10
紫苑が目を覚ました時、眠りに入ってから既に五日が経過していた。
昼下がりの暖かい日ざしが燦々と注いでいる。縁先には見慣れない草がちらほらと生えていた。ほんの僅かの間に、季節も移り始めたようだった。
ぼんやりと見遣って、体を起こした。
この部屋は前とは違う。回廊の奥にあった小部屋の方だ。
不思議と空腹を感じない。ずっと飲まず食わずのはずだというのに。もしかして体をどこかへ置いてきてしまったのだろうか? もっとちゃんと管理しなければいけない、と紫苑は反省した。
誰かの足音がした。振り向くと、そこには紫苑と同じ年くらいの美少女が立っていた。
「紫苑さま‥? お目覚めになったのですか?」
「‥‥橙? あの、まさか、俺はそんなに寝てたのか?」
思わず口走ってから、前に藍が二日で四、五才も成長していたことを思い出した。
橙はとても嬉しそうな顔で紫苑の傍らに跪くと、五日です、と答えた。
「今度は前よりも長かったものですから、たいそう心配いたしました。真白さまが夢でお逢いになったと仰ったので‥。まだお魂力をお遣いなのかと‥。」
橙は不安げに眉を曇らせた。また泣き出しそうに、瞳が潤んでいる。
紫苑はまじまじと俯き加減の綺麗な横顔を見つめた。
「あのさ‥。橙って、まさか‥女の‥子なの?」
橙はきょとんとした表情で紫苑を見返した。
「はい、そうですけれど‥?」
「嘘っ‥! 天人て性別がないって、青磁が言ってたのに‥。」
「ええ。青磁さまは植物を司る花神の一族ですから、純粋な天人なのです。わたしと藍は虹彩人ですから。元から天界にいた種族ではありませんので、他の世界の種族と同様、性別があるのですよ。」
にっこりと微笑んで、それから橙はまた心配そうに紫苑の顔を覗きこんだ。
「わたしがこんなことを言ってはいけないのでしょうが‥。どうか、ご自分のお身体もお厭いください。お倒れになるごとに、回復までの時間が長くなるのがとても気になるのです。今に‥お目を覚まさなくなってしまうのではないかと‥。」
ありがと、と一応微笑んでみせて答えたけれど、睫がバサバサ音を立てそうだな、と全然関係ないことを思っていた。
「紫苑。目覚めたか。」
いつ来たものか、真白が立っていた。
「あれからどうした。どこかの領域へ迷いこんだりしなかったか?」
「うん。あれからは全然夢を見なかった。真白と別れて、どれくらい寝てた? 何か、俺の中ではあっという間だったんだけど‥。」
「俺が戻ってきてからもう四日だ。ま、心と体が離れている気配はなかったから、大丈夫とは思っていたが。」
雪の湖に迷いこんでから四日か。よく寝たものだ。しかし体はほんとうにここにあるのだろうか?
紫苑は真白に先ほど感じた疑問を尋ねてみた。すると真白はくすくす笑った。
「おまえの体はここにある。食事は摂らせていたから、空腹のはずはない。」
「へ? 何、それ‥? だって、寝てたのに。」
「そうだ。主なる意識は閉ざされていたが、生命維持に必要な程度は時々起こした。食事もさせたし、排泄も。夢遊病者みたいで介添えを必要としたので、俺が面倒を見た。‥‥気にするな、前にもあったことだ。」
紫苑の顔がみるみる赤くなっていくので、真白は言葉を付け足したが、まだ笑っている。
「ま、前にもって‥。前は女だったんだろ? 神さまの感覚って、訳解んない‥。」
「人間は己の体の五感に依存しすぎなのだ。紫苑のその体は今の時代を生きるための器で、人としては大切なものだが、俺から見れば紫苑とは紫苑の心のことだ。焦点を合わせる部分が違う。体は単なる紫苑の外側にすぎない、男も女も関係ない。」
「そう言われればそうかもしれないけどさ‥。やっぱりメチャクチャ恥ずかしいよ。」
紫苑は頭を抱えて、真っ赤になったままの顔を伏せた。二度と寝こむような羽目には陥らないよう、魂力の制御方法を考えなくては。十五で要介護状態とは、情けなさすぎる。
橙がすっと立ち上がった。
「わたしはこれで。皆様方に知らせて参ります。」
その艶やかな姿を見送って、彼女の方が紫苑よりも背が高いのではと思う。藍も五センチほど高かったから、もしかしたら、いやもしかしなくてもいちばんチビは紫苑だ。ちょっとへこんだ。
「どうした。」
「いや‥。藍も橙も大きくなっちゃったな、って思ってさ。」
布団から出て立ち上がり、伸びをした。体のあちこちの筋肉が強ばって、少し痛い。
ふと見るとシャツの裾に黒ずんだ血のしみが固まっていた。琥珀の角を拭いた痕だ。入浴して着替えなきゃ、とリュックの中を探った。
「そうだ‥。西の谷はどうなったの? 青磁がやけに気にかけていたけど。」
リュックの中の衣類は脱いだものと新しいものが混じっていたはずなのに、誰かが洗濯してくれたようだった。誰だろう? 橙だろうか。急にいたたまれないほど、気恥ずかしくなってくる。
背後から真白の答える声がする。
「おまえが目覚めるのを待つということになった。‥‥身支度ができたらあちらに来い。皆、待っているだろう。」
真白の足音が遠ざかると、紫苑はまた理由もなく溜息をついた。
黒焔は腹の底からこみあげる可笑しさを堪えきれずに、笑い声をたてた。
光と闇の攻防はこのままいけば九分どおり白狐の勝ちだ。
あの白狐はなんと素敵な手を遣う。先の先まで読み通した戦略はまさしく智将の呼び名に相応しい。特に我が身が斃れてもなお敵を斃すというあたりが、実に好みだ。
完全に闇に融けてしまったら、我が配下として再構築してやろう。素晴らしい闇将軍となるに違いない。新しい名と運命を与えてやるのだ。
さてどうなるか。今の天龍に白狐の仕掛けたからくりが見抜けるか?
そろそろ小石をもう一つ投げ入れることにしよう。
西の水晶の谷を誰が浄化するか。
青磁は紫苑がするのがいちばんいいと思う、と静かに言った。
「紫苑の浄化は完璧です。東の森には兎や栗鼠まで現れましたし、北の湖水には魚が泳ぎ、小川が生まれました。今までの六回でなかったことです。色を取り戻しただけではなくて時間が動き出したのでしょう。ですから残る西の谷も、紫苑にお願いするのが正しいと思うのですけれど‥。」
なぜか躊躇いがちに言葉を濁し、整った貌を曇らせた。
紫苑は五日の間に青磁の雰囲気が変わったような気がした。春の日だまりのような優しい微笑に何かが混じっている。何だろう? 変わったと言えば深紅もだ。いつも冷静な瞳がどこか気遣わしげな色を帯びている。何か心配ごとがあるのか? いや、きっと青磁のことに決まっているだろうけれど。
真白が口を開いた。
「青磁の言う通りだ。紫苑がしなければ多分、儀式は完成しない。だが、西の谷に何か不穏な静寂が漂っているのは確かだ。それが何かを突きとめなければ迂闊に手は出せないかもしれない。」
「それで真白は何だと思うんだ? 推測でいい、教えてくれ。」
焦れったそうに、琥珀が真白を振り向いた。
琥珀のつややかな褐色の肌には傷痕は一つも残っていなかった。よかった、と安心する。ところがよそ見ばかりしていたら、真白と目が合ってしまった。紫苑は慌て、ばつが悪いので下を向いた。
「‥まずは紫苑を連れて西の谷を見にいく。それからだ、琥珀。先に推論を話して、紫苑に先入観を与えたくない。」
琥珀は探るようにまっすぐ真白を見据えた。
「解った。僕も一緒に行かせてもらうよ。構わないだろうね?」
「俺は構わない。むしろその方がいい。誓約をすませたと紫苑に聞いた。おまえが一緒の方が紫苑の魂力が‥狂わされないだろうから。」
真白はちょっと躊躇して言葉を選んだようだった。ほんとうは何と言おうとしたのだろう?
「青磁は来ない方がいい。あの静寂は瘴気と同種だ。深紅と虹彩人の童たちとここで待っていてくれ。」
「けれど‥‥。」
「明日は下見だけだ。戻ってきてもう一度、話し合おう。‥‥おまえの懸念は解っている。約束しよう。明日戻ってきたら俺は、思うところ総てを正直におまえに話す。信じろ。」
青磁は緑青色の瞳に涙を湛えて、真白を見つめ、うなずいた。
紫苑にはちんぷんかんぷんだったけれど、白燿が関係しているのに違いないと感じた。だとしたらこれは大人の話だ。紫苑の口出しすべきことではない。
真白は紫苑に向き直り、微笑んだ。
「琥珀を瘴気から守るのはおまえの役目だぞ。麒麟は瘴気に当たればすぐに病んでしまう。西の谷を探るのと二つ同時にやらねばならないから、気を入れて魂力を制御しろ。‥大丈夫だ。おまえならできる。」
一応うなずいたものの、紫苑は不安だった。一つのことをやるのでさえ制御できずにいるのに。
その時、藍の冷ややかな視線と目が合った。
なぜか紫苑は藍に助けを求めたくなった。彼は多分、紫苑自身にもよく解らない不安の原因を解明してくれるのではないかと感じた。真白の真の名前の時もそうだった。要するに―――藍は紫苑の頭の程度をよく知っている。
話が終わって、皆が思い思いの場所へ移った後、紫苑は藍を探した。
藍は梅林で、橙と花の露を採取していた。
絵のような美しさとはこういう光景を指すのだろうか。紫苑はつくづく感じ入って、見惚れていた。二人ともなんて綺麗なのだろう。
そう言えば橙が女の子なら、藍は? 立ち止まってじっくり見ても紫苑にはよく解らない。男にしては綺麗すぎるけれど、声は少年のものだ。
まあ天人なのだから男だって美形で当然かもしれない。琥珀だって相当、美形だし。思うに―――美醜がばらついて存在するのは人間だけじゃないのか? とすれば人間はいちばん不出来な生き物なんだろう。紫苑は再びへこんだ。
意味のない劣等感に立ちつくしている紫苑に、橙が気づいた。
「紫苑さまぁ‥! 何かご用ですか?」
満面の笑みを湛えて駆けよってくる。まるで花のようだ、と紫苑は眩しく想った。
「いや、あのね‥。藍にちょっと相談があったんだけど‥。」
「‥‥藍にですか?」
橙は途端にしぼんだ。
「あ。でも、別に後でいいんだ。邪魔しちゃってごめんね。」
慌てて言い添えると、橙はゆっくりと首を振って、藍を呼んだ。
「藍。紫苑さまが‥藍にご用ですって。」
藍は明らかに嫌そうに、ゆっくりと近づいてくる。紫苑はその間に橙に言った。
「あのさ、橙。前から言おうと思ってたんだけど。俺を呼ぶ時に『さま』を付けるの、やめてくれないかな? 紫苑、でいいから。」
「‥‥紫苑、ですか?」
「うん。他のみんなはどうか知らないけど、俺は‥そんな、大したもんじゃないし。何だか、ヘンな気分なんだ。」
「でも‥‥よろしいのでしょうか? 紫苑さまが大したものでないのでしたら、わたしなどはもっと駄目ですし‥。」
橙は目を伏せた。
いつのまにかすぐ近くまで来ていた藍が、紫苑と橙の間に割りこむようにして立ち、ふん、と微笑った。
「いいじゃないか。せっかく『さま』は要らないと仰るのだから。ねえ、そうですよね、紫苑? ‥で、わたしに何かご用とか?」
何時にもまして冷たい視線にたじろいで、紫苑は口ごもった。
「うん‥。魂力の制御の仕方をね‥。相談したかったんだけど。」
「わたしに‥?」
藍はびっくりしすぎたらしく、目を見開いて紫苑をまじまじ見つめた。
紫苑はかあっと頬に血が上った。また馬鹿な真似をしている、と思った。
「何となく、藍なら解りやすく説明してくれるかと‥。あ、あの‥。ごめん、迷惑だよね。忙しいとこ、呼びとめてごめん。」
背を向けようとした紫苑の腕を掴んで、藍は溜息をついた。
「‥‥もしかして。あなたは自分の魂力が何なのか、解らずに遣っているのですか?」
「実は‥‥さっぱり。だから制御しろったってさ‥。」
「何とまあ‥。あなたにはほんとうに驚かされる。呆れたものだ。」
藍はそれでも紫苑に座るよう、言った。おろおろしながら見守っていた橙も三人一緒に、柔らかい草の上に腰を下ろす。
「まず解っていなければいけないのは、あなたの魂力に相当するような力は通常、存在しないということです。夢は狭間の世界のモノ。天が統べる世界と闇が統べる世界のちょうど境界線上にあるのです。夢わたりの能力は世界の秩序から外れた『混沌』に属する魂力なんです。」
ちっとも解っていなさそうな紫苑と橙をちらりと見遣って、藍は小さく溜息をつき、言葉を続けた。
「わたしたちは全員、天の統べる世界に属しています。天界や天龍界、麒麟界はもちろん、人間界や鬼人界も一応そうです。一方で影の者は闇に属していて、どちらもそれぞれの秩序の中で、理に従って生きているわけです。ところが『混沌』は総てが曖昧な世界で、時間や空間だけでなく存在さえも曖昧になってしまうので、普通の生き物は生きてゆけないのですよ。あなたが操る夢は、そんな領域のモノなのです。」
ではあの紫苑色の薄闇が立ちこめた領域は―――夢わたりのターミナルは『混沌』にあるのか。だからあの場所では事実も想像も、過去も現在も総てが同レベルで存在しているわけだ。それどころか混じり合っている場合もあるのだろう。
「『混沌』は天帝さまが世界を造り、秩序と理を定めるより前の時代にあったものです。どこの誰があなたにそんな能力を授けようと考えたのか、まったく理解し難いですが、少なくとも天帝さまでも黒焔さまでもないのは確かです。わたしが思うに‥あなたの存在そのものが夢の産物なのでは? 人間の器にならば融合させやすいでしょうからね。」
そうなのか? そうかもしれない、と紫苑は思った。
人間は体に依存しすぎる、と真白は言った。逆に中身は何でもOKなのかも。
藍は一息ついてから、続けた。
「ですからあなたの魂力は、秩序や理を無視して発動するのです。例えば夢を介して人間界と『五色界』を繋いでしまうのは、天の定めた人間界の秩序に反しています。同様に他人の夢に入りこむというのも反しています。遣い方によっては世界の崩壊に繋がりかねない、大いなる魂力と言えますが‥。」
そこで彼は皮肉な微笑を浮かべ、紫苑を見遣った。
「ま、所詮は人間の器に取りこまれたモノですからね。限りがあります。一つは最大限に発動すれば器が保たないだろうということ。もう一つは発動させるのに必要な『祈り』が理性ではなく人間特有の感情に連動してしまうこと。人間の場合、魂の力が最も強く発揮されるのは感情に任せて行動する時ですから。」
「人間の場合、てことは‥。他は違うの? 魂って心のことだろ?」
紫苑の言葉に、橙がなぜか大きくうなずいた。
藍は呆れて、橙を見遣った。
「魂は存在の本質なのですよ。橙、わたしたちは虹彩人であることが本質なのだから、感情よりも虹彩人であろうとする心が本来、優先されるんだよ。他もそうだ。いいですか、紫苑。例えば琥珀さまは、ご自分の感情よりまず麒麟であろうとするお心を優先なさって、あなたと誓約を交わしたのでしょう?」
「ああ‥。なるほど。」
「けれど人間は歴史上、往々にして人間であることより欲望だとか愛情だとか、そういう感情を優先して行動してしまう。器に左右されすぎるのも一因でしょうね。体の苦楽を魂の苦楽より強く感じるのでしょう。‥わたしは人間じゃないからほんとのところは解りませんけどね。」
相手を見る時に焦点を合わせる場所が異なる、と真白が言った意味が何となく解ってきた。では表面上の性格や性別は違っていても、紫苑は前の六人の紫苑と根っこの部分が同じだということか? 魂力以外で共通する部分とは何だろう?
「魂力の制御方法、というお話でしたね。あなたの場合は『祈り』イコール感情なんですから、感情をコントロールできればいいわけですけど‥‥。紫苑、わたしの方からも常々聞きたいと思っていたことがあるのですが、いいですか?」
「え? ああ‥何でも。答えられることならね。」
へへ、と微笑ってみせたけれど、かえって軽蔑されたみたいだった。
「あなたのそういうところですよ。先ほどからわたしはかなり差別的に人間を侮辱する言動をしているのですけれど‥。あなたはまったく怒る気配をみせない。」
「は‥? わざと怒らせようとしてたってこと? 気づかなかった。藍の言うことはもっともで、筋が通ってるなぁ、って感心してたし‥。」
「もちろんわたしは考えている通りを話しているだけですが。感情的な人間ならば、余計に怒るでしょう? 人間に対する蔑みは本心からなのですから。」
橙はおろおろして、藍と紫苑の顔を交互に見遣った。
「藍ってば‥! そんなことを言ってはいけない‥。」
「橙は黙っていて。紫苑に聞いているのだから。」
紫苑は別に腹も立たないけれど、藍が何を言いたいのかが掴めなかった。
「藍が人間‥特に俺に対してあんまりいい感情を持ってないのは知ってる。琥珀もね。まあ理由は違うんだろうけど‥。でも俺は別に腹も立たないし‥。どちらかというと二人のことは好きだよ。さっきの魂の話じゃないけど、俺を好きか嫌いかじゃなくて、するべきかどうかで助けてくれたりするだろ? そういうところが好きだし、信頼できる。」
藍はふふふ、と笑った。
「やはり‥。思った通り、あなたは感情に支配されやすい人間ではない。なのに不思議ですね、あなたが魂力を発動する時は必ず、一緒に大量の感情が放出される。聞きたいのはそこです、紫苑。あの爆発する感情は、ほんとうに全部あなたのものですか?」
真摯な藍色の瞳がまっすぐ紫苑を見据えた。ほんとうに綺麗だな、と紫苑はつい見入ってしまう。
「そのことか‥。俺もよく解らないんだけど、拾っちゃうんだよ。」
「拾っちゃう‥?」
「うん。魂力を遣っている時って、感度がいいって言うか‥。近くにあるいろいろなモノの感情を手当たり次第に拾ってきちゃうんだ。それが自分のみたいに感じるんだよ。‥今気づいたけど、もしかしたら描いているイメージも、誰かから引っ張ってきてるのかもしれない。」
紫苑は照れくさそうに付け加えた。
「頭の中に苦しいとか悲しいとか寂しいとか、いろいろな声が響いてきて‥何だか、たまらなくなるんだ。何とかしてあげたい、って思うと爆発しちゃう。」
「なるほどね‥。それで解りました。『祈り』の主体が自分ではないから、制御できないんですね。」
藍はすっきりと腑に落ちた、という表情で紫苑を見た。
「いいですか、紫苑。魂力を遣うために意識を集中しますね? その時自分の感情を空にしておいてはいけません。自分が自分であることを忘れないための、いちばん大切な想いを体の中心に据えておくのです。」
「自分であることを忘れない‥‥?」
「‥人間では難しいでしょうか? 元々、制御とは馴染まない性質の魂力ですしね‥。そうか、だから真白さまは、琥珀さまを同道なさろうと‥。」
思案げな顔で考えていた藍は、急ににっこりと微笑んだ。
「わたしに相談するまでもなかったのですよ。真白さまはあなたに制御方法を教えようとなさっていたのです。琥珀さまを守る、という想いを忘れさえしなければ、きっと明日はうまくいくでしょう。」
紫苑には最後の部分がやや未消化だったが、今までよく解らなかった世界のことや夢の領域のことなどが藍の説明でかなり解った気がした。特に自分の魂力の性質がはっきりしたのは、気持の上でずいぶんと楽になった。
「ありがとう、藍。いろいろすっきりした。なにしろ解らないことが多すぎて、誰に何を質問すればいいかも解らなかったんだから。」
つんと横を向いて、藍はまた冷笑を浮かべた。
紫苑はそんな藍を温かい気持ちで見遣ったが、隣に座っている橙が寂しそうに自分を見つめているのにはまったく気づかないでいた。
西の谷は相変わらず空っぽだった。
暗いモノクロの山並みの間に、真っ黒な水晶の束が上を向いて切り立っている。空気さえも動かない。まるで死んだ場所のようだ。
藍の言葉通り、真白は紫苑に琥珀との主従関係を腹の底に据えろ、と言った。つまり琥珀に対する信頼と好意を忘れないようにしろと言う意味だろうか?
そう尋ねてみたら、真白はくすくす笑った。
「頭で考えるな。琥珀と常に共に在る、というイメージを持てばいいんだ。おまえが話してくれた金色の火を、常に自分の魂力と重ね合わせて遣え。」
そういうことか。それなら大丈夫、ちゃんとできそうだ。紫苑は気が軽くなった。
急に明るい顔になった紫苑を真白は優しい眼で見守っていた。
初めて会った頃の、優しいけれどどこか冷めた眼とは全然違う。紫苑はこんなまなざしをいつかどこかで見たような気がした。遠い昔の記憶。夢で覗いたものではなく、自分の中から湧き出てくる記憶だ。懐かしくて温かい、真白を想うと泣きたくなる気持ちと重なる記憶。何だろう?
紫苑はこみあげる想いをいったん棚上げして、胸の中心に琥珀のくれた金色の火を思い浮かべた。前の時より火は力を増して、紫苑の体中をめぐり、熱く燃え立たせる。
「よし。紫苑、よくやった。‥‥これが琥珀との絆か。美しいものだ。」
気がつくと琥珀の全身を金色の光が包んでいた。
「真白‥。それ以上は言うな。」
琥珀は真白を睨んで、小声で制した。真白は腕組みをして微笑していた。
「琥珀、言葉など不要だ。おまえがいちばん解っているはずだが?」
「‥‥それでもだ。」
ふふ、と含み笑いをして、真白は紫苑に向き直った。
「‥紫苑。どう感じる? この場所にはおまえが共鳴しそうな感情は残っているか?」
「ううん‥。何もないよ。谷全体が死んでいるみたいだ。でも‥。」
紫苑は首をかしげた。
「でも、とは?」
「不自然な感じ‥。無理に黙らされている、みたいな‥。」
眼を閉じた紫苑の全身から、薄紫色の光が立ち上ってきた。体の中心には琥珀と繋がる金色の炎が透けて見える。
「何か‥いる。息を殺して潜んでいる‥‥。影? あ‥泣き出した‥。」
急に真白の顔色が変わった。紫苑の腕を掴んで、激しく揺すぶる。
「紫苑、やめろ! それ以上、魂力を遣うな‥!」
紫色の瞳は虚ろに光り、焦点が合っていなかった。
「駄目だ、止められない‥。あれは‥泣いてるのは‥俺? ああ‥‥俺だ。」
「紫苑‥!」
真白と琥珀が同時に叫んだ。
紫苑の体から薄紫色の光が上空へ向かって激しく噴出した。と同時に、呼応するかのように谷じゅうから漆黒の水晶が、紫苑の体へ向かって無数の剣のように飛んできた。
琥珀の悲鳴と同時に、真白は巨大な銀色の蛇の姿に変じ、紫苑を覆った。
しばらくしてやっと、黒水晶の雨は止んだ。
谷はシルエットすらも窺えない暗黒の空間に変わっていた。その中で金色と銀色の二つの光が輝いている。
金色の光に包まれて、琥珀は無傷で立ちつくしていた。紫苑の具現化した結界が、総ての剣を弾きとばしたのだ。だがその紫苑は―――?
琥珀は銀色の光の方へ近づいた。銀色の光の中では、真白が血だらけの紫苑を抱えて、蹲っていた。真白は悲痛な表情で、琥珀を振り返った。
「‥急いでここを抜ける。俺に掴まれ、琥珀。」
「紫苑は‥?」
「まだ辛うじて息がある。」