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夢わたり  作者: りり
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8

 紫苑が安心したことに、橙はまだ子供のままだった。

 すっかり見慣れた橙色の瞳は、いつものように紫苑への信頼を湛えて迎えてくれる。どこかで見たような温かさを感じると思ったらお日さまの色だ、と紫苑は思い当たった。橙の瞳や髪は、初夏の明るい陽光を思わせる。

 それに比べると藍はまるで夜空のようだ。成長した分、見惚れるほど美しい。天人という種族はやはり人間とは違うのだなと紫苑はつくづく感心した。

 紫苑が暢気なことを考えている間に、西の谷の浄化と真白の救出のどちらを先にするかで話は行き詰まっていた。

「西の谷を浄化してみれば、真白の居場所も掴めるかもしれないだろう?」

 琥珀の言葉に青磁は首をかしげ、異を唱えた。

「わたしはそうは思いません。西の谷に真白さまの気配はありませんでした。あの地はあまりに静かすぎて、むしろ不穏な感じが強くしたのです。」

「不穏‥?」

 深紅を振り返って、青磁はうなずく。

「ええ‥。真白さまならばもっとよくお解りになると思うのですけど‥。」

「その真白がどこに囚われているのかが解らないんだ。『五色界』ではない可能性だってあると思わないか?」

「‥確かに。」

「闇の領域でしょうか‥? 黒焔の住む黒燁宮(こくようきゆう)があると言われている世界。それではわたしたちには手が出せません。」

 紫苑はまた、何か違和感を感じた。

 黒焔は典型的な虐めっ子だ。

 真白を捉えているのは黒焔ではなくて、彼に知らぬ間に踊らされている者だろうが、この状況は黒焔の意図の範囲内のはずだ。とすれば真白は多分、目と鼻の先にぶら下げられている。なのに紫苑たちは気づくことができないのだ。

 それから深紅を傷つけていた影の怪物が、青磁の幼なじみの白狐だという話も引っ掛かる。まともに闘えば、どういう結果になろうと傷が残るだろう。最悪の場合は三人とも命を落とすかもしれない。そうしたら琥珀の心はどうなる? 紫苑は唇を噛んだ。

 やはり真白を救出するのがいちばん先だ。真白がいない状況で先に進むこと自体が、黒焔の思うつぼだと言う気がした。

 紫苑は顔を上げた。

「あのさ‥。やっぱり真白を探そう。理由はないけど、全員揃うことに意味があると思うんだよ。行動を起こすのはそれからにしよう。」

 紫苑は今考えた内容の前半分をみんなに言ってみたけれど、反応はあまり良くなかった。

 既に疑心暗鬼にすっぽり落ちこんでいる。そんな気がした。

「とにかくさ。俺‥もう一度夢わたりで真白を探してみる。何か、やり方を間違えているんだと思う。見つけられないはず、ないんだ。」

「でもその体力でできるのか? だいぶやつれた顔になっているぞ。」

 琥珀は本気で紫苑の体を案じているようだった。紫苑はちょっと嬉しくなる。

「うん‥。確かにこの前は体に戻れるまでに三日かかったしなぁ‥。だけど俺が体力回復しないのは、真白の夢ばかり見て眠れないせいでもあるんだよね‥。うう。また卵と鶏論争だな。」

 紫苑は下を向いてしばらく考えていたけれど、結局夢わたりをもう一度してみることに決めた。『やる』か『やらない』かの選択ならば『やる』方がいい。『五色界』へ来て、そう学んだ。

 この数日、『真白』では数え切れないほど検索をかけてみた。だが出てこない。紫苑の知っている姿だけでなく、昔の記憶にあった姿でもやってみた。まったく見えなかった。

 落ち着いて。焦るな。いざという時は魂の力に任せろ、と真白は言った。それでこれまで何とかなってきたではないか。だが真白のことを想うと泣きたくなる。紫苑のもので紫苑のではない、この感情は誰のものだ?

 ―――そうだ。紫影。彼女を探そう。真白が捉えられた時、すぐ傍にいたはず。

 紫影は闇に属するモノだから、彼女のいる場所は危険かもしれない。そんな考えはその時の紫苑にはまったく浮かばず、すぐに紫影の姿を思い浮かべて、夢わたりに入った。

 紫苑の体から薄紫色の光が立ち昇り始める。紫の瞳がきらきらと瞬いて光った。

「‥‥また魂力(ちから)を増したようだ。紫苑の魂力(ちから)の源は何なのだろうな?」

 見守っていた琥珀が呆れたように呟いた。

 紫苑は遠くでその声を聞いていたけれど、頭には入ってこなかった。既に紫影の姿を捉えていたからだ。

 紫影はぼろぼろに傷ついて、何か大木の幹みたいなものにしがみついていた。その周りを影どもが渦を巻いて取り囲み、風のように襲っては切り刻んでいる。

「紫影‥!」

 思わず叫んだ紫苑を紫影は虚ろな表情で見遣り、冷ややかな微笑を口の端に浮かべた。

「遅い‥なんて遅い‥。守れと言ったであろうに‥。やはり男はだめだ。」

「今、そこへ行くから。その影を追い払ってやる。」

 紫影は首を振った。

「わたしに構うな。どうせわたしは命のないモノ。おまえが無事ならばそれでいい。そんなことより‥‥真白を助けろ。いいか、直ちにだ。」

 紫影の姿は朧に霞み始めた。暗い濃い紫の光が、鬼火のように彼女の体を包みこむ。

「真白はどこ? 見つけられないんだ‥頼むから消えないで。教えて欲しいんだよ‥!」

 紫苑は力の限り叫んだ。

 紫影は背中の幹を指さした。ほとんど消えかかっている。

「柱の中だ‥。次元を切り裂け、紫苑。わたしはできなかったけれど、おまえならできる。真白は真の名前で囚われて、幻夢の中にいる。急がねば‥。」

 そこで言葉は切れて、紫影は消えてしまった。

 紫苑は訳の解らない感情が津波のように押し寄せて、暴発した。紫色の光がそこら中に飛び散って、紫影を切り刻んでいた影たちを一瞬で吹き飛ばし、気がつくとターミナルに浮かんでいた。

 しまった。また考えなしに魂力(ちから)を遣ってしまった。紫影に急げと言われたのに。

 紫影のことを考えると涙が滲んだ。あれからずっと守っていたのか、と思うと申し訳なくてたまらない。なぜもっと早く気がつかなかったのだろう。

 ふと誰かの声が聞こえた。複数だ。

 声のする場所を探すと、紫苑の体がぼうっと座りこんでいる姿が見えた。みんなが心配そうに声をかけている。見ると紫苑の体は薄紫色に光ったままで、目を虚ろに見開いており、やはり涙を流していた。

 かなりリンクしているなぁ、と感心して見ていたが、そんな時間はなかったと思い出して、何とか体に戻ろうとしてみた。

 戻れない。また三日も寝こむ羽目になるのだろうか。冗談ではない。

 橙の泣き顔が浮かんだ。躊躇いがちにそっと、小さな手を紫苑の手に重ねている。

 驚いたことに橙の手の感触を感じた。ヒョウスケの薬を渡した時みたいだ。紫苑はその手をぎゅっと握り返した。小さくて柔らかくて、温かい。お日さま色の橙は手もひだまりのように温かい。

「紫苑‥! 戻れたのか?」

 琥珀が顔を覗きこんでいた。手元を見ると、橙の小さな顔が不安げに見つめていた。

 紫苑はほっとして、全身の力を抜いた。

「ああ、よかった。また三日も戻れないかと‥。」

 言いかけた紫苑を遮って、琥珀が叱りつけた。

「ばか‥! それはこっちの台詞だ。いきなり魂力(ちから)の放出をしたり、泣き出したり‥。体力を考えろと言うのが解らないのか?」

「あ‥ごめんなさい。無意識に遣っちゃったんだ。どうも夢の中では制御(コントロール)しにくくて‥。橙が引っ張ってくれたおかげで戻れた。ありがとう、橙。」

 橙は、いえ、と小さな声で答え、赤くなって俯いた。もう手は離れている。

 琥珀は渋い表情のまま、紫苑を見据えた。

「で? 何があった、真白を見つけたのか?」

「うん‥。紫影がずっと守ってたんだ。でも消えちゃった。」

 紫苑は今見たことをみんなに話した。

「柱とは‥。五柱山の柱でしょうか?」

「一つだけ色が戻っていない、西の柱だ。間違いないよ。影をぶっ飛ばしたら解った。」

「けれど‥‥あの柱は何度も見ましたのに。影も紫影も見当たりませんでしたよ。」

 怪訝な顔の青磁に、深紅が静かに言った。

「だから次元を切り裂け、と紫影は申したのだろう。真白が真の名前で囚われているのなら、真の名前を知らねば外から視ることは叶わぬのだ。」

 なるほど、と青磁がうなずいた。琥珀も眉間に縦皺を刻みながら、微かにうなずく。

 だが紫苑にはちんぷんかんぷんだった。

 そもそも真の名前という意味が解らない。真白は真白という名ではないのか? それから名前で囚われるってどういうことなのだろう?

 紫苑はそっと藍の方を見た。彼ならば解りそうだと思ったからだ。

 藍は視線が合うと、くすりと微笑い、溜息をついた。紫苑が全然理解できていないとすぐ呑みこんだようだった。

「紫苑さま。真の名前とは存在の本質を顕し、確定するものです。ですから身を守るものでもあり、時には枷となるものでもあるのですよ。天狐族の御方が相手とあれば遣われたのは恐らく、籠目(かごめ)の術でしょう。」

「籠目の術‥?」

「封印術の一つです。鍵となるもの、この場合は真白さまの真の名前でしょうが、その鍵を術者の力に練りこんで糸状となし、籠を編むのです。するとその籠の中は異次元の閉じられた空間となって、封じられるべき存在が近づくと吸いこんでしまうわけです。謂わば籠でできた牢になるのですね。これを籠目の術と言います。」

「おまえ‥。虹彩人がそれほど物知りとは知らなかった。天界で暮らす者には不要な知識であろうが?」

 深紅の訝しがる声に、橙は無邪気な顔で誇らしげに応えた。

「藍は先生方よりも知識があるのです。どんな難解な書物でも読みこなせるのですよ。」

 そして少し眉を曇らせた。

「ほんとに‥。虹彩人でなければ、とっくに星官に召し上げられていてもおかしくありませんのに‥。」

「星官‥? それって何?」

「天界の役職の一つですよ。天帝に仕える者は天官と星官、武官の三つに大別されるのです。」

 青磁が説明してくれた。

 要するに人間界に置き換えると、天官は役人で星官は学者、武官は軍人に相当するらしい。天界以外の世界でも例えば天龍界、天狐界、天虎界、天獅子界、天鳥界の五つは特別で、天界で幼少期の教育を受け、優秀な者は武官に召し上げられるのが慣例だそうだ。一方で天人の中でも虹彩人だけはいわば技術職なので、官への登用はない。

 紫苑ははたと気づいた。

「そうか‥。藍も理不尽な宿命を持っていたんだね?」

「わたしは宿命を恨めしく思ったことなどありません。虹彩人で満足しています。」

 藍はつんと冷ややかな視線を紫苑に浴びせ、それから深紅へ挑戦的な態度で向き直った。

「知識とは要不要で得るべきものではありません。天界を鬼人界の常識で計らないでいただきたいですね。」

 深紅は黙って藍を一瞥した。

 流れる空気が急にひんやりする。誰のともつかない猜疑心が紫苑の胸に入りこんできた。猜疑と不信。空回りする好意。

 紫苑は無意識に、ぱん、と両手を打った。

 纏わりつく靄々した空気を払いのけたかっただけなのだが、驚いて振り返った藍と目が合って、紫苑は赤面した。

「あ‥ごめん。何かちょっと、肩が凝ってさ‥。それでその術、破る方法はあるの?」

 子供じみた真似をしたと恥ずかしかったので、話を逸らしてごまかそうとしてみた。

 藍の視線はいっそう冷ややかになり、大きく溜息をついた。

「‥‥籠を(ほど)くにはまず、練りこまれた真の名前を知らなければなりません。深紅さまの仰る通り、鍵を知らねば視ることも叶いませんでしょう。また、術者以上の力でなければ鍵を知っていても籠を(ほど)けるかどうか‥‥。」

「そうだ。しかも鍵が名前では、封印には真白の霊力も練りこまれているだろう。少なくとも我々では無理だろうな。全員合わせても、神の二人分には遠く及ばぬ。」

 深紅の声はゆったりとしていた。猜疑も不信も感じられない。

 藍に振り向けた紅い瞳にも特に含むものはなかった。いつも通りの冷静な瞳だ。

「俺も籠目の術だと思うのだが、他に破るすべを知っているか? 真白が中から破れぬというのも気になる。知っていることがあれば教えてくれ。」

 藍は少し鼻白んだ。深紅は大人だ、と紫苑はただ感心する。空気が一変した。

「真白さまがご自身で破れないのは‥鍵に力を吸い取られておられるからではないかと‥。わたしの憶測ですが、真白さまは‥‥本来のお姿を現在は失われておられるのではありませんか? 真のお名前の方が格上であられるとすれば、霊力はほとんど吸い取られて、御身の(なり)を保つことさえ難しいかと‥。他に籠目の術を破る方法ですが、残念ながらわたしは聞いたことがありません。」

 紫苑は胸がどきどきしてきた。また泣きたくなってくる。

 沈黙が流れ、誰ともなく吐息が聞こえた。

「‥‥藍の推測は正しいと思います。真白さまからご身分を明かされたことはありませんけれど、その昔に天龍界の神童と呼ばれた御方ではないかと、わたしは思うのです。」

「まさか‥‥九頭龍(くずりゆう)の化身、(いかずち)の第九皇子と呼ばれた稀代の反逆者? 真白が?」

 琥珀が驚いて、青磁を振り返った。

「ばかな‥! 皇子は天帝の御手で処罰されたと聞いた。生きてはいまい。」

「琥珀。わたしは二千年前のその騒乱の時、天界にいました。翼をもがれて地中深くに埋められたと聞いています。天帝は天龍族のお家騒動とはいえ、側近の武官であられた御方を命だけはお助けになろうとしました。異例の身柄お預かりとなり、ご自身で裁定をくだされたのです。」

「それでは秩序が狂ってしまう! 天帝が情に流されるなどあり得ぬ‥!」

「ええ。あり得ません。慈悲などとは遠い御方ですから。側近だからというのは表向きの理由です。あまり知られていませんが、天龍王も即日退位となり、王家の血統はすげ替えられました。天帝のご意志です。実は‥‥九頭龍の化身を葬ろうと企んだのは天龍王ご自身なのです。」

 九頭龍とは、かつて天龍界で絶大なる力を誇った九つの頭を持った龍王だそうだ。

 二千年前、当時の天龍王には同腹の九人の皇子があった。九人の皇子はそれぞれが九頭龍王の九つの頭の転生であり、いずれ九人が一つとなり、王位を嗣ぐことが決まっていた。天帝の星官がそう予言したからである。

 九人の皇子はいずれも優れていた。母の王妃が健在であった頃は、『一つになる』という意味は協力し合うことと考えられていて、兄弟は仲良くそれぞれの役目を果たしていたという。

 ところが王妃の死後、不穏な噂が流れた。

 『一つになる』ためには、九人の意志が統一されなければいけないとか、最終的には九人が殺し合って生き残った者が九頭龍の化身としての霊力を得る、などである。

 闘いとなれば生き残るのは誰か。それは誰の目にも明らかだった。兄弟でただ一人雷を操る能力を有した天界一の武人、第九皇子だ。

 末弟に喰われることを怖れた兄たちは、協力して謀殺することにした。彼さえ亡き者とすれば後は均等な機会がある、と一致したのである。

 第九皇子は兄たちの思惑を察知して、王位継承権を放棄して天龍界を出る、と申し出たが父王に認められなかった。そして惨劇は起こった。

 八人の兄たちを返り討ちにした皇子は、父王が放った討手の百頭以上もの天龍とたった一人で戦い、最後は父王に向かったところを天帝の援軍に取り押さえられた。罪状は王位簒奪のための大量殺戮である。

「けれど亡くなった王妃に仕えていた者の訴えで、噂を流し、皇子たちを殺し合わせたのは天龍王ご自身であられたと判ったのです。第九皇子は最後にそのことに気づき、父に刃を向けたそうですけれど、天帝は罪は罪として処罰なされました。二度と(うえ)には上がれぬ、地を這う者となれ、と仰せられたと聞きました。」

 青磁の語る話はまるで神話のようだった。

 まあ、見渡せばここにいる全員が、数日前まで紫苑にとっては神話の中の存在だったのだけれど。それにしても真白が元は龍だったなんて。天龍というのは普通の龍より格が高いのだろう。ついでに言えば天狐というのも狐とは違って、神さまの一種だそうだ。

「それにしてもなぜ、天龍王はご自分の御子たちを‥‥。」

 琥珀は信じがたい、といった表情で呟いた。

「さあ。怖ろしかったのかもしれませんね。真実は不明です。」

「青磁はなぜ、そんなに詳細に知っている? 僕の時代には、雷の第九皇子は己の力を過信して兄たちを謀殺し、父王までも弑逆しようとして天帝に処罰されたと習った。天の秩序を揺るがす大騒乱だったと。」

 青磁はうっすらと微笑した。

「それは天帝がそのように脚色したからでしょう。わたしが詳細を知っているのは、白燿が内緒で教えてくれたからです。白燿は彼に憧憬の念を抱いておりました。‥なんと皮肉な巡り合わせなのでしょうね。」

 紫苑の胸の高鳴りは、さっきからどんどん激しくなっていた。痛くてたまらない。何だろう? ヒントがありそうなのに、喉で引っ掛かっている感じだ。

「それで、真白の真の名前は?」

「‥‥そこまでは聞いておりません。けれど白燿は知っていたのでしょう。」

 重苦しい空気が立ちこめた。琥珀までもが溜息をついている。

 深紅が口を開いた。

「紫苑。紫影はおまえに次元を切り裂けと申したのだな? どういう意味か、解るか?」

「うーん。さっきから考えているんだけど‥。夢わたりで柱の中の、更に籠の中の異次元まで直接入れってことだよね? キーワードさえ正しければ行けると思うんだよなぁ。」

「キーワード? 何だ、それは?」

 紫苑は琥珀に説明した。

「さっき藍が術の『鍵』って言葉を使っただろ? あれと同じように夢で次元を渡る時に鍵になるものだよ。言葉とかイメージとか。‥で、さっきから何かが引っ掛かっているんだけど‥。」

「‥まったく頼りになるのかならんのか、はっきりしないヤツだ。」

 琥珀はいつかの藍と同じ言葉で嘆息した。

 はは、と苦笑して紫苑はもう一度初めから考えてみた。

 紫影を思いついたのは、紫苑が最後に真白を見た時に一緒だったからだ。あの時は紫影のか自分のかよく解らない感情が暴発して―――待てよ。その前だ。

 感情がぐっと膨らんだのは、紫影の悲鳴が聞こえて、真白が危ないと思って、そして一瞬姿が視えた時だ。脳裏に浮かんだのは確か―――闇の中に捕らわれた銀色の小さなモノ。

「解った‥!」

 叫んだ時には紫苑は、矢も楯もたまらず夢わたりを始めていた。

 全身から薄紫の炎が立ち昇る。戸惑っている声が聞こえはするが、耳には入らない。頭も心も真白でいっぱいだった。

 ターミナルの紫苑色の闇は少し濃くなっているように思えたが、紫苑は気にも留めなかった。ただひたすら銀色の小さな蛇を探した。真白、真白、無事でいて―――!

 何で解らなかったのだろう? 初代の紫苑の記憶の中で、『地蛇』だと言っていたではないか。翼をもがれた龍は蛇に形を変え、地に這うモノとなったのだ。

 激しい悲鳴が聞こえた。何度も何度も眼を閉じるたび響いた、紫苑の安眠を妨害した悲鳴だ。紫苑は微かな記憶に、いっそう意識を集中させた。

 見えてきた。柱だ。透明な水晶の柱の中に銀色の小さな蛇がいた。体を震わせ、跳ね上がって苦しんでいる。紫苑の胸にみるみる悲しみが満ちてきた。

 手を伸ばした時、突然黒い風が舞い上がった。渦を巻いて紫苑の体を取り巻いてくる。

「邪魔をするのはおまえか‥。異端の技を遣う、人の子よ‥!」

「うわっ!」

 鎌鼬のように、黒い風が紫苑に斬りかかってくる。

 両腕で頭を抱えたものの、手や足に切り傷を刻んでいく。浄化の術を遣おうにも、これでは集中できない。ヤバい、ものすごくヤバい。

 掌にほんわり温かい感じがした。橙の手の感触みたいだ。そう思った瞬間橙の顔が浮かんで、紫苑は屋敷に戻っていた。

 目の前に橙が泣きながら立っていた。

「あれ‥。また橙に引っ張ってもらったんだ。よかったぁ‥。」

 思わずほっとして出した暢気な声に、場の緊張感が一気に緩んだ。

 琥珀がまた、バカ、と吐き捨てるように呟き、藍は冷たい眼で見据えながら紫苑の前から橙を引き離した。

 気がつくとそこら中から血を垂らしている。浅い傷ばかりだが、ひりひりと痛かった。

 青磁がヒョウスケの薬壺を持ってきて、塗ってくれた。

「紫苑‥。焦る気持は解りますが、どこへ行くか説明してから行動してください。わたしたちは仲間でしょう?」

「ごめん‥。思いつきで試しただけなのに、体ごと行っちゃって‥。何だか、全然制御できなくてさ。‥‥でも見つけたよ、真白だ。間違いない。」

 青磁はぱっと顔を上げ、見つけましたか、と微笑んだ。

「後は連れてくるだけなんだけど‥。ええと、そのう‥風に邪魔されちゃって‥。」

 多分あの声の主が白燿なのだろう。青磁には言えなかった。

 迂闊に白燿のことを口にすれば、青磁は一緒に行くと言い出しかねないし、そうしたら深紅は絶対に青磁の傍を離れないに違いない。よくは解らないけれど、この三者を一緒にしたらいけないのだと紫苑は強く感じていた。

 青磁から逸らした視線がちょうど、琥珀と合った。

 そうだ。琥珀は風を操る。あの黒い風を少しの間、防いでいてくれないだろうか。紫苑のことは気にくわなくても真白を助けるためなら協力してくれるのでは?

 紫苑はおずおずと琥珀に尋ねた。

「あのね。夢わたりのターミナルに黒い影の風が入りこんじゃってるんだ。俺が真白を助けに行く間、琥珀の風で守ってくれないか、って言ったら‥‥怒る?」

 琥珀は紫苑がたじろくほど真剣なまなざしで、じっと紫苑を見据えた。

「僕に‥‥力を貸せと言うのか?」

「‥そうだけど。やっぱり‥嫌?」

「嫌だと言ったら、それですむ程度の話なのか?」

 紫苑は頭を下げた。

「お願いします。琥珀の助けが要るんだよ。‥どうしても。」

 琥珀はゆっくりと微笑した。

「紫苑が頼むなら、一緒に行こう。おまえを守ればいいんだな?」

「うん。結構、面倒なことになるかもしれないんだけど‥。」

 言葉を濁した紫苑に琥珀はうなずいた。

 深紅が琥珀、と呼んだ。

「誓約を交わしてから行け。それがお互いのためだ。」

 琥珀はまた不機嫌な顔になりかけたが、紫苑を見遣って溜息をついた。

「‥必要であればやむなし、か。」

 琥珀色の澄んだ瞳が穏やかに微笑んだ。


 紫苑は自分の領域であるターミナルに、色濃く闇が混じっているのを見て不快な気分になった。思えば紫影の場所に繋いだ時に通路ができてしまったのだろうと思う。

 とりあえず通路を閉じるのは後にして、先に真白だ。

「紫苑、いいか? ‥来るぞ。」

「うん。こっちも始める。」

 琥珀には白燿のことを話した。彼は嫌な顔はまったくせず、紫苑の考えを支持してくれた。そして風で壁を造ると、紫苑をすっぽりと覆った。

 紫苑は獣人形の琥珀と背中合わせに立つと、意識を集中させた。背後でばしっ、ばしっという激しい音が響いたが、動かなかった。何が起ころうと振り向くなと言われている。

 真白はすぐに見つかった。柱の中で苦痛にのたうち回っている。紫苑は涙が滲んできた。

 体の中心に魂力(ちから)を集め、高めていく。髪が逆立ち、全身の血がふつふつとたぎり始める。紫苑の全身を薄紫色の輝く炎が包んだ。次の瞬間、紫苑は真白の傍にいた。

「真白‥! 迎えに来たよ‥!」

 だが真白は返事をしなかった。

 真白の見ている恐ろしい夢が紫苑の心に入ってくる。だがその中で紫苑の叫びは無視されていた。幻夢に入れない。真白を掴むこともできない。

 そうか、と紫苑は気づいて、あたりを見回した。

 黒い縄で編んだ籠目状の壁が取り囲んでいる。よく見ると、ところどころ銀色の紐がびっしりと絡みついていた。これを壊さなければ真白は戻れないのだ。霊力のほとんどをこの壁に吸い取られているままなのだから。

 普通の方法ではこの壁は壊せない。鍵もなければ力も弱い。

 とすれば普通じゃない方法を遣おう。白燿が異端と呼んだ紫苑の魂力(ちから)なら、何かできるはず。何しろ異端なのだから。

 その時紫苑が開いた通路の向こうで、琥珀が血だらけになっているのが見えた。

 ―――何が起ころうと振り向くな。

 琥珀の言葉が頭をよぎったけれど、その時にはもう紫苑は動いていた。戻って琥珀の手を握り、再び真白の隣をイメージして移動すると通路を閉じた。

 ふう、と息をついて琥珀を振り返る。

 彼は体中を切り刻まれて血だらけだった。金色の扇も血に塗れている。よろめいた琥珀を何とか支えて、紫苑は彼の角に付着した血を自分のシャツで拭った。金色の角が穢れると力が出ないと青磁に聞いたからだ。

 琥珀は苦しそうに息をしながら紫苑の肩ごしに真白を見た。そして周りを見る。

「このばか‥! ここは籠目の術の‥ど真ん中じゃないか。自分たちまで捕らわれてどうするんだ。‥出る目算は、あるんだろうな?」

「うーん‥。多分。」

 琥珀は少しずつ息を整えながら、紫苑の手を乱暴に払いのけた。

 紫苑はしゅん、と項垂れる。また考えなしな行動を取ってしまった。けれど放ってはおけなかった。誰かが傷つくのは嫌だ。

「ごめん、怒らないで。何とかするから。」

「‥‥おまえに怒っているわけではないよ。自分が情けないだけだ。」

 俯いたまま琥珀は抑えた声で答えた。

「愚痴っても始まらないな。それでどうする?」

「とにかく、この籠の壁を破らないと、真白を連れて帰れないんだ。普通のやり方じゃ駄目だってことは藍の説明で解ってる。でね、考えてたんだけど‥。」

「まさか、まだ考え中だなんてことはないだろうな?」

「う‥」

「考え中なのか。やれやれ。」

 琥珀は紫苑をまじまじと見て、いきなり吹きだした。

「何だかおまえといると緊張感が失せるよ。まあ、誓約したのだから一蓮托生の生命(いのち)だ。打開できると信じて、一緒に考えよう。」

 胸の中にぼうっと火がともったように温かくなった。何か不思議な感じだ。

 紫苑は胸にともった火を取り出して、掌に載せるイメージを描いてみた。ずぶ濡れになった時に深紅にもらった炎を思い出し、ほんの思いつきでやってみたのだが、金色の明るく力強い火が掌上で瞬いた。

「驚いたな‥! これは何だ?」

「これは‥琥珀が今、俺にくれたものだと思う。‥そうか、イメージは記憶だけじゃないんだ。想像したものもこうして現実のものにできるんだ‥!」

 怪訝な顔のままの琥珀に、紫苑は嬉しくなって抱きついた。

「今まで浄化の術を遣う時、イメージを夢から切り取ってきてたんだけどね。俺じゃない紫苑の記憶なんだと思ってた‥。でもこの火は琥珀に励ましてもらって元気が出た気持ちを、火に例えて想像してみたものなんだよ。だからね‥。これを応用して、籠を壊すイメージを具体的に作り上げればいいんだ。そして‥浄化する。」

 掌に貼りついたままの小さな火をじっと見つめた。

 紫影は次元を切り裂け、と言った。次元とはこの籠目のことだ。切り裂くとは? ナイフは持っていないし。深紅の太刀があれば―――そうか。琥珀の風だ。

 しかし琥珀の風は防御はできるけれど攻撃用ではない。なにしろ麒麟の繰り出す風だから殺生はできないのだ。でも殺生をするためでなければ、風の刃を作ることは可能なのでは? 紫苑の魂力(ちから)を組み合わせればできるはずだ。

 ―――次元を切り裂け、紫苑。わたしはできなかったけれど、おまえならできる。

 つまりはそういう意味だったのだ。紫苑はやっと理解した。

 紫影は―――初代の紫苑は琥珀と力を合わせることができなかった。『切り裂け』とは琥珀の風の力と紫苑の次元を繋げる力を組み合わせろという意味だ。

「紫苑? どうした、黙りこんで。」

「‥解った気がする。琥珀、風で刃みたいなの、作れる? それに俺の魂力(ちから)を載せれば、籠を切り裂いてこの異次元状態を壊せると思うんだ。イメージは‥えっと、この場所からみんなのいる部屋へと繋がる感じだ。」

「よし、やってみよう。」

 琥珀はすぐに立ち上がった。

 金色の扇を翳して、一閃する。鎌の刃みたいな空気が籠目の壁に向かって飛んでいったが、弾かれて泡のように消えた。

 紫苑は今の刃に魂力(ちから)を載せるイメージを胸にしっかりと描いた。そして琥珀に、風の刃を繰り出すよう頼んだ。

 優美な所作で舞い踊る扇の手元に意識を集中しながら、刃が籠目を切り裂き、その向こうに梅屋敷の部屋がある、とイメージする。体中を廻る魂力(ちから)を薄紫色の炎に変えて、琥珀の金色の火と重ね合わせ、ぎりぎりまで溜めこんでから一気に放出した。

 頭の中を真白の悲鳴が駆けめぐった。幻夢がぐらぐらと揺れて、紫苑の中になだれこむ。紫苑は全身に力を入れて耐え忍び、真白の本体だけを探し求めた。

 どす黒い闇がのしかかってくる。

 その中で微かに光る小さな銀色の蛇をすかさず捕まえた。胸にぎゅっと抱きしめ、真白、と呟く。ずっと我慢していた真白のための涙がぽろぽろこぼれた。

 真っ暗闇の中で金色の光が瞬いたかと思うと、不意に大量の風が紫苑の体を包みこんだ。琥珀の風だ。取り巻く闇を、力強く弾きとばしていく。

 闇が薄れるに従い、漂っていた銀色の糸くずが風に乗って集まってきた。少しずつ、ゆっくり、銀色の糸くずは次第に大きくなり、うっすらとした形をなしてゆく。紫苑の手の中の本体がすうっと吸いこまれていって、巨大な銀色の蛇が出現したかと思うと、紫苑の知っている真白に変わった。

 気がつくと紫苑は、梅屋敷の板敷きの床にぺたんと座っていた。背中合わせで琥珀にもたれて、何とか倒れずにいる状態だ。琥珀も息を弾ませていた。

「紫苑さま‥。大丈夫ですか‥?」

 橙がお椀に花の露を持ってきて飲ませてくれた。もの凄く美味しく感じる。ありがとうと言おうとしたけれど、疲れて声が出なかった。

 真白は深紅に抱えられて、布団に運ばれていた。意識は戻っていないようだ。しかし子供ではなく大人の姿を取っている。少し安心したら、紫苑は猛烈に眠くなってきた。

「紫苑、まだ眠るな。あのターミナルにヤツが残っているぞ。眠る前に夢わたりの通路(チヤネル)を閉じろ。できるか?」

 琥珀が今にも倒れそうな紫苑を抱きかかえて、小声で囁いた。

 紫苑は朧な意識をかき立てて、総てのテレビを急いで消すイメージを必死で描いた。

 全身がぶるるっと震えて怖い夢を見た後のようにぞくぞくと悪寒が走り、すっかり空っぽになった紫苑は琥珀の腕の中で意識を失った。

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