第15話『海をなぞって』
窓の外が、テープの早送りのようにせわしなく流れてゆく。
車を運転する郁仁の横で、海良はそれをぼんやりと眺めていた。
アウトバーンの白い無機質な壁が、遠くに見えるはずの風景を遮っている。
一瞬切れ間があったかと思うと、またすぐに見えなくなった。
一定のリズムで小刻みに揺れるシートに身を預ける彼は、特に何をするでもなく、手持無沙汰な様子だ。
ほどよい静けさと心地よい車内の揺れ具合に、思わずあくびが出た。が、窓に薄く反射した郁仁を見て、ここで堂々とあくびをするのは失礼だと、海良は必死にそれをかみ殺した。
「俺の車は飲食自由だから、好きな時に飲み食いして構わんからな」
郁仁はハンドルを握りながら、真正面を向いたままそう言った。
軽やかなハンドルさばきで、前方の軽自動車を追い越す。
海良は礼を言いながら、緑茶の入ったペットボトルを手に取った。
「海良、俺のも取ってくれ」
後部座席から、同じ部隊に属する隊員・珪の低音の声が飛んだ。
「これですか」
「ああ。ありがとな」
海良が手渡したのは、ミルクと砂糖が多く入った、他の商品よりもはるかに甘いことで有名なコーヒー飲料だ。
珪はキャップを開け、満足そうに呷った。
「やはり、これに限るな……」
黄色いラベルを見ながら、珪はそう呟いた。
「珪さん、このコーヒー好きなんですか?」
もはやコーヒーと呼べるものなのかが怪しい、と咄嗟に考えた海良は、そう尋ねた。
「ああ、俺はこう見えても甘党だからな」
一見気難しさの漂う顔つきの彼は、ささやかな幸せをかみしめるように、静かに微笑んで言った。
意外な一面を知ったなと、海良が感心していると、珪が何かを差し出してきた。
「食うか」
「あ、いただきます」
彼が差し出した、手のひらサイズの包装。
「(茎わかめ……?)」
意外なものが来たなと、彼は渡された茎わかめをまじまじと見ていた。
「1つや2つくらい、怒られやしないだろう」
と珪は独り言のように言った。
「あまり取りすぎないようになー」
と、郁仁が口を挟んだ。
この時の海良は、この両者の言葉の意図が分からなかったが、わざわざそれを言うくらい、美味しいものなのかと思いながら、海良は中身を口に放り込んだ。
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「やっぱり、あの新人目当てですよね?」
肩まで伸ばした黒髪を結んだ隊員・紺乃は、助手席から窓の外を見ながら言った。
桐奈の運転している車は、郁仁たちの後ろにつくかたちで走っていたが、前の車両をどんどん追い越してしまい、引き離されてしまっていた。
「ほぼ間違いなく、そうだろうね。おおよそ、GOL史上初の未成年隊員、それもまあまあなやり手という噂を聞いて、向こうのリーダーが食いついたんだろうねえ」
「ああ、なるほど……」
『向こうのリーダー』のことを人づてに知っていた彼女は、口元を引きつらせながら呟くように言った。
「って、私も私で引き受けるって承諾しちゃいましたけど、本当に大丈夫なんでしょうかね?」
「と、言うと?」
「だってあいつ、ディアロイドのことになるとすぐ熱くなるじゃないですか。普段はあんなに大人しいくせに、戦闘になるとたまに一人で突っ走るし、この前だって無茶したせいで……。まあ、医者に言われたより早く回復したのはすごいとは思いますし、さすがって感じですけどね」
と、紺乃はふてぶてしく言った。
ハンドルを握る桐奈は、無言で微笑んでいる。
「だから、向こうでも何かやらかさないかって、心ぱ……気がかりなんですけど」
伏し目がちになった彼女は、不意に名前を呼ばれて右隣を向いた。
「はい、っ?」
「言っておくけど、ウチらの組織、恋愛禁止だぜ?」
紺乃の肩がピクリとあがる。
「ち、違いますって! そんなんじゃ……」
彼女はほんのり顔を赤らめ、視線を逸らした。
まだ「恋愛禁止」としか言ってないだろう?
桐奈は心の中だけでそう言い、また微笑んだ。
「一人の後輩、それも特例で入った未成年の隊員が同じチームに入れば、誰だって気にするものじゃないですか。あくまでチームメイトとして気にかけてるだけですよ!……まあ、確かに見た目は全然悪くないし、小柄で可愛いなとは思いますけど……」
と、彼女はだんだん口ごもった。
「確かに、海良は可愛いヤツだよ」
「そうですよね、っ」
紺乃は張り切りながらそう言った直後、ハッとなってまた顔を逸らせた。
「まああの子は真面目な性格だし、流石に同じミスはしないでしょうよ。……過去にいろいろあったから、あの怪物たちを見るとついカッとなっちゃうのは、なかなか抑えられない部分もあるけどさ」
「……やっぱり、そうなんですね」
紺乃は伏し目がちに、そう言った。
「特別に未成年で入隊したのも、何かそれほどの事情があるんじゃないかと思ってました。それに」
それに、彼はどこか、憂いのようなものを眼の奥に宿しているような、そんな感じがしたんです。ほの暗い、悲しさの漂う暗闇のような……。
彼女はそう言おうとしたが、やめておいた。
「何でもないです」
彼女は、海良の身に具体的に何が起きたかは訊かなかった。
大切な、身近な人を、彼はディアロイドの手で奪われた。
直感で、そう悟っていた。
「けど、あの子は本当によくやってるよ。ここに入ったこと自体すごく立派なことだし」
と、桐奈は昔のことを懐かしむように、しみじみと言った。
「本当ですよね。……私じゃとても無理です。ましてや筆記試験で満点合格だなんて」
「ああ。あれは無理だ」
と、桐奈は笑った。
しばらく沈黙が続き、タイヤが路上を軽快に走る音が、車内を支配していた。
すると、少しためらった後、紺乃が口を開いた。
「……やっぱり、彼もそうですけど、皆それだけの理由があってここに入隊したんでしょうか。未知の怪物と戦うのが使命の、言ってしまえば、いつ動けなくなってもおかしくないようなこの組織に、生半可な気持ちで入る人なんていないでしょうし」
うーん、と桐奈は軽く唸った。
「もちろん、みんながみんなとは限らないけど、軽い気持ちでやってる人はほとんどいないだろうねえ。中には入隊したくてもなかなかできない人もいるくらい、入ること自体難しいし」
「そう、ですよね」
そう言ったきり、紺乃はしばらく黙りこくってしまった。
「何か、言いたいことでもあるのかい?」
彼女は思わず、顔をあげる。
「い、いえ、そういうわけじゃ」
「今のうちに言っときな」
と言われた彼女は、口ごもった。
「これから戦場へ赴くわけだし、ここで吐き出しといたほうがスッキリするよ。ほんのささいなことでも、実際声に出したほうが気が楽になるってもんだ」
そう言われ、紺乃は頭の中に溜まっている物を少しずつ整理する。
そして、意を決して口を開いた。
「……時々、自分がここにいていいのか不安になるんです」
彼女は俯きがちに、そう切り出した。
「二つ上の姉がここの隊員で、私もそれに憧れて、自分もルーンフルムのために戦おうって思ったのが、入隊を決めた大きなきっかけでした。姉はすごく美人で頭が切れるし、そんな彼女が未知の敵たちと戦う姿は、すごくかっこいいんだろうなって、ずっとそう思ってました」
彼女は話し続ける。
「大学を出て数年働いた時も、自分が本当にやりたい事がなかなか見つからなくて、悩んでた時期もありました。けど、そんな中で、姉がこの組織に入ったという話を聞いて、私もGOLの隊員として戦おうって、決めたんです」
彼女は姉ほど頭はよくなかったが、必死に勉強し、試験に合格してGOLに入隊した。
自分も組織に入ったという知らせを真っ先に送ると、姉はおめでとうと祝ってくれた。
「始めは素直に嬉しかったし、これからルーンフルムのために、精一杯頑張ろうって、意気込んでました」
が、紺乃はだんだん、胸の奥に何か突っかかるものがあることに気づき始めた。
それが今の彼女の中にある、自分がGOLの隊員でいいのかという疑問だった。
「家族と過ごしてた頃、よく姉と比べられてたんです。姉はそれなりに頭がよくて、おまけに綺麗で、それに比べて私は勉強が苦手だったし、姉ほどぱっとしてなくて」
それが嫌で、彼女は高校を出てすぐに実家を飛び出し、一人暮らしをした。
「……だから、私は薄々気づき始めたんです」
――GOLに入った本当の理由は、本当にここの隊員になりたかったのではなく、自分と姉を比べてきた奴らを見返すためだったんじゃないかって。
桐奈は何も言わず、紺乃の話に耳を傾けている。
「桐奈さんたちメンバーに、不満はありません。リーダーもすごくいい人ですし、戦う仲間がこのチームでよかったって、今でも思ってます。……けど、一人でいるときに、時々そういう考えがひとりでに出てきて、ずっと頭の中をぐるぐる回って、なかなか止められなくて」
だから、
「一人でそうやって考えているうちに、だんだんよく分からなくなって……」
紺乃は、はあ、と短くため息をついた。
涙が出そうになるのを、必死にこらえた。
「そっか。確か、これから向かう臨海支部にいるんだってね」
「はい。この話を聞いて、姉の戦う姿をちゃんと目に焼き付けたいと思って、私も賛同したんです。そして私がここで戦う原動力になればいいなって、思いました」
けど、それも結局、自分がここにいるのを正当化するためなんじゃないかって、そう思ってしまう部分も心のどこかにあって。
紺乃は自信なさげにそう言った。
「別に、さんざん比べてきた奴らを見返してやる、って意志は持ち続けてもいいんじゃないか?」
と桐奈は言った。
「ここの隊員として戦う理由に決まりなんてないし、それを聞いても、誰も怒りはしないよ。……少なくとも、うちらのメンバーはね」
紺乃は目を見開いている。
「どっちが本心なのかまでは流石に本人にしか分からないけど、あんたがいつも、他人の評価の為にやっているようには見えないな。紺乃はあの子の次に日は浅いけど、よくやってくれてるよ。協調性もちゃんとあるし、本当に隊員になりたくない奴はここまでできないよ」
「そう、ですか」
紺乃は照れ気味に言った。
「ああ、あたしはそう思うよ」
桐奈は嘘偽りなく言った。
「あんたの戦う姿は立派だよ。……だから、あまり変に気張らず、いつも通りにね」
と、紺乃の顔をちらりとみやりながら、凛々しく言った。
それにつられ、彼女の表情もだんだん綻びを見せた。
「……ありがとう、ございます」
「向こうのディアロイドどもブッ倒して、あたしらの強さ見せてやろうぜ」
微笑みながら、紺乃は返事をした。
「桐奈さんに言ってみて、良かったです」
「だろ?」
桐奈は凛々しく笑った。
彼女たちの車は、すでにルーンフルム南部へ突入している。
紺乃が窓の外を見ると、アウトバーンの白い壁が途切れ、視界が開けた。
するとその向こう側に、青い海が一面に広がっていた。
コバルトブルーの水面に射す、白くきらきらとした陽光。
それは、遥か遠くの地平線へと続く道を描き、明るい兆しを地上にもたらしているかのようだった。
彼女はしばらく、その光景にくぎ付けになった。
「……私、本物の海なんて初めて見ました」
彼女は心から嬉しそうに、そう遠くない未来に希望を見出したような穏やかな目で、そう言った。




