1章⑦
バーラウンジを出てガラス張りのエリアを通過し、時代遅れな木製の二枚扉を開けると、まだ改築が済んでおらず天井にはおそらく地上階につながっているであろう野ざらしのパイプが張り巡らされている通路に出る。その最奥にあるのが部長専用の部屋、通称〈皇帝の間〉と呼ばれる部屋だ。
〈皇帝の間〉に着くまでの間に葛原さんが先輩の話を補完するようにEcclesiaの仕事内容、そして『バベルの塔』でのルールともいえる注意事項を教えてくれた。
まず、先程言っていたEcclesiaの仕事内容、新夢遊病患者の〈治療法〉だが、これには大きく分けて3つのものがあるらしい。
一つ目、新夢遊病患者自らの手でログアウトをさせること。
説得、脅迫、交渉など様々な手を使って主サーバーとの通信なしでも実行可能な自発的ログアウトを実行させることで、案内人とプレイヤーの接続を解除できる。
Ecclesia発足当時には、現実世界に帰ったときに報酬を渡すという虚偽の約束や、このままログアウトを実行しないと精神が崩壊するといったデマで脅迫したりすることで大抵の新夢遊病患者はログアウトを行っていたらしい。
しかし、新夢遊病患者のニュースが多く報道され、ログアウトの(その後)どうなるのかが共有化されるようになると従来の手では通用しなくなり、ごく一部を除いてこの方法は完全に廃れたといってもいいそうだ。
二つ目、すべてのプレイヤーに必ず取り付けられている「案内人」に直接干渉することで緊急用の強制ログアウトプログラムを実行すること。
仮想空間内の全プレイヤーに共通することとして、右耳に補聴器のような黒い物体を装着しており、それがいうなれば現実で装着した「案内人」の残留物のようなもので、この部分(通称【チェシャ】)を操作することでサーバーとのやり取りや各種設定、ログアウト管理を行える、要はゲームのメニュー画面を開くときのボタンのようなものらしい。
逆に言えば主サーバーとの接続が断たれたとき、【Elysion】におけるあらゆるプレイヤーの操作がこの部分で行われるため、相手の身柄を確保してしまえば強制ログアウト自体は容易となる。
しかし・・・
「そんなに簡単にはプレイヤーを無力化できないと?」
「そうなんだよね~」
「・・・」
薄暗い廊下に私と葛原さん、そして先輩の靴音が響く。
「要は『バベルの塔』ってのは何でもアリな世界なわけだよ。プレイヤーの思った通りの願いを実現してくれるし秩序やこ世界原理だって思いのまま。プレイヤーそのものが創物主なわけだからね。当然新夢遊病患者本体に近づくのは困難だし、ましてや超接近して耳を触るなんて芸当はまず無理だね。」
「近づくのですらそんなに難しいものなんですかね?」
「結構厳しいね~。」
葛原さんが右手を上げ、人差し指を立てる。
「まず、新夢遊病患者の作り出した世界には実在する人間というものが存在しない。すべて新夢遊病患者が望んで作り出した存在か、あるいは新夢遊病患者が望む世界に合わせて『バベルの塔』内蔵の人工AIが自動生成したものなんだ。てことはさ、逆に人間らしい行動が不自然になるんだよね。」
「・・・なるほど。つまり潜入やCPUへのなりすましが困難であると。」
うんうんと葛原さんがうなずく。
「なんとかEVORES社製特殊ツールを使えば、プレイヤーが僕たちのアイコンを確認したときにCPUと誤表示させることぐらいはできるんだけど・・・まぁばれるのは時間の問題だね。」
次に中指を立てる。
「また、【チェシャ】が強制ログアウトの必要条件であることはプレイヤー達も知っているから、当然彼らはそれを死守しようとする。本体の周囲には僕たち〈敵〉を排除するための護衛やらトラップやらなんやらが仕掛けられている可能性が高いってわけだ。最も、常日頃からそんな用心深いことをしているわけではないから、プレイヤーが【Nectar】で唯一ファストトラベル、瞬間移動できる場所【Pantheon】にそれらが用意されていることが多いね。」
【Pantheon】とは『バベルの塔』でのワールド生成を行う場所であり、新夢遊病患者が生み出した世界全体を一つの生命体とするのならば、各部位に指令を送る脳の中枢のような役目を負っているため、この領域を破壊されると『バベルの塔』そのものが膨大なデータを処理できずにフリーズし、結果強制的に案内人との接続が解除されることになる。そして一瞬でも『バベルの塔』からプレイヤーを引きずり出せれば、主サーバーから案内人の強制シャットダウンが可能になるため二度と新夢遊病患者が【Elysion】に入ることはできなくなるようだ。
「【Pantheon】はいわば新夢遊病患者にとっての城に同じ。ここをやれば万事解決だけど・・・これがデータ領域でかすぎて『バベルの塔』自体を完全に停止するレベルまで破壊するには半日はかかっちゃうんだこれが。」
やれやれといったように首を振る。
「まぁ、なにはともあれ、これで新夢遊病患者本体に近づくのが簡単じゃないってことが分かってくれたんじゃない?」
「もう一つあるでしょ。」
道中一言も発しなかった先輩が声を出す。
「本体に近づくのが困難な理由。」
今までになく深刻な顔で葛原さんを見つめている。
このいつもと違う先輩の態度は酔っているからなのだろうか。
それとも・・・
葛原さんがはぁとため息をつく。
「そうだね、セレーネちゃん。」
そして人差し指、中指と続いていた右手の薬指を立てる。
「そして、これが最大の問題点。新夢遊病患者に近づくっていうことは、下手をすると二度と現実世界に戻ってこれなくなるという危険性を孕んでいるんだ。」