3
紫苑はどうやら夢を見ていた。
日が昇る直前のような曖昧な薄闇の中で、全身を薄紫色の光に包まれ、ぷかぷかと漂っていた。周りには複数のテレビみたいに画面を展開している穴のようなものが無数にあり、紫苑の体と同様に浮かんでいた。
ちょうど正面にある画面には一人の少女が映っていた。
白っぽい、粗末な衣服を着たその少女は、山道を必死に走っていた。時折後ろを振り返りながら必死で走っている様子は、まるで誰かに追われているようだ。じいっと見つめていると、次第に少女の息遣いまではっきり耳に聞こえてくる。
少女は十四、五才といったところか。紫苑と同じくらいの年齢に見える。
やがて走り疲れて、少女は転んだ。肩で息をして、やっと起き上がった膝に血が滲んでいる。足を引きずりながら、少女は道から逸れて森の中に入り、大木の陰に身を寄せた。
紫苑には彼女の感情が手に取るように解る。
彼女の中にあるのはまず怒り。強烈な怒りだ。それから絶望。いくら逃げたところで宿命を先延ばしにしているに過ぎない。そして哀しみ。例えようもないほど深い哀しみ。最後に恨みだ。こんな宿命を授けた者への激しい恨み。
不意に樹影から屈強な男たちが出てきた。
「手間をかけさせるな。みんなのためだ、諦めろ。」
「嫌だ‥! 嫌だよ、あたしが何で犠牲にならなきゃいけないのさ? みんなのためって部落の連中があたしに何をしてくれたっていうの? やめろ、嫌だあああ‥!」
必死の抵抗も虚しく少女はぐるぐる巻きに縛り上げられ、猿ぐつわをされて、板に乗せられてしまった。悔し涙だけが頬を滂沱と流れ落ちる。
連れていかれたのは山奥の湖の畔にある、相撲の土俵みたいな場所だった。掃き清められた土の上に盛り塩で区切られた聖域のような場所。四隅に一メートルほどの高さの葉のついた枝が立てられ、麻縄で繋がれている。
少女は猿ぐつわとぐるぐる巻きの縄は解かれたが、両手両足を繋がれたまま裸に剥かれ、冷たそうな湖の水に何度も何度も浸けられた。青ざめて震える少女は次第に暴れることもできなくなり、意識すらも朦朧としてきたようだった。
男たちは神妙な顔で、禊ぎは済んだ、と言い合って、あらためて白い衣をずぶ濡れの体に形ばかりに着せかけると、土俵のような場所の真ん中に横たえ、体を固定した。
しばらくすると神官らしい老婆が現れ、紫苑にはススキの束としか思えないようなものを振り回し、何やら祝詞っぽい言葉を長々熱心に喋り始めた。
切れ切れに理解できる言葉から推測するところ、雨降らしの神事のようだった。集まった人々は皆一様にやつれ、暗い顔をしていた。もう何ヶ月も雨が降らなくて困窮しているらしい。少女は神に捧げる生け贄というわけだった。
抵抗する力も失くして涙だけ流している少女が哀れで、紫苑は胸が壊れそうなほど痛かった。なぜ彼女なのだろう? それは少女の想いで、紫苑のではない。でも苦しい。悔しくて哀しい。のたうち回るほどの絶望が紫苑の胸を締めつける。
見ていられないのに眼を背けることができなかった。
やがて誰もいなくなり、暗闇の中に少女は一人取り残された。
湖の真上に満月が昇る頃、湖の主である水神が現れるという。そして生け贄は喰われるだろう。涙も涸れた瞳で少女は空を凝視し続けた。水神の体にせめて歯形の一つでも残してやる。その機会を損じてなるものか、と少女は月光を睨み続けていた。
「おい。こんなところで何をしてる?」
月光を遮って、突然屈みこんだ人影が少女を覗きこんだ。少女は心底びっくりして、しばらく声も出せずにその影を見つめていた。
影はああ、と独り合点して立ち上がった。
「またか。仕方のない連中だ。こんなことされても、雨なんか降らせないのに。‥ほら、解いてやるからどこかへ失せろ。」
戒めを解いてくれる。少女はゆっくりと起き上がった。
声の主は二十歳くらいの若い男で、銀色に波打つ髪と月光のような瞳をしていた。ゆったりとした大陸風の衣服を纏っている。
「水神‥さまか?」
「いいや、違う。この湖には主はいないよ。俺は大地に属するものだ。雨を降らせることはできない。五百年ほど前にここに棲みついた時には、人もちゃんと解っていたがね。雨を降らすのは‥‥天龍の仕事だ。空を飛べない地蛇の仕事じゃない。」
少女の中で怒りの感情が膨れあがった。
「ならばなぜ、人の誤解を解かないのだ? 姿を見せて教えてやればいい、そうしたら何の役にも立たぬ贄など捧げられなくなる。」
神は薄笑いを浮かべた。
「気の強い娘だ。なぜ教えてやらねばならない? それに雨は降らせられぬとも、捧げられた贄を喰うのはできるぞ。何ならおまえを喰ってもいいんだが。」
少女は竦んで後じさった。神は面白そうに舌なめずりをして、彼女の腕を掴んだ。
「怖ろしくて声も出ないか? はは、冗談だ。おまえのように恨みや憎しみでいっぱいになっている者など喰えば腹をこわす。神へ捧げる贄は清らかな乙女と決まっているのに、どこまでも無知な人間どもだ。」
そして結界の外へ彼女を押しやると、自分はふっと消えてしまった。
少女はしばらく立ち竦んでいたが、へたへたとその場に腰を抜かして座りこんでいた。
あれほど惜しいと思っていた命だったが、助かってみると今度は行き場がどこにもないことに気づいたのだった。涙が後から後から流れ落ちてくる。
「こんなところで泣くな。おまえの感情が煩くて敵わない。‥‥ん?」
再び姿を現した銀髪の神は、振り向いた少女の顔をつくづくと眺めた。
「おまえ‥。人の子のくせに、人の持つべきでない力を持っているな。どれ、よく顔を見せろ。ああ、怯えるな、面倒くさい。」
少女の瞳は満月の光の下でほんのりと薄紫色に輝いていた。
「ふうん‥。気の強いのももっともだな。『祈り』で次元を繋げる力か。何とも珍しい。本来、人に生じる魂力ではない。だが‥‥器は人間だ。おまえ、名は何と言う?」
「紫苑‥。」
「そうか。俺は真白だ。見知りおけ。」
神は月光を宿した瞳で優しく微笑んだ。
ではこれが千五百年前の紫苑と真白の出会いなのだ。
この記憶はどこから来たのだろう? 紫影と感情がシンクロしたあの時なのか?
名を告げ合った後に、古代の紫苑は泣きながら身の上を真白に語った。
それによれば紫苑は持って生まれた能力のせいで、親からも共同体の人々からも疎まれて育ったのだそうだ。
今度も生け贄を捧げようという話が出た時、もちろん喜んで娘を差し出す者など一人も出なかった。誰からともなく厄介者の紫苑ならばちょうどいいと声が出て、紫苑は捉えられた。庇ってくれる者も惜しんでくれる者も紫苑にはいなかった。それどころか、今まで養ってきてやったのだから役に立て、と罵られた。
「養ってもらったことなんかないんだ。人が嫌がる仕事を引き受けて、後は山に入って食いつないできたのに‥。化け物扱いに耐えて、やっと繋いできた命なのに。」
「能力の使い方を知らないからだ。例えば雨降らしは無理だが、おまえの魂力を使えば地下の水脈を探り当てることはできる。おまえの生まれ持つ属性は水と智。水神の眷属とは相性がいいはずだ。」
「そんなの‥‥知らないよ。そもそもこんな魂力なんか、望んでないんだ。いったい誰がこんな余計なことをしたんだろう?」
真白は苦笑いを噛み殺している。
「豪儀なことだ。天の定めた宿命に逆らおうというのか? 分不相応な魂力を持って生まれたのは、おまえの存在に何かしらの意味があるためだ。望み通りであるとも幸せであるとも限らない。それでもこの世に存在する総ての生き物は、宿命には逆らえないんだ。」
「真白もそうなのか‥? 宿命に逆らえなくて、こんな寂しい場所に一人で住んでいるのか?」
紫苑の真摯なまなざしに、真白は微笑で応じた。
「寂しいとは思わない。俺は一人が好きだから、仲間など欲しくはない。望んだのはもっと違うことだ。古い話だよ。‥‥当分の間はここに置いてやる。魂力の制御の仕方を教えてやろう。体が癒えたならどこか違う土地へ行け。そこでやり直すんだ。」
しかし一年過ぎても、紫苑は真白の元を去ろうとはしなかった。
いきなり名を呼ばれて紫苑はあたりを見回した。
テレビのうち一つに、両親が心配そうにベッドで寝ている紫苑を見下ろしている姿が見えた。しかし紫苑を呼んだのはここではない。
他のテレビを片端から覗いてみる。知らない光景だらけだった。
見ているうちに紫苑は気づいた。これは夢わたりだ。今いる場所は謂わば夢わたりのターミナルみたいなところなのだ。ということは―――探すべきはモノクロの背景、『五色界』だ。紫苑が急いで戻らなければならない場所。
紫苑は急速に直前の記憶を取り戻した。
真白が影の怪物に捕まってしまった。まさか喰われてしまったりはしないよな、と否定しつつ不安は増大する。それにみんなはどうしただろう? 虹彩人の子供は?
「‥紫苑さま。紫苑さまぁ、起きてください。」
この声は―――橙と言った、あの子の声だ。
やっと見つけた。紫苑の体は池のほとりに倒れている。残念なことにパジャマで裸足のままだった。その傍らで橙が泣いていた。
こうしてみると虹彩人の橙は、天人だけあってとても美形だ。
橙色の瞳と髪はちょっと違和感があるけれども、繊細で優しげな女の子みたいな顔立ち、ふっくらと白い頬。光沢のあるゆったりとした長い衣に橙色の帯を胸高に締め、とても愛らしかった。人間であれば歴史で落第点でもあの美貌だけで十分勝負できる。
深呼吸を一つしてその画面を両手で掴み、戻る、とイメージした。
次の瞬間、紫苑はパジャマを着て草の上に横たわっていた。すっかり高く昇った白っぽいだけの太陽が眩しい。
紫苑が起き上がるのを見て、橙は酷く喜び、泣き顔のまま抱きついてきた。
「紫苑さま‥。良かったぁ。」
他人からこれほど頼りにされたのは初めてだ。もちろん悪い気はしない。
「ええと‥。他のみんなはどこだろう?」
「解らないのです。紫苑さまの起こされた爆発より一瞬早く、あの黒い怪物が皆さまを弾きとばして消えてしまったので‥。藍もいなくなってしまったんです。多分、青磁さまが弾きとばされた時にまきこまれたのではないかと‥。青磁さまにくっついていたから。」
ということは紫苑が感情に任せて起こした爆発のせいではないのだ。内心ほっとして、すぐにそれが浅はかな考えだと悟った。
すぐ近くにいた橙がぴんぴんしているのだから、紫苑の爆発が仲間を傷つけることはなかったはず。むしろ紫苑は皆を助けるのに間に合わなかったというのが正しい。
どうしたらいいだろう? あの影の怪物は何だったのか、いやそれより、何が目的だったのだろうか? よりによって役に立たない方の二人だけ残ったのは偶然か?
闇に囚われた真白の小さな姿を思い出して、紫苑は急に泣きたくなった。
隣で泣き声がした。袂に顔を押し当てて、橙が忍び泣いていた。高く結った髪が肩に流れて、白いうなじが震えている。
小さな背中を見て、紫苑はしっかりしなくてはと思った。橙はまだ―――例え百才近くても―――子供なのだ。多分人間で言えばせいぜい十才程度にしかならないだろう。
落ち着いて、一生懸命考えてみる。
あの怪物は、全員をバラバラに弾きとばして分散するのが目的だったとは考えられないか? 儀式の邪魔をするためならそれがいちばん妥当な答に思える。
しかしどこに飛ばされたのだろう? 『五色界』がどれほど広いか知らないけれど、昨日の湖水群が最北の地でこの梅林が中央だとしたら、大して大きいわけではない。無事ならばそろそろ戻ってきてもいい頃だ。つまり―――無事ではないということになる。
とりあえず隣の橙の背中をそっと撫でてやった。彼を気遣うことで冷静になれる自分がいた。ちょっとした新しい発見と言える。
橙は泣き止んで、深い溜息をついた。
紫苑はまた空腹を感じた。だがもうおにぎりを持ってきてくれる真白はいない。自分で解決策を講じなければならなかった。
「そう言えば‥。橙はお腹は空かないの?」
「えっ‥。いえ、あのう‥空いたような‥。そうでもないような‥。」
真っ赤になっている。空いたんだな、と紫苑は納得して、梅林を見遣った。青磁は花の露を食すと言っていた。橙も多分同じだろう。
ところが梅の花は一つ残らず、色を失い、地面に墜ちてしまっていた。しょぼんと項垂れる橙が可哀想になって、紫苑は自分も空腹であることを忘れ、何とか『修復』できないかと考えた。
過去の自分の記憶にこの場所が色を取り戻した景色があるはず。真白がそう言っていた。つまりターミナルの無数のテレビのどこかにあるということだ。
駄目でもともと。そう胸に言い聞かせて、紫苑は眼を閉じ、再び夢わたりのターミナルに戻ろうとしてみた。
意識を保ったままターミナルに戻るのは簡単にできた。けれども景色を探すのは容易ではなかった。しばらく探して、やっとキーワード検索をしてみることを思いついた。『梅林』という言葉に意識を集中して、浮かび上がってくる映像を見るのだ。
これは非常にうまくいって、紫苑は過去の記憶の中から紅白入り乱れた満開の梅の花を見つけた。その記憶をしっかりと頭に描く。
―――あなたはその気になればできないことなど何もないのです。
不意に青磁の言葉が頭の中で大きく響いた。
胸が痛くてたまらない。花の香りの馥郁と漂う盛りの梅林が、脳裏にポップアップされてくる。春の優しい風が吹き渡って、どこからか青磁の奏でる楽の音が響く。幸せな春、あれは何時の時代だろう。紫苑は切ないほどにその景色を求め、やがて弾けた。
「‥‥何て、美しいのでしょう。紫苑さま、ほら、鶯まで戻ってきました。」
橙の漏らす感嘆の声に振り向いた時、紫苑は自分が涙を流していることに気づいた。橙に見つからないうちにそっとパジャマの袖で拭う。
「『修復』のやり方は何となく解ったみたいだ。とにかくこの近辺だけでも、綺麗にしてみよう。」
橙を梅林に残して、紫苑は屋敷の方へ向かった。
屋敷は惨憺たる有様だった。屋根は大穴が開いているし、柱が数本折れている。几帳は破れてぼろぼろだ。誰の責任かはあまり深く追求したくないので、全部影の怪物のせいにすることにした。
梅林と同じやり方で見つけたイメージには、都合の良いことに池の風景も入りこんでいた。これなら一度ですむ。紫苑は再び『祈り』の作業にかかった。
詳細な記憶は戻っていないけれども、紫苑はだんだん自分の魂力の特性と使い方を思い出し始めていた。真白の言っていた『意志』と『祈り』―――『意志』が魂力で、『祈り』が使い方だ。魂に伝わっているらしいこの二つの要素が、紫苑を動かしている。
ところが『修復』を終えた時、紫苑は足下から崩れ落ちるようにして倒れた。
両手をついて、何とか立ち上がろうとするのだけれど、体に力が入らない。やがて手の力も失い、地面に這いつくばった。
しまった。こんなに一度に魂力を使ってはいけなかったのだ。昨日も湖水を『修復』した後、夜中まで眠りこけてしまったではないか。調子に乗って後のことをよく考えもしなかった。夜になればまた、影が襲ってくるかもしれないのに。守ってくれる真白がいないのに。それだけじゃない、橙を誰が守る?
しかし紫苑の抵抗など無視して、意識はまた全面的にターミナルに移動してしまった。
テレビの中から自分の無防備な体を情けなく見守る。しかもあの体は空腹のままだ。なんて役立たずなのだろう。こうしている間にも、みんなは助けを必要としているかもしれないのに。
橙が梅林から戻ってきて、倒れている紫苑を見つけた。予想通り、また泣き始める。
橙は跪いて小さな膝の上に紫苑を抱え上げると、袂からたくさんの梅の花を取り出した。そして泣きながら花びらから露を集め、紫苑の唇に垂らしている。花の露よりずっと大量の涙が同時に紫苑の頬にこぼれ落ちた。
あんなに泣くことはないのに。考えなしの紫苑なんかのために泣くことはない。それより自分を守ることを考えればいいのだ。
紫苑はぐっと唇を噛みしめた。あの役立たずを何とかしなくては。
『五色界』の画面を握りしめて、戻ろうとしたけれど戻れない。今度は橙に呼びかけてみた。橙、気がついて。声を聞いて、お願いだから。
橙はびっくりして天を仰いだ。
「紫苑さま‥‥ですか? じゃあ、この紫苑さまは?」
よかった、繋がった。紫苑は一生懸命に説明した。
―――それは体だけなんだ。魂力を遣いすぎてへたばって寝てるだけ。
「では‥ご無事なのですね?」
―――うん。今からその体も回収して、ちょっと人間界に戻ってくる。日が落ちるまでには必ず戻るから、屋敷の中にいて。そこにいれば、誰か帰ってくるかもしれないし。
橙は不安げな表情でうなずいた。
「‥‥解りました。どうか、必ずお戻りくださいね。」
必ず、と約束して紫苑は体を回収した。それは全然難しくなかった。そして自分の部屋の画面からベッドへ戻る。急速に眠気が襲ってきた。
必死で紫苑は二時間後に目覚ましをセットした。際限なく眠り呆けているわけにはいかない。食事も摂らなければいけないし。とにかく次に影が現れるまでに回復させ―――紫苑の思考はそこで途切れ、泥のような眠りに落ちた。
深い漆黒の闇の中から黒焔は総てを見ていた。
いよいよ儀式も終了間近だと思うと少し残念な気もする。だが引き延ばしたところでこれ以上楽しませてはくれないだろう。
最初に考えたよりは、あの人間は面白い展開をした。
人間というのは最も雑多で『混沌』に近い種だ。だから多少の期待はしていたけれども、世界をここまでかき回してくれるとはまったく興味深い。黒焔は忍び笑いをした。
次の一手は何か。それを読むのが楽しい。読んで先回りして仕掛け、絶望に歪む顔を見るのが何よりも楽しい。
黒焔は千五百年前、愚かにも闇の支配者である自分に挑んだまなざしを思い起こした。
凡庸が秀逸に勝り、無知が英知に打ち勝つなどということはあり得るのか? あり得ないであろう。またあり得てはならぬ。世界の秩序とはそうした理の集積で築かれている。
黒焔の挑発に、ちっぽけな器しか持たぬ人間は簡単にのった。
―――やってみなければ解らないでしょ? あんたが違反をしない限り、あたしが勝つ可能性はいつだって存在しているはず。
思い出しても可笑しくなる。燃えるような強い瞳。
黒焔にとっては退屈凌ぎにすぎないが、ちっぽけな駒たちにとっては存在の全てを賭しての闘いだ。なぜそうまでして挑むのか、ちっぽけではない黒焔には理解できない。こうして最終局面に至っても未だ、理解し難い想いのみが燻っている。
―――我にとっては結果に意味はない儀式であるのに、違反など必要ない。しかし約束しよう。我の英知の限りを尽くして、おまえの魂をつぶしにかかってやると。光栄に思うがいい、人間よ。
紫の瞳の人間はせせら笑った。
―――何があろうとあんたの傲慢を認めさせてやる。あんたの言うちっぽけな世界も生き物も、自らの意志で変わることができるのだと証明してみせる。あんたたちが掌中に命運を握っているということが幻想で、単なる統治者にすぎないのだと思い知らせてやるから。覚えておきなさい、黒焔。あんたが操れるのは意志を持てない影どもだけ。
ふふっ、と闇の支配者はもう一度笑った。
思い知らされるのはどちらか。そろそろあの魂も悟ったはず。我が手に収めるまでの残り僅かな時間をゆっくりと楽しむことにしよう。