12
黒焔は面白くなかった。
ちっぽけな人間は白狐の罠をはね除けてしまった。
物理的な傷は人間にとっては致命的であるはずなのに天龍に守られ、瘴気も麒麟の力ではね返した。
再び、炎のように燃える瞳を思い出した。
たかがゲームとは言え、敗北という言葉は黒焔には存在しない。仮にあの者たちが儀式を成功させても、褒美をくれてやれば良いだけだ。新しい宿命の下に、再び黒焔の掌中に戻る。彼らにとってはそれでも大きな意味があるのだろうが、黒焔にとっては初めから儀式に意味などない。退屈凌ぎ、それだけだ。
しかし―――
ちっぽけな人間の単純で愚直な行動が、なぜ白狐の考え抜いた罠を打ち破れるのか?
あり得ない事象ではあるけれど、それこそが、あの者が『混沌』を操る者であるという証なのだろうか。嘗て大いなる『秩序』の前に敗れた『混沌』の力の継承者―――?
まさか。短時間に朽ちる宿命を持った人間などに顕現するはずがない。あれは単なる破片にすぎない。
それにしてもよくかき回してくれることだ。『秩序』の綻びを最大限に利用している。そろそろ天界は『秩序』の歪みを感じ始めているだろうか?
『五色界』が万が一朽ちずに生き残るとなれば―――是正が始まる。世界の再編という名の『秩序』の再構築が、一斉に動き出す。
黒焔は闇の中で、冷めた微笑を浮かべた。
やはりどう動いても、紫の瞳は黒焔の掌中から逃れ出ることはない。まもなく思い知ることだろう。その瞬間をさて、どのように彩ってやるべきだろうか?
大部屋に橙が戻ると、そこには藍の他に青磁と深紅がいた。
橙は紫苑が無意識に作ってくれた虹があんまり嬉しかったので、青磁の手を引いて再び紫苑の寝ている部屋を覗きに行った。藍は行かなかった。
「‥‥やはり面白くないか?」
藍は深紅の方へ冷ややかな視線を向けた。
「そんなことはありません。橙が喜んでいるのはわたしも嬉しいですから。」
「そうか。」
深紅は下を向いて含み笑いを隠した。藍はムカッとした。
「何か言いたいんですか?」
「‥おまえの方が紫苑より寿命が長い。人の命など、一瞬の花火のようなものだ。」
「そんなことはあなたに言われずとも解っています。」
確かに、と深紅はうなずいた。
「それよりあなたに訊きたかったのですが‥。紫苑の怪我のことですけれど、あの時三重の罠と仰っていましたね? 紫苑の魂力に呼応して水晶の剣が、物理的攻撃に弱い人間の体を攻撃する。そこで致命的な傷を与えられなくても破片が瘴気を体に送りこむ。ここまでは解りましたが、最後の一段階がわたしには理解できませんでした。影が紫苑のものだとあなたは仰ったけれど、白燿さまが紫苑の影を有していたのならなぜ、籠目の術に練りこんでおかなかったのでしょう?」
深紅は苦笑いを浮かべ、藍を見た。
「おまえは確かに頭が回る。天龍も天人も、まして麒麟は特に、幻術や呪術などとは無縁の存在だけにそこまでは気づいておらぬ。だが天狐は元々幻術を遣う。まして地上に降りて千年、我ら鬼人や天狗の技にも通暁しているであろう。失念していたとは考え難い。恐らく天狐は、籠目の術を施した時には紫苑の魂力を取るに足らぬと考えていたか。さもなくば紫苑の影が真白を封じるには向かぬ性質であったのだろう。‥俺は紫苑には真白を傷つけることができないからだと思っている。」
「影になったのに‥‥儚い人の身で、そこまで想いを残すことができるものですか‥?」
「人だからだ。最も『混沌』に近い種だから、想いが理を超える。天人のおまえとは対極にある存在だろうが、鬼人である俺から見れば人はとても近い。‥水晶の術はご丁寧なことにもう一段階組みこんであったな。水晶の共鳴を遣って紫苑の影を増幅し、本体の魂をも闇に取りこもうとしていた。琥珀と誓約を交わしていたために逃れられたけれども、あのままでは危なかった。ところが琥珀が言うには、紫苑自身が助けを求めて呼んだそうだ。皮肉なことに、三百年前の白燿による魂の浄化が完璧であったおかげで、紫苑は助かったと言える。」
柱にもたれて、縁の向こうに広がる青空に深紅は視線を向けた。
「この千五百年間、『五色界』にこのような青空は存在しなかった。紫苑は七度目の転生で初めて、完全に魂力に目覚めた。真白以外が心に入ることを頑なに拒絶していたままであれば、できなかったことだ。白燿とおまえたち二人の存在が転機となったのだ。この事実は五色の儀式の終焉を意味するだけであろうか? 黒焔の闇を生み出す力と紫苑の希望を紡ぎ出す力。どちらが勝つかで駒である俺たちの命運は変わる。」
「深紅さまは‥何が言いたいのですか‥?」
「ここにいる者の中で最も冷静な視点を持っているのはおまえだ。琥珀と共に紫苑を支えてやってくれ。賢いおまえは既に、自分と紫苑が縁を結んでしまったことに気づいているだろう。」
濃紅色の瞳はいつもよりもっと深い色に見えた。藍はつん、と横を向いた。
「あなたに頼まれる筋合いはありません。わたしは橙を守ると決めたのです。そのためには紫苑が馬鹿げた行動を取らぬよう、厳しく監視する必要があるだけです。」
深紅はまた含み笑いをした。
真白は消耗した霊力を高めるために、大蛇の姿に戻って『五色界』の地中で眠っていた。
凍結された時間が動き出している。地中でもそこかしこで真白は感じ取っていた。生まれ変わる瞬間が近い。紫苑が回復し、西の谷が浄化され、五柱山に五色の虹が輝いた時。嘗て虹彩人のいた『五色界』ではなく、まったく未知の新しい世界が生まれるのだ。
それは天の『秩序』を揺るがすこととなろう。
天帝は動くだろうか。いや既に動いているのか。解らぬ。翼を失った身には天の思惑は窺えない。
―――真白。
紫苑の声がした。意識が紫苑の夢に引き寄せられる。
―――呼んだか。
―――うん。誰もいないところで話したかったんだ。
紫苑は薄紫色の光に包まれて、母親の胎内にいる赤子のように体を丸めて眠っていた。
―――あのさ‥。ひと言言いたいなぁって‥。俺は、ていうか紫苑はみんな、真白と出会えて幸せだったよ。
―――どういう意味だ‥?
―――それだけ。もしも突然消えることになっても、後悔しないように言っておきたかったんだ。真白が大好きだって気持を持てたことが、紫苑の七回の転生の総てで‥。それだけで俺的には黒焔に勝ったことになるんだよ。悔いはないんだ。
薄闇の曖昧な領域で、紫苑が微笑んだような気がした。真白は大きく吐息をつく。
―――紫苑。俺もおまえに一度尋ねたかったことがある。
―――何?
―――おまえが五色の儀式を始めた、真の理由は何だ? 今も魂力を捨ててしまいたいと思っているのか?
紫苑はくるりと体を一回転させて、真白の方を向き、無邪気に微笑んだ。
―――前回までは確かにそうだったみたいだよ。この魂力を持ってるせいでろくな目に遭わなかったようだから。でも今は‥俺はそうは思っていない。
―――では何のために儀式に参加している?
―――始めた責任があるだろ。それに‥他のみんなを知らない間に巻きこんだのは俺だと思うから。もう誰にも悲しい想いをして欲しくないんだ。
真白はゆっくりと穏やかな微笑を返した。
―――ねえ。真白は‥?
―――うん?
―――宿命を変えたいと思ってるんだよね? 天龍界へ‥‥戻るの?
見返すと紫苑の瞳は不安げに揺れていた。
―――そういうことではない。俺は望んで地上へ降りた。天龍に戻る気はない。心配するな、俺はおまえの傍にいる。初めの約束通り。
紫苑は複雑な顔でうなずいた。
真白は手を伸ばして頬を撫で、もう休め、と告げた。
紫苑の姿が徐々に薄くなり、意識は再び地中に戻る。真白はとぐろを巻いた大蛇の形で吐息をついた。
どうやら紫苑は完全に自分の魂力を掌握したようだ。
いよいよ世界の終焉が近づいたと考えるべきだろうか。それとも再生の始まりか。どちらにしてもその時に備えて、力を蓄えておかねばならぬ。約束通り、紫苑の魂を最後まで守るために。
琥珀は樫の木の下に腰を下ろし、光り輝いている五色の草の海を眺めていた。
胸の奥底には紫苑と繋がる金色の炎が常にあった。懸念していたが、紫苑は自分ではない自分の過去の記憶を前向きに受けとめることができたようだ。琥珀と繋がっている彼の心は少しも揺らいでいなかった。
素直に好意を顕せないのは琥珀の最大の欠点だ。
憎悪は好意の裏返しだと、遙か昔からほんとうは気づいていた。星の告げた絆は麒麟の宿命を固く縛り、何時の時代も紫苑に強烈に惹かれてしまう自分が確かにいた。だが琥珀に返されたのは無視と拒絶。ただそれだけしかなかった。
麒麟の心は脆いものだ。忘れたことのない面影がその事実を琥珀に突きつけた。
花梨は長老の末娘で、美しく明るく、才に溢れた女性だった。
彼女がなぜ毛色の違う爪弾き者に心を止めたのか、未だに琥珀には解らない。しかし何かにつけて花梨は、琥珀を孤独の中から連れ出そうとしてくれた。何の偏見もない、優しいまなざしで微笑んで、琥珀を愛していると告げた。
決して嫌いだったわけではない。しかし返すほどの想いは抱けなかった。花梨のためと自分に言い聞かせて、冷たい態度を取った。長老だった花梨の父親が、二人が親しくするのを嫌ったせいもある。結局琥珀は、花梨から逃げるようにして『五色界』へやってきた。
紫苑に拒絶され、ずたずたになった心を抱えて帰郷した琥珀を待っていたのは、花梨の死という現実だった。花梨は琥珀の痛烈な拒否の痛手から立ち直れず、心を病んで命を落としたそうだった。
以来千五百年、琥珀はずっと孤独だった。
麒麟であろうとする誇りだけが辛うじて心を守ってきた。いや、そうではない。多分紫苑との絆が繋ぎとめていたのだろう。今なら心からそう思える。
やっと結んだこの絆を二度と失いたくない。まっすぐ天へと向かう、力強い薄紫色の光柱を胸に思い描いて、琥珀はそう願った。
「天界‥? そんなものがこの世にあるのか?」
「もちろんだ。この世には多くの世界が存在し、それぞれに住んでいる者たちがいる。人間が神と呼ぶ中にも、天界から降りてきた者がたくさんいるのだ。人の世界と他の世界は混じり合って在り、総て天帝の定めた秩序の中で動いている。忘れてしまっているのは人間だけだ。」
「チツジョ‥?」
目を丸くして聞いている少女に、銀髪の神は苦笑した。
満月の光が柔らかに神の横顔を照らし、目の前の湖にまろやかな影を映し出す。夜風が背中を通り過ぎていった。
「秩序とは物事のあるべき理のことだ。水が高きより低きに流れ、一日が朝より始まる。そういった事柄を理と呼び、理の集まりが世の中を動かす。それを秩序という。遠い昔に混沌の闇の中から天帝が世界を造られた時、秩序を定めた。命を持つ存在は総て、この絶対的な秩序の中で宿命を持って生きている。」
「じゃ、あたしのこの能力も、天帝とやらが定めた宿命のせいなのか?」
「そうとは限らん。おまえは人であるのに、人の持つべきでない魂力を持って生まれた。既にそれ自体が秩序に反している。どの世界でもなぜかまれに、そういうものが生まれることがある。大抵はその存在は世界の理によって消滅される方向へ動く。おまえが大した理由もなく人々から忌み嫌われ、殺されかけたように。」
少女の瞳は険しさを帯びた。
「‥‥なぜ? あたしのせいではないのに、理不尽じゃないか‥!」
「その世界に住む大多数の者の存在を脅かすことになるからだ。おまえが直接、他者を傷つけるつもりはなくとも、廻り廻って秩序が崩れれば、世界の崩壊を生む。そうやって消滅した世界も今までにたくさんある。‥‥『五色界』が良い例だ。」
「ゴシキカイ‥? それは何?」
「虹を造る虹彩人が住んでいた世界だ。五色に彩られた美しい世界だった。中央に五柱山と呼ばれる五色の柱に支えられた山があり、天界へと続く大きな虹の架け橋があった。」
銀色の瞳は少女を振り向いて、穏やかな微笑を浮かべた。
「虹は世界の初めには五色と定められていた。虹彩人の造る色は多少曖昧であっても、総て五色のどれかに分類されなければならない。それが『五色界』の秩序だ。ところが虹彩人たちは、虹を七色にしたいと主張し始めた。そしてある時、天の承認を待たず七色の虹を作り上げ、五柱山の上から天界へと架け渡した。」
「それで‥‥どうなったの?」
「『五色界』の秩序は崩壊した。『五色界』はあっという間に色を失い、闇の世界に属するものとなり、命のある者が生を営む場所ではなくなった。天帝はやむなく、虹彩人たちを天界に受け入れた。それ以来、虹は常に存在するモノではなくなり、雨と共に天より賜るモノとなってしまったのだ。」
紫苑色の瞳は激しく揺れ、銀髪の神の腕に縋りついた。
「ただ、七色にしたかっただけなのに‥? それほど酷い罰を受けなければならないようなことだというの?」
「罰ではない、紫苑。秩序を定めた天帝ご自身すら、天の秩序に逆らうことはできないのだ。定められた理を変える、という行為はその理由の是非を問わず、多大な影響を世界にもたらすのだ。」
紫苑はしばらく黙り続けていた。やがて項垂れたまま、口を開く。
「ねえ‥。あたしはどうすればいい? こんな魂力、捨てられるものならば捨てたいよ。天帝じゃないなら誰がいったいあたしをこんな生まれつきにしたの?」
「それは誰にも解らん。捨てることもできない。」
神は小さな人の子に慈しむような眼を向け、それから再び月を見上げた。
「紫苑はそのままあればいい。魂力の抑え方を学び、人として生きろ。人の世界の理を超えねば問題はない。」
それができればこんな状況にはならなかった。
紫苑はつくづくと想う。人として生きるより、真白と生きたかったのだ。
神になろうと思い上がったわけではない。一瞬の夢でもいい。愛されるべき存在になりたかった。一方的に守られるだけの低い存在ではなく、真白にとって価値のある、唯一の存在に。
だから黒焔の挑発に乗ったのだ。たとえ魂の消滅が待っていようと、この世界総てを壊してしまう結果になろうとも、この手で真白の理不尽な宿命を変えてあげたい。そう願った。
黒焔に出会ったのは偶然だった。少なくとも紫苑はずっとそう思っていた。
―――我が名は黒焔。総ての闇を統べる者。ちっぽけな人の子よ、どうやってここへ来たのだ?
―――知りません。気がついたらここに‥。
漆黒の闇の中で、黒焔は紫苑の心を見透かすように嘲笑った。
―――怯えているのか? 天より外れた魂力を持つ存在が、なぜ闇で怯えるのだ? 暗闇こそがおまえの生まれた場所ではないのか?
ではこれが紫苑に理不尽な運命を与えた者なのか。紫苑は唇を噛みしめた。
―――ふふふ。震えているな。無理もない。おまえと我とでは存在の重みが違いすぎる。おまえの守護者を呼ぶか? あれは確か‥哀れな天龍であったな。天の理に歪められた宿命を持つ者だ。
―――ゆ、歪められた‥? どういう意味よ、それ。
―――知りたいか。ちっぽけな人の子が天を揺るがす大事を知って、どうする?
再び紫苑は唇を噛みしめたが、今度は震えていなかった。
全身を薄紫色の炎が沸き立つように包んで、燃え上がる。
―――ほう。自力で知ろうとするか。無駄だ、我が闇の領域ではおまえの技など子供だましにすぎぬ。
くつくつと乾いた嗤い声が闇の中に不気味に響く。だが紫苑は怖いとは思わなかった。この深い闇を切り裂いて、知りたい次元へ繋げようとした。
闇の中から影が伸びてきて、紫苑の体に触れた。たちまち光が削がれる。
―――待て待て。教えぬとは言っておらぬだろう。おまえに切り裂かれると後始末が厄介なのだ。我がではないぞ、天界がだ。ひいてはおまえもだ。
嘲りを含んだ冷めた声は、静かに真白に降りかかった受難を語った。
そして言葉を失っている紫苑に向かい、面白そうにこう尋ねた。
―――これは天界で伝わる事実であるが‥。おまえ、おかしいとは思わぬか?
―――な、何がおかしいの?
涙混じりに問い返した紫苑の耳の傍で、闇の帝王はそっと囁いた。
―――九頭龍王とは嘗て、世界の始めに天帝の片腕として『混沌』を撃破した猛将だ。良いか、人の子よ。九頭龍の化身を最も邪魔だと考えるべきは誰だ? 真に天龍王だろうか? ‥結果として何が起きたか。九つに分かたれていた九頭龍の魂は一つに統合され、力を削がれて地に落とされた。命を安堵することで、転生はもはやない。これは何を意味するか解るか? 行われたのは天を統べる者に匹敵するほどの力の‥‥封印だとは思わぬか?
―――では‥‥。真白を陥れたのは、て、天帝だと言うの‥?
くすくすと小気味よさそうな嗤いが、闇の中じゅうにこだまする。
―――さあ‥。真実を知る者は二人のみ。天帝と、天龍本人しかおらぬ。
許せない。紫苑はその時、浅はかにもそう思った。