5
琥珀はモノクロの荒野の真ん中、巨岩の裡に封じこめられていた。
何かに弾きとばされたあの瞬間、琥珀は自分の胸を自分の角が貫く幻夢を見た。
あり得ないことなのだから幻夢に違いない。しかし柔らかい体を貫く感覚も、貫かれる激痛も自分のものだった。闇の中で黒焔は空間をねじまげたのだろうか。それとも空間を歪めたのは琥珀自身が操る風だったか。解らない。
ここが黄風の吹く荒野であるとは解っている。今までに六回、琥珀が浄化した場所だ。
前回はなぜ失敗したのか、とうとう誰にも解明できなかった。『五色界』の全土に色を取り戻し、五つの柱は光を湛えた。しかしその色は一日と保たずに消滅し、虹ができる前にモノクロームの世界に戻ってしまった。
紫苑はそれから十日以上も不機嫌に黙りこくっていた。
全員で『五色界』を飛び回り、再び色を回復しようと試みる間も、真白以外とは口を利こうとはしなかった。そしてある朝、いきなり人間界へ帰ってしまってそれきり戻らなかった。今ここで思い出しても腹が立つ。
あれから三百年余り。ずっと待っていたのに。
紫苑が戻るのを待って、麒麟界での孤独と蔑みに再び耐え忍んで―――やっと始まった最後の挑戦。なのになかなか現れなかった紫苑は、無垢な存在に転生していた。琥珀の目には自分一人だけ宿命を忘れ、人間界と迎合しているように映った。真白のことさえ忘れて、仲間のことも忘れて―――恨みも憎しみも能力さえも捨てて。
許せぬ、と憤りが体の中で膨らみ続ける。
角が血で穢れたせいで、琥珀の五感は全く機能していなかった。ただ、胸の傷から闇がどろどろと入りこんでくる気配だけを感じる。
このままでは黒焔の思い通りだ。影しか持たない闇の者になってしまう。心のどこかでそう知っているのに止めることができない。僕は麒麟だ―――慈愛の心を持つ霊的な存在。卑しい獣ではない、ないはずなのに。なぜ慈愛以外の感情を捨てられないのだろう? 麒麟では―――ないのか?
屋敷を出ると割にすぐ、モノクロ世界の境界に当たった。
紫苑はなぜか背中にぞわっとした悪寒を感じ、くっきり引かれた境界線の前で立ち止まった。昨日までどこもかしこもモノクロ世界だったけれど、こんな嫌な感じはしなかった。何だろう? 隣の青磁を振り返る。
青磁は両手で口元を覆い、立ち竦んでいた。心なしか青ざめて見える。
「‥‥紫苑も何か感じますか?」
「やっぱり、変なんだね? 嫌な感じがする、としか言えないんだけど‥。」
「わたしも同じです。こんなことは今まで、ありませんでした。何て言ったらいいでしょうか‥何かが腐っていくような‥。羽衣を使って、一気に飛び越えて参りましょう。」
「ここは『修復』しなくていいの? それとも『浄化』かな? 何て呼ぶのか解らないけど。」
「ここはいいのです。荒野を浄化すれば自然に周辺地域も浄化されますから。」
青磁は珍しく、冷笑に近い微笑を浮かべた。
「昨日あなたが東の森で行った術は『修復』とは少し違いますね。天界に住む者は『浄化』と呼んでいます。天界から見れば、天界以外の世界で、生まれたままのあるべき姿に戻すことはすべて『浄化』なのですよ。それが現在そこに住む生き物たちを消滅させてしまうことであってもね。」
紫苑は驚き、心配になった。
「じゃ‥。昨日、俺がやったことで消えちゃった生き物がいるわけ?」
「いいえ。森は喜んでいましたよ。それに『五色界』は色を失って以来、時間が止まってしまったのです。真白さまがそう仰っていました。むしろ、あそこに存在する生き物たちはあの時点から生き始めた、と言って良いでしょう。」
「ああ‥よかった。よく考えずに大変なことをしちゃったかと思った。」
青磁は今度は、光がこぼれるようなとびきりの表情で微笑んだ。
そして紫苑を軽々と抱き上げると、羽衣でくるくると春巻みたいに巻いてふうわりと微風に乗せた。
袂から笛を取り出し、ゆったりとした音楽を奏で始める。笛の音に合わせて微風は勢いを増し、春巻状態の紫苑を南へと運んでいった。
着地したのは、濃い灰色の岩だらけの荒野だった。
乾燥した砂まじりの風が吹き渡っている。昼間のはずなのに暗くて、隣の青磁の顔もろくに見えない。手を顔に翳し、風を避けた。ゴーグルを持ってくればよかった。
「子供たちを置いてきて正解でしたね。これほど荒れ果てているとは‥。紫苑、正面にうっすら五柱山が見えるのが解りますか?」
「ごめん‥目を開けていられなくて‥。」
風に背を向けながら、紫苑は次第に勢いを増してくる風力に押されて、今にも倒れそうだった。まるでこれ以上近づくなと風が警告しているみたいだ。
「‥おかしいですね。この風には紫苑への悪意が感じられます。でもまさか‥。」
「うん‥‥。あんまり考えたくないけど‥。もしかして、琥珀?」
琥珀は以前の紫苑を嫌っていたように見えた。
まあ、名前を呼ばずに『獣』なんて呼ばれたら、どんな寛容な人だって好意は持てないだろう。真白は紫苑と前の紫苑は別人だと言ったけれど、魂は同じなわけだからやはり責任を感じる。彼女はどういう気持で琥珀を『獣』だなんて呼んだのだろう?
紫苑はちらりと見たきりの、琥珀の獣形の姿を胸に思い浮かべた。それからやはり一瞬しか目にしてしない戦闘モードの獣人と、普段の姿。青磁の美しさとは種類が異なるけれども、どれを取ってもとても美しいと思う。あんなに綺麗な存在を『ケモノ』って呼ぶのは間違っている。『琥珀』という名は至極ぴったりしているのに。
ともかくも風に含まれる自分への悪意はいったん無視することにして、意識を『荒野』に集中した。
だが何も浮かび上がってこなかった。いったんターミナルに戻らなくては駄目だろうか、と思いつつ再度試みた。しかし目の前の荒涼とした景色しか出てこない。
ふと思いついて、青磁に尋ねた。
「ねえ? この場所って元からこんな岩ばっかりの荒野なのかなぁ?」
「いいえ。色を取り戻した後は、美しい草原でしたよ。‥できそうですか、紫苑?」
「うん。『草原』だね。も一度やってみる。」
今度は『草原』のキーワードで夢を探す。見つけた。
明るい五色の草が一面にそよいでいる草の海。青い空、白い雲、爽やかな風。遙か向こうに聳える緑の山と周りを取り囲む、天に向かう五本の光の柱。
紫苑は荒れ果てた荒野が元の穏やかな草原に戻ることを願おうとした。ところが気持が集中できない。怨みのこもった泣き声が風の音に混じって、紫苑の耳に響く。次第に強く、激しく、やがて紫苑の体が溢れるほどの泣き声で埋めつくされていく。
―――この泣き声は‥琥珀?
紫苑が憎い、という怨みの念だけは判別できたが、他に混じりこんでいる種々の感情はなかなか読み取れなかった。聞いているうちに少しずつ判ってきたのは、ずたずたに切り裂かれた誇りと―――絶望?
この既視感はどこから来る? 記憶か、それとも共鳴か?
眼を閉じた瞬間、巨岩の下敷きになって地中に埋まっている琥珀の姿が見えた。仰向いた胸に血溜まりができていて、翼が半分折れている。角は血で赤く染まり、長い髪も血が斑に付着して、まるで赤いメッシュを入れたみたいだ。
「うわぁ‥!」
叫んで紫苑は蹲った。
「どうしましたか?」
「琥珀が‥‥。血だらけで‥どうしよう、早く助けなきゃたいへんだよ!」
「落ち着いて、紫苑。見えたのですね? 琥珀はどこにいました?」
「大きな岩の下‥。半分埋まってて‥。」
紫苑は吐き気を何とか呑みこんだ。胸をさすって、気分を落ち着かせようとしてみる。でも涙が溢れた。誰かが死にかけているところなどほんとうに見たのは初めてだ。足が震えてくる。
助けなければと思いながらも、この場から逃げ出したいという欲求がこみあげてくる。
「紫苑‥! 大丈夫ですか? 闇に取りこまれかけていますよ。」
青磁は紫苑を吹き荒れる風から庇うように胸に抱え、竪琴を取り出した。
我に返った紫苑は、竪琴をかき鳴らそうとした青磁の手に両手をかけて止め、首を振った。
「ごめん。俺にやらせて。お願いだから。」
「ですが‥。」
「もう一度だけ。」
「‥解りました。けれど涙はお拭きなさい。負の感情に流されてはいけません。」
慌てて袖で頬をごしごし拭い、息を整える。
もう一度意識を『草原』のイメージに集中しようとした。だが怪我を負った琥珀の姿がちらついてなかなかできない。
焦る紫苑の耳に、橙の声が聞こえたような気がした。
橙の信頼しきったまなざしが、不意に紫苑の胸の中にクローズアップされた。
やがて『草原』のイメージが広がり、そこに橙と藍の姿が加わった。青磁が草の海の中で優しい微笑を浮かべ、遠くにいる誰かを見ている。誰を見ているのだろう? 紫苑が意識を草原の真ん中へ移すと、そこには人形の琥珀がたたずんでいた。
よかった。無事だったんだ、と安堵の想いが胸一杯に広がった。誰も、何にも傷ついて欲しくない。寂しいのはもう―――たくさんだ。
紫苑の体から薄紫色の光が凄まじい勢いで噴出した。
青磁は唖然として天へと向かうその光柱を見つめた。
圧倒的な魂力。まっすぐで力強い、正直な『祈り』の力。絶望を希望に変える光。青磁は胸がいっぱいになった。
気がつくと荒野は消え、目の前には五色の草原が広がっていた。左手には菜の花が一面に咲き、蝶がひらひらと舞っている。
紫苑は魂力を放出しすぎて、膝をがくんとついた。それでも何とか立ち上がり、琥珀のいる場所へと歩き出そうとした。
「紫苑さま‥! 大丈夫ですか?」
支えてくれる手につかまって、振り返ると橙がいた。
「なんで‥いるの? 来ちゃいけないと青磁に言われただろ?」
「はあ‥。でも、何となく呼ばれたような気がしたものですから‥‥。」
橙は頬を染めて俯きながら答えた。
紫苑は咄嗟に、今しがたの『修復』あるいは『浄化』で呼んでしまったのかと思った。
「‥藍は?」
「あ‥。藍も一緒です。ここに。」
橙の振り向いた肩ごしに、藍がふてくされたような表情で立っているのが見えた。やはり紫苑の描いたイメージのせいなのだろうか。
藍は青磁の方を向いて言い訳をした。
「橙が急に飛び出していったので、追いかけてきたら着いちゃったんです。申し訳ありません。」
青磁はうなずいただけでにこやかに微笑み、紫苑を再び羽衣で包んだ。
「琥珀のところへ行きましょう。あなたたちも一緒に。」
巨岩は消えて、代わりに樫の大木の根元に琥珀は倒れていた。
人形に戻っていて、髪も美しい琥珀色だった。胸にも血溜まりはない。しかし頬から血の気が失せている。
紫苑はなぜだか涙が溢れて止まらなかった。胸の奥から津波のように押し寄せるこの感情は誰のものだろう。もしかしたら七人分の感情なのか?
「紫苑。落ち着いて。大丈夫、琥珀は死んではいませんよ。力を使い果たして眠っているのです。‥‥心を必死で守っていたのですよ。」
「こ‥心?」
「そうです。琥珀は麒麟ですから。心を失えば消滅してしまいます。そういう生き物なのですよ。‥‥紫苑も隣で少しお休みなさい。ほら、鳥たちも戻ってきました。この場所はもう安全です。回復したら屋敷に戻りましょう。」
青磁の言葉が終わる前に、紫苑は草の上にもう倒れこんでいた。
「何だか情けない‥。魂力を遣うたびにこんなに疲れるなんて。チビだからかな‥?」
目蓋が重くて開けられない。けだるい体に日の光が注いで、温かい微風が撫でていく。すごくいい気分だ。青磁の奏でる竪琴の音が流れている。紫苑はすっかり安心して眠りこんでしまった。
金色の髪の美しい女性が悲しそうな瞳で夜空を見上げていた。
「『五色界』と言う世界はどこにあるのでしょう? そこにあなたの仕えるべき御方がいるというのですか‥。」
「星がそう告げたのです。明日、発ちます。」
「‥‥ではもう二度とお目にはかかれないのですね。」
「それが僕たち麒麟の本来の使命ではないですか? 星が示す御方の傍で、陰ながらお支えするというのが。」
皮肉な口調で答える背中を、波打つ褐色の髪が腰まですっぽりと覆っていた。
「けれどもう何百年も、星のお告げを受けた方などいません。これは‥‥体の良い追放ではありませんの?」
女性は必死に涙を堪えているようだった。よく見るとまだ若い。
「それでも構いません。僕はもう、この旧弊な世界にはうんざりなんです。出ていくことができて正直嬉しい。」
「‥‥連れていってください、と申し上げたら?」
「できません。連れていく理由がない。」
「‥‥愛しているのです。何度も申し上げたでしょう?」
「僕は愛していません。何度も答えました。‥‥同情も憐憫も不要です、花梨。」
とうとう女性の瞳から涙がこぼれ落ちた。両手で顔を覆い、肩を震わせている。
「恨んでいるのですか? わたくしのせいだと?」
答える声が少し和らいだ。
「そんなことはまったくないですよ。あなたのせいではないから。誰も恨んではいません。僕はただ、自分の宿命に従うだけです。」
「嘘‥! ほんとうのことを言ってください。これでもう最後なら、せめてあなたの本心を聞かせてくださいな、琥珀。」
琥珀は振り向いて、泣き濡れた美しい瞳をじっと見た。冷ややかな、突き刺さるようなまなざしで。
花梨は項垂れ、微かな声でさようなら、と呟くと身を翻して部屋を出ていった。
紫苑はどきどきしながら起きた。
今しがたの夢は何だったのだろう? 琥珀から洩れてきたのを、紫苑が夢わたりの能力で無意識にキャッチしちゃったのだろうか。すごく個人的で、大人の夢だ。初恋も未経験の紫苑には手に余る―――て言うか、理解できない。
あんなに綺麗な女性のどこが気に入らないのだろう。連れてきてあげればいいのに。しかしそんなに単純な話ではないのだろうな、とも思う。
周りを見回して、紫苑は自分がまだ起きていないことに気づいた。ここはターミナルだ。
あれから琥珀はずっと『五色界』にいるのだろうか。花梨という女性は追放という言葉を使っていた。一人だけ異なる毛色というのはそれほど罪なのか? 自分が望んだわけでもないのに。
そう言えば最初の紫苑もそう言って泣いていた。こんな能力、望んだわけじゃない、と。
彼女は何を望んで、黒焔とゲームを始めたのだろう? 終わらないうちに何度も転生して、今の紫苑になった。記憶も能力も封印されていて、平和な世界に生きる平凡な人間に。望みすら解っていない。
結局残ったのはゲームだけだ。だから紫苑は今までの紫苑の逆を辿る羽目になっている。能力を思い出して、記憶を夢を通して必要に応じて切り取ってくる。最後に思い出すのは自分の望みなのだろうが、それが今の紫苑の望みと合致するとは限らない。まるきり本末転倒だ。
まあいいか、と紫苑は考えた。
転生だからといって同じ人間だというわけではない、別人なのだと真白は言った。紫苑が引き継いだのは五色の儀式とこの能力だと、割り切って考えよう。会ったこともない今までの紫苑たちに義理を立てても仕方がない。それよりたった今、運命を共にしている仲間たちの方が大切だ。
紫苑は草原と、仲間たちを思い浮かべた。そしてポップアップしてきたウィンドウを掴んで、元に戻った。
琥珀の意識は翌朝になっても戻らなかった。
それどころか人形から獣形に変わって、更にそれが縮んで体長一メートルくらいになってしまった。心配で傍についていた紫苑は、変化のさまを目撃してしまって、パニックになった。
「ち‥小さくなっちゃった‥。どうなっちゃうんだろう? ね、青磁、麒麟界とかってところに医者はいないのかな?」
青磁はくすくす笑った。
「医師を必要とするのは人間だけです。他の生き物は生まれついてより自分の体をよく知っているものですよ。琥珀はかなり消耗してしまったので、本能的に体を小さくして消費する体力を減らしているだけです。獣形を取る生き物には普通のことですから心配要りません。ただ、小さくなるからには回復には時間がかかると考えて良いでしょうね。」
よかった、とほっとした顔の紫苑をつくづくと見遣って、青磁は尋ねた。
「紫苑は麒麟という生き物について、何か知っていることはありますか?」
部屋の隅にいる藍の視線を気にしながら、紫苑は仕方なく首を振った。
「俺のいる世界ではキリンて、単なる動物のことだから。琥珀とは全然似てないし‥。すみません、教えてもらえますか?」
思った通り、藍が聞こえよがしにふん、と鼻で笑った。
青磁の説明によれば、麒麟とは毛を持つ獣形の生き物の中で最高位を持つ神獣であり、慈愛の心を持ち、殺生を嫌う種族だという。本来は人間界で仁の心を持つ王が立つと、その傍に影のように寄り添って、王が生涯仁の心を保てるよう補佐する役目を持っている。
だがだんだんと人間界に仁愛で国を治める君主が出てこなくなって、麒麟界と人間界の縁は薄れてしまった。それで麒麟界は他の多くの世界と同様、ただ麒麟という種族が暮らす世界でしかなくなってしまったのだそうだ。
「昔の人間界は、非常に多くの世界と混じり合って成り立っていたのですけれど‥。今はどうでしょうね? わたしはここから出ることはできませんが、真白さまはどの次元でも行き来できるので、よく人間界のお話を聞かせていただくのです。紫苑のいる人間界では、言葉を解する種族は人間だけだというのはほんとうですか?」
「え? ああ‥はい。そうだけど‥。」
「真白さまは‥人形を取ってただそこに存在するだけで、もの凄く力を消耗してしまうのだと教えてくれました。それではまるで、黒焔のいる闇の世界と同じではありませんか、とわたしが申し上げると、本質的に似通った部分があると仰って‥。それ以上は説明してくださいませんでしたけれどね。」
闇の世界と似通った部分とは何だろう? 犯罪発生率が昔より上がったのだろうか。いや少なくとも日本は、戦国時代などに比べれば平和で穏やかな方だと思うけれども。しかし人でない存在が存在しにくいというのは感覚的に解る。誰も信じていないからだ。
「いけません。また話が逸れてしまいました。琥珀の状態を説明していたのでしたね。‥麒麟は慈愛の心を保てなくなると、死んでしまうのです。仕えている王が仁の心を失った場合も同じです。王と心を一つにして生きるために、王が非道な行為をすれば麒麟の心は穢れを帯び、やがて病んで命を失います。逆に王が仁の心を高めれば高めるほど、麒麟の神力は強くなり、国を安定させるのです。琥珀の場合はやや複雑で‥。」
紫苑は夢を思い出した。
琥珀は『五色界』に仕えるべき者がいると言っていた。誰のことだろう? 真白か、青磁か。それとも花梨とかいう女性の言う通り、単なる口実に過ぎなくて、星のお告げなんて最初からなかったのかもしれない。
ところが青磁は驚いたことに、紫苑が琥珀の主人だと告げた。
「琥珀は主人とすべき紫苑に仁の心など見当たらぬと言って、主従の誓約をしなかったのです。けれど宿命を変えたいと願う者がこの『五色界』に引き寄せられて来る、という真白さまのお言葉には納得したようで、わたしたちと共に闘うことに同意しました。」
千五百年前の話だ。初代の紫苑は恨みと憎しみの塊で、琥珀は直接触れることもできなかったらしい。それなのに紫苑が死んだ時、琥珀は麒麟界へ自動的に戻ってしまった。そして次の紫苑が目覚めて『五色界』に渡ってくると、また自動的に召喚されてしまったのだそうだ。
「以来ずっとその繰り返しなのです。紫苑が琥珀の主であることは間違いないのですけれど、誓約を済ませていないので、こんな時に力を分けてもらうことができないのです。」
「ちょっと待って‥。仁の心もなくて王でもないのに、なんで麒麟の主人になれるわけ? ‥何かの間違いじゃないのかなあ。」
「それはね。『五色界』に宿命の星が降りて琥珀は来たわけですが、ここにいる人間は紫苑だけだからです。麒麟の主人は人間と決まっています。これは天帝の定めた絶対的な秩序に含まれているのですから。」
「そんな理由‥? 絶対何か、間違ってるよ。‥ああ、だから琥珀は俺が嫌いなんだ。」
紫苑は溜息をついた。
大昔の紫苑に無性に腹が立ってくる。自分のために始めた儀式なら、誰彼構わず迷惑かけるな、と是非言いたい。
同様に黒焔にもだ。紫苑に琥珀を意図して巻きこむ力なんかあるはずがない。黒焔が巻きこんだのだろう。何しろ天帝と同等の力があるのだそうだから。
「あのう‥紫苑さま。そういうことではなくて‥青磁さまは、紫苑さまだけが琥珀さまを助けられる、と仰っておられるのではありませんか‥?」
「‥‥え? どういう意味?」
橙のおずおずとした言葉に紫苑は思わず振り返った。
「えっと‥。誓約さえ結べば、琥珀さまは紫苑さまのお魂力を分けていただいて、早くご回復なさる、というお話ではないかと‥。」
「でも意識が戻らなければ誓約なんてできないよ?」
橙はにっこりと笑って紫苑を見た。
「紫苑さまのお魂力は、夢わたりではありませんか。琥珀さまの夢にお入りになって、誓約を交わせばよいのです。わたしが言うのも僭越ですけれど‥紫苑さまには仁のお心が備わっておいでだと思います。麒麟と誓約を結ぶのに相応しい御方だと‥。」
びっくりした紫苑にまじまじと見つめられたせいか、橙は赤くなって下を向いた。
紫苑はまた考えこむ。他者の夢に入る―――そんな技ができるのだろうか?
さっき青磁は、『真白は次元を行き来できる』と言っていた。次元というのは人間界とか麒麟界とか、そういうもののことか? 紫苑の魂力は『次元を繋げる力』だ。次元という単位に他者の夢も含まれるのだとしたら。この場と琥珀のいる夢の中を繋げられるのだろうか?
考えるより試してみよう。紫苑は即座に心を決めた。
『琥珀のいる場所』に意識を集中してみる。駄目だ。目の前の布団の中が透けて見えるだけだ。では『琥珀の心がある場所』はどうだろう?
目の前がぼやけてきた。薄暗い、寒い場所が広がってくる。ここはどこ―――琥珀は?
いた。ぽつんと一人で座っている。さっきの樫の大木の根元だ。しかし周囲に明るい穏やかな草原は見えない。夕闇の中なのか、空にうっすら星が瞬いている。
あまりにも深い孤独に、紫苑は声もかけられなかった。
気がつくと元の屋敷に戻っていた。青磁が不安と期待の混じった表情で紫苑を見守っている。紫苑はふう、と息をつくと青磁に向かって首を振った。
「見つかりませんでしたか‥?」
「ううん、見つかったよ。だけど‥話しかけられる雰囲気じゃなかった。」
「そうですか‥。仕方ありませんね。」
青磁は溜息をつく。紫苑は何となく申し訳ない気持でいっぱいになった。