6
琥珀を藍と橙に頼んで、青磁と紫苑は西の水晶の谷へ向かった。
琥珀も心配だったが、深紅と真白も気にかかる。紫苑は琥珀が血まみれで横たわっていた光景が頭に浮かぶたびに、心臓のあたりがぎゅっと痛くなった。二人がもっと酷い状況だったら、と思うといてもたってもいられない気分だ。
「あのさ。青磁も囚われていた時、怪我していたりしたの‥?」
「わたしですか? いいえ。わたしは気がついたら木の根に絡みつかれて、身動きできなくなっていました。しばらくして藍も囚われているのが見えて‥。」
しかしその場所が東の森の地下深くだと気づいたのは、かなり時間が経ってからだと青磁は言った。
青磁の能力は音楽で植物を操る力だった。まして東の森は今までの六回、青磁が浄化した地でもある。なのに歌を歌っても話しかけても、木々は泣くばかりで応えようとはしなかったそうだ。
「そうしているうちに紫苑が森へ入ってきたのを感じたのです。森が紫苑も捉えようとして迷路を作り始めたので、わたしは必死であなたに呼びかけたのですけれど‥。」
「あの時は‥‥木が泣いているみたいに思えたんだ。」
その前に真白を想った。そうしたら森のあるべき姿が見えたのだった。
真白はどうしているのだろう。真白のことを想うと紫苑は暴発しそうになる。だからなるべく考えないようにしていたのだが、今向かっている西の谷は真白が囚われているかもしれない場所なのだ。訳が解らないけれど、どきどきして落ち着かない。
「紫苑。わたしも一つ尋ねたいことがあるのですけれど‥。」
躊躇いがちな青磁の声に、紫苑は振り向いた。何だろう? 答えられればいいけど。
「浄化の術を完璧に会得したようですね。どのようにしたのです?」
「完璧‥ほんとにそう思う、青磁? 全然自信ないんだけど‥。偶々じゃないかなあ?」
紫苑は夢わたりのターミナルのこと、そこからイメージを切り取ってくる方法について説明した。
「北の湖で無意識にやったことを必死で思い出して、真似してみたんだけど‥。前世の記憶を取り戻したわけじゃないから、自分でも訳解んないままただやってるだけなんだ。夢わたりの能力もね、今朝、橙に言われて初めて、他人の夢にも入れるのかって気づいたくらいで‥。相変わらず俺って何にも知らなくて嫌になる。」
「‥‥何も知らない、つまり無垢であることが大切なのかもしれません。」
「‥‥?」
怪訝な顔の紫苑に、青磁は微笑を向けた。
「あなた同様、わたしも今回は不明なことだらけです。けれど、あなたの施した浄化の術は今までの千五百年のうちで最も完璧だということだけは解ります。」
「へ‥?」
「七人の紫苑の中で、あなたが最高の能力遣いだということですよ。お世辞ではありません。さあ、真白さまを救出に参りましょう。真白さまならば、もっと正確に見定めてくださるでしょう。」
呑みこめないまま紫苑は曖昧にうなずいた。
何にしても、一人で考えて行動したことを褒められたのは嬉しい。『行動する』も『褒められる』も普段ほとんど縁がないから余計だ。それに真白。早く真白に会いたい、紫苑は心からそう願った。
西の水晶の谷は、名前から紫苑が想像していたのとは全然違った。
これが水晶か。鉄か鉛みたいに見える。刺さったら痛そうな剣の束が、切り立った峰の合間をびっしりと埋めつくしている。風はそよりとも動かない。
すっかり見慣れたシルエットだけの風景だけれど、やけに無機質で空っぽだ。北の湖水の絶望、東の森の哀しみ、そして黄風の荒野での敵意。今までの場所にあったなにがしかの感情がここでは感じられない。不思議な透明感が漂っている。
紫苑はがっかりしていた。ここには何もない。誰もいない。つまり―――真白がいない。
青磁も感じ取ったようだった。
「どうやら真白さまはここではないようです。やはりあの影は真白さまを狙ってきたもののようですね。‥深紅ならばあれが何だったのか解っているかもしれません。深紅は接近戦を展開していましたから。」
青磁は美しい顔を微かに顰めて、唇を噛んだ。
「じゃ、ここは後回しにして南に行こうよ。深紅がいるかもしれない。」
「‥いないかもしれません。わたしと琥珀は離れて闘っていましたから、弾きとばされましたけれど、近くで闘っていた真白さまと深紅は‥取りこまれてしまったのかも。」
青磁は酷く悲しそうだった。
紫苑は何とか励まそうとして、思いついたことを言ってみた。
「じゃあさ。俺が夢わたりで真白と深紅の居場所を探してみたらどうだろう? 夢わたりってそういうことができるはずなんだよね?」
「紫苑‥。確かにそうですけれど、影の怪物に遭遇したら、そのまま夢の中で襲われる可能性もありますよ。」
「とりあえず見つけたらすぐ戻るよ。夢づたいに勝手に移動したりしないって約束する。」
青磁は唖然とした顔で紫苑を見た。
「夢づたいに移動する‥? そんなことまでできるのですか、紫苑?」
「え‥? うん、多分ね。ターミナルで探し当てることができれば、移動するのは難しくないと思うよ。‥とにかくちょっと探してみる。」
紫苑は意識を集中して、『真白の居場所』でキーワード検索をかけてみた。
ところが何度試みても、霧がかかって真白が出てこない。何かが邪魔をしているみたいだ。無性に不安になる。だが紫苑は泣きたい気持をぐっと押さえこんだ。
諦めて今度は『深紅の居場所』で検索する。
浮かび上がってきた映像は紅一色の光景だった。炎と熱風の中で何かが跳ね回っている。太刀を振り回し、肩で息をしながら闘い続けている。深紅だ。
影どもは疲れ果てた彼を取り巻いて嬲り、嘲って、体にも心にも無数の傷を刻んでいるようだった。音声は聞こえないけれど、その度に深紅の貌に怒りや苦痛の表情が浮かぶ。よく見ると肩にも腹にも夥しい出血の痕があり、両眼は閉じられたまま血の涙が頬を伝っている。何より無惨なのは―――角だ。紫苑は思わず悲鳴を上げ、その場に座りこんだ。
「紫苑‥! どうしました。もしやまた、誰か傷ついているのですか‥?」
抱き起こされても紫苑の下半身は震えが止まらなかった。
「‥‥深紅。でも俺には‥どこなのか、解らないんだ。‥‥真白は‥邪魔されてるみたいで見えない。」
ショックが強すぎて、うまく喋れない。それでも紫苑は目に映った怖ろしい光景を何とか説明した。
青磁は紫苑の言葉の意味を悟ると、真っ青になった。
「角が‥折られている? 深紅の、あの紅い角が‥‥?」
「‥どこだか解る、青磁? 早く行かなきゃ‥。いちばんに助けに行かなきゃいけなかったんだ‥! 俺が夢わたりの能力の意味をちゃんと解ってれば‥。」
青磁は涙をいっぱいに溜めて、紫苑を振り向いた。
「南の熱砂地帯、砂嵐の中だと思いますけれど‥。炎を操る深紅が自力で出られないなんて、どうなっているのでしょう?」
「誰かと闘っているんだ。とにかく行こう。‥ここは最後でいいから。」
青磁はうなずいて、紫苑をまた羽衣で包みこんだ。
彼の操る笛の音は昨日と違って荒々しかった。心の動揺がそのまま出ている。逆に紫苑は少しずつ冷静になってきた。
昨日の違和感が胸に甦る。儀式は仲間と協力して行わなければならない―――協力とはほんとうに作業を分担する意味なのか? 五人の参加者と五つの柱、色。ぴったりした数字が引っかけだとしたら真の協力とは何だろう? 心の問題かもしれない。
相性のいいはずの場所に捉えられるなんて、こんな皮肉な話はない。選んだ場所が間違いだったという無力感と絶望を増幅しようという悪意をびんびん感じる。虐めっ子の典型的な遣り口だ。虐められっ子だった紫苑はよく知っている。
どこまでが黒焔の意図なのか時に解らなくなると青磁は言ったが、何から何まで全部、黒焔の意図に間違いない。虐めっ子の手口なら紫苑は熟知しているのだ。しかしさっさと逃げるのが紫苑の得意技だが、逃げられない場合はどうすればいいのか。難題だ。
南の熱砂地帯は炎上していた。
広範な範囲に色のない炎が広がり、中心に巨大な竜巻が渦巻いている。ごおおっという凄まじい音に混じって、微かに太刀を合わせる音がしていた。
「相手は誰なのでしょう。深紅の‥鬼人の角を折るなどと並みの戦闘能力ではできないことです。」
「とにかく闘いを終わらせよう。青磁、ここは色が戻るとどんな景色になるの?」
「中央にオアシスのある砂漠です。紫苑、浄化するつもりですか?」
「それしかできないからね。何にしてもあの竜巻を消さなくちゃ。」
紫苑は息を整えて、意識を『砂漠のオアシス』に集中した。
不意に激しい感情が紫苑の中に無理矢理に割りこんできた。
怒り、凄まじい怒り。それから哀しみと―――嫉妬? また紫苑には難しい大人の感情。これは影の怪物が撒き散らしている感情だ。深紅を罵り、嘲り、圧倒的な力で嬲っている。
―――醜い、浅ましい鬼の分際で‥! おまえなど消滅してしまえばいい!
紫苑は思わず叫んだ。
―――よく言うよ! 鏡を見ればいい、あんたの方がずっと醜いじゃんか。
―――何‥? 誰だ、我を誹謗するは‥!
しまった、と気づいた時には、紫苑は深紅の前に立っていた。薄紫色の光が全身を包んでいる。夢わたりで入ってきてしまったのだ。
―――おまえは‥‥誰だ? どこから我が結界の中に入ってきたのだ?
影の怪物はいっそう影を膨らませて、紫苑を睨みつけた。
ヤバい。とにかく逃げよう。逃げるのは紫苑の得意中の得意のはず。
紫苑は咄嗟に深紅に抱きついて、青磁の隣をイメージした。戻る、と強く念じる。次の瞬間、紫苑は青磁の隣に戻っていた。
「ああ‥深紅!」
青磁は崩れ落ちた深紅の体を両手で受けとめて、一緒に倒れた。美しい黄金色の髪が波打って、血だらけの深紅の全身に絡みついた。
「青磁‥‥無事なのか?」
「ええ。紫苑が助けてくれました。しっかりしてください。いったい‥あなたほどの人が誰にこんな傷を負わされたというのです‥?」
深紅は青磁の質問には答えず、手にした太刀を支えにして半身を起こして、逃げろ、と青磁に言った。
「あなたを置いてはいけません。例えこの身を盾にしても、あなたを守ります。」
天人の涙が鬼人の傷ついた体を濡らした。
これ以上見ていてはいけない気がして、紫苑は二人を背に竜巻の方を向いた。再び『砂漠のオアシス』のイメージを探す。今度はすぐに見つかった。
明るい日ざしの中、五色の砂が光り輝いている。風にそよぐまばらな木々の傍に緑がかった青い水を湛えた泉が見えた。美しい色―――まるで青磁の瞳のような色の泉。水を飲んでいる動物がいる。馬だろうか? 平和で美しい光景だ。
目の前まで竜巻がうなりを立てて迫ってきた。見えてはいたが紫苑の心はオアシスでいっぱいで、避けるなどという考えは欠片も浮かばない。そのまま魂力を天に向かって放出した。
「紫苑‥!」
青磁の悲鳴が遠くで聞こえた。意識が次第に遠退いていく。紫苑は無意識のうちに真白、と呟いていた。
またターミナルにいた。
真白の声が聞こえる。声ではない、悲鳴だ。凄まじい悲鳴。一定の間隔で繰り返されている。耳を塞いでも頭の中に直接響いてくる。
「やめろ‥! 真白、真白、どこにいるんだよ?」
また天地を揺るがすような悲鳴。
流れこむ感情は苦痛と悲しみ、絶望。またもや絶望。
「誰か、やめさせてくれ、頼むから‥!」
紫苑の叫びはどこにも届かない。
気がつくとぼんやり立ち尽くしていた。
砂漠とオアシスの風景が戻ってきている。どうやら紫苑は浄化に成功したらしい。
竜巻も影の怪物も跡形もなく消えていた。こわごわ振り向くと、青磁が傷ついた深紅を抱えて呆然と座りこんでいる。
深紅の怪我は深かった。
「青磁‥。とりあえず屋敷に連れ帰ろうよ。何か手当しないと‥。」
青磁は涙をぽろぽろこぼしながら、首を振った。
「鬼人は角が力の源なのです。角を折られては‥もう‥。」
「そんな‥!」
わたしのせいです、と青磁は呟いて泣き崩れた。
紫苑は残った魂力を振りしぼって、深紅を竜巻から連れ出した時のやり方を使い、深紅と青磁を梅屋敷に連れ帰ろうとした。夢わたりを応用した、瞬間移動だ。
一応成功はしたものの、意識が朦朧として立っていられない状態だった。
突然現れた三人に驚愕の表情を浮かべている橙と藍に、事情を説明するのもそこそこに、紫苑は倒れた。誰かが受けとめてくれたような気がするが、それが誰だか解らない。そしてそのまま、再び眠りに突入した。
ところが紫苑は眠り損ねていた。いや、体は眠っているのだが魂はターミナルに戻ってしまっている。
魂力を回復するのが遅くなると解っている。しかし深紅の角が気にかかっていた。何とかして治せないものだろうか。誰に訊けば知っているのだろう?
真白なら知っているかもしれないのに。真白を助けることもできないし。琥珀だって眠ったままだ。紫苑に前世の記憶や知識があればよかったのか? そうすればもっと物事はうまくスムーズにいったのだろうか。
いや、違う。紫苑は落ちこみそうな自分を励ました。
紫苑に記憶がないことを黒焔が最大限利用したのだ。そう考えるのが正しい。
現在紫苑たちが陥っている不都合な状況は、全て黒焔のせいで起こっている。ということは黒焔の目的を読み違えたら、きっともっと最悪な状況に陥るだろう。
紫苑は思考するのが苦手なのだが、今度ばかりは頭痛がするほど真剣に考えてみた。
例えば紫苑が仲間を見捨てて、一人で浄化の術を続けたらどうなるのだろう。残るは西の谷だけだし、簡単そうだ。五色の儀式をやり遂げれば、皆は元に戻るのでは? ロールプレイングゲームならば―――そうなる。
この状況を生み出した目的が、紫苑を動揺させて儀式をなおざりにさせることならばこれは正解だろう。
しかしそうではないはずだ、と紫苑は思った。それならそもそも仲間は不要だ。
黒焔が紫苑の気持を弄んでいるのは解る。虐めっ子は泣かせるのが楽しいのだから。だから紫苑は泣いてはならないし、諦めてもいけないのだ。
諦める? 何か引っ掛かる。
諦めるという言葉の中にヒントがある気がする。諦める―――つまり絶望だ。そうだ、浄化した風景の中にはいつも『絶望』が埋めこまれていた。
そこで紫苑は気づいた。
時間の止まったモノクロの世界。黒焔のいる闇の世界には、『未来』がないのだ。だから希望もない。あるのはただ何の変化もない現実の繰り返しだ。それが青磁の言っていた『秩序』ってヤツか? 規格からはみ出た者には居場所さえない、融通の利かない世界。
考えてみれば紫苑が暮らしていた十五年間の人間世界もそういうところだった。
『五色界』へ来てまだ数日だが、紫苑は髪も瞳も紫色になってしまって、生まれた時から備わっていたように夢わたりの能力を遣っている。そしてそんな自分に疑問すら持っていない。しかしこのままで元の世界に戻って生きていけるだろうか?
まあ髪は染めればいいし、瞳にもカラーコンタクトを入れればいい。現代の人間界ではそんなことは大した問題じゃない。能力を隠しておくのも簡単ではないかもしれないが、できないことでもない。それより自分でもやる気になればできることがある、と実感できた方が大きかった。
そうだ。諦めなければきっとできる。紫苑の魂力は『祈り』で遣うものなのだから、そもそも『祈る』願いを持たなければ話にならない。
仲間たちを助ける方へ全力を尽くそう。黒焔の鼻を明かしてやるためには希望を失くさないこと。これが多分、正解だ。
紫苑はゆっくりと息を整えて、まずは深紅の折れた角を治す方法を探した。
ネット検索のように思いつく限りのキーワードで、夢を探る。ずいぶん時間がかかって、最後に『治す』という言葉で何かが浮かび上がってきた。
人気のない渓谷に流れの速い清流が浮かんだ。
いつのまにか紫苑は河原に立っている。とっぷりと日が暮れて、夕闇が濃くたちこめて、物寂しい景色の中だ。こんなところでどうすればいいのだろう?
不意に川の中から誰かが出てきた。
「紫苑さま。うんと久しぶりだが、おいらに何か用かい?」
のどかな声で話しかけてきたその姿を見て、紫苑はびっくりして危うく転びそうになった。それは何と河童だった。
「か‥河童?」
「何だよぉ。呼ばれたから出てきたってのにさ。‥そうか、あんたは新しい紫苑さまだね? おいらは河童のヒョウスケだ。水神の眷属だよ。一応契約でね、あんたの頼みは聞いてやることになってるんだ。で? 用事はなんだい?」
「用事って言われても‥。そうだ、あのさ。普通じゃ直らない怪我を治す方法、知らないかな?」
紫苑はしどろもどろになりながら、尋ねてみた。夢わたりで来た世界なのだから、ここに深紅の角を治す方法があるはずだ、と思い直したからだ。
ヒョウスケは夕闇の中でにやっと笑った。一見のどかだが、少々不気味でもある。
「なんだぁ‥。また薬か? どれくらい要るんだ?」
「薬って‥。怪我に効く? かなり酷い怪我なんだけど‥。例えば折れた角なんか、元に戻せるかなあ?」
おうよ、と河童は自慢げに胸を張った。
「おいらの薬で治せない傷なんかねーぞ。角なんか、新しく生え代わっちまうさ。」
「ほんと? ほんとだね? ね、お願いだからそれ、分けてくれない?」
「まあ、紫苑さまの頼みだからな。ちょうどたっぷり作ったばかりだから、一甕持っていくといいさ。‥‥今、持ってくるから待っててくれ。」
ヒョウスケはそう言うと身を翻して川に飛びこんだ。そしてすぐに、田舎の祖母の家にある梅干しの壺みたいな陶器の壺を手にして上がってきた。
「ほれ。これだよ。どんな傷にも一塗りすりゃ、三日以内に治っちまうから。」
「ありがとう。助かるよ。」
何度も頭を下げる紫苑に、ヒョウスケは目をぱちくりさせた。
「紫苑さま、だいぶ丸くなったみてーだな。ま。お礼なんざ要らねーから。またな。」
苦笑いを浮かべて、川に戻っていく。紫苑はもう一度ありがとう、と声をかけて、壺を手にターミナルに戻った。
次にこの薬を何とかして、『五色界』にいる青磁に渡さなければならない。
棒みたいに横たわっている自分の体に戻ろうとしてみたけれど、まだ戻れない。次に壺だけ送ろうとしてみたがうまくいかない。
前に橙に声だけ届いたのを思い出して、青磁に話しかけてみた。けれど青磁は深紅のことで頭がいっぱいらしく、紫苑の声など聞こえないようだった。
そこでまた橙を呼んでみた。
―――橙。聞こえる?
橙はちょうど寝ている紫苑の頭の下に、枕を差し入れてくれたところだった。すぐに気づいて、寝顔をまじまじと見た。
「紫苑さま‥? お目が覚めたのですか‥。」
―――いや、まだなんだけど。あのね、河童の傷薬って知ってる?
「‥‥河童の傷薬、ですか?」
青磁が橙の言葉を聞きつけて、振り向いた。
「橙‥。誰と話しているのですか?」
「紫苑さまです。河童の傷薬とやらを知っているか、と。青磁さま、ご存じですか?」
「ええ‥。秘薬中の秘薬です。もしや、紫苑、手に入れたのですか?」
青磁には紫苑の声はなぜか聞こえないらしかった。それで橙に、両手を出して眼を閉じるように伝えた。
橙は躊躇いがちに、言われた通りにした。
紫苑は画面を見ながら何とか壺を橙に渡そうとする。なかなかうまくいかない。そこでまず橙の手、と念じて、柔らかい小さな手の感触に辿りついた。ぎゅっと手を握りしめて繋がった感覚を確かめながら、そうっと壺を小さな掌に載せる。今度はうまくいった。
「あ‥! 壺です、青磁さま。紫苑さまの仰った壺が、ほら、この通り。」
青磁は橙から壺を受け取ると、有難う、と寝ている紫苑の耳元に向かって言った。
「これならば深紅の命が助かるかもしれません。ほんとうに有難う、紫苑。」
青磁はきらきらと金色の涙をこぼしていた。その嬉しそうな表情を画面ごしに見て、紫苑はやっと、二人が愛し合っている事実に気づいた。
闇の中で黒焔はふむ、と苦笑を浮かべた。
今回のちっぽけな人間はなんと真っ直ぐで単純なのだろう。素直というより愚直に近い。儀式を楽しむつもりはさらさらないらしい。面白くない。
しかしあの鬼人が命を取り留めれば、再び白狐が大きく動くだろう。それはそれでまた面白くなる。人間の浄化の力と白狐の怨念とどちらが強いのか?
黒焔は『五色界』が光と闇のどちらに染まろうと構わない。どうせあれは朽ちゆく世界なのだ。宿命は変えられない、と最後にはちっぽけな人間は悟ることになるだろう。
そろそろ次の小石を投げ入れてみようか。
それとも白狐の出方を見てからにしようか。二日待てば駒たちは動き出す。その後の方が効果的かもしれない。あの虹彩人の二人のこともある。
再び黒焔は微笑した。
紫苑はうとうととまどろんでいた。
ターミナルにいるのだが、テレビは全部ブルースクリーン状態だ。集中力を欠いているせいかもしれない。紫苑色の閉ざされた世界で紫苑はふわふわと漂っている。
そこにまた夢が流れこんできた。
夜空に三日月が光っている。湖面には果てしなく暗い空と逆さの月が映っていた。確か前に一度見たことのある場所だ。
湖の畔に背の高い人影が立っていた。
夜風に銀色の豊かな髪がそよいで、月の光が横顔を照らし出す。ああ。真白だ。紫苑はなぜだか懐かしい想いでいっぱいになる。
背後から仄かな光に包まれた何者かが近づいた。真白はゆっくりと振り向く。
「‥‥天神か。何用だ?」
「そなたは地祗と見受けたが。ここに棲まう者か?」
「千年ほど棲みついている。‥‥何用だ、とは二度目だが?」
「天帝より命を受け、この国に降りてきた。人の都に向かうところで、通りがかっただけだ。地祗と無駄に争うつもりはない。」
白い衣を纏った白金の髪の男は高飛車な口調でそう言った。
「ならば疾くと去ね。この地は貧しいゆえ、天狐の居るべき場所ではない。」
真白は再び湖の方を向いた。
「素気ないことを言う。そなたも昔は天界にいた者ではないのか? 地祗の治める地にしてはこの地は清涼な霊気に満ちている。」
「だとしたら何だ? 思い出話などないぞ。それに治めてなどおらん、ただ棲みついているだけだ。見れば解るであろう。」
「‥‥なるほど。追放者であったか。話しかけたりして悪かった。さらば。」
天狐は小馬鹿にしたような冷たい声で言い捨てると、すっと灯が消えるようにいなくなった。
紫苑は少しムカついた。なんだ、あの態度は。そう思った時、少女の声がした。
「何よ、あいつ。偉そうにそっくりかえっちゃって。誰?」
紫色の髪、紫色の瞳。紫苑らしいが、初代の少女とはまた違う。
肩までの切り揃えた髪にきちんとした着物を着ている。手燭に照らされた顔は目が大きくて、可愛いとも言える顔立ちだが、性格のきつさが全体に滲み出ている分、ややマイナスになっている。
真白はふっと優しい瞳で微笑い、知らん、と答えた。
少女は不満そうだったけれども、それ以上は尋ねず、真白の隣にそっと寄り添った。
「昨夜、夢で見た。多分、明日の晩は『五色界』にいると思う。今度こそ、やり遂げてみせるからね、真白。三度目の正直と言うでしょう?」
真白は微笑んだだけで何も答えなかった。
少女はじれったそうに唇を噛んだ。
「あたしの願いは決まってるの。ねえ、解ってるでしょう? あたしは‥。」
「宿命を変えることだろう。俺も同じだ。‥‥明日の晩は『五色界』で待っている。」
そう言って真白は風のように消えた。
残された少女は溜息をついて、唇を噛んだまま啜り泣き始めた。
紫苑は驚いて、その場を離れた。
曖昧な霧のような中を夢中で走る。とにかく急いで別の場所へ行きたかった。
少女は紫苑なので、感情が流れこんできてしまう。年齢もちょうど同じか少し下くらいなのに、あの少女は真白にどうやら恋をしているらしかった。紫苑も真白が好きだけれど、全然違う種類の感情だから戸惑うばかりだ。
紫影の言葉を思い出した。紫影は最初の少女の大人になった姿なのだと、今更ながら気がつく。まさか今までの六人の紫苑は全員、真白のことを―――?
走り続けているうちに、大きな木が一本見えてきた。
連綿と続く夜空の下に大木の影がぽつんと立っている。見覚えがある、と立ち止まって、紫苑はこの場所が琥珀の夢の中だったことを思い出した。
琥珀はまだその場所にいた。孤独の中にたたずんだまま、じっと星の瞬きを見ていた。
夢の中のはずなのに息を切らして、紫苑は立ち竦んだ。
月明かりに照らされた琥珀の横顔は幻想的で美しかった。初めて会った時の冷笑気味な表情とはうってかわって、穏やかで優しげだ。けれど同時にひどく寂しそうだった。
紫苑の気配を感じたのか、琥珀はゆっくりと振り向いた。
「紫苑か‥。ここはどこだろう? どうやって来た? ‥‥それともおまえも幻か。」
「ここは琥珀の夢の中だよ。俺は今、魂力を遣いすぎて寝てるはずなんだけど、迷いこんで来ちゃったんだ。‥ごめんね。勝手に入りこむつもりはなかったんだよ。」
紫苑はおどおどしながら釈明した。
今は紫苑への敵意は感じられないけれど、荒野で感じた激しい憎悪を忘れたわけではなかった。だからつい、気後れしてしまう。
琥珀は驚いた表情で、紫苑を見た。
「では‥夢わたりを完全にできるようになったわけか? いったい僕はどれくらい眠っているのだろう? 他の皆はどうした、無事なのか?」
そこで紫苑は状況を説明した。少しほっとしていた。琥珀が紫苑を信用している様子だったからだ。
「酷い‥! 深紅の角を折るなど‥許せない! 誰なんだ、いったい?」
「深紅が回復すれば多分解ると思うんだけど‥。ヒョウスケが三日で治るって言ってたから、あさってには治るんじゃないかな。」
琥珀は腕組みをして少しの間考えこんでいた。
やがておもむろに顔を上げ、紫苑にいつ戻るのか、と尋ねた。
「なるべく早く戻りたいんだけど‥。そうだ、その前に真白の居場所を探さなくちゃ。」
「ちょっと待て。おまえ、魂力を回復するために眠っているのだろう? 今ここにいるのは魂力を遣っていることになるのではないのか? 真白を探すのもそうだ。こんなことを続けていたら、今に体に戻れなくなるぞ。」
「え‥? そうなの?」
「存在するということは、人間が思うほど絶対的な事実ではないのだ。個々の存在など気を緩めればすぐに、世界の秩序に押し潰されて消滅してしまう。」
紫苑の愕然とした顔に、琥珀はほのかに微笑した。
「紫苑はよくやった。今のところは十分だ。真白のことは皆が揃ってから考えよう。心配なのは解るが、焦るな。‥僕の言葉を信用できないなら仕方ないが。」
紫苑はへたへたとその場に座りこんだ。
「‥‥あのさ。琥珀は‥戻ってくる?」
「‥どういう意味だ? 戻るなと言いたいのか。」
紫苑は慌てて、違う、と叫んで思わず琥珀の手を掴んだ。ひんやりとしてすべすべした手だった。
「そうじゃなくて‥あの、いろいろとごめん。青磁に聞いたんだ‥なぜ琥珀が『五色界』に来たのかとか、俺のことが嫌いな理由とかも。」
「別におまえを嫌いなわけではない。謝られる理由もない。」
やんわりと手を振り払われて、紫苑は何を言おうとしたか判らなくなった。
琥珀はまた冷ややかなまなざしを紫苑に向けた。しかし静かに隣に腰を下ろした。
何だか無性に泣きたくなってきた。
「何を泣いている‥?」
溜息まじりの言葉に、紫苑は緊張の糸がぷつんと切れて、叫び返した。
「‥‥解んない。俺はほんとはこんなに感情的じゃないんだ。『五色界』のせいだ、ここに来てから何だかおかしいんだよ。俺のじゃない感情がやたら心の中に入りこんできて‥どうにかなりそうなんだ。さっきも三代目の紫苑の記憶が勝手に流れこんできて、ま、真白のことが好きだって頭の中で叫んでるから‥走って逃げてきた。共感できっこないだろ、そんな気持ち! 俺は男なんだし‥!」
「‥支離滅裂だな。」
琥珀は涙に濡れた紫苑の顔を、呆れた表情で覗きこんだ。
「青磁が‥‥琥珀は闇から心を守るために弱ってしまったって言ったんだ‥。ふ、布団の中で、小さくなっちゃって‥。闇の部分にあったのは俺への憎しみだったから‥俺のせいだから‥。謝るな、たって謝るしかできないじゃんかよ、他に何ができる?」
「だから紫苑のせいではない。慈愛の心しか持てないはずなのに、恨みや憎しみが捨てられない僕が悪い。僕自身の問題なんだよ。」
「じゃ、星のお告げでは麒麟の主にならなきゃいけないのに、ただの人間でしかない俺たちはどうなわけ? そのせいで琥珀は強くなれないとしたら、責任は誰にあるの?」
「やれやれ‥。青磁はそんなことまでおまえに話したのか。お節介なことだ。」
紫苑は頭に血が上ってしまって、訳が解らなくなった。ただ涙がこぼれ続ける。
「‥‥戻ってきて欲しいんだ。」
「‥‥」
「俺、一人で寂しいなんて思ったことなかった。自分のことでもいつもどこか他人事みたいだったし‥。別に欲しいものもやりたいこともなかった。親がいて家があって、嫌なことからは逃げてしまえばそれですんでたから。死ぬとか生きるとか、意識したこともなかったんだ。『五色界』に来て初めて強い感情みたいなのが胸に吹きだすのを感じた。ほんとに自分のかどうか判らないけど‥。夢わたりの能力が目覚めたせいで、やたら拾いまくってるだけかもしれないけどさ。でももう、誰かが傷つくのは嫌だ。深紅にも元気になって欲しいし、琥珀にも戻ってきて欲しい。‥真白にも。」
泣きすぎて目が疲れた。そのまま閉じているうちに全身から力が抜けてきた。夢の中にいるはずなのに、この倦怠感は何だろう。また体を無意識に持ってきてしまったのか?
紫苑、と琥珀の呼ぶ声が遠く響いて、紫苑は深い眠りに落ちていった。
紫苑はそれから三日間眠り続けていた。
先に回復した琥珀は紫苑の無防備な寝顔を見て、苦笑いを浮かべていた。
「許しもなく僕の夢の中に入ってきて、勝手なことを言い散らしたあげく消えたと思ったら、まだ寝ているのか? 温和しいようでやはりこいつも紫苑だな。」
橙はおずおずと琥珀の表情を窺った。言葉は辛辣だけれど、怒っているようではない。ほっとして、それから紫苑が心配になった。
「では紫苑さまは‥‥夢わたりを続けていらっしゃるのでしょうか?」
「どうだろうね。一応休むよう忠告はしたのだが。」
素直な紫苑のことだから琥珀の忠告には従ったに違いない、と思いながらも、橙は心配が拭えなかった。優しいから真白を探しにいったかもしれない。そしてあの怖ろしい影の怪物に―――いやいやいや。馬鹿げた想像はやめよう。
屋敷周りは日増しにいろいろな生き物が増えていた。草が伸び、花が咲き、蝶やバッタや蜜蜂などの昆虫を見かけることが多くなった。
天界では見られない景色だった。橙の知っている庭では草は勝手に伸びたりしないし、花は常に咲いている。青磁によれば人間界の風景ではないかと言う。
「紫苑はイメージを夢から切り出してきて、あるべき姿を探すそうです。無意識のうちに人間界でのあるべき姿を描いているのでしょう。」
藍は馬鹿にするけれど、橙はそれは素晴らしいことだと思った。
日々微細ながらも変わっていくというのは、生き物の正しい形なのではないだろうか?
変わらないことばかりが正しいわけではない。草が伸びて蕾が花開くのを見れば、橙もいつかは違う自分になれるような、希望が湧いてくる。
橙にとって紫苑の魂力は希望の象徴だった。真っ直ぐで強い、命の光を育む魂力。しかもそれが人間の器に宿っているなんて。天界にいる時には想像もできなかったことだ。
虹も満足に吐けない、虹彩人としては最低ランクの橙でも、広い世の中のどこかにはもっと役に立てる場所があるのではないだろうか。天界を出て初めて解った。この世は何と多様なのだろう。
眠りに入って三日後、心待ちにしていた橙の目の前で、紫苑はようやく目を覚ました。そしていきなり、ヤバい、と呟いた。
「紫苑さま‥?」
紫苑は青ざめた顔で橙を見返した。
「橙‥。あのね、説明している暇はないんだ。人間界に戻らなきゃいけない理由ができたってみんなに伝えて。あ、深紅と琥珀が回復したのは知ってるからね。」
橙は目をぱちくりさせた。
「とにかく、よろしく。」
紫苑の体が薄紫色の光で包まれて、薄くなっていく。
「お待ちください、紫苑さま‥。もうここには戻られないのですか?」
涙を浮かべて取りすがった橙に、紫苑は振り返って微笑んだ。何か言っているが、よくは聞き取れない。そしてすうっと消えてしまった。