4
真白は過去の夢に封じこめられて出られなくなっていた。
戦いに敗れ、天帝の前に引きずり出されて、翼をもぎ取られた屈辱の瞬間。果てしなく続く幻夢のリフレインに、真白の意識はずたずたに切り裂かれて自分を保つことができなくなり始めていた。
「‥‥では簒奪者であると認めるか?」
―――何度言わせる。下らぬ王位になど執着はない。俺は、ただ‥。
「八頭の兄弟を殺したのは誰か?」
―――俺だ、しかし。
「永久に地中へ追放する。二度と上へは昇れぬ。」
百頭以上の天龍とたった一人で戦い、全身を切り刻まれて血を流しすぎていた真白の意識はかなり薄かった。それでも翼をもがれた瞬間の激痛は、既に弁明すらできない口から凄まじい悲鳴を引きずり出す。
続いて無限とも思える落下。大気が体の傷を苛み、苦痛のあまり真白は空中をのたうち、跳ねくる。激しい衝撃がきて、その後地中深くへと沈んだ。為す術もないままひたすら沈み続けていく。そして―――
「‥‥では簒奪者であると認めるか?」
ああ、何度繰り返す? これは何だ、何の罪だ。俺は、ただ―――自由を望んだだけだというのに。
紫苑は目覚まし時計の音で起き上がった。お腹がぐうと鳴る。昨日おにぎりを三つ食べたきりの十五の体は、文句を言い続けている。
階下へ下りて冷蔵庫をかき回して、食べるものを探した。共働き家庭の一人っ子だから、食事を自分で支度するのは慣れていた。
空腹を鎮め、シャワーを浴びて、時計を見た。午後三時になろうとしていた。
くしゃみがたてつづけに出た。真冬の東京は寒い。特に今日は冷えこんでいる。空はまた雪になりそうな雲行きだ。『五色界』の方がずっと暖かい、と思う。
雪で真白を思い出した。今頃どうしているだろう? あの時いったい何が起きたのか、いくら考えても紫苑には解らなかった。
紫苑の見た感じでは、真白は影の怪物など怖がっているようには見えなかった。深紅も琥珀も、青磁でさえも、手馴れた仕事に向かうように飛んでいったのに。予想外の何かが起きたのだ、とそこまでは解る。だが実際に影の襲撃を受けたのは紫苑にとっては初めてだったから、どのへんが予想外なのか判別できないのだった。
リュックに非常食と着替え、タオルを詰めこんで、厚手のシャツとGパンを身に着け、スニーカーを手に持つ。今度は体ごと帰ってきているのだから、パジャマにはならないだろう。リュックがどうなるかはやってみなければ解らないけれども、紫苑は妙に自信があった。冬は日が短い。『五色界』とこちらでは時間も微妙に違うかもしれないし、一分でも早く戻る方がいい。
自分の部屋でベッドに腰掛けて、目を開けたままで意識を集中する。焦る気持ちを抑え、落ち着くよう胸に言い聞かせて、頭の中に夢わたりのイメージを描いた。
だんだんと周りの景色がぼやけてくる。本棚のガラス扉に映る紫苑の、黒く戻っていた髪と瞳が次第に薄紫色の光を放ち始めた。紫苑はターミナルを経由せず一気に『五色界』へ行こうと、橙の姿を思い浮かべた。
ところが紫苑が着いたのは最初に『五色界』へ来た時に出てきた古ぼけたお堂だった。人間界と『五色界』の通路はここと決まっているようだ。
ちょっとがっかりしたけれども、『五色界』まで飛んできたのは確かなのだからと言い聞かせて、外へ走り出た。今回は真白がいないから、空は飛べない。方角だけ見定めると、紫苑は急いだ。
モノクロの世界では日が沈むまでどれくらいの猶予があるものか、さっぱり予測できない。また徒歩ではどれくらいかかるか読めない。とにかく急がなくては、と気ばかりが急いてしまう。
目論見はうまくいって、スニーカーも履いているしリュックもちゃんと背負っている。色を取り戻した梅林の屋敷に辿りつきさえすれば、数日間はなんとか保つだろう。だがもしも影に襲われたら、どうやって身を守ればいいのか見当もつかなかった。
紫苑ができるのは夢わたりと景色の修復だけ。しかも魂力のコントロールが未だできていない。以前の六人の紫苑はできていたはずなのに。
歩きながら紫苑は必死で思い出そうと努めてみた。でも何も浮かんでこない。なぜ真白にもっと詳しく訊いておかなかったかと悔やんだ。誰か戻ってきてくれれば、今度は躊躇せずに以前の自分の能力について尋ねてみよう。
白けた空にぽっかり浮かんでいる太陽の位置で方角を確かめ、まっすぐ直線的に進んだ。
どこにも道はない。草をかき分け、少々の崖はよじ登り、小高い山の上まで来た時、遠くに色を取り戻して輝いている池と梅林が光った。しかし間には深い真っ黒な森がたちはだかっている。
太陽はだいぶ低くなっていた。森を抜けるのに手間取れば、そこで夜を迎えることになる。それは最悪の事態だ。だからといって何もアイデアは浮かばなかった。
ここで考えていても仕方がない、と紫苑は緩やかな崖を駆け下り、森に飛びこんだ。手近な落ち枝を広い、前方を遮る枝葉を払いながら進む。だがきりがなかった。
次第に紫苑は後悔し始めた。森の中にすっぽり入ってしまって、方角も解らなくなっていた。どっと疲れを感じる。戻ることさえ既にできない。
大きな木の根元に腰を下ろし、息を整えた。
今までの人生でこんなに一生懸命な自分は初めてだというのに、やはりうまくいかない。相変わらず誰の役にも立てないままだ。
橙の泣き顔が胸に浮かんだ。
紫苑は立ち上がり、また歩き始める。生まれて初めて紫苑を頼りにしてくれた者が待っているのに、泣き言を言っている暇はない。
それから真白だ。真白のことを思うと泣きたくなる。心配でたまらない。紫影に影響されているせいかもしれないし、魂が憶えている千五百年の絆ってヤツなのかもしれない。とにかく紫苑の感情は、真白のことになると暴走しそうになるのだ。
再び紫苑は立ち止まった。
真白のことを考えた時、何かの景色が頭をよぎった。光り輝く、たくさんの―――木?
迷路のような黒々と絡み合った樹々を見回してみる。まさか、ここがそうなのか? 美しい五色の森。五色の鳥が唄い、飛び交う、光溢れる森。
紫苑は消えそうな儚い記憶に意識を集中した。いちかばちか『修復』してみよう。これ以上枝払いで無駄な体力を使うより、多分ましだろう。
体中から薄紫色の光が立ち昇ってくる。眼を閉じなくても、森のあるべき姿が明瞭に見えた。木々の悲鳴が聞こえてきて、哀しみが伝わってくる。泣かないで。今、戻してあげるから。森が生まれた時のあるべき姿へ。
髪が逆立ち、全身がそそけ立つ。魂力が加速度的に高まり、体の中心に収束して強力な『祈り』となる。紫苑は天に向かってまっすぐ、その『祈り』を放出した。
凄まじい爆発音と共に紫苑の体を中心にした直径五メートルほどの光の柱ができ、上空へと突き立った。
薄紫の光は巨大な暈となって森を覆い、ドミノを倒すように次々と森の景色を変えていく。紫苑は木々から哀しみの気配が消えるまで、魂力の放出を緩めなかった。
それほど時間がかかったわけではない。多分、十数秒程度しか経っていない。
紫苑はゆっくりと歩き始めた。足が鉛のように重かった。肩で息をしながらも何とか、意識は保っていられる状態だ。今日一日で、どれほど魂力を遣ったのだろう。
夕闇が急速に立ちこめてきた。
木々が心なしか道を開いてくれているように感じた。でも焦れば焦るほど、足は進まない。息が切れる。まもなく日暮れてしまう。紫苑は橙に約束したのに。日が落ちるまでには必ず戻る、と。そんな約束さえ守れないなんて。
木々の葉がさやさやとざわめいた。音楽のように響く。優しい、竪琴の音色みたいだ。
突然、樹上から薄いヴェールのようなものが舞い降りてきた。
「紫苑‥!」
「青磁‥?」
青磁はふうわりと降りてきて、輝くような笑みを浮かべ、ヴェールを紫苑の体にくるくると巻きつけた。
「さあ、飛んでいきますよ。羽衣につかまっておいでなさいね。」
「は‥羽衣って‥。あ、あ、うわあ‥!」
つむじ風に押し上げられて、体が浮いた。そしてそのまま緩やかに回転しながら、一足飛びに森を越えてゆく。あっという間に梅林の屋敷に着いた。
「紫苑さま‥! ご無事でよかった。東の方角で紫の光が天に昇った時は、いったい何が起きたのかと‥。もう、心配で、心配で。」
駆けよってきた橙はもう涙を浮かべていた。その後ろには藍がいた。
「遅くなってごめん。‥でも、青磁と藍が帰ってきていたんだね。よかった。」
「まあ‥。紫苑、気づいていなかったのですか?」
青磁が可笑しそうに口元を綻ばせ、言った。
「気づいてなかったって‥何?」
「あなたが助けてくれたのですよ。わたしたちは迷いの森の深層部分に囚われていて、出られずにいたのです。自由になれたのはあなたが五色の森に浄化してくれたおかげなのですよ。‥‥わたしはてっきり、わたしの声が届いたものとばかり。」
紫苑は苦笑いを浮かべて、座りこんだ。
「それにしても‥。見事でしたね。正直なところ、わたしは驚いています。能力の使い方を思い出したのですか?」
「さあ、どうなんだろ?『修復』のコツはのみこんだけど、記憶みたいなのは全然だめなんだ。昨夜も何が起きたのか、さっぱり解らないし‥。ねえ、青磁。昨日の影は、真白が言ってたモノとは違ったの? 今夜もまた来ると思う?」
青磁はゆったりと微笑した。
「‥‥紫苑。この梅林も『修復』してくれたのですね? たった二日で、北から東へと連なる広い地域にあなたは色を取り戻してくれました。それがどのような意味を持つか、あなたには解らないかもしれませんが、この屋敷にはもう影は近づけないでしょう。紫影さえも。だから今夜はお休みなさい。明日、話をしましょう。」
既に意識は薄くなり始めていた。
泥だらけになったスニーカーを脱ぎ捨て、辛うじて室内まで移動すると、紫苑はそのまま布団に倒れこんだ。柔らかい肌触りが頬に心地いい。きっと橙が敷いておいてくれたのだな、と朧な頭で考えて、彼を眼で探した。橙は藍が帰ってきたことが嬉しいようで、気恥ずかしげな表情を浮かべている藍の前でまた泣いていた。
―――ほんとに泣き虫だな。
胸の奥から一掴みの微笑がこぼれ落ちて、紫苑はまた眠りに入った。
翌朝、きらきらと輝く朝日を受けて紫苑は目を覚ました。
夢は全然見なかった。そのせいか体がとても軽い。行動的な気分で満ちている。
紫苑以外の三人は梅林で朝露を採取しているらしかった。眼を閉じるまでもなく、紫苑にはその様子が映像としてはっきり見える。これも能力の一部なのだろうか? 体中が活性化している感じだ。
初代の紫苑と真白が出会った時の夢で、真白は紫苑の能力を『祈り』で次元を繋げる力だと評していた。ジゲンて何だろう? 『五色界』では誰かに何かを訊くたびに難しい言葉が多く出てくる。電子辞書を持ってくればよかった。
それに確か橙は、紫苑がした湖水の『修復』を『浄化の術』と呼んでいたようだった。あの時紫苑は何を浄化したのだろう? さっぱり解らない。
三日めを迎えて紫苑は、自分が未だ何も知らないままなのをあらためて認識した。
解らないと言えばいちばん解らないのは、自分の心の中に満ちている、このついぞないヤル気だ。物心ついて以来こんな気分になったことはない。昨日『五色界』に戻ってからというもの、なぜかヤル気満々な自分にちょっと違和感を覚えている。
とにかくせっかくだから気分がしぼまないうちに、自分がやらなければいけないことを確認しておこう。つまり―――青磁に教えてもらうのだ。
ところが帰ってきた青磁は真白を掠った怪物について、よく解らないと答えた。
「あの時は黒焔の支配下にある影だとばかり思っていましたけれど、今から思えば別のもののようです。少なくともわたしは遭遇したことがない相手でした。真白さまが不覚を取るなど初めてなのですから。余程強い力を持つ者か、未知の能力を遣ったのか。情けないことにそれさえ判別できませんでした。ただ、一瞬のうちにわたしや深紅、琥珀を吹き飛ばせる力を持っていたのは確かです。」
「黒焔が自分で来たということはない?」
紫苑の言葉に、青磁は首を横に振った。
「それはありえません。黒焔は直接の干渉はしないというのが決まりだからです。わたしたちに危害を加える命令を配下の妖魔に直接与えることもしません。意志を持たない影しか遣わずに、間接的な妨害をするのです。黒焔はプライドが高いので、今までの千五百年、ルールを破ったことはありません。」
「間接的な妨害とはどのようなものですか? 意志を持たない影を遣うのに、直接命令せずにどうやって邪魔ができるのです?」
青磁は藍を振り返って微笑した。
「ちょうど池に小石を投げこんで、さざ波が立つのを眺めるようにやるのですよ。黒焔はわたしたちが行動する先を読んで、無数の罠をそこら中に仕掛けておくのです。結果として妨害となればよし、ならずともどちらでもよいわけです。わたしたちは何かが起きる度に、黒焔の罠なのか単なる偶発的なできごとなのか考えなくてはいけない。やがてお互いの存在さえも、疑うことになるのです。本人の意志は関係なく、黒焔の描いた仕掛けに組みこまれてしまうことだってあるわけですからね。」
「黒焔さまの掌の中で転がされているということでしょうか?」
「この儀式自体がそうなのかもしれません。黒焔はわたしたちがあがくのを見て、面白がっているのでしょう。命の終わりがない存在にとっては、時間すら意味を持たないのですから、総てが退屈凌ぎでしかないのです。」
藍は顔を顰めて、うんざりしたように言った。
「こんな厄介な儀式、いったい誰がどうして始めたのですか? 黒焔さまを怒らせてしまったのは誰なんです? なぜわたしや橙まで巻きこまれる羽目になったのでしょう?」
青磁は藍に再びにっこりと微笑した。
「始めたのは真白さまと紫苑だと聞いています。‥いえ、ここにいる紫苑ではなく、千五百年前の紫苑ですよ。」
藍の非難がましい視線が紫苑に向くのを見て、青磁は急いで言い添えた。
「わたしたちは‥あなたと橙も含めてですが、成り行き上この儀式に参加せざるを得なくなったように思えますけれど、実はそうではありません。偶然ではなく必然によりここに来たのです。なぜ巻きこまれたか、という問いへの答はあなた自身の魂の中にあります。なにしろこの儀式の褒美は、持って生まれた宿命を存在の始めに遡って変えられる権利なのですから。」
橙がおずおずと口を挟んだ。
「あのう‥。五色の儀式が皆で力を合わせてこの世界に色を取り戻すことだとは先程伺いましたが‥。そもそもなぜ『五色界』は色を失ってしまったのですか?」
藍が呆れ顔で橙を振り返る。
「それは天界の授業で習っただろう? 虹が五色から七色に増えた時に、虹彩人のご先祖さまたちは天界に住む権利を天帝さまより与えられた。全部の虹彩人たちが天界へ移住してしまったため、『五色界』は色が消えて無人になったんだ。」
「ええ、それは憶えています。けれどどうして虹彩人は天界へ召されたのでしょう? 七色になったのなら『五色界』を『七色界』にすればよかったのに‥。」
「だって天人に位が昇格したんじゃないか? 天界へ行くのは当然だよ。」
「そうですか? 虹彩人は天界では特殊能力者で、天官や星官など上位の天人になる機会がまったくないのに? ほんとうは『五色界』にいられなくなって天界に置いていただくことになったのでは‥?」
藍が口を開く前に、青磁が橙に、なぜそう思うのかと問い返した。
橙はほんのりと頬を染めて、俯いた。
「‥‥解りません。ただここに落ちてきた時、とても怖かったからでしょうか? 紫苑さまの浄化の光に救われるまで、わたしは恐怖で押し潰されそうでした。この世界が先祖の地であったとはどうしても思えません。先祖が去ったから色を失ったというより、先に色を失って去らねばならなかったのではという感じがしてならないのです。」
藍は聞こえよがしに溜息をついたが、何も言わなかった。
紫苑は気まずい空気をとりなすつもりで、話を変えた。
「それでこれからどうしたらいいと思う? 青磁のように他のみんなも囚われているなら、急いで助けに行きたいけど‥。心当たりもないし、怪物の正体も不明だし。どうすれば助けられるのかな?」
「‥わたしが東の森に囚われていたのが偶然でないとすれば、他の皆が囚われている場所も見当がつく気がしますけれど。でもどうすれば助けられるのかは見つけてみないと解りません。それに救出が先、というのが果たして正解なのか。」
青磁は広縁に腰を下ろして考えこんだ。
「どういう意味‥? 正解って?」
「つまり青磁さまの仰りたいのは、分散されて囚われたのが黒焔さまの罠のせいならば、短絡的な行動を取る前によくよく考えた方が良いということですよ。」
横を向いたままで、藍が言った。やけにつんつんした口調だ。どうやら彼は紫苑が気に入らないらしい。
なるほど、と感心して紫苑は、ここへ来る前に真白の言った言葉を思い出した。
―――おまえが死ねば俺たちも時間の問題だ。今回は七度目だからもう転生はない。消滅が待っている。
儀式を始めたのが紫苑だから、紫苑が死ねば終了。そしてどうやら与えられたチャンスは七回で、今回が最後なわけだ。もしかして魂が消滅するのは紫苑だけではなくて、参加した全員なのだろうか? 今回初めて参加した藍や橙も?
紫苑は青磁に今浮かんだ疑問を尋ねようとして、慌てて口を噤んだ。橙の心細げな横顔が目に入ったからだ。彼らがいない時にこっそり聞いた方がいい。不必要に怖がらせるのは可哀想だと思った。
「とりあえず、他のみんなが囚われている場所の見当を聞かせてもらえない?」
「紫苑‥。真白さまが、北はあなたの担当だと仰ったことを憶えていますか?」
うん、とうなずく。
「紫苑は『祈り』の他に水の属性を持っていたので北の湖水群の担当になりました。何でも地上では水神の眷属を遣えるとか‥。わたしは植物を扱えるので東の森が担当なのです。同様に炎を操る深紅は南の熱砂地帯、五柱山の麓の荒野が風遣いの琥珀。西の水晶の谷は真白さまがお引き受けになりました。」
「それは千五百年前に取り決めた‥?」
「ええ。紫苑は虹の五色を知っていますか?」
「俺の時代では虹は七色だから‥。ええと、赤、黄色、緑、青、それから‥濃い青? それともオレンジ色が入るんだっけ?」
「五番目は紫ですよ。紫苑の色ではありませんか。自分を忘れるなんて。」
青磁は袖で口を覆ってくすくす笑った。
「とにかくわたしたちの色の属性は紫苑以外は全員、半端なのです。虹の五色には含まれない。わたしは青とも緑ともつきませんし、真白さまはそもそも白ですしね。深紅と琥珀は共に赤と黄になりそこねて、自分の世界にいられなくなってしまった者なのですから。それで能力の特性から割り振ることにしたのです。」
藍がいきなり振り向き、叫んだ。
「琥珀さまはもしや、麒麟の一族ですか?」
「そうです。黒麒のなりそこねだと一族の長老に宣言されたそうです。そのせいかどうか、麒麟にしては非常に短気で気性が荒い。ですがやはり殺生はできませんし、瘴気に当たればすぐに病んでしまいます。」
キリン? 首の長い、動物園にいる―――いや、琥珀とは似ても似つかない。想像しただけで琥珀に罵られそうだから、紫苑はいったん思考を停止した。深呼吸して、多分キリンという名の、紫苑の知らない種族がいるのだろうと思うことにする。
「麒麟は普通黄色で、まれに赤い炎駒、青い聳孤、白金の索冥、黒い角端が出ると聞きました。琥珀色とは確かに聞いたことがありません。よりによって最も優れていると言われる角端になり損ねたなど‥。不名誉なことでしょうね。居づらいのは理解できます。」
そんなに体の色の種類があるなら、新しい色が一つ増えたところでどうってことはないだろう。何も仲間はずれにするほどのことはないのに。紫苑には理解できない。
「深紅もそうなのですよ。彼は由緒正しい赤鬼の一族の出なのですけれど、やはり赤に黒が混じってしまったのです。それで鬼人界を追放され、影の世界に落とされました。黒焔の配下だったのですが、真白さまに救われて自分を取り戻したのです。」
紫苑が口を開くより先に橙が、何て惨い、と身を震わした。もう目に涙を滲ませている。
青磁は橙の方を向いて優しく諭した。
「世界の理とは非情なものです。秩序を保つために、世界を守るために、異物は排除しなければならない。個々は世界の中に生きる小さな存在でしかありませんから、他に選択肢はないのです。琥珀も深紅も自分の生まれた世界を恨んではいません。‥話が逸れてしまいましたね。要するに皆は、それぞれの持ち場と定めた場所に囚われているのではないかというのが、わたしの推測です。」
紫苑は何となくちぐはぐな感じがした。
持ち場と決めた場所に囚われる? 得意な場所なのに抜け出せないってもしかしたら、担当決め自体が間違っているのでは―――でもまさか。紫苑は自分の違和感を否定した。以前の知識を失っているせいで、誰もが解ることが紫苑には解らないだけなのだ。
そろそろと顔を上げた。いきなり橙の直視とぶつかり、面食らった。橙はなぜか信頼に満ちた視線を紫苑に向けている。
「‥‥とにかくさ。ここからいちばん近いのは琥珀がいるかもしれない荒野だよね? 一日一善てわけじゃないけど、順々に『五色界』の景色を『修復』していったらどうだろう? うまくすれば青磁の時みたいに助けられるかもしれないし、五色の儀式を進めることにもなるし‥。て言うか、ほんとは‥今のところ俺、『修復』しかできないからなんだけど。」
苦笑しつつ言い添えた紫苑を見据えて、藍は冷笑を浮かべた。
「あなたという方は頼りになるのかならないのか、解りませんね。あなたが始めた儀式じゃないのですか?」
「ああ‥。ごめん。俺は七代目に過ぎないから。多分、藍よりもっと状況が解っていないんだよ。俺が間違っていると思ったら、悪いけど止めてください。よろしく。」
紫苑は藍に頭を下げた。真剣だった。自分が一歩間違えたら、みんなの命が危ないかもしれないのだから。
それから青磁を振り向く。
「どう思う‥? 反対?」
青磁は穏やかに微笑した。
「行ってみましょう。五柱山の麓へ。」




