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夢わたり  作者: りり
13/15

13

 深紅は青磁に気づかれぬよう、静かに屋敷を抜け出した。

 向かっている先は五柱山の西の柱だ。深紅の推測が正しければ、籠目の術を返された白燿が、多分そこで影に封じられている。

 今朝の紫苑の話では白燿は紫珠の影に引きずりこまれ、影響を受けただけだということだった。ならば体内の影を浄化すれば、白燿が自分を取り戻す可能性は十分にあるということだ。

 皆の手前言葉に出さないけれど、青磁は白燿の身をやつれるほど案じていた。流す涙の色すら変わってしまうほどだ。深紅は青磁のあんな寂しい微笑にはこれ以上耐えられない。だから白燿を何とかして助け出したいと思った。

 黒が混じった赤鬼に生まれついたために一族から蔑まれて育った深紅は、成人するとその並み外れた戦闘能力で鬼人界を暴れ回った。己を排斥した鬼人界の総てが憎くてたまらず、濃紅色の炎で手当たり次第に焼きまくった。捕らえられて闇の世界に落とされ、黒焔の奴隷と化して二百年が過ぎようとしていた頃、闇の中から仰ぎ見た青磁の輝くような微笑が深紅の魂に微かな光を与えた。

 何て美しいのだろう。ただそう想った。腹の底で凝り固まった恨みも憎しみも、熱く融け出して流れていく。そんな感覚を覚えた。

 暗闇の中の微かな光に気づき、魂を拾い上げて浄化したのは真白だ。そして真白は拾ったみすぼらしい魂に『深紅』という美しい名をつけてくれた。

 青磁は楽の音のような優しい声で新しい名を何度も呼び、深紅が闇の中から焦がれ続けていた微笑を惜しみなく注いだ。おかげで薄っぺらで卑小な魂は、強い、揺らぐことのない魂に生まれ変わった。

 以来、ほとんどの時間を青磁と二人だけで過ごした。

 紫苑の在る期間は非常に短い。今朝、藍に告げたように花火のような儚い時間だ。それ以外の永い永い時間(とき)を、琥珀は麒麟界へ否応なく戻らされる宿命があり、真白は地上にいることが多かった。鬼人界より追放された身の深紅だけが、『五色界』から出ることのできない青磁と共にここに留まり続けていた。

 想いを言葉にしたことは一度もなかった。青磁の気持を問うたこともない。その刹那(ときどき)をただ共に過ごすだけが望みで、他には何も持たなかった。

 千五百年。何と永い夢を見ていたのだろう。幸せな夢だった。

 無位の鬼人の寿命は通常、五百年そこそこだ。時の止まった『五色界』であったからこそ寿命を超えて永く、夢を見られたのだと深紅は知っている。

 今、『五色界』は時間が動き出し、五色の儀式はまもなく終わりを迎える。そうなれば、深紅に時間は残されていないだろう。だが青磁にはまだ二千年もの寿命が残っている。

 後を託せるのは白燿しかいない、と深紅は考えた。青磁と同じ寿命を持ち、深紅と同じ想いを持つ、高貴なる天神。

 深紅は先を急いだ。


 紫苑の怪我は思ったよりも深く、午後になって高熱を出した。

「河童の秘薬が人の身には強すぎるのかもしれません。ここを乗り越えられれば、急速に良くなると思うのですけれど‥。そうは言うものの、ほんとうに辛そうですね。」

 青磁は傷ましそうに額の汗を拭った。

 橙は青ざめながらも珍しく涙をこぼさず、黙々と紫苑の頸筋や脇の下を冷やす布を替え、唇を花の露で湿らせてやっていた。合間に時折、熱で火照る手をそっと握りしめる。

 ちょうど屋敷に戻ってきた琥珀は、そろそろ消えかかっている天井の虹を見て、橙の献身的な看病の理由を悟った。思わず、藍を探した。

 藍は井戸端で考えこんでいた。やけに深刻な表情だ。

「どうした‥。滅多にない深刻な顔をして。橙と紫苑のことか?」

 琥珀がからかい口調で声をかけると、藍は冷笑を浮かべた。

「紫苑の熱は夜には下がりますよ。弱っていて可哀想なので、特別に橙を貸してあげているのです。よく考えれば、僅か十五年しか生きていない幼な児ですからね。」

 そして水を汲み上げ、運ぼうとして立ち止まった。

「あの‥。琥珀さま。深紅さまを見かけませんでしたか?」

「深紅‥? いや、帰ってきてまだ会っていないが。‥半分、僕が運ぼう。」

 琥珀はそう答えて、藍の下げている二つの桶のうち一つを受け取った。

「何となく‥心配なのです。深紅さまが今朝、わたしに仰ったことがどうも気にかかっていまして‥。」

 並んで歩きながら、藍は手短に深紅の言葉を琥珀に語った。

「ふうん。僕とおまえで紫苑を支えろ、と‥?」

「琥珀さまは解りますが、わたしは‥真白さまを始め、皆さま方がおいでなのに‥。それにまるでお別れみたいな仰りようだな、と‥。」

 藍の言葉が終わらないうちに、勝手口の戸がばたん、と開き、青磁が飛び出してきた。

「‥‥今の話はほんとうですか、藍? 深紅は‥深紅はどこです?」

「青磁さま‥? どうかなさいましたか。深紅さまは外出なさっているようですけど。」

 ああ、と叫んで、青磁は髪を振り乱して屈みこんだ。顔を覆った手の隙間から、青い涙が溢れ出す。

「青磁‥どうしたと言うんだ。何かあったのか‥?」

 青磁の後から出てきた橙が、半泣きの顔で代わりに答えた。

「今しがた、紫苑さまが譫言で‥深紅さまに、死んでしまうからやめろ、と仰ったのです。」

「紫苑が‥?」

 琥珀と藍は同時に叫んで、顔色を変えた。では紫苑は夢で深紅を見ているのだろうか。

 琥珀は水桶をその場に置き、勢いこんで橙を問い質した。

「他には‥? 他には何か、言っていないか? ‥いや、紫苑のところへ直接行こう。」

「後は‥白燿さまのお名前が出たようですけれど‥。」

 屋敷に走りこんだ琥珀を追いかけながら、橙は付け加えた。

「白燿だと‥? いったい何をするつもりなんだ、深紅は‥! ‥真白はどこだ、まだ戻らないのか?」

 藍が急に立ち止まった。

「白燿さまを闇から救い出すおつもりなんじゃ‥?」

「一度殺されかけているのにか‥? 無理だ、力の差がありすぎる。」

「今はきっと、白燿さまご自身が闇の中に囚われているはずです。籠目の術のような呪術は、破られると術者に返るものですから。」

 琥珀は呆然とした。

「‥一人で浄化するつもりか? 天神が囚われるほどの闇をたった一人で‥? ばかな、深紅が自分で言ったんじゃないか‥僕たちの力では到底無理だと‥。」

 答える藍の顔は引き攣っていた。

「い‥命を燃やすおつもりなのかもしれません。深紅さまはご自分の命と引き換えに封印を解く反魂術をお遣いになっているのでは‥。」

「なぜだ‥? いくら青磁のためでも、深紅が死んだら元も子もないじゃないか!」

 琥珀を振り向いた青磁の瞳には暗い絶望が浮かんでいた。

「深紅には‥‥もう寿命がないのです。『五色界』が完全に浄化されて時間が動き出したならば、すぐに消えてしまうかもしれません‥。だからその前に、と考えたのでしょう。‥‥藍、白燿が囚われている場所はどこだと思いますか。」

「多分、西の柱。真白さまのおられた場所かと‥青磁さま、お待ちください! だめだ、行かないで‥!」

 青磁は羽衣を翻して、風に乗って飛んでいってしまった。

 琥珀はくそっ、と舌打ちをすると、藍と橙にここで待て、と言い置いて獣形に変じた。

「待って‥琥珀。俺も連れていって‥。」

 よろよろと出てきたのは紫苑だった。

「寝ていろ、紫苑。そんな体で何ができる? それより真白を呼んでくれ。僕では二人を止められない。」

「‥真白にはもう呼びかけた。深紅は残り少ない命だけでなく魂を‥‥。」

 咳きこんでよろめいた紫苑を橙と藍が両側から支えた。

「た、魂まで燃やして浄化の炎を造ってるんだ‥。お願いだから、止めさせて。‥‥うあああっ‥!」

 紫苑は(くう)を見つめて、いきなり悲痛な叫びを上げた。

 全身から薄紫の光が噴出する。光の環に包みこまれて、その場の全員が紫苑の視ている光景を目の当たりにすることとなった。

 それは柱の中のようだった。

 足下に広がる真っ黒などろどろした影の沼。その表面を深紅の紅い浄化の炎がめらめらと揺れている。奥底には小さな光を宿した人影がうっすらと見えた。

 深紅の姿は炎の中心で、ほとんど透き通ってしまっていた。辛うじて角だけが激しく瞬いている。

 皆が声もなく見つめている中へ、黄金色の髪を振り乱した青磁が飛びこんできた。

 深紅を見つけた瞬間、青磁はその美しい貌に凄烈な微笑を浮かべた。いつもの優しい穏やかな笑みとは遠い、妖艶で狂おしいほど幸福そうな微笑。紅い炎が切ないくらいにくっきりと照らし出している。

 ―――白燿、ごめんなさい。わたしは‥あなたと生きることはできません。

 青磁は立ち上がろうとしている沼の中の人影にそう言うと、燃えさかる紅蓮の炎へ身を投じた。紅い炎は激しく燃え上がり、青磁の体を一瞬で同化した。

 紫苑が再び凄まじい叫び声を上げた。

 琥珀は今にも壊れてしまいそうな紫苑の魂を、必死に抱き止める。

 ―――泣かないで、紫苑。

 青磁の声が聞こえた。

 ―――わたしたちは信じています。あなたが儀式をやり遂げて、黒焔に勝つと。その時はきっと、今度は共に生きることのできる宿命を‥‥

 声はそこで途切れた。

 紫苑の光は緩やかに薄まっていき、やがて消えた。

 琥珀は人形(ひとがた)に戻ると、ぐったりとした紫苑を腕に抱き取った。紫苑は再び意識を失って、荒い息をしていた。

「‥‥部屋に戻ろう。」

 返事はなかった。しゃくり上げる声だけが響いた。

 そこへ銀色の光が舞い降りた。

 真白は霊力を全開にしたまま、踝まで銀髪をなびかせて仁王立ちに立ちつくしていた。瞳をぎらつかせ、全身に怒りと哀しみがたぎり、シュウシュウと音を立てて光を放っている。

「俺は間に合わなかった‥。青磁は辛うじて深紅の魂の最後の欠片を拾い上げたらしい。‥白狐がそう言った。」

「白燿さまは‥?」

「影は総て浄化されていた。一人がいいと‥自分の神域に戻っていった。」

 琥珀は唇を噛みしめ、流れる涙を拭いもせずに紫苑を抱えて屋敷へと入っていった。

 それからしばらくは誰も何も言わなかった。ただ沈痛な空気だけがのしかかっていた。

 いつも優しい笑みを絶やさずに皆を支えていた青磁。その傍らで静かに見守っていた深紅。つい先刻までそこにいた二人が消えてしまったなど未だ信じられなかった。

 藍と橙はあまりの重苦しさに泣くこともできず、紫苑の看病に集中することで気を紛らわせていた。

 沈黙は不意に破られた。

「真白‥。他にも黙っていることがあるなら、教えてくれ。」

 真白は柱に寄りかかり、腕を組んで俯いていたが、顔を上げて琥珀を振り向いた。

「何のことだ‥?」

「‥僕は深紅の寿命が尽きているなんて知らなかった。五色の儀式(ゲーム)は‥‥僕たち全員にとって、生き直すための挑戦だと思っていた。そうではなかったのか、真白?」

 琥珀は両手で顔を覆った。

「今度の儀式(ゲーム)が始まる前まで僕は‥。深紅のような武人になりたかった。儀式(ゲーム)を終えて新しくやり直せるならば、脆弱で足手纏いの麒麟ではなく深紅と共に戦えるような強い武人に生まれ変わりたいと、そう思っていたんだ。なのに‥。」

 真白は瞳の光を少し和らげた。

「その機会はまだ残っている。深紅は青磁が拾ったと言ったはずだ。‥琥珀。俺も確かに知っていたわけではないんだ。知っていておまえに黙っていることなどない。」

 褐色の髪を振り上げて、琥珀は怒りに満ちた声で叫んだ。

「それは詭弁だ、真白! 僕は仲間ではないのか? 紫苑が記憶を失くしていた件もそうだ。なぜもっと積極的に思い出させようとしなかった? 結果として紫苑が無垢であったために儀式(ゲーム)はいい方向へ進んだが、初めからあんたにはそれが解っていたのではないのか? 青磁が深紅と共に命を終えようと決めていたことも、気づいていたんだろう? 何も知らなかったのは‥‥僕だけだ。」

「おまえだけではない。」

 すっと立ち上がって、真白は縁側へ出た。暮れなずむ空に夕月が光っていた。

「心に迷いを抱かない時などない。この千五百年、ずっと迷い続けてここまで来てしまった。琥珀、憶測も推察も役に立たない点では知らぬのと同じだ。物事は結果が為って初めて、思い知る羽目になる。俺は‥紫苑は自分で過去を捨てたのだと思っていた。」

 ふふ、と真白は自嘲気味に微笑った。

「三百年前、紫苑は不意に俺の前から姿を消した。白狐に浄化を頼まねばならぬほど瘴気に侵されていたとは、迂闊にも気づいてやれなかった。‥いつもそうだ、何より愛おしいと思うのに、なぜかいつもすれ違う。あの小さな人の子が何を俺に望んでいるのか、正確に理解できた例しがないのだ。今度こそは守りきろうと思っても、結局は六人とも瘴気の中で悲惨に死なせてしまった。そんな俺が何を知っていると言うのだ、琥珀?」

 琥珀の瞳は潤んだまま、視線を真白の背中に据えた。

「この儀式(ゲーム)はどこへ向かっている‥? 僕は真白の考えを聞きたい。正しい答を望んでいるわけではないんだ。ただ‥想いを分かち合うことはできるはずだ。」

 真白は振り向いて、琥珀の真剣なまなざしとぶつかった。そして吐息をつく。

「‥‥覚悟があるのだな?」

「当然だ。」

 眼を見交わして、部屋を出ようとした二人を藍が鋭い声で呼びとめた。

「待って‥! 待ってください。わたしたちにもお話しください、真白さま。」

 振り向いた真白に、藍はまっすぐな瞳を向けた。

「‥もはや遺言になってしまいましたけれど、深紅さまがわたしに、琥珀さまと共に紫苑を支えろと仰いました。わたしはずっと考えておりましたが‥恐らくわたしたちは紫苑の魂力(ちから)に喚ばれてここへ参ったのです。どうか、お聞かせください。わたしにもささやかながら、覚悟はあります。」

 真白は藍から橙へ視線を移した。橙は赤くなり、下を向いた。

「わ、わたしには‥難しいことは解りません。ですからここに残っております。けれど覚悟のような想いならばあります。わたしはずっと紫苑さまといたいのです。この想いだけは誰にも‥黒焔さまにも負けません。」

 真白は黙ってうなずいた。


 黒焔は紫苑の悲嘆を心地よく噛みしめていた。

 何度味わっても、心からの絶望はぞくぞくするほど快い。ましてあのちっぽけな人の子の叫びは、他の者の何倍にも相当する。

 濃紅の鬼人は元々は我が手にあった者。寿命がないと気づかせるなどたやすい技だ。

 しかしあのような展開になるとは思わなかった。ちっぽけな者たちの思考はまったく理解できない。魂を削って恋敵を救おうとするなど、愚かさゆえとしか思えぬ。魂を失えば儀式(ゲーム)の駒たる資格も失い、仮に仲間が虹を架けても転生さえ叶わぬと言うのに。

 天人の行動も理解できない。あのようなちっぽけな欠片を拾ったところでどうなる? 縁は薄れてしまい、転生叶ったところで出逢うもままならぬであろうに。

 まあ、それも一興。おかげで人の子に虚しさと絶望を味わわせることができた。

 さて次の一手は如何に―――?


「紫苑が回復すれば、儀式(ゲーム)は間違いなく終わる。今度こそ虹の架け橋が五柱山の上に輝くこととなろう。紫苑は七度目の転生で、完全に魂力(ちから)に目覚めた。『五色界』は再び生きた世界に生まれ変わり、黒焔との勝負は結着がつく‥表面上は。」

 真白は淡々と話した。

「黒焔はまだ妨害をすると思うのか?」

「そうではない。黒焔にとってこの儀式(ゲーム)は結果を求めるものではない。黒焔の狙いは紫苑の魂力(ちから)を世界から消し去ることだ。紫苑が負ければ魂ごと闇に取りこむ。紫苑が勝てば‥天帝が今度は動き出すだろう。」

「天帝だって‥? なぜ天帝が動くんだ。」

 琥珀は真白を唖然と見た。

「『五色界』は闇の世界だった。つまりは黒焔の秩序に従うものだ。だが新しく生まれ変わった『五色界』は闇の秩序より外れる。といって天の秩序に従って生まれた世界でもない。紫苑の魂力(ちから)によって動き出した世界だ。天が見過ごすはずがない。天帝は(ことわり)の総てを駆使して、潰そうとなさるだろう。たとえそのために、その他の世界を大きく再編することになろうとも厭わずに。」

「ばかな‥! それほどのことか? ならばなぜこのような儀式(ゲーム)を千五百年もの間、看過なされてきたのだ? 止めさせればすむであろうに。」

 笑いとばしたはずの琥珀の手はぶるぶると震えていた。

「それはできません。闇の世界は黒焔さまの統べる世界。天帝さまは口出しなどできません。そうでなくても、天の(ことわり)に反していなければ天帝さまだろうと秩序を崩すことはできないでしょう。『五色界』が完成して初めて、介入なさる理由ができる。天の秩序を守るという大義の下に、やむなく再編を行うわけです。」

 口を挟んだ藍も、血の気の引いた白い顔をしていた。

「藍の言葉は正しい。だが『やむなく』ではない。天帝は手ぐすねを引いてその時をお待ちだろう。恐らく紫苑が世界に生まれた時からずっと、この機会をお待ちだったのに違いない。なぜならば紫苑の魂力(ちから)は‥‥紫苑は『混沌』の継承者だからだ。」

 琥珀も藍もつかの間言葉を失った。

 やっとのことで口を開いた藍の頬は引き攣っていた。

「た‥確かに、あれは『混沌』に属する力でしょうけれど‥。嘗て世界の始めに天帝さまと凄絶な戦いを繰り広げたという、『混沌』の継承者が‥人間? 真白さまのお言葉ですが、わたしは信じかね‥‥」

 そこで藍ははた、と口を噤み、まじまじと真白を凝視した。

「それは‥‥畏れながら、九頭龍王のお見立てですか?」

「それほど確たる意識はない。俺の‥真白の直感だ。だから黒焔は紫苑を挑発し、罠に誘いこんだ、と俺は考えている。」

 琥珀は悲痛な顔をした。

「では‥。結果に拘わらず、紫苑は消されてしまうのか‥? 紫苑が魂力(ちから)を手放すことを望んだとしても、か?」

 真白は琥珀をじっと見た。

「紫苑は望まないだろう。あれも今では知っているはずだ、黒焔が自分を瞞したのだと。恐らくは皆を救うために、最大限に魂力(ちから)を遣うことを考えている。しかし紫苑は思考してはならないのだと俺は思う。『思考』は『混沌』とは馴染まない。人としての魂で感じるままに行動する。それが黒焔の思惑から逃れるために必要なことなのだ。」

 真白は再び二人に背を向けた。

「どのような局面になろうと、俺は紫苑を守る。おまえたちはおまえたちが信じることを為せばよい。」

「‥‥紫苑を守る役目は真白に譲ろう。僕は紫苑と共に在ると僕の意志で決めた。偶発的に生まれた変異種ではなく、必然によってここにいると天の秩序に証明してやる。」

 琥珀の言葉に藍は溜息をついた。

「やれやれ‥。皆さま、剛毅なご気性の方ばかりだ。勝ち目のない闘いに真っ向から挑むおつもりですか‥? 呆れてしまいますね。」

「おまえはどうするんだ? 天界に戻るつもりならば、何とか方法を探そう。」

 琥珀は藍の冷ややかな横顔をちらりと見遣った。

「わたしにもささやかながら覚悟があると申しました。多分『五色界』へ落ちた時点でわたしも橙も、天網からは消されたのでしょう。‥琥珀さまの仰るように、要は天の秩序に認めさせれば良いのです。紫苑の魂力(ちから)も含めて、わたしたちが大いなる秩序の裡に生きる存在であると。」

 真白は藍を振り向き、微笑した。

「方策があるか‥? 天帝と黒焔のお二人を向こうに回して、知恵比べをする方がよほど剛毅だと思うが?」

「世界の再編など決して起こしてはならないのですから、やらねばなりません。‥それに真白さま、そもそも紫苑自身が耐えきれるとお思いですか? わたしの知る紫苑は強い感情の波動にはことごとく共鳴を起こしてしまう存在(ひと)です。再編の規模によらず、巻き起こる負の感情に器が耐えきれるとは思えません。魂力(ちから)が暴走するか、心が崩壊するか。二つに一つでしょうね。わたしは橙のために‥紫苑に健やかでいて欲しいのです。」

「では決まりだな。」

 真白は短く答えて、二人の顔を見返した。銀の瞳に月の影が揺れていた。

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