそっと口づけをするかのように、または飛鳥の身体を2つに裂くようにして、ゆっくりと彼の中に溶けてゆく。
その一連の動作は、双方に一切の感覚をももたらさなかった。
一時的に乖離していた影が、あるべき場所に戻るだけのことである。
「君とは長い闘いになりそうだ」
おぞましい影は、元の肉体という1つの鞘におさまり、そこに元ある人格と共に、深い眠りについた。




