11
真白は琥珀と紫苑を抱えて一気に暗黒の谷を抜けた。そのまま凄まじい速さで雷のように空を切り裂き、池のほとりに降り立った。
「青磁‥! 来てくれ、早く。」
「どうしましたか、真白さま?」
真白の大声に驚いて出てきた青磁は、息をのんで立ち竦んだ。
「いったい‥これは? ああ‥紫苑、紫苑‥。」
「‥俺のせいだ。何らかの仕掛けがあると‥気づいていたのに。まさか紫苑を目がけた罠だとは考えなかった。」
真白は何が起きたかを手短に語った。
青磁は涙をぽろぽろこぼしながら、紫苑に触れようとして青ざめた。
「体に‥‥影の刃が刺さったままです。これを取り除かなければ薬を使えません。ごめんなさい、わたしには‥。」
「俺が抜こう。真白は自分の傷の手当てを。青磁と琥珀は離れていろ。」
深紅が後ろから出てきて、紫苑を受け取った。
真白はがくっと膝をついた。肩と額から血が流れ、息を弾ませていた。飛んできた剣は数千本はあったはずだ、と琥珀が青磁に囁いた。
紫苑の胸と腹に黒水晶の剣が一本ずつ、突き立っていた。傷からどくどくと流れる赤い血と黒い影が混ざって、体中を覆っている。奥に小さく透けて見える金色の炎が、紫苑の魂を影から何とか守っていた。
深紅は引き抜こうとして、躊躇した。真白を振り返る。真白は息を弾ませながら、近づいてきて、深紅と同じものを見た。
「この剣は砕いた水晶を影で繋ぎ合わせてある。引き抜こうとすれば恐らく‥粉々に砕け散って瘴気を撒き散らし、紫苑の中に潜りこむ。影ごと昇華させるのがいちばんいいのだが‥。」
深紅を見返した真白の貌には悲痛な怒りが滲んでいた。
「紫苑は人間だ。人間の体では‥‥昇華の炎に耐えられない。」
「どうする‥?」
「‥俺が引き抜く。残骸はおまえの炎で昇華させてくれ。‥‥紫苑の魂を探して、紫苑自身の魂力で体内に残ったかけらを浄化するしかないだろう。幸い、琥珀と繋がっていたから魂はまだ猶予がある。」
「‥‥無理だ。」
深紅は首を振った。真白は必死の形相で深紅を睨みつけた。
「無理でも他に方法がない。紫苑は‥‥。もう紫苑を失うわけにはいかないんだ。」
「落ち着け、真白‥。紫苑には浄化できない。解らないのか? 剣に隠った影を冷静になってよく見てみろ。これは‥‥紫苑のだ。」
「ばかな‥‥!」
呆然として真白は紫苑を見下ろした。そしてあっ、と小さく呟く。
「‥‥紫珠か。」
「紫苑だけを確実に消そうという、三重の仕掛けだ。」
ぐわああっ、と真白は大声で叫んで、体をくの字に折り曲げ、床を叩いた。
少し離れて見守っていた琥珀は胸が潰れそうな気がした。
「‥‥総て、白燿の仕業なのですか‥。」
青磁は血の気の失せた顔で辛そうに呟く。藍は啜り泣いている橙を抱きしめていた。
乱れた銀髪の陰から真白は顔を上げ、すっくと立ち上がった。
「‥‥それでも。できるだけのことはしなくては。体の損傷を最低限に抑える。琥珀‥。紫苑の魂を何とか支えていてくれ。」
琥珀はただ黙ってうなずいた。
啜り泣く悲しげな声に誘われて、紫苑は闇の中に迷いこんでしまった。
泣いているのはどうやら自分だ。悲しくて恨めしくて、何もかもが憎い。辛くて苦しい、そして―――恋しい。
無数の鏡が紫苑の周りを取り囲んでいる。黒々とした鏡面には無数の紫苑がいる。気が狂いそうになるほど強烈な感情が、鏡に映されて更に膨らんでいく。
鏡の破片のあちこちに六人分の紫苑がいた。
感情が高まって暴発した、薄紫の光が見える。光の中心には幼い紫苑がいた。光の環の中では周りと異なる景色が二つ、窓のように並んでいる。
―――化け物だ、逃げろ。吸いこまれるぞ。
恐怖に震える人々が逃げ惑う。石つぶてがいくつもいくつも、光の中へ投げこまれる。紫苑は泣きながら、違う違う、化け物じゃない、と虚しく叫んだ。額から血が流れる。
別の鏡には地下牢で鎖に繋がれた紫苑がいた。誰かが、あの娘は人の心を読むらしい、と噂していた。
―――存在しないモノを視て、他人の心を覗くそうだ。
―――まあ、なんて気味が悪い。
紫苑はその声を悄然と聞いていた。
母親のことを考えていたら、別の場所にいた母親の姿が浮かんできてしまっただけなのに。遠くへ行く父親を心配していたら、峠で山賊に会うのが見えただけなのに。
また他の面では、戦火の中を必死で逃げていた。怪しい技を遣う娘を捕獲しろ。誰かの怒鳴り声が響く。
殴られて、地面を引きずっていかれ、寂しい原っぱに立てられた杭に縛りつけられた紫苑もいた。物の怪に取り憑かれて村をめちゃめちゃにしたから処刑されるという。
あたしのせいじゃない。こんな魂力、望んだわけじゃない。苦しい、悲しい、恨めしい。誰か助けて―――
巫女姿で哀願している自分が見えた。目の前に立っているのはどこかで見た白金の髪の男だ。白い端正な貌に近寄りがたい威厳を漂わせている。
洪水のように一斉になだれ込んでくる感情の波に、押し潰されてしまいそうだ。
めいめいが勝手に紫苑の頭の中に入りこみ、喚き出す。訳の解らない、理不尽極まりない主張を繰り返し、結局のところ全員が自分こそが『紫苑』だと叫んでいる。
―――けど、違う。現在の紫苑は‥‥君たちじゃない。
拒絶すれば鏡面に反響して、しっぺ返しを喰らう。
暗紫色の炎が無数の刃に変じて、あらゆる角度から襲ってくる。切り裂かれ続けて、痛くて痛くてたまらなくなった。
紫苑が紫苑であることを手放せばきっと、この攻撃は止むのだろう。そう解っていたが、手放す気になどなれなかった。
何かが違う、と感じていた。既に自分が男なのか女なのか、どの時代に生まれ育ったのか解らないほど混乱していたけれど、他の六人と決して混じり得ない何かを抱いている。たまらないほど、そんな気がした。
不意に痛みが少し軽くなった。
気がつくと紫苑を金色の炎が包んでいた。隣に琥珀の顔が朧気に浮かぶ。
―――弱っているな。しっかりしろ。
そう励ます琥珀も弱って見えた。波打つ褐色の髪が、雨に濡れたように萎れている。
琥珀はそっと紫苑の傷ついた体を胸に抱いた。優しい、慈しむようなまなざしで包みこんでくれる。
紫苑は徐々に自分を思い出し始めた。
涙が茫々と流れた。膨大な記憶が紫苑のものとなって固まり始める。だが記憶に付随するあまたの負の感情は、琥珀の胸の中で洗い流されていった。
紫苑の瞳と髪に薄紫色の明るい光が戻ってきた。
紫苑色の光は鏡面の迷宮に反射して、一つ一つ闇の鏡を砕いていく。数が多くて時間ばかりが過ぎていくけれど、紫苑は焦ることはなかった。鏡を砕くたびに体の中心から力が溢れ出て、自分の存在を確かにしていく実感があった。
―――琥珀。助けに来てくれたんだね。
―――おまえが呼んだから来られた。‥僕には見つけられないかと思った。
いつのまにか切り刻まれた傷は消えていた。痛みももう感じない。
琥珀は紫苑をぎゅっと抱きしめると、微笑んだ。
―――おまえの人の体は真白が守っている。瘴気が蝕むのを自分の霊力を注いで阻んでいるんだ。さっさとけりをつけて戻ってこい。皆、待っている。
―――琥珀‥? 消えそうだよ、大丈夫?
―――僕の力はもう限界だ。これ以上留まれない。紫苑、先に戻っているから早く来い。
うん、とうなずいて紫苑は手を離した。ありがとう、と囁いた言葉は届いただろうか。
胸の奥にみんなの顔を思い浮かべる。すると部屋の真ん中で血を流して横たわっている自分の体と、銀色の光で包み守ってくれている真白の姿が浮かんだ。
ぱっくり裂けた傷口からは影が煙のようにもやもやと立ち上り、銀色の光をすり抜けてそこかしこに漂っていく。その度に深紅が紅い炎で浄化して回っていた。
部屋の隅では金色の光を放ちながら意識を失って蹲っている琥珀と、倒れないように一生懸命支えている橙がいる。その傍で藍と青磁は何やら薬を調合していた。
やれやれ。また役立たずが迷惑をかけている。早く戻らなければ。あの体が瘴気を振りまくのをさっさと止めなきゃいけない。
紫苑は苦笑して、腹の中心に意識を集中した。薄紫の明るい炎がめらめらと燃え上がってくる。『自分が自分であるためのいちばん大切な想い』を忘れないでいろ、とは誰に言われたのだったか? そうだ、これは藍の言葉だ。
体が熱くなって、胸が破裂しそうになって、紫苑色の光柱が闇を貫いた。
闇の鏡の迷宮は跡形もなく消え去り、紫苑は自分の夢の領域にぷっかりと浮いていた。
胸の奥から息を吐きだして、もう一度部屋を思い浮かべて戻ろうとした。しかし器の方に体力が乏しいせいか、戻れない。二度、三度と試みたけれどやはりできない。
紫苑はふと思い出して、橙と手を重ねるイメージを描いた。前に二度、彼女の手で戻してもらっている。二度あることは三度ある、と言うではないか。
掌に柔らかい温かい手が現れた。だが前と違い、その手は紫苑の掌に入りきらない。するとほっそりとした白い指が、紫苑の指に絡まった。思わず胸が高鳴って眼を閉じる。
ゆっくりと眼を開けると、紫苑は暁の光の中で包帯を巻かれて横たわっていた。
琥珀の意識が不意に戻り、顔を上げて傍らの橙を見つめた。
「橙。紫苑はもうすぐ戻るぞ。」
「‥‥ほんとうですか、琥珀さま?」
「ああ。影の浄化を始めた。かなり大量だが、きっとできるだろう。」
その時、橙の背後で薄紫色の光が爆発した。
真白と深紅が大きく安堵の息をついた。
紫苑の体から流れ出ていた黒い影はすうっと消滅し、胸と脇腹のざっくり裂けた傷だけが痛々しく見えている。出血しすぎて青ざめた白い顔。橙は急いで駆けよった。
青磁を手伝って、薬を傷口に丹念に塗りこむ。そして包帯を巻いた。
「間に合ってくれたのならいいのですけれど‥。」
独り言みたいに青磁が呟いた言葉が耳に入った。また涙が溢れる。
涙をぽろぽろこぼして、橙は紫苑の冷たい手をそっとさすった。一生懸命、さすり続ける。すると微かに指が動いた。
「あ‥。真白さま、指が動きました‥!」
彼女の声に全員が覗きこむ。
橙は紫苑の手に自分の指を絡め、しっかり握った。少し体温が上がったように感じる。
「紫苑‥。俺が判るか‥?」
真白の声に振り向くと、紫苑の眼が開いていた。橙は心の底からほっとする。
「うん‥‥。ごめん。面倒かけて‥。うっ。痛たた‥。」
「動くな。最低でも一日はじっとしていろ。やっと治療をしたところだ。かなり痛むだろう。」
真白は憔悴しきった顔で、それでも微笑んだ。
「不思議とそうでもないよ。真白‥。あのさ‥。全部思い出した。以前の紫苑の記憶。」
「‥‥思い出したのか。」
「うん。今となってはもう、あんまり必要じゃないけどね。‥‥すごく恥ずかしいし。みんなの顔、ちゃんと見れないよ。俺って昔、なりふり構わず生きてたんだなぁって‥。」
紫苑は橙の指を握り直して、ふふっと浅く笑った。
「なんで記憶も能力も失くしてたかも、解った。‥青磁、いる?」
「いますよ、紫苑。」
「ごめんね。白燿が闇に堕ちたのは俺のせいだった。俺の‥正確には紫珠の影が取り憑いたんだ。あの人は寂しそうだったけど、ほんとうは納得してた。青磁が元気で生きているなら、それでいいって。」
紫苑は紫珠の記憶から知った内容を、包み隠さず話した。
青磁は青い涙をこぼして泣いていた。
「だからさ‥。みんな、ごめん。ここ数日のトラブルは全部、俺が引き起こしたことだったんだよ。切り離した部分が別個に能力を遣って、白燿を引きずりこんだんだ。藍の言ってた通り、遣い方を間違えたらもの凄く危険な魂力なんだなってつくづく感じた。迷惑かけて‥ごめん。」
「もういい、紫苑。体が癒えるまでは何も考えるな。」
沈黙の中から深紅が静かに言った。
「体が弱っておる時は気弱になるものだ。今はゆっくり休め。体が良くなれば違う見方も出てくる。」
そう言って深紅は部屋を出ていった。琥珀が黙って続いた。
「深紅の言う通りです。前にも言いましたけれど、わたしはあなたがとても好きですよ。紫苑。ゆっくりとお休みなさい。」
頬を拭い、青磁はいつもの優しい微笑を紫苑に向けて、真白を促し、出ていった。
残ったのは指を握られている橙と、複雑な表情を浮かべた藍の二人だけだ。
だが藍は橙のまったく動きそうもない様子に、黙って立ち上がった。怪我人だから仕方ない、と口の中で呟いてそのまま紫苑の方を見ず、大人たちの後を追っていく。
橙はおろおろしながら藍の後ろ姿を見送って、それでも紫苑の横に座ったままでいた。
ふと見ると紫苑は眼を閉じて、声を出さずに泣いていた。
橙は可憐な眉根を曇らせて、黙って紫苑の手を優しくさすった。何もかける言葉が浮かばなかった。
「‥‥橙の手って、お日さまみたいだよね。すごくあったかい。」
しばらくして紫苑は小さな声でそう言った。少し元気になったようだった。
「ねえ‥。橙はどうして大きくなったの?」
「それは、そのう‥。」
橙は頬を赤らめ、下を向いた。
「自分でもよく解らないのです。‥多分、藍が大きくなって、置いていかれてしまったような気がしたせいでしょうか?」
「そうか‥。藍と橙は、仲がいいもんね。‥俺も今度人間界に戻れたら、ほんとうの友だちを作りたい。」
橙は顔を上げた。
「紫苑さまは‥‥儀式を終えられたら、人間界にお戻りになるのですか?」
紫苑は苦笑を浮かべた。
「だから『さま』は要らないって‥。無事に終えられればね、戻りたいよ。どうなるか解らないけどね。」
「そうですか‥‥。」
橙は悄気た。
「わたしも‥‥人間界へ行けたらいいのですけれど。」
紫苑はふふっと微笑った。
「橙は天界で苦労してるって言ってたもんね。人間界へ来たら、たいへんだよ。すぐに人気者になっちゃう。」
「わたしが、ですか?」
「だって人間には橙や藍みたいに綺麗な子は滅多にいないし。橙はとっても優しくて、何でもできるじゃないか。俺から見たら、羨ましいくらいだよ。」
「わたしは何をしても、ちゃんとできたためしがないのですよ‥?」
「天界はレベルが高すぎるんじゃない? ま、当たり前か。天人の世界だもんね。橙が人間界へ行くなんて藍が聞いたら、きっと怒るよ。」
「紫苑さまは‥いえ、紫苑は、藍が好きだと先日仰ってましたけど‥。」
「ん‥? ああ、好きだよ。ここの仲間はみんな、大好きだし‥大切だ。」
「わ、わたしのことも‥少しはお好きですか?」
口ごもった橙ににっこり笑いかけ、紫苑はうなずいた。
「橙は特別だよ。夢の領域から何度も戻してもらったし‥。何て言うかさ、橙が初めに俺を信じてくれたから、何とかここまでやってきた、みたいなとこあるし。」
「ほんとうですか‥。」
橙はぱあっと花のように微笑んだ。急にひだまりの中に飛びこんだような、明るい陽光が部屋を満たした。
眩しげに眼を細めて、紫苑は尋ねた。
「そう言えば虹彩人て、どうやって虹を作るの?」
「歌を歌って、自分の色を唇から吐くのですが‥。わたしは橙なのに、いつも白い色しか出ないのです。」
「へえ、歌で作るのか? すごいね‥! 嫌じゃなければ、やってみてくれないかな?」
「‥‥白くてもいいのですか?」
「今は虹を作るわけじゃないし‥。一度でいいから、見てみたいなぁ‥。」
疲れたみたいに、紫苑は静かに息を吐いた。
橙は深呼吸を一つすると、ゆったりと滑らかな旋律の歌を歌い出した。
優しくて、どこか懐かしく、切ない。橙の声は話している時よりも響きを増して、時にフルートのように時にバイオリンのように、柔らかく澄み渡って流れた。
これが天界の音楽というものか。紫苑はとても安らかな気持になった。
橙の唇からは歌と共に糸のような細い、白い光が紡ぎ出されていく。光の糸はゆったりと漂い流れ、少しずつ撚り合わさって大きな光となって、部屋の中をやがて埋めつくした。
橙が歌い終わった時、部屋は明るい光で溢れていて、紫苑はぐっすりと眠っていた。
絡めていた指をそっと離して、橙は静かに立ち上がった。そしてびっくりした。天井の中央には小さな虹が―――七色の虹の架け橋がかかっていた。
橙は胸がいっぱいになった。
涙がほろほろと頬を伝い落ちる。今度ばかりは嬉しい涙だった。たまらなく紫苑が好きだ。橙は心からそう想った。