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夢わたり  作者: りり
7/15

7

「紫苑が消えた‥? どういうことなのですか。」

 青磁の問いに藍は首を振った。その傍らで橙はさめざめと泣いている。

「よく解りません。橙の話ではお目が覚めてすぐに人間界へ帰られたそうです。‥ね?」

 泣き続けながら、橙はうなずいた。

 藍は呆れ気味に、橙の背中をさすった。

「泣くなよ‥。理由ができたって仰ってたんだろ? 仕方ないじゃないか。今は真白さまの他は全員お揃いになったし、色を取り戻すのだって後は西の谷だけなんだから。紫苑さまお一人がいなくても大丈夫だよ。もうすぐわたしたちは天界に戻れる。」

 橙は余計に悲しくなってきた。それではもう二度と紫苑に会えない。

「その時は‥藍は一人で帰ってください。わたしはここで紫苑さまをお待ちします。」

「はあ? 何、バカなこと言ってるんだよ。橙一人では何一つちゃんとできないくせに、心配で置いていけるもんか。それに人間なんか、待っていたってしょうがないだろう?」

「でも‥‥お待ちしていたいのです。い、いっぱい助けていただいたのに‥まだ、お礼をきちんと申し上げていませんから。」

 喧嘩になりそうな雰囲気に、青磁が割って入った。

「まあまあ‥。紫苑が戻らないと決まったわけではありません。わたしは理由とやらが片づけば紫苑は戻ると思いますよ。少し待ってみましょう。」

 藍は拳をきゅっと握りしめて唇を震わせていたが、ぷいと屋外へ出ていってしまった。橙は情けない表情でその後ろ姿を見送っていた。


 深紅は梅林の真ん中に立って梅の花を見ていた。

 この梅林に白い花が咲いているのを見るのは初めてだった。紅白入り乱れて降るほどに咲き誇っている。

 青磁の言う通り、今回の紫苑の魂力(ちから)は完璧だ。深紅は生え代わりかけている角に軽く触れながら、つくづくそう思った。五色の儀式もいよいよ最終局面に入ったと思われる。

 角はまだ完全ではない。霊力の回復具合も半分といったところか。

 息を整え、左手に炎を生じさせる。呪言を唱え紅珠に変えて、右手で太刀を取り出した。一振りしたものの、腰がふらついた。体力もそうだが、太刀を遣うための炎の霊力が全然足りない。それでも深紅は体の中心から右手へ意識を集中し、足りない霊力をできる限り集めようとした。

「まだ無理をしない方がいいと思うが‥。ま、僕の言葉など聞く貴方ではなかったね。」

「琥珀か‥。おまえこそ回復したのか?」

 琥珀は深紅に近づいてくると、やおら扇を取り出し、一閃させて風を操った。

「ほらね。この通り。もう万全だよ。紫苑が何をしに人間界へ戻ったのかは解らないけど、帰ってくるまでは皆を守らなければね。」

 深紅は太刀を紅珠に収め、体内に戻した。やや汗ばんで、息を弾ませている。

「‥‥紫苑は帰ると思うか? 前回の例もある。」

「真白が危ないのに捨てていくはずがない。それに今回はもう後がない。あの紫苑は記憶は失っているが、直感で本質を押さえているから、僕は帰ってくると思う。」

 琥珀は穏やかな微笑を返した。

 深紅はちょっと眩しそうに瞬きをして、薄く笑った。

「そうか‥。琥珀がそう感じるのなら、帰ってくるのだろう。」

「ふふ。いやに素直だね。深紅ともあろう人が、大怪我を負って気弱になったとみえる。‥‥真面目な話、貴方ほどの人をそんなに傷つけたのは誰なのだ? しかもあの真白を封じるなど‥。ほんとうに黒焔ではないのか?」

 深紅は躊躇って、周囲を見回した。

「青磁ならここには来ない。虹彩人の二人を池の向こうへ連れていった。‥青磁には言えない相手なのか?」

「いや‥。青磁は気づいたと思う。俺の相手の本体は‥‥白狐だ。憶えているか?」

「いつか真白が話していた天狐だな。仮にも神として祀られていた者が闇に堕ちたというのか? ‥怖ろしいね。何があったのだろう?」

「白狐は天界にいた頃、青磁と親しかったらしい。真白や俺たちが青磁を誑かしたと思いこんで怨んでいる。」

 深紅の声は淡々としていた。琥珀はそれ以上深くは聞かず、話を変えた。

「しかし真白をあんなに簡単に捉えるとは‥。それほどの妖力なのか?」

「あれは解らん。白狐が捉えたというより‥‥仕掛けてあった穴に落とされた、という風であったな。ヤツが操る影の中に罠が仕掛けてあったのだ。真白とまともに闘えば不利だと、十分知っていたのだろう。」

 深紅は草の上に腰を下ろし、ゆっくりと体を倒して仰向けに寝転がった。

「‥俺たちには紫苑を待つしかできない。この林を見ろ。白い花まで咲いていれば、鶯も鳴いている。夜になってもここへは影は来られない。あの白狐でさえもだ。人でありながら神を超えた力とは、何と不可思議なことだ。」

 琥珀はふん、と鼻を鳴らして、深紅を見下ろした。

「貴方らしくもない、感傷的なことを‥。白狐は妖しに成り下がったのだよ。それだけのことだ。」

 ふふっと深紅は微笑し、琥珀を振り向いたが何も言わなかった。

 琥珀は深紅に背を向けると、片手を振って、そのまま屋敷に戻っていった。


 藍は池のほとりにたたずんで、五柱山の方角を眺めていた。

 紫苑の浄化のおかげで見通しが良くなり、ここからでも小さくだが五つの柱が見える。既に東西南北四本の柱のうち西以外の三本と中央の五本目には輝きが戻っていて、それぞれ青、赤、紫、黄の光が天空に向かって力強く立ち上っていた。残るは西の柱に緑色が輝けば良い。そうすれば五柱山の頂に五色の虹が出現し、藍と橙は天界に戻ることができる。

 だが橙は戻りたくないのだ。

 虹彩人は唇から歌と共に虹を吐く。橙は名の通り、橙色の正当な後継者として生まれながらまだ一度も橙色をちゃんと吐けたことがない。生まれた時から一緒にいる数十人の同世代人の中で虹を吐けないのは橙だけだった。

 藍は逆にいつ吐けるようになったか記憶にないほど幼い時から、完璧な藍色を吐いた。何をやっても同世代人の中で群を抜いていて、それは虹彩人の間だけに留まらず、たびたび天帝の名で表彰を受けるほどだった。しかしそれでも虹彩人は虹彩人に過ぎない。天帝のお側近くに仕える天官には決してなれない。天界の秩序はそう定められている。

 橙と仲良くなったのは、放っておけなかったからだ。真逆(まぎやく)の立場でいつも目立っているせいか、自然と藍は橙のお守り役になった。泣き虫でそそっかしくて、いつも一生懸命なくせにどこかずれている橙。歌声は素晴らしく美しいのに、なぜか白い色しか吐けない橙。

けれど橙は誰よりも純真で、誠実な友人だ。

 友人? いやそれはごまかしだ。藍はとっくに自分の気持ちに気づいている。彼女のことが好きだ。この先もずっと、寿命の続く限り二人でいたい、と願っている。

 彼女が天界にいたくないのであれば―――どこへなりとも一緒に行ってもいい。虹の七色に白はない。真白が言ったように宿命の糸が彼女をがんじがらめにしているなら、(ほど)いてやりたいと思う。だがそれは―――その役は藍であるはずで、紫苑ではない。

 橙が紫苑に示す絶大な信頼が、気に入らなかった。青磁のような立派な大人であるとか、百歩譲って琥珀のように華麗な麒麟ならばまだ解る。あんなちっぽけな人間なんかのどこがいいんだ、と藍は無性に腹が立つのだ。

 大した差ではない。紫苑程度なら藍だってすぐになれる。紫苑の魂力(ちから)は確かに凄いけれど、あの器が偉いからじゃない。ろくに物も知らないしぼんやりしているし、橙を泣かせてばかりいるじゃないか。何より人間は寿命が短い。決して一緒には生きられない種族なのだ、それなのに。

 ―――橙の、ばか。

 藍は水面にそっと小石を投げた。


 翌朝、藍の体が成長しているのに気づいて、青磁は彼の心情を悟った。

 ―――なるほど。喧嘩の理由は嫉妬でしたか。

 こっそりと笑みを噛み殺す。

 藍は一晩のうちに人間でいえば四、五才ほど年を取ったようで、ちょうど紫苑と同じくらいの少年に変貌していた。声変わりもしている。

 藍色の髪に朝日が映えて紫色のように見えたせいか、起き出してきた橙は初め紫苑が戻ってきたと勘違いして喜びの声をあげた。しかし不機嫌な表情で振り返った藍を見て、誰だか気づくと今度はひどく面食らい、立ち竦んだ。

 驚いたのは橙だけではなく、琥珀も同じだった。深紅は特に関心がないらしかった。人間以外は姿を自在に変えられるのが普通だからだ。

 どちらにしても彼らは藍の変貌の意味を十分理解したので、何も言わなかった。青磁と同様、こみ上げる微笑を腹に収めただけだ。

 橙だけがおろおろしていた。

「藍‥。どうしちゃったのですか? 昨日のことをまだ怒っているのですか。」

 橙はまた涙を浮かべて、藍を見上げた。

「わたしは‥わたしのせいで藍まで落ちてきちゃったのを、申し訳なく思っているのです。幼い時からわたしはずっと藍に迷惑をかけ通しで‥。せめてこれ以上迷惑をかけてはいけないと思って、虹が繋がったならば先に帰ってくださいと申しました。決して今までの恩を忘れたわけではありません。恩知らずな言葉に聞こえましたなら謝りますから‥。どうか怒らないでください。」

「‥恩を着せるつもりで、今まで一緒にいたわけじゃない。わたしは橙が好きだから一緒にいただけで、迷惑だなんて思ったことはないよ。‥解らないの、橙?」

 橙は少しほっとしたような表情で、にっこりと微笑んだ。

「ええ、解っています。わたしも藍が好きです。わたしにとっては唯一無二のお友だちですもの。」

 藍は微笑み返して、橙の涙を指で拭った。

「‥‥紫苑さまが戻らなくても、今まで通りわたしが橙を守ってあげるよ。だから‥‥もう泣くな。帰る時は一緒に帰ろう。橙がもし、天界に帰りたくないなら‥。」

「え‥?」

「それでも離れず一緒にいるから。紫苑さまは人間なんだよ、橙。ずっと一緒にはいられない。いつか別れなければいけないけれど、わたしは橙の傍にいる。忘れないで。」

「藍‥。それはどういう‥‥?」

 橙は首をかしげて、急に年上になった藍を見上げた。

「藍? ちょっと手伝ってもらえませんか。」

 青磁が離れた所から、藍を呼んだ。藍は橙を残し、青磁の方へ走っていった。残された橙は呆然と藍の後ろ姿を見つめていた。


 青磁と藍は梅林の花がら摘みをしに外へ出た。風がほんわりと流れている。生きている林は手入れが必要だった。

「藍。その姿は無意識ですか、それとも願ったのですか?」

 花がらを摘みながら、何気ないふうに青磁は尋ねた。藍は振り向きもせず答える。

「‥‥青磁さまには関係のないことです。」

 ふうん、と青磁は溜息をつき、少年の頑なな横顔をつくづく見遣った。

「では別の話をしましょう。深紅を殺しかけた影のことです。」

 藍は手を止めかけたが、すぐに黙ったまま花がらを摘み続ける。青磁は話を続けた。

「紫苑が浄化の術で光を天に打ち上げた時、紫苑に迫っていた竜巻は悲鳴をあげて霧散しました。その時になってわたしは初めて、影の怪物の正体を知ったのです。思いもかけない人でした。わたしの幼なじみで‥‥生まれてよりの六百年を共に過ごした人です。」

「六百年‥‥?」

 思わず振り向いた藍に、青磁はひどく悲しげに微笑んだ。

「ええ。わたしが『五色界』に堕ちたその日までね。名を白燿(はくよう)といって、天狐族の王族の一人で‥誇り高く優秀な人でした。」

「そんな御方がなぜ、穢れた闇の者になってしまわれたのです‥?」

「真実は解りません。わたしは四日前のあの時、千五百年ぶりに声を聞いたのです。三百年ほど前に一度、真白さまより消息を聞いたことはありましたけれども。‥‥わたしたちはとても仲が良くて何をするにも一緒でした。天帝のお側にお仕えすることが決まった時も、共に昇殿したのです。‥ちょうどあなたと橙のような年頃でした。」

「‥‥お二人ともよほど優秀でいらしたのですね。そんなに(わか)くして天帝に召されるなど、聞いたことがありません。」

「昔だからです。今から思えば、たいへんに愚かな子供でしたよ。あなたの思慮分別がわたしにあれば、別の生き方ができたのかもしれません。自分のことについては何ひとつ、後悔しているわけではありませんけれど‥。かけがえのない友を闇に落としてしまったことには責任を感じています。とても辛い、悲しいことですからね。」

 唇を噛みしめてそう呟いた青磁は、心底辛そうな顔をしていた。


 青磁は天界での名を碧玉(へきぎよく)といった。

 碧玉と白燿はいつからと意識するずっと以前より、共に学び共に笑い、共に遊んだ。学校へ通う年頃にはいつも首席を競い合い、お互いにお互い以外を好敵手とも友とも認めることはなかった。

 昇殿し、天狐の白燿は武官の道、花神の碧玉は天官の道へ進んでも、一日の終わりにはどちらかの居室で共に過ごした。碧玉は楽を奏で、白燿は舞を踊り、幸せな時間は永遠に続くと信じて疑っていなかった。

「ちょうどその頃、天龍族の間で大きな乱がありました。第九皇子が王位簒奪を目論んで、八人の同腹の兄君たちを謀殺したとか‥。天帝は天龍王の求めに応じて、天龍界へ軍を遣わしました。結局皇子は捕らえられ、翼をもがれて追放されたそうです。」

 最年少武官の白燿は戦に駆り出されることはなく、それからの五百年、天界は何一つ起こらず平穏に過ぎた。碧玉と白燿の友情もそのまま変わることなく続いていた。

「けれど少しずつ、心はすれ違っていたのでしょう。わたしはどこかで平穏で変化のない天界に飽き飽きしていました。また白燿は白燿で、別の考えを抱いていたのです。」

 天狐である白燿は碧玉に、女となり妻になって欲しいと頼んだ。

 天人の中には早くから体を変化させて伴侶を得る者も少なくない。しかし五千年の天命を雌雄同体のまま終わる者もそれなりにいた。

 白燿に愛情を持ってはいたけれど、伴侶としたいと思ったことはない。碧玉は決心がつかず、ずるずると返事を伸ばしていたが、やがて正直に白燿に気持を打ち明けた。

 すると白燿は気持が変わるまでいつまでも待つ、と答えた。再びそれまでと変わらない日常が繰り返されていく。

 そんなある日、碧玉は内庭で五色の虹を見た。珍しいものだとじっと見入っているうちに、気がついたら『五色界』に堕ちていた。

 見渡す限りの白と黒の景色。荒涼としたうら寂しい世界に、静寂だけが存在している。しかし不思議と恐怖は感じなかった。何かがここに在る、または訪れる。そんな予感がたまらなくしていた。

「それからわたしは真白さまと少女の紫苑に出会い、五色の儀式(ゲーム)を知ったのです。」

 程なく、儀式を終えるまでは天界には戻れないと知った。

 天界以外の場所で生まれた者ならば『五色界』の他に自分の世界に帰ることはできる。けれど堕ちた天人の碧玉には帰る場所はなかった。そうなってみると不思議なほど、天界の自分に未練はなかった。

 青磁という名は真白がつけた。呼ばれてみると碧玉よりもずっとしっくりとする。

 白燿のことを忘れたわけではなかったが、彼と一緒に生きる宿命から逃れてきたのだという気もした。ずっと競い合う友人でいたかったけれど、それも稚拙な夢だ。心から望んだのは永遠の幸福ではなく―――変化あるいは、未知なるものへの憧憬。

 白燿は碧玉のことを忘れるだろう。誇り高い彼のことだ。二度の拒絶は許すまい、と青磁は思った。天の秩序に疑念を抱いたがゆえに黒焔の掌に堕ちた者など、もう友とは認めまい。

 三人で始めた儀式に深紅が加わったのは、堕ちてから既に二年を数えた頃だった。

 紫苑は成熟した若い女性になっていて、いつのまにか真白を慕うようになり、青磁を疎んじるようになった。

 やがて琥珀が加わるけれど、紫苑は彼の言葉には耳を貸そうとはしなかった。ただ真白と二人の世界を望んだのだ。ゆえに―――失敗した。青磁はそう考えている。

 三百年前に前回の紫苑が現れた時に、真白は人間界で白狐の神と出会ったと青磁に告げた。神は地に堕ちた天女を探しているそうだった。

 それが白燿だとは青磁は思わなかった。彼は誇り高き天狐族の王族であり、天界の武官だ。人間界の神よりずっと格上の存在のはず。しかも青磁が『五色界』に堕ちてから既に千二百年が経っていた。一緒に過ごした時間の倍が過ぎていたのだ。

「ですが白燿は、ずっとわたしを探してくれていたのです。碧玉は天網から消えたと天帝に告げられた後も、人間界の神に身分を下げてまで地を探して‥。そして『五色界』と黒焔に辿りつきました。黒焔がどのような策を用いたのか解りませんが、白燿はわたしがここにいるのは真白や他の皆のせいだと誤解しているのです。憎しみが彼を影の者に変じて、闇に貶めてしまいました。わたしは何としても白燿を救いたいのですけれど‥どうしたら良いのか解らずにいるのですよ。」

 青磁は涙をいっぱいに溜めた瞳で俯いた。

 藍は胸が痛くなった。

「なぜ‥わたしにそのようなことを仰るのですか? 白燿さまのお心に叶うようなお言葉を青磁さまが仰ってさしあげれば‥‥闇は晴れるのでありませんか?」

「できないのです‥。できればそうしたいのですが‥。わたしは千五百年前の碧玉ではありません。既に深紅と出会ってしまいましたから‥。」

 花がらを集めている青磁の頬に、金色の涙が一筋流れた。

「青磁さまのために闇にまで堕ちた方よりも‥‥深紅さまを選ぶのですか。」

「白燿がわたしの命を欲しいと言うのなら、喜んで差し出します。けれど魂は深紅の元へ戻るでしょう。藍には理不尽に思えるでしょうけれど‥わたしは深紅に出会って初めて愛おしいと想う心を知ったのです。‥深紅に告げるつもりはありませんけれどもね。」

 青磁の横顔は涙を流したまま、微笑していた。

「藍が橙のために自分を変えたのを見て、つくづくと気づかされました。あなたはたいへん勇気がありますね。わたしも結果を求めるばかりではなく、勇気を出さなければ。」

「わたしは別に‥。勇気など、ありません。橙がわたし以外の誰かを‥人間なんかを頼りにするなど、誇りにかけて許せないだけです。」

 藍は下を向いた。

 青磁はゆったりと髪を翻して、涙を拭った。藍の肩にそっと触れる。

「その誇りを勇気と言うのですよ。決して忘れないでくださいね。」

 そして春の日ざしのように微笑んだ。


 紫苑が帰ってきたのはその翌日の昼下がりだった。

「‥‥紫苑だ。帰ってきた。」

深紅が太刀を振るう隣で静かに見守っていた琥珀が、いきなり顔を上げ、小さく叫んだ。

「解るのか‥?」

「どうも解ってしまうらしいよ。‥‥とにかく迎えに行ってくる。」

 苦笑しながら琥珀は、一瞬で獣形に姿を変え、東の方角へ飛んでいった。そしてあっという間に紫苑を背に乗せて戻ってきた。

「‥誓約とやらをさっさとするんだな。その時期が来たのだ。認めろ。」

 深紅は紫苑が降りるのを支えながら、琥珀の耳元に囁いた。琥珀は人形(ひとがた)に戻ると、思い切り顔を顰めた。

「そこの間抜けな姿を見てから言ってくれ。魂力(ちから)の遣いすぎでよれよれだ。僕の忠告を無視するヤツなんか、主と仰げるか。」

 紫苑はぺたりとその場に座りこんで、言い訳をした。

「だから無視したんじゃないんだよ。制御(コントロール)が難しかっただけなんだ。」

制御(コントロール)‥? そもそも紫苑は何をしに人間界へ行ったのだ?」

 深紅の言葉に、紫苑は彼の方を振り向いた。

「ん‥。こっちへ体ごと来てたせいだと思うんだけど‥。人間界で俺の存在が消えかけてたんだよ。辛うじて両親だけがぼんやり、俺のことを憶えてる程度で‥。」

「それで体ごと戻って、存在を回復しようと思ったのか?」

「うん‥。ま、そういうことなんだけどね。あんまりうまくいかなかった。かえってすごく疲れちゃって‥。で、諦めてこっちへ帰ってきたんだ。」

 紫苑は立ったままの琥珀を仰ぎ見て、にこっと笑った。

「また東の古いお堂に出ちゃってさ。森の中歩くのかぁ、ってうんざりしてたら琥珀が来てくれて‥。泣きたいくらい嬉しかったよ。ありがとう。」

 琥珀はふん、と横を向いた。

「だが、いいのか? 人間界に居場所がなくなってしまうのだろ? どうするつもりなのだ。」

 紫苑は再び深紅を振り向いた。

「どうもこうもないよ。何だかもしかしたら俺って、元々薄い存在だったような気もしてきちゃってさ。ろくに友だちもいないし‥。消えかけてるせいか、家にいるだけですごく消耗するんだ。ここにいる方が体がずっと楽だよ。それにね。」

 紫色の瞳が色を増して煌めいた。

「夜になると‥‥真白の夢を見るんだ。凄まじい悲鳴が何度も何度も聞こえて‥。だけど姿も見えないし、どこにいるのかも解らなくて‥。もう我慢できないって思ってさ、戻ってきた。‥後のことは全部終わってから考える。」

 そうか、と深紅は仄かな微笑を浮かべた。紫苑に向けられたまなざしが、青磁に向ける時のように和んでいる。

 紫苑は帰ってきてよかった、と思った。

「紫苑さま‥? お帰りになったのですか。」

 聞き慣れない声に振り向いて、紫苑はびっくりした。

 自分と同じ年くらいの少年が立っている。藍色の髪と瞳、それから少し皮肉っぽい視線に見覚えがあった。

「もしかして‥藍?」

 紫苑は血の気がすうっと引いた。

 確か藍と橙は百才近くで、人間の十才程度の容貌だった。換算すると十年で一才の計算になる。目の前の藍はどう見ても十四、五才くらいだ。ということは―――

「深紅、俺は二日のつもりでどれくらい留守にしちゃったんだろう?」

 急に腕に取りすがられて、深紅は面食らった顔をした。

「‥‥二日だが?」

「だって、藍があんなに成長してるよ?」

「ああ‥。藍は虹彩人だ、人間とは違う。姿は心を映すもの。‥慌てるな。」

「???」

 藍は聞こえよがしに溜息をついて、笑った。

「‥‥青磁さまと橙に、紫苑さまが戻られたと伝えてきます。どうやらお変わりないご様子だと。」

 そしてくるりと背を向けると、屋敷の方へ走り去った。

 皮肉に磨きがかかったようだ。小学生だった時でさえバカにされ気味だったのに、同じ年になったのでは太刀打ちできるわけがない。溜息が出る。

「紫苑。ともかくも屋敷に入ろう。‥琥珀も。」

 深紅は真白みたいに紫苑を軽々と肩に担ぎ上げると、屋敷に向かった。

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