9
術が破られた瞬間、漆黒の闇は弾けとんで逆流し、白燿に襲いかかった。
白燿は沼状化したどろどろの影に呑みこまれて、立ち上がることさえできない。闇の影は彼の五体を束縛し、更に深い闇の底へと引きずりこんでいく。
―――碧玉‥。
果てのない哀しみだけが白燿の心を苛み続ける。
次元の壁が切り裂かれた時、金色の風の向こうに愛しい姿が垣間見えた。だがもはや触れることも叶わぬ、と白燿は闇に塗れた自分の体を思った。
あの夜もそうだ。天龍を術に閉じこめ、鬼人と麒麟を幻夢で弾きとばして、愛しい面影に手を伸ばした。確かにこの腕に抱いたはずであったのに。ところが白燿の手は、やっと逢えた恋人を危うく傷つけてしまうところであった。
影に塗れた穢れた手では碧玉に触れることはできない―――怒りと哀しみが膨れあがる。しかし影の力を得なければ、碧玉を閉じこめているこの空間に来ることは能わず、今もまだ虚しく探し続けていたことだろう。
哀しみは遠ざかる碧玉の面影と共に、深い絶望へと形を変えて体の中心に沈んだ。
なぜだ。なにゆえこのような仕儀となった? 総てを捨てて千五百年もの間ずっと、碧玉だけを探し求め続けてきた―――その結果がこれか。
絶望が体を取りまいている闇を、更に深くしていく。白燿は両眼を閉じ、力を抜いて、その身を闇に委ねた。
「碧玉は天網より消えた。追ってはならぬ。」
白燿にそう告げた天帝の貌は冷たかった。碧玉が何の罪を犯したのか、との問いには答えてくれなかった。
納得などできなかった。諦めることもだ。星の海を渡り、天にあるあまたの種族の世界をめぐり、千年前にはついに地上に身を落とした。だが人間界にも碧玉の姿はなかった。
『五色界』という世界があるらしい、と教えたのは眷属の地祗の一人だった。三百年前のことだ。
鄙びた地の稲荷社に一人の巫女がいた。
出自は神社の保護をしていた大名家の姫だそうで、気の強い高慢な女だったが霊力は強かった。俗名を登世、巫女となってからの名は紫珠という。
紫珠がたびたび人間界以外の世界へ行くのを見咎めて、社の祭神である地祗が問い質したところ、『五色界』という世界へ行っていると申したそうだった。人である紫珠の口から黒焔の名が出たことにその地祗は驚き、天神である白燿に問い合わせてきた。
白燿は巫女に会い、『五色界』で行われている儀式を知り、また天人が一人捕らわれていることを知った。
だが天神である白燿には『五色界』へ行くすべがなかった。時期は符合している。碧玉かもしれない、と気持ちばかり焦るのに、確かめることさえできない。
紫珠は嘲笑った。
「天神が聞いて呆れる。貴方が地祗と蔑む真白はどこの世界へだって瞬時に行けるのに。『五色界』へ行きたいならば、黒焔の配下に下って影の者にでもなればいい。夜に属するモノならば夜を渡ることができるのだから。」
怒気が吹き上がった。
「人の子の分をわきまえぬ、この思い上がった巫女めが。喉笛を切り裂いてやる。」
白燿は金色の太刀を引き抜いた。その時真白が立ちはだかった。
「すまぬ。この者は我が守護の下にある。無礼は代わりに謝罪するから、怒りを鎮めてくれ、天神。」
「‥‥その女は何だ? たかが人の子をなにゆえ、そなたほどの者が守るのだ?」
太刀を突きつけたまま問う。真白は銀色の瞳に静謐さを湛え、答えた。
「人の子ではあるが、大切な者だ。自ら地に降りて、天網より外れた天女を探している貴公であれば、理解してもらえると思うが。」
その言葉に白燿は怒気を収め、巫女を許した。
しかし数年が過ぎて、紫珠は再び白燿に面会を求めてきた。
紫珠は神に仕える者の資格を失っていた。全身に暗い穢れを帯び、魂が病んでいる。祓うにも祓いきれぬ宿業を身の奥深くに溜めこんでいた。
穢れたその身に会うことは能わぬ。白燿は紫珠を拒絶した。だが彼女は『五色界』を見たくはないか、と誘った。
「連れていくことはできなくても、貴方の探している女かどうかは見せてあげられる。‥わたしの力は弱まりつつあるから、これが最後の機会となるだろう。」
白燿は誘惑に負けた。紫珠の領域に入り、『五色界』を覗き見た。そして―――碧玉の変わらぬ美しい姿を見つけたのだった。
湧きあがる涙をこらえることはできなかった。碧玉は少し寂しげではあったが、仲間がいてそれなりに楽しく生きているようだった―――白燿のいない世界で。白燿がいなくても碧玉は泣いてはいなかった。
「五色の儀式とやらを終えれば、碧玉はあの世界から出られるのだな?」
紫珠は薄笑いを浮かべ、次に自分が転生するまで儀式は行われないこと、その時に失敗すれば魂も存在も消滅してしまうことを告げた。そして追い打ちをかけるように、碧玉が白燿のもとに戻ることはあり得ない、と付け加えたのである。
「貴方は碧玉が、貴方から逃げたのかもしれないと考えたことはないのですか? 宿命から逃れたいと思った者だけが、『五色界』へ来るというのに。」
碧玉が白燿から逃げる? ばかな、それこそあり得ない話だ。
「白狐の神よ、教えて欲しい‥。愛することは善ですか? 愛する者にとって唯一の存在になりたいと願うことは? わたしは苦しくてなりません。誇りも尊厳も総て捨てて、自分が何なのかさえ捨てても、それでもこの想いだけは捨てられない。叶うみこみなど一片すらないのに‥。」
紫珠は白燿に縋りつき、啜り泣きながら訴えた。
「わたしのこの、腐りかけた魂をどうか貴方の炎で浄化してください。このままではわたしは‥‥黒焔の手に落ちてしまう。そうすれば儀式は終幕となり、貴方の大切な碧玉の魂も黒焔のものとなります。どうか、お願い‥。」
紫珠の瞳は光を失い、暗紫色に沈んでいた。二人が立っている彼女の領域は、闇と混じり合って暗さを増している。
「‥‥わが浄化の炎におまえの人の体は耐えられまい。既にかなり深く影に侵されている。如何様にしてそれほどの瘴気を吸いこんだ? おまえの言う、『想い』とやらゆえか。」
ずるずると白燿の足下に崩れ落ちた紫珠は、俯せた背を震わせてうなずいた。
「真白は‥‥真白が大切なのは、紫苑だけ。わたしは六度目の転生にすぎない‥。わたしの名は登世だとどれほど訴えても真白は、おまえは紫苑だ、としか答えてくれない。仕方なく紫苑になっていたけれど‥もう耐えられません。登世は器にすぎぬと解っていても、この想いは登世のものなのです。紫苑のではない、わたしのもの。」
嘆けば嘆くほど、紫珠の体は影の色が濃くなっていく。
白燿は女を哀れに思った。
この人の子は、器が魂を拒絶しているのだ。そのために双方が腐りかけている。
「おまえは‥既に魂と器が同一ではないゆえ、器を引き裂いて魂を取り出さねば浄化は能わぬ。その覚悟があるのだな‥?」
「もとより。」
「我が浄化の炎で清めれば、魂は無垢となり、前世の記憶もあるいは能力すらも忘れてしまうやもしれぬ。それでも良いか?」
「いっそその方が潔い。記憶や真白への想いを引きずっているから、五色の儀式は完成を見ないのかもしれません。現にわたしは‥真白と離れたくなかった。儀式が終わってしまえば、離ればなれになってしまうと怖かった。あげくの果てにこの身に影を取りこんでしまったのですから‥。どうか総てを浄化して送ってください。」
「‥承知した。その願い、聞き届けよう。」
白燿は金色の太刀を抜くと、紫珠の胸をまっすぐに貫いた。
くぐもった悲鳴を上げて紫珠は、白燿の腕の中に倒れこんだ。胸を深く切り裂いて、薄紫色の光の珠を取り出す。紫珠の体はほとんどが影と同化していて、切り開いた胸からはどろどろと影が流れ出した。
白燿の全身から赤みを帯びた金色の炎が燃え立つ。
掌の光の珠に息を吹きかけ、炎を移して強い念をこめた。たちまち珠は輝き出し、激しく薄紫色に燃え上がった。
「行け‥!」
光の珠はすうっと浮き上がり、閉じられた領域を突き抜けて外の世界へと飛び出していった。後ろに光の航跡がくっきりと残り、果てに出口が見える。
白燿は深い哀れみを胸に抱いたまま、航跡を辿り出口から自分の神域へ戻った。その哀れみが即ち影の瘴気であるとは、その時はまったく気がつかずにいた。
あれから三百年。影は猜疑心や嫉妬心となって少しずつ白燿を蝕んだ。
白燿のいない世界で微笑する碧玉の姿。傍らには紅い鬼人がいた。天界では見せたことのない碧玉のたおやかなまなざしが、静かな紅い面に注がれていた。
眼にしたことすら意識していなかったその情景が、繰り返し繰り返し浮かび上がっては白燿の心を苛む。苦しみばかりが体中に溢れ、満ちる。
やがて再び人の子が生まれ、五色の儀式が始まった。
その時には白燿は完全に影を纏った、闇の者となっていた。碧玉を取り戻す、それだけしか心に残っていなかった。
記憶を持たない人の子は自分を守る方法を知らず、匂いを嗅ぎつけた夢喰いに取り憑かれていた。
白燿は夜から見守りながら、人の子が儀式に入れず死ぬのであればそれでもいいと考えた。黒焔に碧玉の魂を見逃すよう頼むだけだ。たとえこの身と引き換えても。
だが真白が気づいて人の子から夢喰いを剥がし、通路を開かせた。
結果として『五色界』へ夜伝いにたどれる通路が繋がり、白燿は初めて『五色界』へ足を踏み入れることができたのである。真っ黒な闇に覆われた影の者として。
真白が誰かも、闇の中からならばよく判った。
あれは九頭龍の化身、雷の第九皇子と呼ばれた天龍、銀雷だ。かって同じ天帝を守護する武官として仰ぎ見た憧れの存在。
けれど銀雷とて今は翼をもがれ、力を削がれて地に落とされた身。単なる蛇神、地祗にすぎない。天神であり、白狐の王族である白燿の力に敵うはずなどないのだ。
そう、そのはずだった。しかし。
―――わたしはまだ‥‥天神なのか?
深い闇の底で白燿は、微かに呻いた。
真白は『銀雷』の名がもたらす幻夢の世界から、未だに抜け出せずにいた。
悪夢のリフレインは止んだけれども、記憶や能力の総てが細切れの断片になって、幻夢の世界を漂い続けている。自分が何であったのか、どこに存在していたのか―――空っぽのままここにいた。
少しずつ、ゆっくりと、パズルのピースが埋めこまれるように真白の中に自分が戻ってくる。喜びも悲しみも苦しさも辛さも、記憶と共にあるべき場所へと収まっていく。
気がつくと湖の畔に立って、朧な月を見上げていた。
隣に人間の女がいた。
「また水脈探しか。今度はどこまで行っていた?」
「西の方の村だよ。歩いて三日もかかった。でももう、頼まれても行かない。」
女は下を向いて顔を顰めた。
「用が済めばすぐ化け物扱いに逆戻りだ。約束した報酬だって寄こしやしないし、逃げ帰ってくるのがやっとだもの。人間はやっぱり嫌い。二度と関わりたくないよ。」
真白は月明かりに映し出された頬に、うっすらと血が滲んでいるのを見つけた。剥きだしの腕や脛のあちこちに痣ができている。
「また石をぶつけられたのか。」
振り向いて、ふふっ、と微笑った瞳は明るかった。
「いいの‥。水神の眷属のヒョウスケから薬をたんともらってきたから。こんな傷、一晩で治るよ。」
真白は黙って、女を腕の中に包みこむように抱いた。
心の傷は薬では治せないだろうに。生まれた村を追われて二年余り、ずっとこんなことの繰り返しだ。それでも女の魂の光は、出逢った頃よりむしろ強く明るく輝いていた。
「綺麗だねぇ‥。あたし、こういう泣いてるみたいな月って好き。何だかすごく‥優しいもの。」
紫色の瞳をきらきらと輝かせて、女は真白の腕の中でとても幸せそうに頬笑んだ。
小さいハリネズミみたいに、触れるもの総てを傷つける荒んだ気性の女が、なぜか優しい表情をしている。それがたまらなく愛おしかった。
腕に抱いてこうして共に月を見る。それだけでいい。ほんとうはずっと知っていた。
自由が欲しいと願って、翼と引き換えに得た静寂であった。過ぎたことや失ったものに特に感傷はなく、寂しいと思ったこともない安らかな五百年を過ごした。
それが紫苑と出会って気持が少し変化した。
「ねえ‥真白。黒焔、って知ってる? 闇の秩序の統治者だとか言うんだけど‥。」
「なぜおまえが黒焔の名を知っている?」
「昨夜、夢で迷いこんだの。‥‥宿命を変える力を持ってるって言ってた。ほんとう?」
腕の中から見上げている小さな頭をかき抱いて、真白は紫色の髪を撫でた。
「黒焔ならば人一人の宿命くらい、変える力はあろうな。」
五色の儀式の話を聞きながら真白は、薄紫色の瞳をじっと見返していた。瞳の光は揺らいでも怯えてもいなかった。
そうまでして己の宿命を変えたいのか―――弄ばれて魂を消されるだけかもしれないのに。酷く愚かで無謀な挑戦に思えた。しかし真白は紫苑にただ微笑を向けた。
「紫苑が挑戦すると言うのなら、俺は共に闘おう。おまえの魂の在る限り、決して傍を離れず守ると約束する。」
小さな人間がとてつもなく大きな存在を目の当たりにして、なお挑もうと言うのならば最後まで傍にいてやりたい。ただそう望んだ。
紫苑の『祈り』の魂力が真白を動かした、真実はそれだけかもしれない。違う存在になる夢を見ている紫苑にそのままでいい、とは言えなかった。こちらが真実だったろうか。解らない。
その答は紫苑が死んだ後も出なかった。
紫苑は真白を庇って瘴気に掴まり、のたうち回りながら死んだ。
人の小さな脆い体でなぜ咄嗟に真白を庇うなどという愚かな真似をしたのか、どうしても解らなかった。真白は紫苑に庇われるような、弱い存在ではないのに。何が彼女を馬鹿げた行動に駆り立てたのか?
真白は亡骸を抱いて人間界に戻り、湖の畔で一人泣いた。そして不意に悟った。
紫苑のほんとうの願いは普通の人間として生きることではなく、真白と共に生きることではなかったか? それならば―――この挑戦は初めから意味がない。
月を覆う雲が流れた。
春の景色が一変して、真冬の雪景色が現れた。厚い灰色の雲が空全体を埋めつくして、はらはらと白い雪が舞い降りてくる。
くしゃん、と突然くしゃみが聞こえた。思わず振り向くと、離れた場所にチェックのシャツ一枚の紫苑が蹲っていた。血の気のない頬は真っ白で、寒そうに震えている。
紫苑は項垂れて、両手で顔を覆って静かに泣いていた。
そう言えば紫苑を見つけた時も雪が降っていた。騒音だらけの人混みの中で、紫苑だけ色がなかった。夢喰いに取り憑かれて、封じられていたせいだ。
だがこれは自分の記憶ではない、と真白は気がついた。
また幻夢か。粉々にされた記憶の破片を集めて作った幻なのだろうか。白狐の力を侮った報いか、と苦笑がこぼれる。
静かにゆっくりと近づいてみた。すると震えながら泣いていたはずの紫苑は、顔を上げて真白を見つけ、ひどく狼狽した。
「あれ‥。真白‥? ヤバっ、俺、もしかしてまた、他人の夢に勝手に入っちゃったのかなぁ‥?」
現在の紫苑の声が真白の耳に明瞭に届いた。
薄紫色の炎を宿した明るい瞳は、まっすぐに真白を見ている。目を合わせた瞬間、瞳の炎は真白の全身を包んで燃え上がった。
真白は幻夢が霧散し、自分の中に自分の欠片が凄い速さで収束していくのを感じた。
凍えている小さな体を軽々と抱え上げ、胸にくるみこんで抱いた。
「紫苑だな‥。おかげで助かった。これで戻れる。」
「真白‥。ごめん。助けるのが遅くなって‥。無事でほんと、よかった。」
紫苑は真白の大きい体にすっぽりと埋まって、嬉しそうに微笑んだ。それはさっき幻夢で視た昔の紫苑の微笑と同じ色をしていた。
「それにしても‥どこから来た?」
「よく解らないんだ‥。俺は魂力を遣いすぎて寝てるはずで‥。夢わたりの通路は全部閉じたはずなんだけどね。誰かの泣いている声に呼ばれたんだよ。」
では泣いていたのは紫苑ではないのか。あれも幻夢の破片だったか、と真白は気づいた。
「魂力の遣いすぎということは、俺を捉えていた術を破ったのはおまえなのか?」
「俺だけじゃないよ。琥珀に手伝ってもらったんだ。」
紫苑の話は真白の想像を超えていた。
魂力の遣い方をこんな短期間にマスターしたうえ、琥珀と主従の誓約をしたなど、今まででは考えられないことだった。だが真白は、胸に抱えた少年の中に着実に力強い光が宿っているのを感じた。思わず嬉しくて、破顔する。
「それで‥? 泣いている声とは何だった?」
紫苑は顔を顰めた。
「解らなかった‥。一人じゃないみたいだし‥何だかやけに怖くなって、走って逃げてきたらここに来ちゃったんだ。怖くなるとすぐ、真白を思い浮かべるのが癖になっちゃってるんだよね。だから無意識に夢わたりをしちゃったのかも。」
真白は冷えた肩を温めてやりながら、紫苑に優しい微笑を向けた。
「俺の方が紫苑を呼んだのかもしれない。幻夢の残骸に苦労していたからな。何にしても、これで復活だ。‥おまえはまだ寝ていた方がいい。温かい布団でもイメージしろ。」
「真白は‥?」
「体に戻る。おまえを外から守るよ。安心して眠るといい。」
それから苦笑して付け加えた。
「何があっても守ってやると言ったのに、反対に俺が助けられたようだ。すまなかった。もう同じ轍は二度と踏まない。」
紫苑は少し気恥ずかしげに、真白の右腕を抱きしめた。
「‥やっと、役に立ててよかった。これで全員だね。もう‥誰にも傷ついて欲しくないんだよ。‥寂しいのは嫌だ。」
紫色の髪を撫でて、真白は地面に紫苑を下ろした。いつの間にか雪はやんでいた。