繰り返しの雨宿り
初ホラー作品ですが、そこまで怖くないです。多分。
「すごい雨……」
突然の雨だ。
会社からの帰り。駅のホームに降り立った時には、美しい夕焼けの空だったように思う。もしかしたら、そうあって欲しいと願っての幻だったのかもしれない。
とにかく自分の靴ばかり見つめていたものだから、空の変化に気づけなかったのだ。まだ擦り切れた場所もない新しい黒靴が、空から舞い降りた雫に濡れる。そこでようやく私は気づいたのだ。
ただ束ねただけの髪に、次々と吸い込まれていく雨。流れてくれば、化粧も悲惨なことになるかもしれない。
もう帰るだけで身だしなみを気にすることはないが、地面から跳ね返るほどの雨に、さすがに足が鈍り始める。
帰ることすら億劫で、雨の中を走る人々をただ見つめてしまう。が、その時だった。
雨音を遮るようにカウベルの優しい音が耳に届く。ふと、いつもは素通りしていた路地裏。そこに小さな看板と明かりがあったのだ。私は迷わず、古びた木の扉を開けていた。
「いらっしゃいませ」
中はカウンター席とテーブル席が四つという小さな喫茶店だ。おとぎ話に出てきそうな大きな振り子時計の存在感に驚きながら、店内を見渡す。しかし、カウンターもテーブル席も人がいる。座る場所はなさそうだ。
「申し訳ない。珍しく満席になってしまって」
カウンターの中にいた初老の男性が頭を下げる。どうやら店のマスターみたいだ。
「いえ、構いません。少しだけ雨宿りさせていただいてよろしいですか?」
「それは構わないが――」
「マスター、ここ空いてるよ。お嬢さんが良ければ、だけど」
奥のテーブル席にいた男性が手を振る。見たところ、四人掛けのテーブル席には彼一人しか座っていないようだ。
「常連客だ。見た目は泥棒みたいだけど、いい奴なのは保証するよ。相席になるけど、どうします?」
「マスター、一言多いよ」
私は相席経験がないため、正直なところ戸惑った。しかし、男性は笑顔で手を振り続けていて断るのは悪い気がしたのだ。
「ありがとうございます。相席で構いません」
私はマスターに一礼をして、空いている席に向かう。だが途中、はたと思い出して男性に断りを入れてからお手洗いに駆け込む。
一人なら気にすることもない。異性を意識しているわけではないが、乱れた髪を直したいと思ったのだ。
雨に濡れて酷いことになっているだろうと思って鏡を覗き込む。しかし、意外にも乱れた様子はない。スーツも平気だ。不思議に思いはしたが、すぐに店に入ったのが良かったのだろうと思うことにした。
店内に戻ると、客は半分に減っている。いつの間にか帰ってしまったようだ。
「席、空いたけどどうする?」
男性が話しかけてくる。私は少し悩んでから、首を横に振った。
「せっかくなんで、相席させてください」
「嬉しいこと言うね」
こうして見知らぬ男性と相席することになる。私は初めての経験で緊張するが、それがまた程よい緊張で嬉しくなる。
男性は見た所、四十代。先程から競馬の雑誌を横目に珈琲を飲んでいる。無精髭にたれ目と、どことなく仕事をしているようには見えない。
とにかく何かを注文しようと、私はテーブルの横にあるメニューを開く。定番の珈琲から、ちょっとした軽食まで揃えている。卵焼きサンドというものが気になりつつも、まだ夕飯まで時間はあるし食事はやめておくことにした。
ドリンクメニューに目を通す。様々な種類の珈琲があるが、今は飲みたい気分ではない。
「メニュー決まった?」
男性がメニュー表の向こうから話しかけてきた。私は慌てて返事をする。
「はい、トマトジュースを――」
「マスター。トマトジュース一つね」
私が言うより先に、男性が注文する。
「ありがとうございます」
「いいよ」
BGMは店の雰囲気を壊さないように僅かに聴こえる程度。ジャズのような曲調ではあるけれど、私にはよくわからない。
「トマトジュース。お待たせ」
その時、マスターがトマトジュースを目の前に置いた。爽やかなレモンがトッピングされたトマトジュースだ。
「ありがとうございます」
私は一口飲んでから、いつの間にか出た溜息に少し驚く。
「せっかくなんだし、話を聞いてくれないか?」
男性は珈琲を飲みながら、読んでいた雑誌を閉じる。なぜか嬉しそうに顔を覗きこんでくる。
普段なら、変な人。気味が悪い。相手にしたくないと、マイナスなことばかりを表に出していた。でも、その男性のことは特に気にはならない。むしろ、話を聞きたいと思っていた。
「おい、出すぎたことは話さない方がいいぞ!」
私たちの会話が聞こえたのか、マスターが男性に注意する。しかし、男性は茶目っ気たっぷりなウィンクを返す。
「大丈夫。心配症だな、マスターは」
「後先考えないから言ってやってるんだ」
「へいへい」
わかったのか、わかっていないのか、よくわからない返事をしてから私にもウィンクする。
どうやら常連客というのは本当らしい。お互いの言葉に遠慮が全くない。
「聞いてくれる?」
「はい、ぜひ!」
男性は何かを思い出すように窓の外を見る。しかし、気温差のせいか曇った窓ガラスに景色はうつらない。それでも男性は、そこに何かを見ているようだ。
あと二、三日もすれば七月。暑い日も少しずつ増えてきた。この間まで咲いていた紫陽花も、気がつけば姿を消していて、代わりに夏らしい生き生きとした草木が顔を出し始めていた。
「俺の初恋は高校生の時だ。同じ学校にアイドルみたいに可愛い子がいてさ。勉強そっちのけで夢中になったよ」
「へえ、羨ましいです。私、青春っていう青春を経験してこなかったので」
トマトジュースを一口飲む。確か、ずっとトマトジュースは嫌いだった。それがなぜ飲みたくなったのか、私は不思議に思うも、あまりの爽やかさにつまらない事を気にするのはやめた。
「大学まで一緒でさ。でも、告白はしなかったんだよ」
「なぜですか?」
「彼氏がいたからだ。好きだったけどさ、あいつが幸せならいいと思い込んでたんだよ。俺も若かったからねぇ」
私も何人かの男性と付き合った。今はあまり思い出せないが、苦い経験ばかりだった気がする。なぜか胸を締めつける。
「それで、彼女は結婚しちゃったんですか?」
自分の苦い恋愛のことを思い出しそうで、私は男性に問いかける。男性の話に集中しようと思ったのだ。
「いや、死んだよ」
「え?」
しかし、男性は淋しそうな顔をしてから呟く。
「タイミングが悪かったのさ。仕事で大きな失敗しちまって。クビにはならなかったが、会社で肩身の狭い思いをすることになってな。その直後、彼氏が浮気していることを知ってさ。十年付き合ってきた彼氏に別れ話をされたんだ」
悪いことが重なった。それはつまり、彼女の精神を壊してしまったのだと予想出来る。聞き返すのが怖くなって、私は黙っていた。
「――自殺。そりゃあ、ショックだったよ。何年も、何十年も引きずってさ。俺は結婚どころか恋人も出来ないまま、一生を終わらせちまったよ」
「え?」
「享年九十二歳。長生きしただろ?」
私は男性が何を言い出したのか、まるでわからなかった。四十代に見えるこの男性は、九十二歳だと言っている。違う。九十二歳で死んだ、と。
「あ、あの。私――」
「嫌いなトマトジュースを注文したのはなぜ?」
「え?」
「千歳ちゃん。トマトジュースが好きなのは、彼氏の方だよ。千歳ちゃんが好きなのは甘いカフェオレ」
私は驚いて立ち上がる。その拍子に背の高いグラスを倒してしまった。テーブルから落ちて大きな音をたてたグラス。割れてしまったそこからトマトジュースが溢れる。
「待って……ください。私は、私は誰なんですか? 私は、千歳? 違います。私は、私の名前……。私、家はどこ? 会社って、どこ? あなたは、誰なんですか? ここは、なに?」
息をするのが苦しい。どうやって息をするのかを忘れてしまったみたいだ。自分のこともわからなくなってしまった。
「俺が守ってやりたかったよ。千歳ちゃん。初恋の人。二十八歳なんて、若すぎるだろ」
わからない。
男性のことは知らない。男性のことだけじゃない。自分のことだって、わからない。
確かに、今日は会社に行ったのだ。行って、帰ってきたはずだ。
電車で……電車。電車?
「私、自殺した……」
そうだ。なぜ忘れていたのだろうか。何度も、思い出しては忘れてしまう。
この男性は教えてくれる。私が千歳であること。私が自殺をしたこと。私が二十八歳で死んだこと。いつも、同じように教えてくれる。
「……もう、何度目になるの?」
「知らない方がいい」
「まだ、許されないのね」
マスターが黙って割れたグラスを片付ける。カチャカチャといわせながら、マスターはまた奥へいなくなる。
「それでもまた、教えてくれるの? あなたは、罰を受けなくてもいいのに」
「守れなかったことを悔いて、馬鹿みたいな人生を過ごした。千歳ちゃんを待つことは、悪くない生き方だ。いや、生きるってのはおかしいか」
その時、マスターが目の前にカップを置く。私の好きなカフェオレだ。立ち上る湯気に、珈琲と甘い香り。
喫茶店にもいつもと同じ珈琲の優しい香りがするのに、今までどうして気づかなかったのか。不思議でならない。
本当はこの香りにも気づいていたはずだ。それを遠くに追いやってしまったのは、珈琲の香りとともに悲しい記憶を思い出すから。
思い出せば、また繰り返さなければならない恐怖を呼び起こすからだ。
「ここってなんなんですか? マスター」
「出勤前の喫茶店みたいなもんさ。自殺者はここを出発して罰を受け、またここに戻る。繰り返し、何度もな」
マスターは一度だけ目を伏せる。
「ここに来ると思い出すのさ。生前の記憶をな。普通は一杯の珈琲を飲んだら思い出す」
マスターが男性を睨む。どうやらやってはいけないことをしてしまったようだ。いや、多分させてしまった。
「お嬢さん、いつかは終わる。信じることだ」
「……はい。ありがとうございます」
私はマスターがいれてくれたカフェオレに口を付ける。甘い。
とても甘くて、美味しくて、泣きたくなる。
「自殺なんて、するんじゃなかった」
呟いた直後、私は駅のホームにいた。
この駅は特急が通過していくことが多い。各駅停車の電車は五分後。
その前にくる特急はもうすぐ。ホームに駅員さんの声が響き、特急列車が見えてきた。
「怖い、怖いよ……っ」
何度も、何度も、何度も。
自殺をしたその日から、私の魂は繰り返し列車に飛び込む。何回も同じように特急列車に轢かれ、同じ痛みを感じ、気づけばあの店にいる。
「ごめんなさい」
記憶をなくした私に男性が教えてくれる。何度も、私のことを教えてくれるのだ。名前を知ることも許されないけれど、男性は私を待っていてくれる。それだけが救いだ。
自ら命を絶つことは罪深い。
両親や友人たちみんなを悲しませた。勝手に、自分の都合で命を捨てたのだ。
だから私は罰を受けるのだ。何度も同じように自殺をして、どんな酷いことをしたのかを魂に刻み込むために。
私はいつも雨を感じる。晴れていても、曇っていても、雨なのだ。頭から流れ出るそれが、雨だと勘違いしてしまうから。
迫り来る列車を見ながら、私はホームから落ちた。
「すごい雨……」
突然の雨だ――。
読んでいただき、ありがとうございます!!
初めてホラーに挑戦しましたが、難しかったです。また書いてみたいジャンルですね。
梅雨時ということで、雨宿りをテーマにしてみました。そして少しでも自ら命を絶つ方が減ることを祈って。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!