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The meaning of goodbye

作者: mako_rena

最近、理由もなくこの場所に来てしまうのは何故だろう。

鉄道の高架橋の下にベンチがある。主要路線なので数分と間を置かずに電車が頭上を通過していく。普通なら五月蝿さすら感じがちだが電車が近付く気配が好きと言う言葉をある人に聞かされて以来、吸い寄せられるように来てしまう。気付けば自分も好きになってしまった。

各駅停車しか止まらない駅の真下にある為に通過する急行や特急は頭上から轟音が聞こえるが、各駅停車はほとんど聞こえずに発車ベルだけが聞こえてくる。最近では両数の違い等の細かな差も分かるようになった。柱に書かれた修理箇所や点検日程を記したと思われる数字やイニシャルも独特の雰囲気を醸し出している。今日もまたぼんやり過ごす…

『何でいつまでもここに来てしまうんだろう。自分はまだ未練があるのかな』

そんな自問自答をしてしまったりする。

『あの出来事があったからだな…』

心に深く刻まれたある出来事。握手しようとした手がスルリと離れたあの日の事。それを何故、自分は防げなかったのか…

防ぐのは無理と言われた。でも…本当にそうだったのだろうか…

何故にあの日に伝えられなかったのか…

何かが始まる。その前にある何かが終わること。

それを痛感しながら思い返すのだ…


大学3年の白石一人(しらいしかずと)は山梨県河口湖の出身。

実家は小さな民宿で、幼い頃から休日や繁忙期には手伝いをしていた。進学で東京に来たが、未だに長期休暇の時には帰省して手伝いをしている。民宿は富士山の見える場所ではあるのだが、人気の湖越しに見る富士山ではなく反対側になる。湖の向こうには標高の低い御坂山地の山々が見えるだけだ。

更に近くにはある程度は名の知られた神社がある以外に目立った観光地は無い。あとは釣り人が来る程度。それ故に静かな場所で、その環境を気に入ってよく利用してくれる常連客が居る程である。賑わうのは夏と神社の神事が行われる時等の限られた時だけ。穏やか…そんな言葉が似合う実家が大好きだ。

東京からは河口湖まで高速バスや電車で2時間。片道に数時間かかる様な遠さはないので思い立ったら帰れる距離。実際、東京に来たばかりの頃は慣れない環境に耐えきれず毎週末に帰省していたが流石に今はそこまでではない。

大学生活は悪くないし友人も出来た。そんな自信が付いてきた現れでもあるだろう。今は仲間内で楽しく遊んだり、授業のノートを回し読みしながら勉強したりと充実した毎日。そんな一人は、今まで河口湖に残してきたある人物の事が常に気になっていた。


同年齢で幼馴染の斉藤怜奈。

2軒隣の別の民宿の長女。生まれつきで重い病気があり、今までに長期入院を何度も繰り返していた。

怜奈の病名は難しすぎて一人には分からなかったが、最近になって病状は安定しつつあると聞いた。最早覚えなくていいものになっているのなら幸いだ。

しかし、その影響で家の外に出る機会が少ない為か色白を通り越して青白い。更には腰痛を起こしやすいと言う弱点も抱えていて、病状が安定したからと言ってすぐに仕事が出来る訳では無い。最も、仕事が出来る程まで安定したとは聞いていないが。

怜奈には病気が理由で山梨県から身体障害者手帳を交付されている。ただ、それを使ってどうこうするのは心情にそぐわないとの事で、バスに乗る時以外は使わない。家族と一人、今までの学校関係者と路線バスの運転手以外には手帳を見せた事すらない。

小さい頃、怜奈の体調のいい時によく2人で近所の公園で遊んでいた。芝生広場が広いここは人も疎らで、かけっこやかくれんぼなど遊ぶには持ってこいだ。

しかし、病気がある上に腰も弱い怜奈が医師からドクターストップを掛けられていたのを無視した形で連れ出して遊んでいたのが怜奈の体調悪化の一因とも言われ、一人まで病院に呼ばれて医師から説教された事がある。

最終的には怜奈の2つ下の妹、眞衣が監視する事になったが、快活で運動好きの為についつい身体を動かす遊びに加わってしまう眞衣は監視には役立たずに近かった。そんな日々を過ごしたのも懐かしい記憶。

高校卒業後は実家で療養生活の日々で家事を少しする以外は何もしていない。だからと言って引きこもりでも無い。一言で言うなら家事以外の何かを出来る状態ではないのだ。

高校卒業後は体調のいい時に両親とスーパーに行ったり1人で神社に行くのが精一杯だった。最近では今までより少し遠くまで行けるようになり進歩はしている。しかし、体調の波は一時期より激しく変化をしていて安定する気配はない。怖くて医師にも一人にも言っていないが、病気が進行したり新たな病気に罹ってないかと不安になっている。

妹の眞衣はこの春に大学に合格して都内に出た。部活で結果を出していたのでスポーツ推薦で入れると言われていた筈なのに、それを断って一般入試で別の大学に進学。努力家だが明るい性格で入ったばかりなのにサークルの人気者になっている。

一人も東京で気になる人が出来たし、楽しみが増えた。それでも怜奈が忘れられないのだ…

『今日は大丈夫なんだろうか?』

そんな心配は日常茶飯事なのだが、身動きの取りにくい日もあるだろうと思い怜奈から連絡が来ない限りは自分から連絡しないようにしていた。


怜奈もこの気遣いは分かっていた。元々、一人はやんちゃでも無ければ派手でも無い。2軒隣の民宿の1人息子。地に足が着いた生活をしているタイプである。

クラスメイト達は怜奈が病気だと分かると口では優しい事を言ってくれたが、実際は関わりたくないと逃げていった。やはり病弱だと制約も多く、ましてや何があるか分からない状態となると遊びたい年頃には関わりたくない。そんな時でも一人は違った。いつも話を聞いてくれ、医師に怒られる可能性があるのを承知の上で一緒に遊んでくれた。1度だけ一人まで病院で怒られた時もケロッと笑ってみせた。妹の眞衣とあまりに違う自分の身体に泣いた時も一緒に泣いてくれた恩人の様な存在。

はっきり言ってしまえば大好きな人だ。しかし、東京に進学してからは迷惑になっては困るだろうからとこちらからはなるべく連絡は控えていた。話したくてもなかなか話せない…歯がゆい思いをしている。

でも、これが続けば平和な日常だった…


それは怜奈が1人で河口湖の駅までバスで行けた春の日の夜。自分だけで行けた事に嬉しくなって、ついつい一人に電話していた。

『私、自分だけでバスで駅まで行けたよ!いつか東京まで行ってみたいな。』

例え東京と河口湖がそこまでの距離ではないとは言っても、怜奈にとっては遥か彼方の見知らぬ街。生活の全てが河口湖周辺だけ。度々入院する病院は県庁所在地の甲府の近くだが、これは遊びに行く訳では無いので車と病室の窓からしか見ることが出来ない幻の場所。1度だけ八王子の大学病院に入院したこともある筈だが、小さい頃の事に加えて重篤な状態だったのでドクターカーで運ばれた。なので分かる訳がない。

修学旅行も行けなかった怜奈にとって、東京はテレビでしか見た事の無い遥か彼方の別世界。一人はそれをよく知っているので、敢えて否定したりはしない。

『凄い進歩だね!良くなってきているんだなぁ。いつかじゃなくて来れる時に来たらいいよ。怜奈は東京は知らないだろうから俺が案内してやるよ!』

もちろん、それが叶うわけが無いのも知っている。怜奈が入院以外で河口湖から離れたら…身体に負荷がかかる長時間の移動に器具を持たない1人旅…それは死を意味しかねない。

東京に引っ越す時に怜奈の両親から『怜奈は河口湖を離れたらダメな子。だから、かずくんは東京に行ったら過度に気を使わなくていいからね。』と言われたのを忘れられない。

そうは言っても折角の夢。せめて希望だけでも持たせてあげたい…その一心でいる。次の休みは土日だけ…最近は土日休みに帰った事は無かったが、怜奈が気になったので帰る事に決め『週末帰るから、調子良かったら連絡してね!』と伝えた。

『本当に!?久々だなぁ。待ってるね!』

おどけた様な明るい声を聞かせて楽しみにしてくれている。一人はとても嬉しい気持ちで金曜夜のバスを予約するべく、ホームページを開くといつものバスはまだ若干の余裕があるようだ。これなら約束も果たせる。


そして迎えた金曜日の夜。講義を終えた一人は山手線に乗り久々に新宿へ来た。家庭教師のバイトも大学も何もかもが部屋から渋谷までの間で済む一人が新宿に来る機会はなかなか無く、基本的にはバスに乗る時にしか来ない。ここから河口湖に向かうバスで一番都合の良いのは午後8時15分発。学校が全て終わってからでも乗れる上に、これなら午後10時過ぎには河口湖に到着出来る。もちろん地域のバスの最終便の後に着く為に迎えに来てもらわなければならないが、真夜中ではないので大迷惑になる訳では無い。民宿の食事の時間も終わった後になるのでその意味でも都合のいい時間帯で毎回、決まってこのバスに乗る。乗り慣れたバスに通り慣れた道。しかも景色の見えない夜。このバスではほぼ毎回、仮眠をしてしまう。その最中に届いた父親からの『今日はいつもと違う人が迎えに行きます』というメールには気付かぬまま…

いつもの様に直前で目覚めてから河口湖駅のバス停で降りると、見慣れない若葉マークの付いた見覚えのある赤い車から聞き覚えがあるが俄には信じられない声が聞こえてきた。

『かずくん!おかえり!』

嘘だろ…まさか…

『えっ!?怜奈!?』

『そうだよ!今日はどうしても来たかったから、おじさんに時間を聞いて、眞衣に乗せてきて貰ったの!眞衣が免許取りたてで練習したかったのも兼ねてるんだ。』

運転席を見ると、確かに眞衣が緊張した様子で座っている。

『こんな時間に大丈夫!?』

『大丈夫だよ。無理してないから安心してね』

『それならいいんだけど…眞衣ちゃんも夜遅くにゴメンね』

『姉がワガママ言って…ゴメンなさい』

『いえいえ!じゃあ、帰るかな…お願いします!』

一人がそういうと、怜奈も車に乗り動き出す。今までこんな時間に会った事は1度もない。電話は数回あるが、どちらにしても珍しい。

『来るなら言ってくれれば良かったのに…』と思わず言った一人に『おじさんにメール送って貰った筈なのに…おかしいな…気付いてないんじゃないの!?』と返ってきた。知らないなぁ…そう思いながらスマホを取り出して見ると、確かに(メール1件 父)とあった。どうやら寝ている間だった為に全く気付かなかったらしい。

『怜奈の言う通りだった…バスで寝てる間に来てたみたいだね』

『やっぱり送ってくれてたんだ!ありがとうございましたって言っていたと伝えておいてね。それにしてもバスで寝ちゃうなんてかわいいな(笑)』

かわいいと言われて反論したくなったが相手は怜奈なので一瞬で反論する気は失せた。

『そうかな?あのバスは2時間かかるんだよ(笑)それに加えて疲れていたから寝ちゃったんだよ。』

そう言って笑って見せた。一人の笑顔を見れば怜奈も安心する。

『今日は来て良かった!』と言われて、一人もこのタイミングで帰って良かったと安心した。河口湖駅から実家のある集落までの距離はさほど長くない。3km程度なので本来は車ならあっという間である。しかし、出てから程なく車は直進すべき場所を左折してあっさり帰り道から逸れた。

『眞衣ちゃん、何処に行くの!?』

運転席の眞衣に考えがあって曲がった事は分かるが、どうしてかは分からなかった。

『ゴメンなさい!両親にDVDレンタルしてきて欲しいって頼まれてて…ちょっと寄り道してもいいですか!?』

なるほど…それなら合点がいく。店は曲がってから最初の信号を右折してすぐの場所にある。夜間は道もガラガラなので、さほど時間もかからずに到着した。

『ちょっと待ってて下さい。10分かからずに戻ります!お姉ちゃんと一緒に居てもらえれば…』そう言い残して、足早に行ってしまった。


突然訪れた2人だけの時間。あの公園でもない場所でとなると珍しいし、閉ざされた空間でとなると初めてかもしれない。

『早く帰りたかった?』

『大丈夫。それより怜奈こそ大丈夫?』

いつも会うことの無い時間帯だけに心配になるのは無理もない。

『安心して。今日は元気だから。久しぶりにかずくんに会えて良かった!ねぇ、隣に行かせて…』

『えっ!?』

驚く一人の言葉を聞かずに助手席に乗っていた怜奈が1度降りて、後部座席に移ってきた。後部座席の隣席は近く、ちょっとドキドキする距離感だ。

『私、まだ覚えているよ。中学生の時に1度だけクラスの佑美ちゃんとキスしてるのを見ちゃった時の事(笑)理由は知っているから何も言うこと無いけど(笑)』

中学2年生の夏、同じクラスの桜井佑美に放課後の教室で告白された。一人は断るつもりでだったのだが、いきなりキスされてしまったという出来事があったのだ。それを帰る準備をしていた怜奈に見られた為にしばらく気まずかった時期が続いた。後に佑美からされたと言うことが怜奈に伝わったので事なきを得て元の関係になったが、分かってもらえるまで数週間かかった苦い記憶がある。

『おいおい…それは言わない約束じゃないか…』

この話は禁句扱いされてきたはずだが…

『懐かしい笑い話だよね。あの子にこの前会ったら、年下のかわいい女の子と居て…聞いたら彼女って言われてびっくり!まさかって感じだったなぁ…この位の年齢になるといろいろあるんだね…私には何の変化も無いのにな。』

寂しげな目をしている怜奈を見て、一人は黙っていられなかった。

『怜奈も凄く変化してるよ!昔より前向きに生きてるなって見て分かるし、俺よりしっかりしてるし、何より…』言葉に詰まってしまった。

『何より?』

『何より…可愛くなったよ。ちょっと近いからドキドキしすぎて言葉出てこなかった。ゴメン。』

『嬉しい…』

一人にそこまで言ってもらえるとは思っていなかった。

『かずくんにお願いがあるんだ。』

いきなりお願いって?

『何?出来る事は何でもしてあげるって約束だから何でも言っていいよ…』

そう言うと怜奈が改まってこちらを向いた。

『もし、迷惑で無ければ…私と…キスして下さい。キスさせて下さい。この歳まで出会いもないし、この身体だからなかなか…キス位はどんな物かしてみたい…お願いします。』

『えっ!?』

まさかのお願いで一人の想定の範囲を超えていた。これは流石に身構える。

『バカな事言ってるって思うかも…でも本気です。なんか…ゴメンね…』

怜奈の体調ではなかなか恋愛は難しいのは理解出来る。

『いいよ…ちゃんとした人が居れば、その人とするのがいいんだけど…でも…俺なりに理解したよ。怜奈は…怜奈なりの考えがあって言ってるだろうし…俺も迷惑ではないよ。あと…何でも言っていいって約束したのは…俺だしね。』

迷いながらも一人なりに紡ぎ出した答え。怜奈が喜んでくれるならそれでいい。ただ、眞衣がいつ戻ってくるのかが問題だ。今日するなら残された時間は僅かしかない。

『時間無いなぁ…今する?』

一瞬の間がとても長く感じられる。

『はい…お願いします…』

そう答えてから僅かの間に怜奈のファーストキスは終わった。

『ありがとう!初めてがかずくんで良かった!これは…2人だけの秘密だよ。』

『もちろん!そうじゃないならしないよ(笑)怜奈が喜んでくれるなら俺は嬉しいよ。』

怜奈が素直に喜んでくれた事、怜奈の希望を叶えてあげられた事…その全てが喜びだった。一人が小さな頃からこれまで生きてきた時の流れの中で分かった事がある。

それは、今まで過ぎ去っていった何気ない日々の日常がかけがえのない宝物だと言うこと。普通の日々が送れる事は幸せな事だと分かってきた。今日の事もそうで、怜奈の笑顔が見れるのは喜びである。

『あと、もう1つお願いがあるんだけど…』

『何?』

無茶な事で無ければ何でも構わない。

『降りるまで、手を繋いでいていい?』

これは身構えなくていいレベルだ。

『いいよ。さぁ、どうぞ(笑)』

『ありがとう!やっぱりかずくんは優しいね。』

『そんな事無いって!』

久々に握る怜奈の手は小さな頃に公園から一緒に帰った時を思い出させてくれた。懐かしいなぁ…

そう思っているとドアが開き、DVDの入った袋を提げて眞衣が入ってきた。

『あっ!お姉ちゃん!いつの間に!』

『えへっ(笑)隣行っちゃった(笑)』

『もう!かずさんに迷惑掛けたらダメって話したのに…いろいろとすみません…迷惑じゃなかったですか?』

『大丈夫だよ!久々だからゆっくり話せたし…気を使わせちゃってゴメンね。』

『それなら良かったです…時間無いから動くよ。お姉ちゃん、今日は後ろね。』

そう言うと再び走り出した。

『眞衣ちゃんは免許取ってどれ位なの?』

『まだ、1ヶ月です…今は運転する度にドキドキで…私は河口湖で運転する為と言うよりは自分で動きたくて…今日は昨日の夜に姉にどうしてもって頼まれたから大学終わってすぐのバスで河口湖に帰って来ました。着いて2時間位です。』

聞いて思わずびっくりしてしまった。今回の帰省で1番迷惑をかけたのは怜奈ではなく眞衣だったようだ。

『本当にゴメンね!』

『いえいえ。気にしないで下さい…私も帰りたかったので。あの時間帯のバスって混むんですね。初めて乗る時間帯だから知らなかった…』

丁度2時間前に当たる午後6時15分発のバスは一人が乗ってきた時間帯のバスに比べて、東京から帰る人に加えて1泊する観光客が乗ったりする事もある為か乗客が多く満席になりやすい。それ故に一人はあまり乗りたいとは思わない。

『私は多摩だから日野から乗るので渋滞が多い夕方は待ち時間も退屈だし…』

中央道日野バス停は立川と高幡不動や多摩センターを結ぶ多摩都市モノレールの甲州街道駅からアクセスが良い為に多摩地区在住者から人気がある。新宿以外の他の都内にあるバス停に比べると平均乗客数は多く、他の高速上のバス停を通過する新宿と長野県の松本を結ぶバスもここにだけは停車する。但し、甲州街道駅付近にコンビニとスーパーがある以外は店が無い為に待ち時間を潰すのはなかなか大変だ。

『日野からなんだね…初めて知った。俺は23区内だからいつも新宿だよ。大学も最初の頃は都会過ぎて時々疲れたりしたっけな。今となっては懐かしい話だけどね…多摩はなかなかいい雰囲気のキャンパスが多いって聞いてるから羨ましいな。』

『私は23区が良かったな…やっぱり住むなら都会がいいですしね。ただ、河口湖が恋しくなる時はやっぱりありますね…まだ1年で入ったばかりなのもあるんでしょうけど。』

眞衣は元々明るくて活発でコミュニケーション力もあるのだが、それでもいきなりの1人暮らしと大学の両立ではちょっとお疲れ気味のようだ。

『そんなに帰りにくい場所では無いから、帰りたくなったら帰るって生活がいいかも。自分もそうだったし。』

そこまで言ったところで怜奈と繋いだままの左手に鈍い痛みが走る。

『痛っ!』

小さな声でそう言いながら横を見ると、怜奈がムスッとした顔で頬を膨らませていた。見せてきたスマホの画面には(眞衣とばかり話してないで!)と書かれている。幸いにして眞衣には気付かれていないようだ。

膨らませたその顔がおかしくて、思わず一人は笑ってしまった。それは初めて見る物で、別に交際していると言うわけでもないのに何故だか恋人気分になってしまいそうだった。ただ、夜の車内で見ると何故か儚げに見える。今までの怜奈を知っているからこそなのかもしれないが、仄暗い車内で時折灯りに照らされるその顔に見入ってしまう。一瞬、いつまで見れるのかを考えてしまうが封印しておくことにする。


そうこうしているうちにあっという間に実家に着いてしまった。やはり3kmは短い。夜は道が空いているので尚更早い。一人にとって今までで1番短く感じた帰り道で、途中から何を話したか記憶がないほどだ。荷解きもそこそこに、まずはメッセージを送ることにしようとスマホを出すと同時にメッセージが来た。

『今日は楽しかったよ!明日は暇かな?』

怜奈からのメッセージだ。

『明日はまだ予定入ってないよ。今週はお客さんがそこまで多くないから、多分時間は取れる。どうした?』

珍しく積極的な怜奈に戸惑いつつ、一人は嬉しさを感じてメッセージを送っていた。

『それなら良かった!明日の午後に久々にあの公園で遊ばない?私の体調は問題無いから大丈夫! 』

そう来たので、『了解!午後…3時位にしようか?』 と返すと『3時!よろしくね』と来た。あの公園に2人で遊びに行くのは小さい頃以来である。それではとウキウキしたまま居ると突然電話が鳴った。見たことの無い番号なので、出ようかどうか迷ってしまう…しかし、一向に鳴り止まないので勇気を振り絞って出ることにした。

『もしもし、白石です…』

『あっ、出てもらえて良かった…私、山下桃子です。』

『どちら…えっ!?』

思い出した。声の主は高校時代の同級生で一人とも怜奈とも面識がある。彼女は山中湖村在住で高校まではバス通学してきていた。怜奈の事を気遣い、助けてもらっていた。卒業後は地元のリゾート系の企業に就職しているが、会社では優良社員として評される人物でもある。

『高校時代の番号しか知らなかったから怜奈に番号教えて貰って…繋がって良かった…』

この電話をしたくて怜奈に電話番号を聞いたらしい。そういえば、最近話したと言っていたっけ…一人は高校卒業後の機種変更時に電話番号を変えているので、そのままでは繋がらなかったのだ。

『もし、帰ってきているのなら…明日のお昼って空いてる?実は怜奈から預かっていて、渡してほしいって頼まれているものがあるんだ。』

『頼まれ物?ちょうど帰ってきてるからいいけど…』

何なのだろう?偶然とはいえかなり気になる。

『あまり時間かけたくないんだ。高校の前でもいい?午後から出勤なんだけど、高校から職場近いし…カズも来やすいでしょ?』

『分かったよ。12時位かな?』

『そうだね。じゃあ、正午に正門前でね。』

わざわざ高校の前で渡したいものとは何なのだろう。それだけ伝え終わるとあっさり切れた。

『あいつらしいな…高校の頃から何も変わってない…』

桃子は元々こういうタイプで言いたいことを一言にまとめ、用件が終われば即次の行動に移る。パッと動けるソの行動力は素晴らしいと思う反面、あまりに早すぎるためにびっくりする事もある。そしてチャレンジ精神が強く、何度も壁にぶち当たっては乗り越えた。怜奈も一人も何度も助けられてきた。

それにしても、渡して欲しい物とは何なのだろう?不思議なのは事実だが気にしても仕方ない。


翌日の正午前、一人は卒業した高校の前に来た。

久々に学校の前に立つとあの頃の思い出が蘇る。

楽しかった日々の事…体調面から修学旅行に行けないと涙した怜奈と一緒に泣いた事…鮮明な記憶が蘇る。何年経っても忘れることは出来ない。

数分と待たずに桃子はやって来た。スカイブルーが鮮やかな小型車から降りてきたその姿は、高校時代と何も変わってない印象を持った。唯一、化粧が変わった位だ。高校時代と比べるとナチュラルメイクになっている。

『お待たせ。急に呼び出してゴメンね…』

『気にする事無いよ。で…何があったの?』

本題を聞いてみる。

『実はね…たまたま棚を整理していたら、これが出てきたの。急に思い出してカズに渡さなきゃって…たまたまこっちに来ている日で助かったよ。流石に東京までは持って行けないし、手渡しの方が良さそうだったから…』

そう言って、2つの便箋を取り出した。そこには見慣れた文字で「~桃子へ~」と書かれたものと「~かずくん~」と書かれていた。

『この手紙は、高校を卒業するときに怜奈がくれたんだ。私宛てのは見たんだけど、カズ宛てが混ざってるなんて気付かなくてさ。それで渡さなきゃ!って…』

そう言って、「かずくん」と書かれた便箋を一人に手渡した。

『そういうことか…わざわざありがとう。手紙見てみるね。』

そう言ってお礼を言う。

『よろしくね。私は仕事行くから。』

そう言い終わると車に乗って、颯爽と去っていった。

『相変わらずだな…』誰も聞いてはいないがそれでもつい言葉が出る。貰った便箋が気になるが、敢えて車の中では見ずに部屋に帰ってから慎重に開けて読み始めた…


~かずくんへ~


桃子ちゃんに頼んで預けて貰っていた手紙です。

いきなり驚かせてゴメンね。

これを見る頃には何年経っているかな?

そして、私はまだ元気でしょうか?

私はかずくんが居なかったら、全然違う生活をしていたんだろうって思います。

きっと学校も行けなかっただろうし、もっと寂しく生きていたんだろうな…

今まで本当にありがとう。


私は幸せでした…今も幸せな気分で書いてます。

私は病気でここを離れられないのが悔しい…これからも河口湖に居ます。

何もなかったらかずくんに告白だってしたかったし、1度だけ抱きしめてくれたあの日のようにまた抱きしめて欲しかった…

東京で一緒に暮らしたかった。

そう思うと辛いです…


高校生活も終わってしまったね。

本当に歳月の流れは早いって思う。

今まで過ぎ去っていった普通の日々って、本当にかけがえのないものだったんだね。

楽しい思い出をたくさん作ってくれてありがとう!

私もかずくんがこれを読む頃は東京で楽しく暮らしているって想像しながら書いてます。

楽しいんだろうな…『元気ですかー!?』って言いたくなったり(笑)

一旦はサヨナラになるんだろうけど、私はこの出会いに凄く意味があるって思うし嬉しかった…きっと未来があると信じているよ…

私もサヨナラに強くならなきゃね。ないものねだりしたって仕方ない。

新しく始まるって事は何かが終わるという事なんだろうし…

絶対、楽しい日々があるよ!

楽しくないなんて言ってるようなら、私がかずくんに怒る(笑)

だから、前向きで楽しくね!

それが私が伝えたかった愛に代わるメッセージなんだからね(笑)

バイバイ。


~斉藤怜奈~


最後まで読み終える頃には気付くと涙を流す自分がいた。こんなに想っていてくれたのに気付けなかった。その悔しさもある。きっと悲しかったに違いない…

元々、怜奈はあまり自己主張する方ではない。たまに思いが爆発する事はあったが、日頃は全くもって静か。でも、その裏に隠された部分を分かってやれなかった。これを書いた時、どんな気持ちだったのだろうか…思わず考えてしまう…


よく見てみると、右上隅に2枚の手紙より小さな紙がクリップ止めになって付いている。手に取ると切符だった。

『何でこんなものが…』

怜奈は河口湖に居ると書いてあるのに…不思議に思いながら券面を見てみた。河口湖から渋谷までの乗車券と大月から新宿までの自由席特急券が付いていた。2枚共に2年前の3月22日河口湖駅発行で4月3日使用分と書かれている。切符は保存状態が良かったために券面がはっきりと読める。この日付は…間違いない!3月22日が東京へ引っ越した日で4月3日は一人の大学の入学式の日だ。

『もしかして…』

怜奈は入学式を見たかったのかもしれない。大学も住んでいる部屋の最寄りもJRだと渋谷である。大学は渋谷から徒歩圏内で部屋は渋谷からは東急東横線に乗っていく。思い返してみると、この頃の怜奈は両親に無断で数千円を使って揉めていたと聞いた事がある。日頃の生活ではほとんどお金を使わない怜奈なので、使途不明のお金が数千円も出ること自体がありえない話でしかなかった。あの時の数千円。それはどう考えてもこの切符だ。文面から察するに怜奈は自分の命が長くないと思っていたのかもしれない。この切符で行けもしない東京に行こうとしたが、結局は行かなかったのでこの便箋に入っていたのだろう。

そう思うと一人は不安になっていた。そして、気付くと湖畔のいつもの公園に駆け出していた。外に出ると晴れる予報の筈だったのだが何時しか雨が降り始めていた。でも…雨なんか関係ない!

そう思って走る。まだ、待ち合わせまでは時間があるので公園に怜奈が来ているわけがないと思っていたが…


怜奈は一人と懐かしのあの公園で会う前にあるものを読んでいた。それは東京に旅立った一人が怜奈に宛てて書いた手紙だ。都内の郵便局から届いたのは消印で分かったが、一人なりの気遣いで敢えて河口湖の住所で書かれている。


~怜奈へ~


今までの日々が楽しかったのも怜奈が居てくれたからです。

本当にありがとう。

これからは離れて暮らす事になるけど、何かあったらすぐに言ってね。その時は絶対行きます。

だから、安心してください。

怜奈の事が心配で離れたくない気持ちだってもちろんあるけれど、それを言っても始まらないし…

お互いにこの一歩が素晴らしいものになるといいな。

無茶させて公園に連れ出してゴメンね。でも、楽しかったです。

裏で病弱と言われていた事に泣いていたのを慰めたり、調理実習で料理経験が無さすぎて卵焼きを作るときにうっかり卵液に出汁昆布と煮干しをそのまま投入していたのを見て笑ったのもつい昨日の事のようです。

どんなに離れていても、これからも大切な人です。

無理しないでね。

また帰るときには連絡します。


~白石一人~


如何にも一人らしい文章だ。短い文章に言いたいことを詰め込んでいるのだがちょっと笑える話まで盛り込んである。だし巻き玉子の話など小学校の頃で話だ。調理の経験が全くないままやったので良かれと思って入れたのだが、大失敗になるところだった。今なら宿の食事の調理もやったりするのであり得ないミス。

よくそんな事を覚えていたなぁと思うと同時に、病気さえなければ幸せだったのに…と思うと涙が出る。自分の事が情けないと思えてきてしまう。

あの時、東京に行っていれば良かったのかな…引き出しに仕舞われた4月4日使用分の渋谷から河口湖の切符。使うことは無かったのだが、使っていれば違ったのかもしれない。往路はいつかの便箋に付けたが復路は手元にある。往路を一人が見たら、きっと無理をして行く片道切符に見えるだろう。実際はちゃんと計画性があって帰ってくるはずだったのだが…流石に片道切符だけを入れたら間違えるのも無理もない事は怜奈でも推測出来る。

見ていると切なくなってきた…今日は悲しい気持ちがいつもより強くて涙が止まらない。誰にも見せたくはない涙…懐かしの公園で泣こう。雨が降っているのも構わずに公園に行くと、傘を置いていつもと少しだけ違う場所へ行く。

それは一人と一緒に渇水期に1度だけ探検感覚で上陸した島だ。

島は湖の水量が多すぎると水没してしまう幻の島なのだが、渇水期なら上陸も出来る。10年ぶりに来てみると水量は少ない。上陸出来そうだ。

靴を脱ぎ、思い切って水中に足を入れると思っていたよりも冷たい水に一瞬驚く。しかし、見た目通りで水量の少なさも手伝って、思った以上にあっさりと島に立てた。

雨に煙る御坂の山々がいつになく重い空気を醸し出している。ここに立った途端、今まで抑えてきたものが溢れてきた。言いたくても言えなかった事、心のなかで抑えていた思い…それらが涙になって出てきた。

なんで自分だけ幸せになれないんだろう。なんで自分は病気で苦しむんだろう。

悲しみばかり味わい続けてきて、幸せだと感じた事はほとんど無い。虚しさがこみ上げてくる。そして…来週の通院では久々に精密検査をするが、嫌な予感がする。『また病気が発覚するかも知れない…』

平気かと聞かれたら、間違いなく嘘だ。恐怖を感じている。その思いに圧されて、涙が止まらない。昨夜、一人にキスしてもらった。けれど、それが『最後のキス』になったら…

『嫌だ…絶対に嫌だ!』

峰々に立ち込めた暗く低い雲のように、怜奈の心も暗雲に支配されたままだ。


一人は公園まで来ると、ひとしきり辺りを見渡す。いつもと何一つ変わらないように見える。今日は山々を雲が覆い、雨に煙る湖畔は水墨画のようになっている。見渡していて、気になるものを見つけた。

『これって…』

一瞬で気付いた。それは怜奈が小学生の頃から大事に使っている赤い傘とよく履いている靴に間違いない。

『まさか…』

普通の人間でも、雨の中でずぶ濡れになれば風邪を引いたりして体調がおかしくなるリスクがある。ましてや、それが怜奈だとすれば一大事だ。慌てて周囲を見回すが居ない。これだけ見回して見つからない筈はない。

もしかして…小学生時代に1度だけ、渇水期に怜奈と探検感覚で行った島に目を向けると…


雨の中、涙を拭いながら立ち尽くす怜奈を見つけた。

日々の不条理への抑えきれないものがあるのはよく知っている。気持ちは分かる。でも、ここは声を掛けねば…

その気持ちは一瞬で憚られることになった。

『美しい…』

その姿に水溜まりに足を突っ込んでいるのも忘れて見とれる。

美しくも儚げなその姿を見たのは初めての事。幻でも見たかのような錯覚にすら陥ってしまうのだが、これは幻ではない。

怜奈の為を思うなら、一刻も早く声を掛けねばという思いが再燃してくる。しかし、憚られる雰囲気に圧倒され止める。

躊躇している間にどんどんと時間は過ぎていく。

雨の影響なのだろうか。陽が沈む時のように遠くの景色が段々ぼやけ始める。結局、声を掛けられないまま後ずさりするしかなくなって戻ることになった。


戻って数分経った頃に怜奈からメールが届いた。

『今日は結構雨降って来ちゃったね。凄く残念だけど、公園には行けそうにないです。ゴメンね。』

公園にいたのは見てしまったから知っている。というより島にいたのを見てしまった。だが、そんな事は絶対に言えない。結局は『雨凄いね…また今度にしようか!』としか書けなかった。

こんな事しか言えないなんて情けない…

いくら本人が体調がいいと言ってみたとしても、病弱な怜奈にとっては雨晒しは命に関わる危険性さえある。幼い頃から、この小さな集落に救急車のサイレンが響くだけでドキッとしてしまっていた。

『もしかして、怜奈が…』

毎回、そう考えてしまっても仕方ない。それほどまでに弱っているのを何度も見てきたし、怜奈はそういうリスクを常に抱えている。10年前には自宅で倒れ、そのまま1年間入院していた。それだけに今日は不安になる。

しばらくは悩んでいたのだが結局は抑えきれなくなってしまい、今度は夕暮れ時に一人が飛び出していた。

あれほど降っていた筈の雨は止んでいる。公園から見る湖畔は相変わらず曇っていて山も低い雲の中だ。湖畔に出ると意を決して湖に足を入れる。

春の夕暮れ、身体には堪える冷たさ。ここに怜奈が入ったと思うとゾッとする。水位がかなり低いから上陸も簡単だ。

沖合に見える沈まない島、鵜の島が重苦しい空気の中でもしっかり存在感を主張する。

鵜の島はどんなに水位が下がっても陸続きになることの無い島で、室町時代には合戦から逃れて湖岸の住民が逃げ込んだり、隣国の小さな城の城主が信玄公に捕らえられて幽閉されたりもした歴史があり、縄文遺跡まで存在する。但し、陸続きにならないとは言っても水深は浅く、島の東側はモーターボートはおろか手漕ぎボートでも湖の底と接触しかねない。

この景色を見て何を思い、何故にあんな涙を流したのだろう…

あの小さな怜奈が自分には分からない大きくて重いものと闘っている。そう思うと今の空模様の様に一人にもどんよりと重いものがのしかかってきた。身震いがする様になり帰宅したが、お互いに体調の急変は免れた。しかし、心の闇は一人が東京に戻ってからもしばらくの間は晴れる事がなかった。

それから3週間…いよいよ運命の日がやってくる…


不意の知らせは突然やってきた。

前日に休講になる事が決まっていた一人は、久しぶりの平日休みなのに早起きしてしまい、のんびりパンを齧りながらぼんやりとテレビを見ていた 。退屈な日が始まるのか…

そこへ、一気に大量のメールやLINEが来た。その内容を見た瞬間、血の気が一気に引いていった。

それは怜奈が早朝から行方不明になり、どこを探しても居ないというあまりにショッキングな内容だった。

内容によると怜奈の両親が起きてみると、いつもなら閉まっている怜奈の部屋の扉が開いていて居なかった。

更に怜奈の財布も携帯もカバンも見当たらないし、携帯に連絡するも電源が切られていて繋がらない。前々から河口湖から出てみたいと言っていたので探す途中で気になって河口湖駅で写真を持って尋ねたところ、『確かに似た女性らしき人がタクシーから降りて始発から2本目の電車に乗った。Suicaで乗ったので降車駅は分からない。』と言われたという。その後は『各駅や車掌に問い合わせて確認したところ、無人駅も含めて富士急線内の駅で降りた様子は無く大月駅を過ぎた模様』。この電車は最終的に東京駅に9時前に着く。

実は始発電車なら富士急線内のみの電車で大月駅止まりなのだが2本目と3本目はJR中央快速線に直通しており、それに乗ってしまった為に河口湖駅で確認出来る範囲の限界となる大月駅を通り越してJRに入ってしまい足取りが掴めなかったのだ。しかも、眞衣が今使っている定期券とは別に作って保管していた無記名のSuicaを持ち出したらしい。これが記名してあれば名前等のデータを元に下車駅を調べられるのだが、無記名ではそうもいかない。最もまだ降りていないだろうが。

駅に着いた時点で電車は大月駅を発車しJR中央線に入った直後。直通で無ければ乗り換え時間の兼ね合いで間に合った可能性もあるが、こうなると最早お手上げ状態となる。

怜奈の体調を考えると長くても半日以内に見つからなければ危ないが行先は大都会。乗り換えパターンは無限大にあり、その利用者数は富士急線の数千倍以上。思い付く場所を捜索しただけでは簡単に見つかる筈がない。

自分が『案内してあげるよ』と言ったばかりに…一人はあの発言を悔やむしかない。

怜奈の両親と一人の両親、更に眞衣からも来た。

眞衣は一報を受けてJRの駅では1番近い立川駅で降りてこないか見張っていたが、予定到着時刻を過ぎても降りてこなかった上にラッシュの乗客の多さでどれが河口湖から来たのかさえも分からずに諦めていると涙の絵文字が付いたLINEが届いた。

地元では行方不明者扱いでの公開捜索も検討されているとの連絡まで…

これはぼんやりしている場合では無い。今まで感じた事の無い恐怖心に襲われて部屋を飛び出した。最寄り駅まで徒歩15分だが今日は駅まで必死で走った。そこから渋谷までは各駅停車で10分。その間に見つかってくれれば…

しかし、願い叶わず渋谷の東横線地下5階ホームに着いた。件の快速電車は東京駅に着いた後の時間。ここから、まずは地上で探さねば…


怜奈は病院で診断を受けた際に再びの入院を宣告された。急変に近いが訳あって入院日は3週間後になる。恐れていた事態は現実になってしまった。波が激しいとは思っていたが、それが本当に悪化だとは…

何とも言えない虚無感に襲われて何もしたくない気分。今まで幾度と無く死を覚悟してきた。しかし、この入院が指すものはあまりに大きい。

医師からは入院前には外出もなるべく控えるように指示があった。何もかもを遮断されての入院…即入院で無かったからと言って喜べる話ではない。受け入れ体制が間に合っていないから入院出来ないだけの場合もある。しかし、急変に近いのにそれはないだろう。だとすると最早、改善が絶望的で終末治療かも知れない。怜奈の場合はそれが有り得る。

この指示が出たのは10年ぶりである。その時は孤独に耐え、無菌室で3ヶ月闘った末に1年後に退院した。退院した日に祝ってくれた一人の存在を忘れられない。

しかし、次に同じ状態になった場合はこれより更に大事になる可能性があると伝えられていた。今の自分には最早絶望しかない。携帯に遺書を打ち込んだり、自殺方法を調べたりもした。ただ、どれもある心残りが引っかかり納得がいかなかった。

怜奈にとって唯一の心残り。それは一人が住む東京に1回も行けていない事だ。どうせ最期になるなら…

私には終わりが見えている。だったら、夢を叶えて終わりたい。一人には悪いが私の最期の願いを自分で叶えよう…

前日には早朝5時に近くの神社にタクシーを配車してもらうように初めて電話で予約した。


決行当日の早朝、震える手でそっと玄関のドアを開けて慎重に神社まで歩く。幸いにして誰にも見つからずにタクシーに乗ることに成功した。早朝の町は不気味な位に静かでいつもは沢山居る外国人観光客も居ないし、河口湖駅もひっそりしていた。

数日前に見つけてから残高を増やしておいたSuicaを改札機にタッチして、最初で最期の鉄道旅が始まった。

河口湖駅を午前5時49分に出発した電車は最初はガラガラで走り出し、少し前に富士吉田から改名された富士山駅で進行方向が逆になる。少しずつ乗客は増え始めながらゆっくりと富士急線を走り、1時間近くかかって大月駅に着いた。ここではそれまで4両編成だったのが増結をして10両編成になり、JR中央線に入って東京を目指す。その車内で俗にいう通勤ラッシュを初めて見て惑っていた。最短2分10秒間隔という超過密ダイヤでありながら、乗車率は最大180%を超えてしまう首都圏屈指の混雑路線。これで立っていたら押しつぶされてしまうのでは無いかと不安になる。こんなシーンは河口湖では見たことが無い。確かにバスに乗り切れるかどうか?というのはあるにはある。だが、当然ながらこれ程に混み合うことは無い。

『この中で生きているんだ…』

思わず一人と眞衣に尊敬の念を抱いた。この混雑ではカバンから下げてある『ヘルプマーク』は当然ながら、全く効力が無い。見納めだと思い河口湖を出る時は富士山が見える側の座席に座った。山間を抜け高尾駅で郊外へと出てから多摩川を渡り、未央の部屋から1番近い中央線の駅となる立川へ。地上から高架に上がり、三鷹駅からは黄色い帯の各駅停車が横に並走し始め23区内に入ると大都会新宿の高層ビルが見え始める。

座席の前は大混雑しているので人の顔しか見えない。怜奈は乗客に怪訝な目をされるのも構わず、顔を窓側に向けて懸命に外の景色を見ていた。

『ここに乗っている人はまだ見られる。けれど、私はもう見られないんだから…』

1つ1つ、現れる景色にこんにちはとサヨナラを積み重ねながら懸命に過ぎ行く景色を見つめる。電車は新宿を出ると神宮外苑から外堀沿いの緑を経て大手町のオフィスビル街の横で再び高架に駆け上がり、終点となる東京駅のホームに滑り込んだ。大量の人と共に下ろされた怜奈。若干は身体は持ちそうだが残されたチャンスは少ない。携帯はやかましい事になっているに違いないので使いたくないし、電源も入れたくない。ただ、一人の番号だけはメモしてある。公衆電話さえあれば…自分では分からなかったので駅員に聞いて設置場所を教えて貰った。また震える手で番号を押す。公衆電話からでは繋がらないケースもあるが、どうやら繋がりそうだ。あとは出てくれれば…


一人の携帯が振動したのは渋谷駅の複雑な通路を地上に向けて移動している途中だった。何かと思ったがやけに長くバイブレーションが震えるので、電話だと分かり出てみた。発信元は見なかった。

『もしもし?』

『あっ…出てくれた…』

間違いない。怜奈の声だ!ブーっと音がして、公衆電話からだと分かった。

『え!?怜奈!今何処に居るんだ!』

『ゴメンね…迎えに来て欲しいの…でも着くまではみんなに秘密にして欲しい。』

秘密…これは…迷いに迷ったが、破れば怜奈の溜め込み過ぎた物が崩壊しかねない。守ってあげよう。

『何処に行けばいいんだ!?』

『東京駅だよ…駅員さんにね…ベンチのある場所を教えて貰ったから…』7・8番線ホームと居るからと伝えられた。

『今すぐ行く!だからそこに居てくれよ!』

『うん。それは守る…ゴメンね…お願い…』そこで切れた。小銭切れだろうか。まさかだったが…よりによって。か細い声は今にも消え入ってしまいそうなと表現したくなるもので不安は増大するばかり。

渋谷駅から東京駅へ急ぐ。今はそれしかないしとにかく行くしかない…『待っててくれよ』と祈るしかない。


午前9時を過ぎた東京駅。怜奈は教えて貰ったホームのベンチに座る事が出来た。ここまで来たら一人に会うまではこんな所で寂しく死にたくはない。ほとんど無い食欲の中で売店で買ったおにぎりを半ば無理矢理食べ、終わるとミネラルウォーターで大量に処方された薬を飲む。いつもは嫌々だが今は素直に薬を飲む。飲まなければこのままでは危ないと分かるレベルで、当然ながら体調は河口湖を出た時よりも確実に悪化している。それは電話した後も悪くなり続けているのが分かる位だ。

普段は役場やスーパーまで1人で出かけたとしても、帰宅するまでは1時間から長くても1時間半。4時間以上も外出したことは無い。高校も一人と一緒に県の関係者と交渉してやっと通学許可が出た。普通なら特別支援学校に行かせるのすら躊躇われる。万全を期した体制が敷かれ、体育はもちろん不参加。だから通えただけだ。

そんな状態で無理をしたのが災いしたのか病魔は少しずつ怜奈を蝕み始めてる。強烈な目眩がするし、身体のあちこちが激しく痛む。思わず幾度も呻き声が出る。表情とその声に通行人も心配そうに見つめる。ついには連絡を受けて、駅員も『大丈夫ですか!?』と声をかけに来る。確かに苦しい瞬間はあるにはある。でも…やっと来たのだ。絶対に一人に会いたい!

『もうすぐ、迎えに来てくれますから…大丈夫です…』と微かな声で答えた。

『お願い。落ち着いて…』

その願いは通じた様で、何とか症状は落ち着き始めた。


30分ちょっとがあまりに長く感じたその時、視線の先に一人の姿を見つけた。この大都会で見るその姿は救世主そのものだった。

怜奈は来てくれた嬉しさから興奮して立ち上がると、『ありがとう。大好きだよ!』と残った力を振り絞るように出せる限りの声で言った。

しかし、間が悪い事に発車する電車と横のホームに滑り込む電車の轟音に掻き消されて何も聞こえない。叫んだ影響と両方の電車が引き起こす風で体力が奪われて、フラフラしている。

一人もそれを見て走ってきた。何を言っているかは分からないが唇が動くのだけは見える。だが、それよりもとにかく危ない。怜奈のもとに辿り着いた時は静寂とはいかないが発車した電車は通り越した後で少し落ち着いた。しかし、フラフラの怜奈にもう1度言う元気を求めるのは無理がある。一人はしっかりと怜奈の目を見てから微笑みを見せたあとに大きく頷いて、怜奈に抱きついた。広大な東京駅で見つけられた。まずはそれにホッとしていた。

『怜奈…ダメじゃん。来ちゃダメでしょ?悪い子だな…』

続きを言いたいのだが涙が止まらない。いつかは2人で東京を楽しみたい…それは一人も思っていた。ただ、普通では絶対に叶わないと…

こうして、怜奈が約束破りをして目の前に居る事が嬉しくもあり悲しくもある。

怜奈も『ゴメンね…私…』とだけ言った後に涙が止まらなくなっていた。

一人はいつも『怜奈の身体は怜奈だけの物じゃない。何かあったら溜め込まなくていいから、いつでも俺に言ってくれ』と言っていた。

今回はその約束を破った。全てを溜め込み過ぎた上に通勤電車に3時間、距離にして110kmを何も持たずにたった1人で乗ってきた。身体への負荷は想像を絶する物がある。1番好きな人との1番大事な約束を破ったのだ。

目の前にいるのに大切な物が少しずつ遠ざかっていく様な気がする…

少しするとより落ち着いてきたが、怜奈の体調は気がかりなままだ。実は一人の部屋と眞衣の部屋には最低限の用意がしてあった。これは脱走云々用ではなく、体調面で問題を抱えた怜奈の身の回りで何かがあった時の為だ。

本来は一人が備える必要は無いのだが、もしもがあったら困るという一人の強い希望で用意される事になった。もちろん、セッティングも出来る。眞衣の部屋にはその先例に倣って用意された。

万が一に備えていたのだが、奇しくも役立つ事になるとは…眞衣も来てくれるという連絡が来た。


見るからに調子の悪い怜奈を一先ずは部屋に連れて行く事にした。地下鉄は辛いだろう。かといって、山手線からだと渋谷駅の乗り換えは2階から地下5階まで移動する為に歩く距離が長く厳しくなる。

いろいろ調べた結果、最も楽に行けるルートとして出た京浜東北線と東急大井町線を使う方法を選んだ。

奇跡的に全ての電車で座れたし、大井町ではSuicaの記録を消した上で身体障害者の割引で精算させてくれた。怜奈の体調も部屋まで持ちそうだ。最寄り駅からはタクシーで帰り、何とか部屋に辿り着いた。

ちゃんと話し合った結果、何とか怜奈の両親に報告は出来た。両親は『見つけてくれてありがとう』と泣いて喜んでくれたが、今日の晩は2ヶ月前から予約していた宿泊客が居るので迎えに行けるのは明日になると言う。それは一人の両親も同じ答えだった。この時期は釣り客が居るので、一見すると客の入りが微妙な平日であっても予約が入るのだ。もう少しすると、芝桜まつりの兼ね合いでまた利用が若干増える。

最低限の装備がある事を知っているし急遽、日中に眞衣が来てくれるので何とか1泊なら耐えられる。

眞衣の部屋の装備も持てる分は持ってきてくれると言う。

怜奈の両親はフル装備を持ってやってくる。だから、帰りの車内での体調変化は普通であればカバー出来ると聞いた。

そうすると恐らく、いつもの怜奈であれば回復次第では明日なら2~3時間程度の外出は出来ると見込みが立った。一先ずは怜奈を部屋に入れる。

『汚い部屋だけど…ゴメンな。』

そう言ってドアを開けて招き入れた。

『ううん。大丈夫。私こそ…ゴメンなさい。』

大学の資料とノート、アルバイトをしている家庭教師の資料用プリント、開いたままのノートパソコン、齧りかけのパンに飲みかけのコーヒー…

慌てて出ていった様子が伝わってくる。

ふと、怜奈がテレビ台に目をやると大事そうに置かれたクリアファイルに自分が卒業する時に書いたあの手紙を見つけた。その上の写真立てには修学旅行に行く前の日に2人だけで撮影した写真がしっかり飾られている。その写真に写る怜奈は涙目なのに顔はしっかり笑っている。直前まで泣き腫らしていたのだが、一人が『一緒に写真撮ろ!それを持って行くから!写メール要らない位送ってやる。怜奈と一緒に旅してる気分になるし、怜奈も寂しくないでしょ?』と提案してきたので撮った。撮影者は貴重な理解者だった桃子。おかげで寂しくは無かった。ただ、写メールは4日間で200通も来た為に通信制限寸前だった怜奈の携帯電話の通信容量を圧迫。帰宅後には一人が怜奈から派手に怒られるおまけが付いた。

まさか、まだあったとは…怜奈は一人の優しさにただただ脱帽するだけだった。

『用意出来たよ』

優しい声の一人に促され、入れてもらえた部屋。そこには一人がいつも使っているであろうベッドの周りに怜奈が必要としている物が取りまとめられていた。

『ゴメンね…』そこに横になると不思議と涙が止まらなくなった。器具に囲まれているとはいえ、ここは一人の部屋。いつも使っている部屋とは何もかも違う。それ故に、申し訳なさと2人だけで一緒に居られる幸せに涙が溢れてきた。

『今日の怜奈は泣いてばかりだぞ。約束破りしたんだから、もっと強くならなきゃ。まぁ、今日は特別に側に居るから。好きなだけ休んで好きなだけ寝て…明日はちょっとだけなら出掛けていいって言われたから。それまでに元気になる事!』

そう言う一人でさえ泣いていた。強くなれと言う自分も強くならなきゃダメだろう。

『かずくん、本当にありがとう。今日はゆっくりします。でも…かずくんの涙、似合わないな(笑)』

そう言うと手を差し出してきた。

『似合わないってなんだよ(笑)』

握りしめたその手の力のか弱さが危うい事をした証だった。

『なんか落ち着く。かずくんの匂いがするからかな?』

そう言いながら目を閉じ、ゆっくり眠った…


怜奈が眠ってしばらくした頃、眞衣がやって来た。慌てた足取りで息を切らして来たので聞けば、最寄り駅からここまで来るのに15分かかるところを10分半で来たという。運動が出来る眞衣とは言え、重いものを持っている上でのこれはかなり厳しい。部屋に招き入れると、落ち着かせる為に座ってもらった。

『姉の状態はどうですか?』

そう聞く眞衣もまた涙目だ。

『うん…やっぱり、かなり体力が落ちてる。ただ、状態は悪くないみたい…今は寝ているよ』

眞衣はベッドで眠る怜奈に目をやる。いつも弱々しい姿だが、今日は一段と弱く見える。

『今日は本当にゴメンなさい。迷惑かけてしまって…斉藤家を代表して私が…本当にゴメンなさい!この通り!』

いきなりの土下座。

『謝らなくていいよ。悪いのは俺だから!』

眞衣に謝らせる為に来て貰った訳では無い。本当に謝るなら自分だ。一先ず、持ってきた装備を交換用としてセットした。これを夜に代えれば恐らくは大丈夫だろう。

『私もかずさんに伝えたかったんです。』

眞衣はそう切り出すと、淡々と話し始めた。

『姉は…かずさんが大好きで、いつもかずさんの話ばかりでした。』

目には涙が滲んでいる。

『私から見て、本当の恋人じゃないか?って…もちろん、違うのは知ってます。私も公園で姉の監視役なのに一緒に遊んでしまったりしていたし。身近で見てきたので…』

懐かしい話も出るが、いつもと違う雰囲気だ。

『実は姉は…お姉ちゃんは…』

『どうしたの!?』

泣きながら言葉に詰まる眞衣。こんな姿は初めて見る。

『姉自身、分かっているんです。先が長くない。終わりが近いって…次に入院したらもう終わりだって…私に言ってきました。』

そんなだったとは…

『昨夜、私に教えてくれたんです。もう無理って…最近は調子が悪くて、病院の先生にも外出を禁止されていて。それで今日になってこんな事をしたんだと思います。自分の身を削ってまで。だから、だから…』

言葉が出てこない。

『だから…姉がもし少し動けるようになったら、姉と2人で…姉に東京を見せてあげてください!私、もうここの区の保健福祉課に車椅子頼んでありますから…何でもします!本当にお願いします!もしも何かあったら…何かあったら…』

また詰まるがもう2人とも号泣である。

『その時は…私が責任取ります。だから、お願いします!お姉ちゃんの夢を叶えてあげてください!』

また土下座をしてきた。どうすればいいんだ?一人には分からない…断って休ませるのがいいのか、命を削ってでも連れ出すのがいいのか…

『ゴメンね…ちょっとだけ、相談させて…ちゃんと答え出すから!』

そう言うと、ベランダに出てから1度だけかかってきた番号に電話をした…相手は桃子。今日は休みか出勤か…出勤なら出る筈は無いが、果たして4コールで電話は繋がった。

『忙しかったらゴメンね。実は…』

事の詳細を話すと桃子は絶句したが、少し間が空いてからゆっくりと話を切り出した。

『カズは優しいし、いい人を演じちゃう。だから、引き受けちゃうんだよね…分かるよ。』

『うん…多分、そんな気がする。』

『私は止めないよ。カズが後悔しないようにするしかないからさ。実はね、私は明日も休みなんだよ。だから、もし必要なら私も行く。辛いのならね。その時はまた電話してね。あと、何かあったら報告して。カズだけで責任負わないようにしなよ。だって…もしもその通りだとしたら、泣いても笑っても最後なんでしょ?そこまでしてもらえれば、怜奈はきっと幸せなんだと思うよ。でも…カズがずっと責任感じて暗いままだったらさ、怜奈も悲しいよ。だから、それが出来ないならやめておいた方がいいよ。あと、今メモ出来る?もう1人分の番号を教えるよ』

そう言われてメモを取ったと伝えると涙ながらにこう言われた。

『ありがとうね…こういう話をしてもらえて私は嬉しい。また辛かったらいつでも連絡してね。私には経験無いけど、そういう別れって本当に辛いって聞いたから。自分を責めないでね!あと、怜奈によろしくね…』

それで電話は切れた。やはり衝撃的だったようだ…


放心状態でいると、メモをしたはずの番号からの電話が鳴った。出てみると高校時代の副担任からだった。

『白石君…お久しぶり。山下さんから手短に連絡来たから電話してみたよ。』

自分にはあれだけ長く話してくれたのに、こっちは短時間だったらしい。相変わらずいつも通りの桃子ではあるが、こんな重い話は自分から話すべきでは無いと感じたのかも知れない。わざわざ忙しい授業そっちのけで電話してくれたのかと思ったが、副担任だった久保沙耶香は書道教師。つまりは担当する授業の間に当たるだけらしい。因みに担任をしていた男性教師は自分達の卒業と同時に山梨市の高校に転勤したので、もう母校には居ない。

『わざわざすみません…実は…』

『斉藤さんの件だよね。親御さんから連絡があって…心配していたけど、無事に見つかって良かった…今はどういう感じなの?』

朝の時点で連絡が来ていたようだ。また最初からしっかり話してみた。すると、電話の向こうではやはり涙声が聞こえてきた。

『斉藤さん、そんな重症だったなんて…私は時々報告を聞いていたんだ。あの子、よく話してくれて。2週間ちょっと前にね…夜に白石君を妹さんと駅まで迎えに行ってから一緒に帰ったって楽しそうに元気に話してくれたんだ。秘密作っちゃったの!って凄く明るく。だから…つい安心していたのに…』

誰しもがこの展開には驚いている。しばらく無言になっていた。

『本当は私の立場からは反対しなきゃダメなんだけど…』と前置きした上でこう続いた。

『人間ね…サヨナラって何度もあるんだよね。大小を問わず、1つの節目と言うか…その時には今までの思い出をその時いる場所に置いていく位じゃないといけない事だってある。そういう時は例え抱き合っていたとしても、激しく愛していたとしても…それを離して前向きに強く歩き出さなくちゃいけない。追いかけたってしょうがないし、それは相手を悲しませるだけだから。終わりって場合によっては躊躇って立ち止まる時もあるんだけど、それでも前を向く。多分…今回もそうなるとは思う。白石君がそれだけの覚悟を持っているなら私は止めない。それが出来るって本当に凄い事だからね。出来ないなら…やったらダメだよ。』いろいろな思いが巡り言葉にならない。

『でもなぁ…白石君はきっとやっちゃうんだろうなぁ…そういう性格だもんなぁ。修学旅行にしても、体育祭にしても…いつも写真持ち歩いていたよね。別々になったら、写真を撮っては斉藤さんに送っていたし。私、最初は白石君は斉藤さんの彼氏かと思ったよ(笑)』

おいおい。今、それを言うかよ…よりによって。

『あっ、言い過ぎた!ゴメンね…』

まぁ、悪気は無いだろうから許す事にしよう。

『斉藤さん、羨ましいよ。本当に幸せだと思う。こんなに立派で一生懸命考えてくれる友達が居てくれて…でも、抱え込んじゃダメだよ。白石君はちゃんと前に進むんだよ!絶対に!約束!』

そう言われた。

『分かりました。忙しい時間にゴメンなさい。ありがとうございました。考えて動きます。』

『また何かがあったら電話して。こう見えてもみんなより年上なんだから、相談なら大歓迎だからね(笑)』

久保は2年生の時に韮崎市の高校からやって来た。母校で2校目になる。ボーっとしたタヌキ顔に見えなくもないが、それがまた愛嬌なのだろう。美人書道教師と持て囃されるが、本人はキッパリ否定するのがお約束となっている。どの教師よりも絵梨の症状に向き合ってくれた恩は忘れられない。

『2人に幸あれ!』

そう結んで切れた。


覚悟を決めた。もうどうにもならないのなら…眞衣の言う事を受け入れよう。ベランダから戻ると怜奈の手を握り、ジッと見つめていた眞衣が振り返った。

『眞衣ちゃんの言ってる事が合ってるのなら…言う通りにするよ。それが正解か分からないけど…怜奈の為になるのなら…眞衣ちゃんも辛いんだろうし…気持ちは分かるからさ。』

『本当ですか!?ありがとうございます!私のわがままで振り回してしまって本当に申し訳なくて…何なりと言ってください。何でもしますし、何でも受け止めます!』

2人とも覚悟を決めた瞬間だった。

こうして、怜奈の為に必要な用意が始まった。眞衣がレンタルを予約をした車椅子は駅の近くにある区民キャンパスで一人の名義で借りる事が出来た。歩道の移動に難がある可能性があるが、最悪はタクシーを使えば大丈夫だ。最初の1回は様子見に眞衣が押してくれると言う。これなら体力低下を最低限に抑えられる。最寄り駅にも車椅子利用についての連絡を入れて確認した。どうやら、時間と降車駅が決まったら教えて欲しいとの事だった。朝のラッシュ以外が望ましく、どうしてもラッシュに当たる場合は女性専用車両のバリアフリーゾーンを割り当ててくれると言う。女性専用車両には身体障害者及びその付き添い者は男性であっても乗る事が出来る。乗る時は隣の駅から応援の駅員が来てくれると伝えられた。更に念の為にJRにも確認したが同じ様な答えが来た。

夜に交換予定だった器具は車椅子と一緒に使う予定に切り替えた。当初の予定はあくまでも万全を期す為だったので、朝まで使用しても問題は無い。

何処に行くべきか、数ヶ所をリストアップした。バリアフリーで行ける東京らしい場所…交通手段も含めてパソコンでリストを作成しPDFにして眞衣と共有する。後はこの中から怜奈に選んでもらう。


バタバタと準備が終わり一息ついた後、夕方近くになって怜奈は目を覚ました。相変わらず、体力低下している様子が見られるが眠る前よりは体調は良さそうだ。起きてすぐに眞衣を見つけて呆然としている。何故にこの場に居るのかを理解出来ていないようだ。

『眞衣…何で居るの?』

事態を説明してあげた。

『そうなんだ…ゴメンね。私のせいで振り回して…』

『お姉ちゃん、体調は?』

『うん…いつもよりも少し悪いだけだよ。寝たり座っているだけなら大丈夫。』

そうと来た。そこで思い切った提案を一人はしてみた。

『あのさ、夕飯食べる元気ってある?もしあるなら、買い物行こうよ。今日は特別に夕飯作ってやる!…それに怜奈の為に秘密道具を用意してあるからさ!』

そう言って視線を送った先には車椅子がある。要は明日の練習を兼ねている。これなら怜奈は体力を使わないから買い物だって行きやすい筈だ。

『えっ!?用意って…あれがあれば2人で買い物行けるって事?』

『うん。行けるよ!ここにはマイカーは無いから、本当なら歩かなきゃなんだけど…あれがあるから怜奈は何もしなくても大丈夫!まぁ、眞衣ちゃんが用意を手伝ってくれたからあるんだけどね…』

この気遣いは何処から来るのだろう。一人にしても眞衣にしても出来すぎだ。怜奈はまた目を真っ赤に腫らしていた。

『ありがとう…私、夕飯食べるよ!だってかずくんの料理、食べたいし(笑)!』

そうと決まれば話は早い。

『もう少ししたら出るから待っててね!』

流石に2階から1階に降りるのは車椅子では無理なので、一人が背負って降りた。あまりに軽いその身体に泣きそうになるのを必死で堪える。1階でセットした車椅子に怜奈を座らせたが意外に苦ではなさそうだ。

スーパーは緑道を通って行った先にある駅の中。もう1軒あることにはあるが、眞衣が帰る都合もあるのでそこを目指す。

『かずくん、こんな所に住んでるんだね…悪くないじゃん。いいなぁ…』

『住環境は確かにいいよ…ただ、家賃高いから大変だけどね(笑)』

場所柄、家賃が高いのは仕方ないが割に合わない感じはしないのでバイトをしていれば何とかなる。緑道沿いの道はそこまで交通量も無く案外と苦労する事がないまま店に着く。店内に入るなりいろいろと見ながら買い物を始める。本来は怜奈は食が細いのだが、一人が作ると聞いていつになくあれこれ選んでくれた。中には作れるか?といった感じの物までカゴに入れようとしたが、何とか無難に済ませる事に成功してまずは一安心。今日の食費は怜奈と眞衣も少しずつ出すと言って譲らなかったが一人は全てを支払った。ここまで大変な時に払わせるのは酷な話でしかない。それは分かっているしこんな時に払わないなんて男らしくない。

夜にサークルの予定がある眞衣は悩んだ末に顔を出す事にしたので駅に行くと言う。まだ入ったばかりなのでいきなり休むのは避けたいという理由だ。これは一人も経験があるのでそれは分かる。

そこで車椅子を眞衣の代わりに押してみた。意外とすんなり動いてくれるし、思ったよりも軽く感じるのでこれなら大丈夫だ。明日はまた来てくれる事も分かっているし一先ずは安心していい展開になった。行き先リストもPDFになっているから、眞衣も分かるだろう。

3人で駅まで行くと、眞衣は『すみませんが後はよろしくお願いします!』と言って頭を下げてから自動改札を通りホームへ上がって行った。その姿が見えなくなって、すぐに下りの各駅停車が入ってきたがこれは逆方向の電車になる。沢山の人が降りてきて、ベルが鳴り頭上を走り去っていく。

一人が『行こうか?』と言うと怜奈は語り始めた。

『なんか…電車が通る音って好きだなぁ。近付いてくる気配って言うか…きっと、いろいろな夢とか希望を乗せて走ってるんだよね。もしかしたら中にはそうじゃない人がいるかもしれないけどさ…私、今日初めて電車に乗って思ったよ。楽しい!って…』

『ここは各駅停車しか止まらないから半分は通過で相手にされないけどな。』

そう言うと時を同じくして、通過する上り電車が駆け抜けた。頭上から轟音がしたが、僅かな時間で鳴り止む。

『私はあの音だけでも夢を見る事が出来るよ。どこまで行くのかな?とか、そこはどんな場所なのかな?って。』今までは気にしたことは無かったが、言われてみると気になる。この東急東横線は地下鉄副都心線を挟んで東武東上線や西武池袋線と直通運転をしているので上りには行先がたくさんある。一人もよく利用しているが渋谷、新宿三丁目と池袋以外はその行き先が何処なのかさえさっぱり分からない。ただ、終点まではかなり時間がかかる事位は分かる。対して下りの行先は各駅停車は元町・中華街ばかり。行き止まりだから当たり前ではあるが、こちらの方がまだ場所が分かるので安心感がある。

『きっと私が元気で自由だったら、何処にでも行っちゃって困るだろうなぁ(笑) 落ち着きなさそう!今日だって勢いだけで来ちゃった位だしね…』

確かに怜奈ならそうかもしれない。それを思うと不思議とおかしくなってしまう。そして、自分が今見ている笑顔がどこか寂しげに感じる。

『あっ!次が来るね!止まらないかな?』

一瞬の音が気配になる。

『タイミングとしては通過だね。』

耳を澄ませなければ聞こえない位の小さな音の後にまた轟音がする。今度は下り電車が通過した。

『本当に通過だ!よく分かるね!』

基本的に上下線共に隣の駅で各駅停車は後続の特急や急行を待ち合わせてから出発する。結果としてパターン化するので、使っているうちに覚えてしまった。但し、朝夕の各駅停車のうちの2本に1本はこのパターンから外れるので要注意ではある。

『面白いね。初めてだよ。こんな事に面白いって思ったのは…かずくんのおかげです。本当にありがとうね。』

これ位なら、何だってしてあげられた筈だ。ただ、今まではしてあげられなかった。それが心残りで仕方ない。

『気にしなくていいよ。怜奈の笑顔って見ていて元気になる。そうやって笑顔で居てくれるだけで幸せだよ。こちらこそありがとう。』

本当は怜奈が好きだ。それをちゃんと言わなくてはいけない。でも、言えない。そのもどかしさ…見つめ合うと、まるで星空でも見るかのように見入ってしまう。


そうしていると、頭上からは上りの各駅停車が来た音がする。これに眞衣は乗る筈だ。渋谷まで出てから京王井の頭線と京王線を乗り継ぐ。サークルの集まりが開かれる府中や部屋がある聖蹟桜ヶ丘までは、これが最安値になるだけでなく最速ルートだ。出発を確認すると、来た時と同じ緑道を部屋まで2人で帰った。


正真正銘の2人きりは今晩が初めてだ。ただ、最後になる可能性が高い。狭い部屋なので、怜奈の休むベッドからでもキッチンは見えている。そこに立つ一人は何としても喜んで欲しくて、つい気合いが入る。トントンと材料を切る音がする。怜奈の為なら苦にはならない。

『何か楽しいな!』

れの方を向いた一人の顔は嬉しそうだった。

『本当に楽しそう!私も楽しみに待つね!』そう言って怜奈は、ニコニコとしながら後ろ姿をいつまでも見続けていた。

待つ事30分…

『出来たよ!』と言われて出てきた物を見ると、本格的な品物が並んでいた。

『怜奈の栄養を考えて作ったよ!食べられない物はある?』

『凄い…本当に美味しそうな物ばかり!』

イメージと違い、和食中心なのにはびっくりしたが。

具が数種類入った味噌汁に魚の煮付け、ほうれん草のおひたしに最後は豚肉の生姜焼き。かなりバランスを考慮して作ったであろう品々だ。怜奈が苦手な食べ物は、幸いにしてこの中には含まれていない。と言うより、材料の購入段階で食べられない物をちゃんと言っておいたので、入っている訳が無い。

『ちゃんと食べられる?』

『もちろん!ってか、凄いね!美味しそう!頂きます!』

『どう?』

『美味しい!家庭的な料理作れるんだね!やっぱり私より上手だ!』

『自炊生活3年目だからな(笑)それに外食はなるべくしたくないからね!』

家賃に往復交通費…なるべく食費にお金をかけたくなかった。有り余った物やスーパーの特売品で何品作れるか?それによって、食費の大幅カットも夢ではない。故に、一般的な主婦よりレシピが多い自信すらある。

『あ~あ…将来、結婚大変かもね(笑)こんなに料理出来たら、お嫁さんが来なくなっちゃう(笑)』

それは禁句だ。

『それは言うなよ!まぁ、実際によく言われているけど(笑) 』

本当に言われているから洒落にならない。いいのか悪いのかも分からないが。

『冗談だよ(笑)私の分、全部食べちゃってもいいの?』

『もちろんだよ!その為に作ったんだから(笑)』

食欲が出れば、元気になる。そうなれば明日に繋がる。

『う~ん!美味しかった!私、幸せ!』

大満足して貰えて何よりである。


夕飯を無事に食べ終えてから洗い物が終わると、一人はパソコンを開いて怜奈に見せた。

『はい!これが東京の観光リスト!明日は何処に行きたい?』

大層なリストになっている。バリアフリーについても調査済みだ。『わぁ!いっぱいあるんだね!でも…選べないよ…全部行きたくなっちゃうから…どうしよう!』

そう言われるのは分かりきっているが、闇雲に迷うのも困ってしまう。車椅子の都合や電車の都合もあるのだから。

『何処がいいかな…?』

怜奈はいくつかリストアップした中から、東京スカイツリーとすみだ水族館、それに渋谷に行きたいと言う。

『河口湖に居たら、絶対行けないじゃん!だから…思い切り楽しみたい!』

まぁ、それは間違いない。と言うか…怜奈には憧れの町だから目一杯楽しんでほしい。

『ちょっと待ってて!電話するから。』

最寄り駅に電話をして、ルートと時間を伝えた。ここからだと渋谷で地下鉄半蔵門線に乗り換えてから、押上まで行くのが最速だ。スカイツリーの営業開始時間の8時に合わせて、思い切って最寄り駅を6時半出発にしたが、利用の了承は得られた。渋谷から先は混雑が予想される為に女性専用車両に案内するとも伝えられた。

『明日は早起きだね!ねぇ?だから夕飯も早かったの!?』

『まぁね…』図星。時間はまだ7時半なのだが、怜奈はもうベッドの上だ…眞衣に一応、LINEだけは送っておいた。

~明日は6時半出発のスカイツリー→水族館→渋谷です。最初からだと朝早いから、渋谷合流でもいいからね。~

今日は一生懸命頑張ってくれた眞衣。少しでもゆっくり休んで貰いたい。

『あっ!俺が寝る場所が無い!』

唯一のベッドを怜奈に譲ると寝る場所が無くなる事に気付いた。

『そうなの!?私の隣で良ければ。寝相悪くないからさ(笑)』

う~ん…一人も寝相は良い。ただ、器具がある。万が一これに何かを生じさせたら洒落では済まない。いくら、壁側にセットしたとしても…

『あれがあるからなぁ…』

遠慮していると言うよりも自重している。だが、怜奈も引かない。

『も~!隣で寝てよ~!1回位いいでしょ!独りぼっちは嫌~!』

う~ん…いよいよ甘えが出てきた。でも、一人も答えが出ない!確かに怜奈の気持ちも分かるのだが。すると眞衣からLINEが来た。

~決まりましたか!分かりました。お気遣いありがとうございます!あっ、寝る場所無くないですか?~

鋭い…よく見ているなぁ。

~じゃあ、よろしくね!図星…怜奈が一緒に寝てくれ!ってうるさくて…あれがあるから怖くて…どうするべき?~

心の中を読まれている。悩んでいる事は伝えておこう。

~私、たまに一緒に寝ますよ!怖いから独りぼっちじゃ無理って言われるので(笑)あれは余程の事がない限りは逆サイドにあるので問題ないです。寝相が相当悪い人はダメですが(笑)姉も寂しいでしょうから、私からも是非…よろしくお願いします!~

マジか!こうなったら諦めるしかない…

~仕方ない…もう1度聞いて変わらなかったら一緒に寝るね。ありがとう!じゃあ、この後も楽しい夜を!~

う~ん…聞いてみようか。

『夜、ベッド使って1人で寝る?俺はタオルケットと長座布団で寝るからさ。』

『い~や~だ~!ここまで来たんだから、一緒がいいの~』

甘えん坊モードですか…久々にこうなったな。実は過去に2回、いきなり甘えん坊になって一人を困らせた。1回目は小学生の時、退院した次の日の学校帰りに怜奈の家に着いたのでバイバイ!と言った瞬間に嫌だ~!と泣いて飛び付いてきた。2回目は高校の修学旅行に行く直前に一緒に行きたいよ!と泣きついて離れなかった。どちらも解放されるまでには、かなりの時間がかかった。3回目になるのだが、今回も早々と泣き出した。

『折角、一緒に過ごせるのに別々なんて嫌だよ。私は下心なんて100%無いのに!眞衣だって寝てくれるのに、かずくんは冷たい!』

いやいや…今の怜奈の状態で下心あったら困りますから…そう言う自分も無いが。それに一緒に寝ないから冷たいって…とんだ甘えん坊さんである。

『い~や~だ~!一緒に寝てくれないなら明日は行かない!い~や~だ~!』

それは困る!この程度で明日がキャンセルになったら説明がつかないし、多方面に迷惑がかかる。流石に折れるしかないようだ。

『はいはい。明日は早いから寝るよ。仕方ないから一緒に寝るから…但し、眞衣ちゃん以外の誰にも言わないように!俺が説教されるから!』

『分かっているならよろしい!』

電気を暗くしてから、何だが不思議なテンションになっている怜奈の隣に勇気を出して潜り込んだ。朝から振り回されてクタクタなので、自分の布団に入れた事に安心感がある。ただ、今日は隣に怜奈がいる。妙なドキドキ感だ。

『俺の部屋じゃないみたいだな…でも、疲れが半端じゃないから今にも寝そう…』

朝から動き続けたから、まだこんな時間なのにもう眠い。

『今日はいろいろありがとう。本当に迷惑かけてゴメンね。あと、ワガママ言ってゴメンなさい…』

らしくない位に泣いてばかり。まぁ、それが無茶をした証拠なのかもとは思うが。

『泣くなよ…隣で泣いたら俺が眠れんよ。明日は5時起きだからな。今日は…来てくれてありがとう…』

怜奈が言われたかった言葉が聞けた気がして見てみると、驚く程早くに眠っていた。

『私より早いなんて…びっくりだな(笑)でも、嬉しいよ…大好き。』

そう言って、返事がないのが分かっているのにおやすみと言ってから頬にキスをして眠りについた。


運命の日がやってくる。

早寝した分、早く起きる事が出来た。一人は既に4時にそっと起きて、朝食を作ったり準備したり…怜奈を起こさずに出来たのはラッキーとしか言い様がない。

5時には目覚まし時計がしっかりと鳴った。怜奈も何とか起きる事が出来た。

『おはよう!』

そう言い放つ怜奈は昨日よりも元気そうで一安心した。早起きの効果で準備は6時より前に終わってしまい、少し早くに駅へ行くと窓口の係員に声をかけてサポートして貰った。今まで知らなかったが、その対応はこうなっているのかと驚かされた。誘導してもらった後に僅かな停車時間でテキパキと作業をし車掌に『降車駅は渋谷』と伝えてお終い。スロープであっという間に車内に入れた。昨日は体調が悪そうで見てるだけで厳しい物があったが、今日はまだ大丈夫だろう。少なくと一人にはそう見えた。

電車は中目黒で日比谷線と分かれ、代官山で地下に入ると渋谷に着く。昔は渋谷駅も地上だったが、大工事の末に地下化されて地下鉄副都心線と直通運転を開始した。ただ、地下駅になった影響でターミナル駅に着いた感じはしない上に他の路線のホームまでが遠くなった。渋谷で降りる一人にもあまり嬉しくない事だったりする。

渋谷からは地下鉄半蔵門線に乗り換えてスカイツリーがある押上まで行く。わざわざ女性専用車両の利用を指示されたので不安だったが、そこまで混雑しなかったのは救いだ。もう少し遅ければ確実にラッシュ時の混雑で女性専用車に立つ一人は辛い立場になったかもしれない。無事に押上に着けばスカイツリーはあと少しで誘導に従いながら進めばオープン時間の8時に無事に到着した。

『かずくんってスカイツリーに上った事あるの!?』

『俺は無いかな…やっぱり怜奈と来たかったからさ。』

本当にそうだったので念願が叶った。下で見上げてみると快晴でどこまでも青い空が広がっている。案内では季節は春なのに珍しく視界が広く見えていると言う。

障害者割引を使って買ったチケットを握り、いざ地上350mへ…そこには2人にとって見たことの無い景色が広がっていた。

『わぁー!凄い!』

思わず、歓声を上げる怜奈。生まれて初めて見る。

『おぉ!こう見ると凄いなぁ…』

一人も初めて来たので思わず見入る。近くはもちろんだが、遠くがよく見えている。

前日の夜中に小さな雨雲がかかって数時間程度の雨が降り、その雲が抜けた為に冬の様に澄んだ空気。遠景を見るには最高のシチュエーションだ。

『怜奈!あれを見て!』

指差す先には富士山が見えた。東京からは真冬にはよく見えるが、春となると霞がかかったりする関係上でレアでなかなか見る事は難しい。怜奈は昨日の朝に見納めになる筈だったが、もう1度見ることが出来た。

『あんなに遠くに居るんだね…やっぱりこう見ると実感するね。』

ずっと富士山の麓に居た訳だから、やっぱり東京は遠い。

『あっちが横浜。で、ちょっと左が房総半島…』

かなり見えているので目で追いながら説明するのは大変な状況だ。 ずっと飽きること無く見ていられる。

ここには強化ガラスで足元が見えるようにしてある場所がある。もちろん、怜奈は初体験だ。

『ほらっ!下を見てみな!』

言われて覗き込むと地上が見える。

『わっ!怖い!これ、大丈夫なの!?』

初めてだから、怖くなるのも無理はない。リアクションが可愛くていつまでも見ていられそうだった…この楽しい時間にタイムリミットがある事を忘れたいが確実に迫っている…

スカイツリーではしゃぎすぎた2人が地上に帰ってきたのは1時間後。あの後、結局は更に上の地上450mにある回廊まで行き、堪能してきた。


今度は水族館へ行く。

すみだ水族館の中に入るが、やはり平日の開館直後だけあって人影は疎ら。これが休日の日中ともなると大変な人出になる。『今日で良かった…』と本音が出る。怜奈は初めての水族館。見る物全てが新しい。ワァー!っと子供の様なリアクションをするのが微笑ましい。

『クラゲってキレイ!』と声が上がるクラゲの水槽…

『魚ってこんなに居るんだ!凄いなぁ…』と感心しきりでいつまでも見ていられそうな、メインの東京大水槽…そのどれもに見入っていた。

『怜奈と来られて良かった…』そう呟いた一人に怜奈が声をかける。

『それは私のセリフだよ。だって、かずくんが居なかったら私は来られないんだから…ありがとう!』

幸せな時間を刻んでいく。


すみだ水族館を出ると次の目的地は渋谷だ。聞いたところ、何が見たいと言う訳では無く雰囲気を味わいたいだけだと言われた。一人がいつも使っている場所だから見てみたいという思いなのかもしれない。押上駅まで戻ってから再び渋谷へ35分の地下鉄乗車。一人は立ったままでも眠れそうだったのでぼんやりしていた。だが…横では異変も起き始めていた…

到着した渋谷駅は無数の出入口があるが、車椅子で地上に出る事が出来る場所は限られている。分かりにくいといけないのて、宮益坂寄りの半蔵門線改札に眞衣を呼んでおいた。何とか着いた…

『着いたよ!ほら、眞衣ちゃんも居るよ。』

『うん。ありがとう。ねぇ…かずくん。握手して…』

『どうしたの?』

『何となく(笑)』

と握手した瞬間にそれは起きた…

するりと力が抜けた。

一人は一瞬で悪夢が起こった事を理解した。

『誰か!!』


そこからの記憶は見事に無い。あまりに衝撃的なこと故に何日も何週間も記憶が消えている…

ただ、気付くとこうして1人ぼっちで高架下のベンチに座っていた。まるで夢でも見ていたのだろうか…それは誰にも分からない。

サヨナラは何度もあるとは聞いていた。ただ、こんな形になるとは…

ぽっかりと穴が空いている様な感覚だ。

あれから何回も帰省はしているが小さな墓があるだけで、もうあの笑顔には会うことは出来ない…

あの日からしばらくして、ベッドの下から怜奈の置き手紙が見つかった。あの日、一人が早寝したあとにこっそり置いたものだ…


~かずくんへ~

無茶してゴメンね。私はとても楽しかったです。

本当に幸せでした。

でも、こうして迷惑かけてしまってすみません。

きっと…かずくんならいつもの笑顔で私にピースしながら前向きに歩き出せるはず。

私の事は後々、居たなぁって位でいいからね!

新たな素晴らしい出会いがありますように…

今までありがとう!

~斉藤怜奈~


別れに強くなれと言われても強くなんてなれない。それは人として当たり前だと思う。一人はいつも怜奈というかけがえのない存在が居てくれた事を思い出す。

この出会いが無ければ今の自分はなかっただろう。だから、悲しくても前を向く。

始まるって事は何かが終わる事なのだ。でも…


本当は終わって欲しくなかったし、何も失いたくなかった…守りに守りたかった。出来るなら何度だって抱きしめたかった。

この愛に代わるものはあるのだろうか?それは、きっとこれからも自問するだろう。

答えが見つかる日が来るまで…

このサヨナラの意味が分かるその日まで…


~END~

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