ama-tuyu
鼻頭を犬に舐められて目覚めた。と思ったが、ぼくは犬など飼っていなかった。それならば、誰が鼻を舐めたのか。就寝前の家内の環境、前日に起きた出来事などから様々な憶測を飛ばしてみたが、それでも解答に到れなかったので、糸口を見出すために合理性を排除した妄想を展開することで問題が解決したことにした。
強引に物事を確定させたことで、無法的に中空をさまよっていた意識は少しずつ位置を修正し、まるで惑星の軌道に乗る人工衛星のように安定した周回へと入り通常の挙動を取った。
明晰になった頭で部屋を見渡す。天井の一部が変色し、雨が降る寸前の黒雲のように重く弛んでいた。鼻から大きく息を吸いこむと、部屋を満たしていた水気がどっと鼻腔に落ち込んできて、そのあまりの多さに溺れそうになる。とっさに飛び起きてむせ返り、落ち着いてから再び天井を見上げると、木目からまるで涙のような一滴が落下し、先ほどまでぼくが横になっていた布団に打ち当たって砕けた。
どうやら、なかなか明けない梅雨が行き場を失くして天井裏に潜り込んだようだ。ぼくは物干し竿をベランダから持ってきて、それで変色した天井を突いてみた。ぽつぽつと雨が動く物音がして、どこかへと逃げて行った。ぼくは物干し竿を部屋の角に立て掛け、洗面所へと向かって顔を洗い、入念に歯を磨き、鏡の前で笑う練習をしてから部屋に戻ると、また天井からぽつぽつ音がしていた。
物干し竿を手に取り、今度はやや強めに突いた。わんわん、と犬の鳴き声がしたので、とぼけたふりをして「何だ犬か」と呟くと、上手くやり過ごせたと勘違いした雨の安堵の息が聞こえたので、「そう易々と騙されるかっ!」と言いながら物干し竿で強く突いた。すると力をこめすぎたのか、竿の先端が天井を突き破って穴を空け、そこからどどどと雨がこぼれてきた。
落下してきた雨は、その下の布団のみならず床一面をさめざめと濡らし、ぼくに気付くと申し訳なさそうにお辞儀をし、窓から出て行って外の雨と合流した。
ぼくは窓に確りと鍵をかけ、椅子と懐中電灯を持ってきて天井の穴から天井裏をのぞき、まだ他の雨が隠れていないか確認し、念のため、雨捕り用のスポンジをいくつか設置してから穴を段ボールで補修して仕事に向かった。
仕事から戻り、湿度計を見てみると98%という数値を示していたので、「ほぼ水中じゃねえか」とひとりごち、湿った布団にもぐりこんだ。しかし、仕掛けたスポンジに数滴の雨が捕らわれているのだろう、天井裏から絶えず雨音が聞こえてきてなかなか寝入ることができなかった。時刻は着実に進行し、時計の秒針よりも少し遅れて鳴る、ぽっぽっという音に意識がかき乱され、いよいよ苛立ちが限界に達したぼくは、勢いよく布団を跳ねのけ、怒りのままに椅子を持ってきて穴をふさいでいた段ボールを取り払い、天井裏に頭をのぞかせ、「どうすれば止む! どうすれば止む!」と叫んだ。スポンジにかかっていた雨が息苦しそうな音で「だってぇ、前線が退かないのよォ」といった。
「それよりも、このスポンジを絞ってくれやしませんこと、苦しくて苦しくて仕方ありませんのよ」
「そんなことをしたらきみ、また天井から滴ってくるじゃあないか」
「だって仕方ないんですもの、なんたってあたくし、雨なのですから」
「雨、雨ってきみ、少しは降るだけじゃなくて空へと昇る努力をしたらどうかね」
「仕方ないんですもの、だってあたくし雨なのですから。それよりも、ねぇ、あたくし苦しいの、ああ、苦しい、苦しい、もう息がつまりそう。誰か、あたくしを助けてくれる御仁はいらっしゃらないものですかねぇ」
「雨を助けるなんてそんな奇矯な輩いやしないよ。きみはそこで、しわしわに枯れるまで、そこにいるんだよ」
そう言い残してぼくは天井裏から抜け出て、穴に段ボールで厳重に封をして布団に戻った。しばらくの間、天井裏からは、しとしと、と雨のすすり泣き聞こえた。しかし、それは突然止まったかと思ったら、今度は「ざぁああ、ざぁぁあああああああ」と大声でわめき散らすような音へと変わり、それでも無視を続けていると、「ざざぁああああああ、よいよいよい! ざぁあざぁぁあああああああ、はァよいよいよい!」というような泣きながら唄うような調子に変わっていったので、「うっさい!」と一喝すると急に大人しくなり、ぼくはようやく眠りに落ちることができた。
穏やかな起床とは程遠い、もがき暴れるような目覚めだった。それはそのはずだ、部屋には天井すれすれまで水が溜まっていたのだから。
ぼくは必死に水面から鼻と口を突き出して息継ぎをした。何度か顔面が天井にぶつかり、その度に沈みながらも、なんとか平静を取り戻し、現状の分析に努めようと躍起になっていると、ぼくを浸す水からこんな音が聞こえた。
「ふふっ、あなた、あたくしを放っておくからよ」
ぼくは息継ぎの合間に「こりゃ、きみの涙かい」といった。
「ふんっ、涙なものですか。これはね、あたくしですよ。あたくし自身ですよ」
「これはきみなのかい」
「そうですとも。これからあなたは、あたくしとずっと、ずぅっと一緒ですのよ」
「そうかい」
ぼくは泳いで洗面所へと向かって顔を洗い、入念に歯を磨き、鏡の前で笑う練習してから部屋に戻り、
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい、あなた」
「どうしたっていうんだい、そんなずぶ濡れで」
怪訝顔な同僚の問いかけに曖昧に笑い返しながら自分の作業台に着き、びしょ濡れのカバンを下ろして早速仕事に取りかかる。作業台の引き出しからカッターナイフを取り出し、右隣にいる同僚から手渡される傘の持ち手に見えるか見えないかくらいの文字を刻み込んで左隣の同僚に渡す。左隣の同僚はそれをスーパーやコンビニ、学校にある傘立て、または、電車やバスの手すりにそっと置きにいく。その傘を自分のものと勘違いしたか、はたまた失敬するためか、駅員に届けるためか、置かれた傘を手にする理由は様々だろうが、その人が何気なく持ち手に目をやったときのために文字を刻んでおくのがぼくの仕事だ。
ぼくは黄色く小さい傘に《夢みがち あじさいは飛ばない》と刻み付ける。次に紺色で大柄な傘には《冴えない頭は頭でさえない》と刻み付け、手を休めることなく、黒地に白の水玉模様に《紺碧と重なり合うの》と、レモン色は少し悩んで《といき、とけてはきだして、それでも》と刻み付けたところで、昼食のチャイムが鳴ったので、ぼくはカッターナイフの刃を布で拭いて引き出しにしまい、カバンのなかから弁当箱を取り出す。蓋を開けると、仕切りを挟んで片側に米飯、もう片方には水が入っていた。ぼくは箸で摘まんだ米をじゃぶじゃぶと水に浸して口に運んだ。
同僚たちが喫煙所で冗談を言い合ったり、外に出てキャッチボールなどをしたりして休憩時間を満喫しているなか、昼食を食べ終えたぼくは、脇目も振らずカッターナイフを取り出し、作業へと向かった。
味気ないうす桃色
《迫り来る傘寿を年輪の渦で巻いて》
アイボリー
《真空パック大の宇宙で星歌い》
ビニール
《雨降って傘差せば頭上に展開されし折り畳みの天球》
星柄
《どちら多いか 星と雨 多数決で決める》
フリル付水色
《夏のまばゆさ遮るノイズを梅雨って呼ぶんだってさ》
赤丹の和傘
《夕焼け切り刻む刃から香るのが雨の匂い》
青色
《耳澄ませば聞こえる隣席から雨の点滴》
白黒の縦縞模様
《視界に入る人のこと考えすぎ人混み立ち竦み》
穴あきの紺色
《人の優しさ試すなよ ずぶ濡れの子犬の瞳にらみつけ》
黄緑
《君だけに振りかざして突きつけるよ自暴論》
あふれんばかり花柄
《この花畑、束にして君に投げつけたい》
アンテナっぽい
《傘差して知る雨の強さは初体験の如し》
水が滴ったままの
《あと何回濡れた頬を月夜にさらすのですか》
ふやふやしてる
《それはとても、ささいでささやかな》
真っ暗
《ざあざあと そんなにも悲しく泣きわめくのなら一緒に死んであげるよ》
パゴタ傘
《部屋干しのお洋服たちがいるから寂しくないわ》
日に焼けた
《茫洋と霞む夜 研ぎ澄ますのは精液だけでいい》
潮の香り
《雨降る夜にさえ涙流してしまうね》
蕁麻疹を彷彿させる
《いつも忘れてしまう雨雲の奥の冷めた人々のこと》
空色よりもやや暗い
《底抜けにほの暗い空、明るむまで》
鉄塔のような
《錆びた傘骨から落つる雨滴は麺つゆのきらめきをたたえて》
青白い日傘
《窓越しに瞬く空はより青く》
幾何学模様
《蝸牛の渦螺から抜け出せない蛙 赤い舌天に伸ばし》
滲んだ虹色
《揺れぬ水溜りに映る虹の嘘くささよ》
迷彩柄
《ゲリラの急襲に雨樋戸惑い下痢ざまの放水》
透明な
《夏を充填せし蝉の抜け殻放り貪りかき氷》
そこまで刻み終えると、手首に違和感を覚えたので一息つこうと顔を上げる。部屋全体の明かりは落とされ、ぼくの作業台のランプがぽつんと灯っているだけだった。窓からうかがえる空は暗く、はっとして時計を確認すると就業時間はとっくに過ぎており、それどころかもう間もなく日付が変わるところであった。ぼくは慌てて荷物をまとめ、職場を後にした。
夜の街には雨が降っていた。傘を差してそのなかを歩いていると、傘を叩く微力な雨に押しつぶされそうになり、自らの憔悴の程度を知った。ずっと一点を注視していた反動からか、視界を縦断する雨筋を瞳は逐一追おうとして目を回し、水たまりを避けようとしても足取りが覚束ず足首まで浸かってしまう。靴の穴から染み入った雨水で足の動きがさらに鈍る。やけに眩しい自動販売機の明かりにかざした手は白く、まるで透き通っている。その手で雨に触れようと傘の外に手をさしのべてみたが、雨はぼくの手をすり抜けてアスファルトに向かう。濡れた路面は夜よりも暗く、雨水をかき分けて行く自動車は走行しているというよりも渡航に近い。タイヤに弾かれた水飛沫は街灯に照らされ、宝石のように輝く。それを雨が射止めて首輪のように縫い付けたかと思えば、ばらばらに砕いて夜気に混ぜこむ。呼吸をすると、内側にも雨が降ったかのようにずしりと全身が重くなる、気も重くなる。単調な雨景色と繰り返される雨音は、ずっと変わらないぼくの外見と反復する呼吸を表しているかのようで、夜が持つ同一的な作用によって、ぼくと雨を隔てていたものは夜闇にとけて 頭上から雨音 見上げれば満天の星空 ぼくの意識は雨のなかへと踏み出していき 歩く振動で伝う 流れ星 雨と混じり合って見えなくなった 願い事なんてもう 空いた穴から ため込んでいた言葉 次々 こぼれ出てしまう もう忘れてしまった 意識 言葉 伸び伸びと宙を駈け すれ違う人の顔を隠す傘 怖くなって立ち止りうつむく 水たまり 映った顔も黒くて表情が分からない 雨粒が落ちて乱れる水面 黒い顔は様々な感情を表現するから どれが本物か分からない 分かったところで 笑っているときも泣いているときも 心のなかは空っぽだから 忘れてしまった
家着けばすぐさま眠るよ まるでプール飛び込むみたいに
水底横たわり ふわりふわりと あわぶく ふきだしていく きみ
水面ゆらぎ とけていく ゆがんだ太陽 まぶしそうね あなた
きつくしめたゴーグル いきぐるしくて
ずっと きつく苦しめていた
脈の音 すぐそこで鳴ってるわね
自分の音だけなら こんなにも おだやかなのにね
セミの声 もうこんなに近いわ
ねぇ、わめき散らしてどうしたの
陰鬱とした街 雨 狂騒的色合いに塗り替えられたかい セミ
水辺から響く音素 宙でこすれ合い
摩擦によって生み出された熱 気温みるみる上げていくわ
このまま 仰向けになったまま
うつろう空模様 うつろな目で追い
「もう夏だね」って
呟きはセミの音に混じって消えたよ
ああ、きみはいなくなったんだね
刻一刻と経つ時間は
ぼくときみとの距離を広げていくばかりさ
でも、時間って進み続けること 思えば
また、きみに近づいたともいえるのか
その発想 ぼくを元気づけ 少しだけ頬の緊張やわらげたけど
また会えるとちゃんと分かっていても
一度の別れでこれほどまでに苦しいのなら
ぼくはもう
きみに来てほしくないと思うんだ
呼吸はとても静かで
まるで息を止めてるみたいで
流れていく雲の白さに
とけているかのようで
少しずつ
うすれていく手のひら
掲げて
なにかそこにないもの
つかもうとして
つかまえた
音
離さないよう
そっと
胸に押さえつけ
めざめた君が最初に落ちる場所にぼくが行くよ
刻みつける
しずかに
とてもしずかに
刻みつける
感想、意見、アドバイス等ありましたら是非お願いします。