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言い訳を愛する

作者: nyannyan

 私は恥ずかしがっている文章が好きだ。

 謙遜は卑しくない。


 人生を通して人間は多くの文章に触れることになる。そして、その中で人は自分の文章に対する嗜好を形成していく。この文章が好きで、あれは嫌いだとか。より抽象的に考えるようになると、このような形式が好きであのような文体は嫌いだとか。このような嗜好は読者としての好みと筆者としての好みの二つに分けられるだろう。しかし、この二つが明確に異なるということはあまり考えられない。自分が文章を書くときの好みは、それまで読んできた文章によって醸成されてきた読者としての好みであることが通常である。なぜなら、文章を書く人は同時に自分の文章の読者となるからである。つまり、今書いている文章を確定する根拠は、それを自分が読んでみて納得できるかどうかということにある。なので、読者として培ってきた意識はそのまま筆者としての意識になるはずである。


 さて、私もある程度は人生を生きてきたので、私なりの文章に対する好みというものがある。細かい表現に対する好みなどを無視して、今の私に分かる範囲でいうならば、とりあえず私は羞恥心を備えた文章が好きである。そう、羞恥心を備えた文章。自分自身に対して自己言及的に恥ずかしがっている文章。ああ、具体的な行為は見せなくていい、ただ恥ずかしがっている素振りだけで私は満足である。恥ずかしさ。それは要求されるべき性質である。どうして学校教育で教えないのであろうか。恥ずかしさは気品を形作るのだ。誰かに見られる意識と独りよがりに自己に要求する意識。それは若き人の苦悩の現れ。つまり、不安定さや未熟、自意識過剰、そして、貴種意識。この世で一級の文化とみなされるものたちの原風景。ああ、なんと美しいのだろうか!


 と、少々情動的に書いてみたのだが、羞恥心を備えた文章とはどのようなものなのだろうか。文章における羞恥心とは、鋭い批判精神が自己に向けられたときにそう呼ばれるものである。恥ずかしさとは基本的に批判精神で構成されている。批判精神とは、ある基準や根拠でもって何かを評価する、特に下方に評価する性向のことである。批判精神は二つの点で、重大な作業を行う。一つは基準を作るということである。評価するためには何らかの基準が必要である。世界を観察して、ただ観察にとどまる者は批判精神を発効していない。それより一歩先に進み、何らかの基準や根拠を作らなければならない。これらは客観的で言語的形態を有するものだけではなくて、主観的で言語化しづらい感性的なものであってもいい。ただし、文章を書くものは何らかの形で言語化しなければならないのだが。それはともあれ、批判精神の活動のこの側面は、言葉の通りまさしく価値創造的な側面である。なぜなら、価値基準そのものを産み出すのだから。二つ目は、当たり前の話だが、評価するということを行う。価値基準を作るということは同時に評価を行っているように思われるが、というか生成過程を考えるとその通りなのだろうが、実際の人間の活動を考えると、評価をするという行為は別に考えなければならない。思考上は、価値基準を形成した瞬間に対象となるものたちはその評価軸のもとに並べられる(つまり、評価される)。そもそも、ある特定のものを下方に評価づけられるよう配慮して基準が形成されることもあるだろう。しかし、実践上、評価するという行為は別の一つの行為としてみなされなければならない。理由は簡単で、評価するのは疲れるからである。表現を行うという側面をさっ引いたとしても、何かしらの心理的コストをかけて評価という行為を行う。これは決定をするときにかかる心理的コストと似たようなもので、かなり大きなものである。なので、批判精神の活動の重大な作業の一つであり、実践的な側面と呼んででもよいだろう。このように、批判精神とは価値創造的で実践上大きなコストをかけるものであり、したがって、それが文章の上で発揮されているかどうかという点は大いに考慮されるべき事項であると考える。


 しかし、批判は優雅ではない。より正確に言うと、他に対する批判は必然的に少なからず気品にかける。優雅や気品とは公正の感覚とそれに由来する行為が持つ美的性質のことである。何か他を批判すると、必ず同じ批判が自己に向けられるとどうなるのかという反論が返ってくる。これは人類が持つ普遍的な感覚に由来するのだろう。例えば、倫理的基準における黄金律はその典型である。そして、公正の感覚とは、大きく言えばこのようなものの類の内に入るものである。つまり、公正の感覚は反論時に正当に発揮されている。上記の反論がその批判されたものによってなされるのは、他に対する批判である限り、決してその批判と同時ではありえず、必ず時間的に後になる。このとき公正の感覚は犯されることになり、それが持つ美的性質は毀損され、優雅さや気品に欠けることになる。ここで、批判時における想定反論は公正の感覚を正当にかつ常に十分に満たすものではないということを指摘しておく。


 上のような困難を回避するためには、論理的に考えて、自己に対する批判を行うしかない(消極的側面からの羞恥心の肯定)。そして、これこそが私が愛する羞恥心なのである。このような羞恥心は、具体的には、謙遜や遁辞に現れる。つまり、言い訳である。


 ここで読者諸兄に質問をさせていただきたい。言い訳は卑しいのだろうか。逃げ口上を先に述べるのは臆病と未熟の発露であり、見るに堪えない文章の欠陥なのだろうか。良く言ったとしても、せいぜい無駄な装飾に過ぎないのだろうか。私はそうは思わない。言い訳は美しい。確かに、論文のような、ある価値に奉仕する文章においては言い訳は無駄な装飾だろう。しかし、言い訳はそれ自体が美しい。言い訳は、人間の未熟が持つ本性的美しさを優れた形で表している。


 そもそも、人間の未熟は美しい。美しいという概念の内には愛おしさを感じる、愛着を抱く、といったことが含まれるだろう。人間が持つ未熟に愛おしさを感じるのは事実として認められる。例えば、青年がみせる未熟さ故の熱情や苦悩は愛おしい。ここはいろいろと考えたいのだが、今はおいておく。そして、このことはとりあえず今は前提として認めてもらいたいのだが、未熟の何が美しいかというと、それは強者のようにある一つの価値観を信奉しているのではなく、未熟であるが故に複数の価値観の上でさまよっている姿が美しいのだと私は思う。未熟が持つ意志の弱さやその価値観の未成熟といったものが、美しさの本性なのではなく、迷うことが未熟の美しさの本性である。そして、迷いというのは価値観のせめぎあいである。これはまさしく自己批判、つまり、恥ずかしさの活動である。自己批判とは、ある価値基準によって導かれた自分の行為を別の価値基準でもって評価することである。評価の実践上の錯誤を正すことではなく、新しい基準を産み出す批判精神の活動である。自己批判とは、恥ずかしさの発露であり、迷いであり、未熟の本姓であり、それ故、それ自体で美しい(積極的側面からの羞恥心の肯定)。


 どうだろうか。恥ずかしがっている文章、つまり、言い訳を私が愛する理由をご理解いただけだろうか。


 さらに、より粗雑に考えると、説明とは言い訳のことである。もっと言うと、どんな文章でもそのほとんどの部分が言い訳である。ある文章が伝えたいことというのは、優れた読者でかつ書き手であるような者にとってはほんの数行で書けるはずである。ちなみに小説も例外ではない。小説とは本当に伝えたい心理的状況を導くために延々と舞台設定と物語の展開という名の言い訳を行っている文章のことである。このように考えるならば、少々目立つだけの言い訳や逃げ口上をどうして恥じる必要があるのだろうか。


 あなたが誰かと会話をしているとする。相手が何か回りくどい言い訳をしてきた。どうか卑しいと思うことなかれ。その未熟とその弱さを愛してください。どうか昨今、巷に溢れる率直な物言いと断言を賛美するあの風潮に流されることの無いように。言い訳を喜んで受け入れてください。それが聞く者の気品ある態度というものです。なぜなら、あなたもおそらく未熟なのだから。


 そして、私のこの文章が冒頭二行の言い訳に過ぎないことを笑顔で受け止めてくだされば幸いです。


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