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夢わたり  作者: りり
2/15

2

 『ゴシキカイ』は『五色界』と書く。

 本来は五色の虹が住んでいる世界なのだけれど、現在は誰も住んでいないので、光と影しかないモノクロームの世界に荒れ果ててしまった。

「住んでいるって‥虹が?」

「虹彩人という。天人の一種だ。今は天界に住んでいる。」

 五色の儀式(ゲーム)とは、プレイヤーが持って生まれた能力だけを使ってこの世界に色を取り戻し、最後に中央に聳える五柱山に五色の虹を輝かせることができれば終わるという。

「東の森、西の水晶の谷、五柱山の麓の荒野、北の湖水群、南の熱砂に本来あるべき姿を取り戻させることができれば、その他の場所と五柱山の五つの柱に色が戻る。しかしその前に、世界に綻びが生じた場合はまず綻びを修復しなければ色を戻す作業には入れない、というわけだ。」

 綻びの修復は元の姿をイメージすることから始まるのだそうだ。

 紫苑の頭の中に無数のはてなマークが埋めこまれていく。さっぱり理解できない。

 そうこうしているうちに目指す場所に着いてしまった。

 そこは一面に墨を流したような暗闇の世界だった。微少な濃淡が生じているために、その場所に存在しているはずのモノのシルエットが何とか判別できる程度だ。

 足下に迫る湖面は巨大な鏡のように僅かに光っている。果てしない昏さが立ちこめて、胸が苦しくなりそうなほどだ。

 紫苑は足が震えてきた。

「紫苑‥?」

「‥‥ひびってどこにあるの?」

 紫苑の青ざめた横顔を真白はじっと見ていたが、やがて口を開いた。

「ここの湖水は全部で五つ、独立していた。今は一つに混じり合っている。まずはこれを修復しなければならないのだが‥。」

 いつのまに追いついたものか、青磁と深紅が真白の横に立った。二人の体は暗紅色の炎に包まれている。青磁は眉を顰め、かなり気分が悪そうだった。

「青磁。無理をするな。天人のおまえにはこの瘴気は辛かろう。琥珀のいるところまで下がっておるがいい。」

 深紅は血の色を思わせる紅い瞳で、青磁を優しく見遣った。青磁は微笑み、頭を振る。体を包む紅い炎がいっそう強まった。

 唐突に深紅が真白を振り向いた。

「俺がやろうか。紫苑はできそうもないのだろ? それとも、やらせてみるのか?」

「‥‥紫苑にやらせてみよう。俺が補佐する。」

 真白の言葉にいちばん驚いたのは紫苑だった。

「俺‥? 無理だよ、できっこない。」

「北は紫苑の担当なのだ。おまえが封じられているせいで、この地に影の力が満ちてこれほどの瘴気を生んでいる。あるいは逆で、この瘴気のせいでおまえは封じられているのかもしれない。とにかく紫苑の手で清めるのがいちばんいい。‥大丈夫、俺がついている。」

 真白は上から見下ろして、有無を言わさない構えで紫苑に告げた。

「だって‥どうすればいいか‥。」

 項垂れた紫苑の頭をぽんぽん、と撫でて、真白は前を向け、と命じた。

「考えようとするな。心に浮かぶままに願えばいい。いいか、この湖は元は五つだった。光溢れる、明るい、美しい場所だった。思い浮かべてみるんだ。それからあるがままの姿に、と強く願え。」

 眼を閉じてみたが、何も浮かばない。どうしたらいい? 無性に逃げ出したくなる。背中に真白の両手を感じた。思わず腰が引けたのを支えているらしい。

 逃げ出せないのだと悟ると、急速に紫苑の心の中に絶望が満ちてきた。

 外の暗闇が入りこんできたようだ。元の平穏な世界に戻りたいのに戻れない。こんな場所に来たくはなかったのに。昏くて哀しくて辛い―――誰の感情?

「紫苑‥!」

 青磁の声が響いた。はっとして紫苑は眼を開け、振り向く。

 青磁は泣きそうな表情で、さっきより激しく燃える炎の中から紫苑を凝視していた。

 どうやらあの炎は一種の結界らしいと思う。ぼんやりと背後の真白を振り返って、紫苑は恐怖に凍りついた。

 濃さを増した暗闇が巨大な渦を巻いて、真白と紫苑を取り囲んでいた。真白の体が人間界にいた時のように小さくなり、銀色に光っている。

 いきなり紫苑の感情が暴発した。

 胸の中を支離滅裂な思いが刹那に交錯し、暗闇が紫苑自身から生み出されていること、真白の力を吸いこんで消耗させていることを理解した。

 それと共に何かが炸裂して、体が震えるほど烈しい感情が湧きあがってくる。再び眼を閉じるまでもなく、五色の湖が立体的に交差する光に溢れた光景が明確に浮かんで、胸を締めつけ絞り出すような熱烈な渇望が強烈な光を放ち、弾けとんだ。

 総てが一瞬のことだった。

 気がつくと紫苑は大きい真白に抱えられて、澄んだ透明な水の中にいた。

 真白は嬉しそうな微笑を浮かべて、溺れかけている紫苑を水面の上に押し上げた。

「見ろ。綻びだけではなく、色まで取り戻してしまった。少々乱暴だったがな。」

 そして一気に空中高く舞い上がり、岸辺へと紫苑を運んだ。そこでは青磁が手を振っていた。もう彼の周りに紅い炎は見えない。

「紫苑、真白さま。ご無事で良かった。凄まじい爆発でしたね。」

 琥珀が空を飛んでくるのが見える。ずぶ濡れの紫苑はくしゃみを連発していた。

「人間は面倒なものだな。水に入れば溺れ、濡れれば風邪をひく。これを持っていろ。」

 深紅が苦笑いを浮かべ、紫苑の掌に小さな紅い炎を載せてくれた。熱くはなく、持っているだけで体の芯から温まるようだった。

「あ‥ありがとう。」

 鼻水を啜りながら礼を言うと、深紅は驚いた表情で紫苑を見返し、いや、と俯いた。

「深紅。照れることはないだろう。今度の紫苑は性格がいいんだよ。」

 降り立ったばかりの琥珀はご機嫌な表情で、深紅に微笑みかけた。端正な貌が黄金のように光る。そしてまたちょっと小馬鹿にしたような、からかうような目つきで紫苑の方を向いた。

「前回の紫苑はとうとう最後まで、深紅の名を呼ばなかったからね。僕の名も。今回はどうだろうな?」

「あの‥。何て呼べばいいですか? 呼び捨てじゃ失礼だよね‥。琥珀‥さん、でいいのかな?」

 おずおずと紫苑は呟き、助けを求めて青磁と真白を見る。

「それとも、もっと丁寧に?」

 真白はまた吹きだし、横を向いた。琥珀は呆れている。

「敬称などつけなくていい。前回の紫苑は僕を『(けもの)』、深紅を『鬼』と呼んでいた。」

「えっ‥嘘だろ‥?」

 どうやらほんとうらしい。紫苑は赤面した。

「それは‥どうも。ごめんなさい。」

 ぺこぺこと頭を下げている紫苑を見て、真白はますます笑った。

「おまえが謝ることではない。それより‥能力が戻ったようだが?」

「えっと‥俺、何かした? 何かいきなり爆発したような‥。」

「無意識の発動か‥。では記憶も戻っていないのだな?」

「うん‥。ごめんね。」

 後ろめたさを感じながらも、思い出すのが怖ろしい気もする。傲慢、自信過剰、それから何だっけ? 思い出すのは最低限でいい。儀式をやりとげて生き延びるのに必要な知識だけで。紫苑は切に願った。

「けれど‥紫苑、瞳は紫に変化していますよ。美しい、紫苑色に。ああ‥。深紅の炎のおかげですね。能力の一部を無意識に遣って、炎を掌から体内に取りこんでいるのでしょう。ほら、だんだん、服も髪も乾いてきました。」

 確かに服、といってもパジャマだが、乾いてきている。

 紫苑は青磁に指し示されるまま、湖面に自分の顔を映してみた。そして驚く。瞳だけではなく髪もアメジストのような紫色に変化していた。

「何‥これ? どうしちゃったんだろ、俺。何が起きてるわけ?」

「だんだんと解るさ。焦らなくていいが、一つだけ覚えておけ。咄嗟の時には、さっきのように感情のままに動け。おまえの魂の力に任せればいい。」

 一応うなずいたけれど、まるで自信はなかった。

 池のほとりに戻った時は紫苑はぐったりと疲れて、真白に抱えられたまま眠ってしまっていた。

 夢心地でまた家に戻っていた。ぼんやりと部屋の掃除をして、洗濯物を取りこんでたたむ。それから机の上に放り出したままのケータイに眼を留めた。

 ―――出かける時はメモを残しなさい。

 今朝の母の言葉を思い出した。

 ケータイを開いて母へメールを打った。『寝ていても起こさないで。卒業式には多分、間に合うと思う』。短い文だが、薄まってぼんやりしている紫苑はなぜか、両親にはこれで通じるだろうと思った。

 それから服を着替えて、ビニール袋に入れた靴を手にしてベッドに潜った。これ以上パジャマで冒険するのは嫌だと思ったせいだが、果たして着替えができたかどうかは心許ない。まあ、やってみて損はないだろう。

 既にくたくただった。意識はあっという間に遠退き、紫苑はぐっすりと寝こんだ。


 気がついた時は真夜中だった。

 多分、真夜中なんだろう。相変わらず色がないけれど、だだ広い板敷きの室内に他の四人も寝ていたからだ。紫苑はいったい何時間寝ていたのだろう? というより『五色界』に時間はあるのか?

 急に空腹を覚えた。

 時間よりも―――食事はあるのか? こっちの方が切実だ。

 闇に目を凝らしてみると、几帳の向こうに広縁だか回廊だかが見える。夜風がすうっと入りこんでいるが寒くはなかった。少なくとも『五色界』は北半球の二月ではない。

 その時几帳の向こうで何かがほのかに光った。

 紫苑は静かに布団を脱けだし、廊下に出て光の方に近づいていった。オレンジ色と濃い青の小さな光が二つ、ふわふわと漂っている。何となく危険なものとは感じなかった。

 回廊の曲がり角で、二色の光はいきなり激しく瞬いたかと思うと、ふっと消えてしまった。急いでその場所へ駆けより、庭の茂みの方へ目を凝らして探してみたが、もう光はどこにも見えなかった。

 蛍だろうか。それにしてもかなり慌てふためいて消えたようだったけれど。何に慌てたのだろう? 

 目の前に突然、薄紫色の光がぼうっと燃え上がった。紫苑の新しい瞳の色に似ている。光の中にはなんと若い女が立っていた。

 紫苑は声も出ず、ただ馬鹿みたいに突っ立っていた。

 女は無表情に紫苑を正面から見据えていたが、急に思い当たったように顔を歪めた。そして激しい憎悪をこめた視線で紫苑の全身を射すくめてきた。

「‥‥紫苑か?」

 紫苑は後じさりして体を引いたものの、馬鹿正直にうなずいてしまった。

 女はゆらゆらと蝋燭の炎が揺らめくような仕種で、音もなくすっと紫苑に近づき、首に両手をかけた。

「良いな‥。真白に必要以上に近づいてはならぬ。おまえの名も力も総て、元々はわたしのもの。貸しているだけなのだから。」

「ひ、必要以上って‥。どれくらいまでなら‥?」

「決まっておる‥! 誘惑しようなどと考えるでない、という意味だ。‥ただし昼間は側にいてしっかり守るのだぞ。」

 女は紫苑の頬をぱしっと叩いた。やけに軽くて、音の割には衝撃はない。

「ゆ‥誘惑?」

「ふん。まあ、そのような貧弱な体では誘惑などできまいが。おまえ、年はいくつだ?」

「十五ですけど‥。でも、あのう‥。」

「煩い‥! わたしの言うことを聞け。所詮、おまえなどわたしの似せ者にすぎないのだからな。」

 どうやらこの女は、何代前かは解らないけれど先輩の紫苑だったのだろう。琥珀が言っていた『傲慢で自信過剰な出しゃばり女』なのだろうか。もしや幽霊か? いや魂は成仏して紫苑に転生したはずだ。じゃ、この女は何者?

 とりあえず誤解だけは解いておこう、と紫苑はおずおずと話しかけてみた。

「あのう‥。逆らうつもりはないんですけど、俺、男なので‥。誘惑とかは絶対、しないと思います。」

「男だと?」

 女は疑わしそうに紫苑をじろじろと見た。それからふうん、と腕組みをしていたかと思うと、いきなり紫苑の股間に手が伸びてきた。

「うわっ! 何するんだよ‥!」

「‥‥ほんとだ。男だ。何てことだろう‥信じられない。」

「うう‥。」

 苦痛に体を折り曲げて蹲りながら、信じられないのはそっちだろ、と心の中で毒づく。

 すると離れた場所で、忍び笑いの声が聞こえた。

 寝間の几帳の隙間から、笑いをこらえている真白と琥珀の姿が見える。紫苑は恥ずかしさで真っ赤になった。どうやら二人だけでなく、青磁と深紅も笑っているらしい。

 女は呆然とそちらを見つめていたが、かあっと頭に血が上ったらしく、やはり顔を紅潮させると、蹲っている紫苑に蹴りを入れた。

「愚か者‥! おまえのせいで‥真白に笑われたではないか‥!」

 何て理不尽な台詞だろう。蹴りはさっきの平手と同様、軽くてダメージは少ないけれどもさすがに紫苑も腹が立った。

「俺のせいだって言うのかよ? 違うだろ、自分のせいじゃんか。」

「ふふん。騙るに落ちたな。わたしはおまえでもある。『自分のせい』とは即ち、おまえのせい。馬鹿め。」

 嘲笑を浮かべてもう一度紫苑に蹴りを入れ、次の瞬間彼女はかき消えた。

 悔しさと恥ずかしさで頬が熱い。何とかそろそろと起き上がると、すぐ横に真白が来ていた。紫苑は背中を向け、紅潮した顔を隠した。

 真白はひょいと、紫苑を抱え上げた。

「離して‥離せってば!」

「笑って悪かった。そう怒るな。紫影は実害はないのだが‥厄介なやつなんだ。」

「シエイ‥?」

「紫苑の影だから紫影。初代の紫苑の残像だ。」

 ザンゾウの意味が解らないまま、紫影のことは何となく理解した。しかしなぜ真白に抱えられて部屋に戻されているのかがよく解らない。すると真白は察したのか、説明してくれた。

「夜は影どもがよく動き回る。おまえはまだ能力を自分で制御できないから、一人でうろつき回るのは危険だ。厠なら連れてってやる。」

「カワヤって何?」

「トイレのことだよ。」

 何とも幼児扱いだ。そう思うと同時に空腹だったことを思い出した。


「蛍がいたと言うのか?」

「みたいなヤツ。実は俺、ほんとの蛍って見たことないし。オレンジと濃い青の光がふわふわ飛んでいたんだ。」

 おにぎりを頬張りながら紫苑は、さっきの二色の光について説明していた。

 人間は紫苑だけなので、おにぎりを食べるのも紫苑だけだ。青磁は花の露を、琥珀は清らかな水を食すそうで、真白と深紅は不明だった。訊くのはちょっと怖い気もする。

 『五色界』には五人の他にはだれもいない。おにぎりはどうやら真白が人間界から持ってきてくれたらしい。

 今までの紫苑は、意識だけが『五色界』へ来て体は人間界で普通に日常生活を過ごしていたらしかった。なのに紫苑は体も大部分がこちらへ来てしまっている状態なので、食べるものが必要になる。しかし真白は今回はそれでいいのだと言った。

「人間界にまで影の支配下にあるモノどもが跳梁している。黒焔の意志なのか、それとも違う原因があるのかは解らないが、体を置いてくれば『意志』も半分置いてこなければ危険だ。ま、今の紫苑には無理だ。」

 真白の言う『意志』というのがどうやら紫苑の能力のことだとは解ってきた。意志の力が弱いというのは根性なしだという誹謗ではなく、能力が封印されているという意味だ。同様に『無理』という言葉も決して紫苑を責めているのではない。単に現状を説明しているだけの言葉だ。

 それでも紫苑は少し悄気ていた。二つの怪しい光についても、てっきり、気のせいだろうと一蹴されると思った。

 ところが誰も笑わなかった。怪訝な表情で眼を見交わしている。

 深紅が立ち上がった。

「見てくる。色があるというのが気になる。」

「僕も一緒に行く。」

「‥‥ま、いいだろう。」

 琥珀は深紅の渋い返事にちょっとムッとした顔をしたが、黙ってついていった。

 二人が行ってしまうと、急に紫苑は不安になった。見間違いかもしれないという気が無性にしてくる。それを振り払うように真白の方を向いた。

「あの‥‥。コクエンて? 自分で思い出さなきゃ駄目なこと?」

「‥‥黒焔は黒い焔と書く。総ての世界の闇を支配する御方だ。千五百年前に紫苑の願いが黒焔を動かし、五色の儀式(ゲーム)が始まったんだ。」

 真白の眼はまた冷めた色に戻っていた。

「黒焔の正体は誰も知らない。ほんとうの顔も姿も誰も見たことはない。ただこの世の始めからいると言われている。闇にも秩序があり、生きる存在(モノ)たちがいるのだ。天の統べる世界には属せないモノたちが、黒焔の定めた(ことわり)の中で辛うじて(なり)を保っている。」

 多分同じ言葉で以前に説明してくれたことがあるのだろう。真白の声は淡々と響いた。

「天帝と同等の力があると黒焔は言った。儀式(ゲーム)を最後までやり抜ければ宿命を変えてくれると。ただし黒焔が闇と影の力を駆使して俺たちの妨害をするのもルールの範疇だから、俺たちはその試練をはねのけなければならない。」

 では夢喰いに殺されそうになったのも黒焔の妨害工作の一環なのか?

 ともかくも紫苑は思い出さなければいけないのだと理解した。多分能力とやらも記憶を取り戻せば戻るのだろう。これ以上足手纏いになりたくないし、死ぬのは怖い。

 けれどどうしたら思い出せる? 前世の記憶なんて普通はないのが当たり前で、紫苑はこの間まで転生なんて信じていなかった。転生するたびに記憶を引き継ぐなんてどうやってできたのだろう? それ自体が能力のおかげなら能力を取り戻すのが先だ。ならば能力はどうやって取り戻すのか? これではまるで卵と鶏の親子論争だ。堂々めぐりで終わりがない。

「紫苑‥? どうした。ぼんやりして、また半分人間界へ帰っているのか?」

 はっとして顔を上げ、紫苑は真白を見た。

 人間界で出会った時は純日本人の容貌をしていたのに、今は何だか違って見えるのはなぜだろう? メチャクチャ背が高くて大きいことを除けば、普通の三十才前後の日本人だ。一つに束ねたまっすぐな黒髪はちょっと長すぎるかもしれないが。服装もよくあるグレーの長袖Tシャツに黒いストレートパンツ。瞳の色も黒い―――黒くない?

「真白の眼の色、変わったの? 銀色に見えるけど。」

 真白は呆れた顔で紫苑を見返した。青磁がくすくす笑い出す。

「紫苑の眼が変わったのです。真白さまの瞳は元々、美しい銀色をなさっていますよ。」

 そういうことか、と紫苑は自分の薄紫の瞳を思い出した。全く無能でもない証明だ。役立たずであることには変わりはないけれど。

 真白は紫苑の頭をぽんぽん、と撫でて、立ち上がった。そして深紅の様子を見てくる、と青磁に告げて廊下へ出ていった。

 思わずはああ、と深い吐息が洩れる。

 青磁は慈愛に満ちた微笑を紫苑に向けた。

「真白さまは紫苑が以前とだいぶ違うので、戸惑ってらっしゃるのです。深紅や琥珀も同様ですけれど、彼らは元々紫苑とは必要以上に関わりませんでしたからね。‥でもわたしはあなたが好きですよ。素直で優しい心根が透けて見えます。もう少し、自信を持てばいいのに。あなたはその気になればできないことなどないのですから。」

 曖昧な微笑を浮かべて、紫苑は二つめの吐息をついた。

 部屋の外が急に騒がしくなった。

「‥戻ってきたのでしょうか?」

 青磁が振り向く。モノクロの背景の中で、青磁の黄金色の髪が昼の光のように明るく煌めいた。彼は仕種一つ一つ、惚れ惚れするほど美しい。

「あのさ‥。失礼だったらごめん、青磁って‥‥男の人だよね?」

「わたしですか? 天人にはそのような区別はないのです。その気になれば雌雄どちらにでも変化できますしね。肉体構造だけのことですから。」

 シユウって? つまり男にでも女にでもなれるってわけだろうか。紫苑はびっくりして言葉が出なかった。

 呆気に取られた紫苑の表情が可笑しいと、青磁は声をたてて笑った。

「何を笑っている‥?」

 ぬっと深紅の大きな体が現れた。

 つくづく見てもお伽噺に出てくる赤鬼にそっくりだ。でも鬼なのかとは怖くて聞けない。深紅が青磁に向ける瞳はとても優しいけれど、怒れば半端なく怖そうだ。

 青磁から笑っている理由を聞いて、深紅は紫苑の顔をまた見る。つい紫苑は赤くなった。深紅の精悍な顔がふっと和んで、微笑のようなものを口元に浮かべた。

「それより何だか騒がしいけれど、どうしたのですか?」

「ああ‥。害はない。おまえたちに会いたいというので連れてきた。」

「‥‥誰をです?」

子供(ガキ)が二つ。天界から落ちてきたそうだ。」

「あらまあ。わたしと同じですね。‥ははん。紫苑の見た二つの光は虹彩人でしたか。」

「そうだ。泣き喚いていて煩い。青磁、何とか静かにさせてくれ。」

 そこへ琥珀が二つの光るモノを両手にぶら下げて入ってきた。泣き声が大音量に変わる。

「琥珀、下ろしてあげて。まだ子供ではありませんか。」

 ふん、と琥珀は二人の子供を乱暴に床に下ろし、背後にでんと聳え立った。

 よく見ると泣きじゃくっているのはオレンジ色の方で、濃青色の方はふてくされた表情でそっぽを向いていた。

 青磁は二人の前に屈みこんで、優しく問いかけた。

「あなたたちは虹彩人ですか? なぜ天界から落ちたの? 泣かないで訳を話してごらんなさい。助けてあげられるかもしれませんよ。」

 ふてくされていた濃青色の少年は青磁を振り返ってじっと見た。そして何かにはたと思い当たったらしく、慌てて隣で泣いているオレンジ色の少年の腕を引っぱる。オレンジもあっと呟き、二人揃って平伏した。

 青磁は苦笑した。

「ここでは礼は不要ですよ。追放された身に身分などあるはずがないでしょう。」

 濃青色の少年は顔を上げた。

「追放されたのではありません。誤って井戸より落ちたのです。天官さま。」

「わたしの名は青磁です。おまえたちの名は?」

「わたしは(あい)と申します。こちらが(だいだい)。」

「年はいくつですか。まるで生まれたてみたいだけれど。」

「‥‥まだ百年経っていません。わたしたちは同じ年です。」

 紫苑は驚いた。どう見ても小学生くらいにしか見えない。

 青磁が何と若い、と呟いたのを聞いて更に驚く。

「そんな(ひいな)がどうして禁苑にある『開かずの井戸』を見つけたのです? 蓋がきっちりしてあったでしょうに。」

 藍が橙を肘でつついた。橙はやっと顔を上げて、涙を袂で拭きながら答えた。

「わ、解りません。鞠つきをして遊んでいたら、いつのまにか入りこんでしまったみたいで‥。ふ、蓋は開いておりました。鞠が飛びこんだので覗いてみましたら、急に体が吸いこまれてしまったんです。藍はわたしを助けようと袖を引いて、気がついたら二人一緒に暗い湖に落ちておりました。」

「なるほど。俺が感じた揺らぎはおまえたちが落ちてきたせいか。」

 深紅の声に橙はひえっと叫んで、袖で顔を隠した。深紅が怖ろしいらしい。

「それでわたしたちは湖から出ようとしたのですが、黒いどろどろしたものに纏わりつかれて、出られなくなっちゃったんです。橙がわんわん泣いたら、もっとどろどろが増えてきちゃって‥。」

 藍は皮肉な目つきで橙を見遣った。橙はすまなそうに身を竦め、周りを見回した。青磁の肩ごしに紫苑を見つけ、なぜか急に満面の笑みを浮かべる。

「紫苑さま‥! お助けくださって有難うございます。たいへんお見事な浄化の術で‥。あれほど強烈な技は初めて見ました。ほんとうにほんとうに、有難うございます。」

 真正面から感謝をこめたまなざしを向けられて、紫苑は戸惑った。しかもなぜ名前を知っているのだろう?

「お名前は皆さま方が呼んでおられるのを耳に致しました。ひと言お礼を申し上げたくて、こちらまで追いかけて参りましたが‥。なぜか途中で気配を辿れなくなってしまい、このような夜更けに‥。」

「要するに迷子になったんです。梅の花が咲いていたので、そこの林で一休みしていたら、急に橙が、紫苑さまの気配を感じたと言って、勝手にこのお屋敷に忍びこんでしまって‥。わたしは止めたんですけど。」

 青磁は溜息をついた。

「話は大体解りました。さて。どうしたものでしょうか? ‥真白さま。」

 真白はゆっくりと琥珀の後ろから出てきた。

 橙はまた怯えた表情で顔を伏せた。やや震えている。藍は神妙な表情で真白を見上げていた。

「可哀想だが今のままでは天界には戻れまい。‥藍と言ったか? おまえの方はどうだか解らないが、橙とやらは間違いなく宿命の糸に囚われている。黒焔の仕掛けだろう。」

 琥珀が身構えた。

「では、罠か?」

「この者は転がされているだけだ。恐らくは琥珀や深紅と同様と思われる。‥琥珀、そんなに睨むな。怯えているじゃないか。影の者ではない、正真正銘の虹彩人の童だ。紫苑の客だから紫苑に任せればいいさ。」

「え? 俺? それは‥‥困る。できないよ。」

 橙の大きな瞳に涙が溢れた。

「紫苑さま‥。一生懸命、お仕えいたしますので、どうかご一緒させてください。お願い致します。」

 藍は頭を下げた橙の方を呆れ顔で見た。

「橙、よせ。人間に頭を下げるなんて‥! 誇りはないのかよ?」

「え‥? 人間て、紫苑さまが? 嘘、こんなに強いお魂力(ちから)を持っておられるのに?」

 顔を上げて袖で涙を拭きながら、橙は紫苑をまじまじと見た。藍は橙の膝をぱしっと叩いて口を噤ませ、真白を振り返った。

「あのう‥。天界には戻れないということは、わたしたちはずっとこの奇妙な場所にいなければいけないのでしょうか? そもそもここは何で、皆さま方はなぜここにおられるのか、お聞きしてもよろしいでしょうか。」

 真白は微笑を含んだ瞳で、藍の真剣な表情を見遣った。

「その疑問を持つこと自体が、おまえが来るはずではなかったことを示している。自分がここに()ることに違和感を覚えているのだな?」

「‥‥まあ、有り体に申せばそうです。失礼ながら青磁さま以外は皆さま、やや奇妙な御方ばかりかと。」

 藍は恐る恐る見回しながら、キッと面を上げてそう言い切った。

「胡散臭いとはっきり申せばよい。気に入らぬのは同様だからな。」

 深紅の言葉に藍は一瞬怯えの表情を見せたが、すぐにしまいこんでゆっくりと立ち上がった。

「わたしは真白さまにお答えしただけです。わたしの質問にもお答えをいただけませんか?」

 橙はすっかり怯えて、藍の袖を引っ張った。藍はその手を振り払い、深紅を凝視したまま真白に問いかけた。

「ここは『五色界』だ。虹彩人ならば名を聞いたことくらいはあろう? 俺たちはここに()るべくして()る。来るはずではなかったのに来てしまったおまえが帰るためには、俺たちと共に儀式(ゲーム)に参加して、最後に天界に帰ることを願うのだな。」

 真白は淡々と答えた。

「‥わたしたちが天界に戻るためには、何だか解らないけれどあなた方の儀式(ゲーム)とやらに協力しなければいけないのですか?」

「『わたしたち』ではない。『わたし』だ。おまえの友だちは来るべくして来た。つまり、心の中に既に『元に戻る』以外の別の願いを持っているんだ。ここにはそういう者だけが来る。」

 藍と同じくらい、紫苑も驚いた。

 紫苑は儀式が片づいたら、元の自分に戻るつもりでいたのに。どういうことなんだ?

「そんなばかな‥! 橙だって戻りたいに決まっているではないですか。だってわたしたちは事故でこちらへ来ちゃったんですよ? 他の心づもりなんてあるはずない。」

 藍は橙を振り返り、彼の手首をぎゅっと掴んで立たせた。

「橙。行くぞ。話にならない。」

「でも‥藍、わたしたちだけでは何もできませんよ。」

「『五色界』ならば五柱山があるはずだ。そこから架け橋が天界に繋がっていると学校で習ったじゃないか。忘れたのかよ?」

「うう‥。習いましたっけ?」

「まったく‥。歴史の点数、何点だったんだ? また落第点か?」

 橙はまた泣きそうな顔をした。落第点だったのか、と紫苑は橙に同情した。

 それにしても天界にも学校があり、歴史なんか習ったりするらしい。明らかに頭の回転の速そうな藍と友人でいるのは結構しんどいものがあるだろう。

「あいにくだが五柱山は光を失っている。虹を復活させなければ架け橋はできない。」

 真白が追い打ちをかけるように藍の背中に言った。

 藍は真白を振り向いて、たまりかねたように叫んだ。

「あなたの仰ることが真実かどうか、とりあえず確かめに行きます。」

「気のすむようにすればいい。だが夜明けまで待て。夜は黒焔の配下の影どもが徘徊しているから危険だぞ。」

 藍がまた口を開く前に、青磁が間に入った。

「真白さまの仰るのは全部ほんとうなのですよ。藍、あなたも天人の端くれならば黒焔の名を知らないわけはないでしょう? 朝までここにおいでなさい。」

 藍がしぶしぶうなずいた時、不意に縁側の向こうで薄紫の光が花火みたいに炸裂した。

「真白‥‥! 逃げて、早く!」

 紫影の姿がゆらゆらと揺れて出現し、真白を背に何か巨大な黒いものに立ちはだかった。

 真白はにやっと嗤い、銀色の光の玉に変じるとすごい速さで黒い影に向かっていく。

「青磁。結界を張って中に入っておれ。」

 深紅はそう言うと、手の上に紅い炎を生じて印を結び呪言を唱えた。

 炎は紅い玉となり、深紅が触れると紫苑の背ほどもある大きな太刀に変わった。深紅の角がぎらぎらと紅く光り、髪が逆立つ。そして真白の後を追って飛んでいった。

 同時に琥珀は金色の扇子を取り出して、翼に覆われた獣人ともいうべき姿に変身した。扇と翼で風を操り、口笛で制御しながら真白と深紅の援護に回る。

 青磁は髪に飾った玉を取り、手の上で息を吹きかけ、竪琴に変えた。彼が激しくかき鳴らすと、みるみる木で編んだ網のようなものが紫苑と虹彩人たちを覆った。

 ばしっ、ばしっと強く打ちつける音、金属の弾ける音、鞭のしなるような音。結界の中からでは戦闘の行方がよく見えない。紫苑は不安で不安でたまらなくなる。

 突然、闇をつんざいて悲鳴が響いた。

「駄目、駄目え‥‥! 真白!」

 紫影の声だ、と頭を振り上げた時、紫苑の胸の中に何かが入りこんできた。

 思わず眼を閉じると闇の中に捕らわれた銀色の小さなモノが見える。真白だ。紫苑は悲痛な想いに支配されて、夢中で叫んだ。

 頭の隅ではこれは紫影の感情だと解っていたけれど、逆らえなかった。逆らう気もない。愛おしい、何よりも大切で守りたい。真白を助けたい。痛いくらいに感情が膨満していく。

 そして爆発が起き、紫苑は意識を失った。

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