黒く染まらぬ、白き意志を
神尾は立花を連れて、スタジアムの中を慎重に歩いていた。
守屋からは来るなと言われた。
しかし、自分達の仲間がこの中で戦っている。
せめて仲間を助けるぐらいのことはしなければと思ったからだ。
「神尾さん、やっぱり戻った方が……。守屋さんが来るなって」
立花も怪異の恐怖は知っている。だからこそ、守屋の言葉に従いたくなるのだろう。
「守屋さんはそう言った。だが、自分達の仲間が戦っているんだぞ。
それを指をくわえて待っていろと言うのか?」
その言葉に立花は目を逸らした。自分は厳しい言葉を口にしたのだ。
それでも仲間を見殺すことはしたくない。
通路の中に銃声が響いて来た。
近い。すぐに頭の中でどう対処をすべきかを考えながら駆け出した。
通路の先には2人の警官が尻餅をついていた。
「おい! 大丈夫か!?」
周囲に注意を張り巡らせながら、大声を上げた。
自分の声に反応して、こちらに振り向いた。
2人共、顔や手にいくつも傷がついている。
幸い、薄い傷のようで出血自体は酷くなさそうだ。
「大丈夫か? やつはどこに行った?」
通路の先を覗いて見たが、誰も見えない。
「大丈夫です、薄く切られただけで……。ですが、刃物のような物は持っていませんでした」
「やはり……。やつに何をされたか分かったか?」
一般人ではなく、警官だ。何か見えたかもしれない。
「いえ、こちらに向かってきただけです。やつは私達が傷ついて倒れるを見ると、奥に走り去っていきました」
警官の言葉から分かったのは、向かってくると傷つけられた……。
「分かった。先ずはスタジアムの外に。やつの捕獲は別の人と行う」
情けないが守屋頼みだ。全員を逃がして、やつが逃げられないようにする。
今、自分達がしなければならない仕事だ。
「分かりました。あ! あと、銃が効きませんでした……」
「どういうことだ? 何があった?」
「やつに何発か撃ったんですが、弾が途中で落ちたんです」
銃が効かない。やつは人間だと思っていた。だが怪異になっているのかもしれない。
「なら、尚更ここから出るんだ。これ以上は警察で、」
「いぎゃー!」
警官に避難するように言おうとした時、立花の悲鳴が聞こえた。
付いて来ているものとばかり思っていた。
まだ離れた場所にいたのだ。
「立花ー! 待ってろ!」
言うが早く、銃を構えながら駆け出した。
立花が尻餅をつきながら、後ずさりしている。
その先にやつがいた。
髪は振り乱れ、顔はこけていくつも薄い傷が入っている。
目が血走っており、目の下のくまも真っ黒で広い。
涎を垂らしながら、息の荒い口呼吸が気味の悪さを増長させる。
「ま、また、まただ……。また増えた……」
まただと? 警察のことを言っているのか?
何にせよ、このままでは不味い。
「動くな! 動いたら撃つ!」
すぐに銃口をやつに向ける。この行動でやつを静止できれば……。
しかし、すぐに思い出した。こいつに銃は効かないと。
だが、やつは止まっていた。
その真意が分からないが、銃口を向けたまま、立花の襟を掴み引っ張る。
やつから目を離さないようにしていると、やつの顔や体から急に薄い傷が浮かび上がった。
「あーーーーーー! お前らがーー! お前らがーーー!」
急に大声を上げて、やつが走りだした。
すぐに銃を構えて引き金を絞る。
3発の銃声が響いた。
それはただの空砲だったかのように、やつは動きを止めず走ってくる。
思わず舌打ちをしてしまった。ダメなら、せめて立花だけでも。
銃を捨て、立花の襟を掴みすぐに横に投げるように引きずった。
これなら自分が盾になる。ここまで連れてきたのは自分だ。
立花を殺させる訳にはいかない。
だが、諦めるつもりもない。
素早く立花の握っていた銃を奪うと、銃口を向けた。
狙うのはやつではない。
やつは自分の前面を向いている者を切り付けて、すぐに去っている。
もし自分の考え通りなら……。
やつの頭上の蛍光灯を目掛けて引き金を絞る。
2発の銃弾が蛍光灯を粉々に砕いた。
降り注ぐ蛍光灯のクズがやつを襲う。
それを銃弾と同じように弾くなら……。弾いた!
やつの体をのけ反って上を向いている。
ならば! 引き金を何度も絞る。全弾を撃ちつくし、通路内が静まりかえった。
やつは両足から血を流し、少しして崩れ落ちた。
その姿を見て安堵した。危機は去ったのだ。
「神尾ざ~ん!ありがどうございばず~!」
立花は安心したのだろう。涙を流しながらしがみ付いてきた。
「気にするな。立花、悪かったな。お前を気にしなかった自分が悪かった」
立花に向けて謝罪をしていると、何かが動いたのが見えた。
やつが地面を這いながら、こちらに向かって来ている。
すぐに自分の銃を拾い上げて、銃口を向け、引き金を引いた。
だが、その銃弾はやつの前で止まって落ちた。
やはりそうだ。やつが見ている前からではダメなんだ。
しかし、やつの目は俺に向いている。周り込もうにも距離が近い。
もし、その間に切り付けられたら……。
選択肢がなくなった。
悔しいが退くしかないのだ。
「立花! 先に下がれ! 俺はこいつを引きつける」
「神尾さん!? う~…、分かりました、すいません!」
悩んだ末に立花は走り去っていったようだ。
あとは自分がどう乗り切るか……。
「減った……。減った……。良かった……」
やつが小さな声で胸をなで下ろすように言った。
その間にも、やつの匍匐前進は続く。
どういうことだ? やつは人を切り裂く為に走っていたのでは?
それなのに、何故こんなに安堵したような声を出したのだ?
「神尾さん。入って来ちゃダメって言ったでしょ?」
思わず振り返ると、守屋が後ろから歩いてきていた。
「守屋さん、すいません。自分達の仲間が心配で……」
守屋の目から逃げるように、顔を背けて言った。
「まぁ、神尾さんのお陰で確保しやすくなりましたが」
更に守屋が自分に近づきながら言った。しかし、確保は危険だ。
「守屋さん、こいつは視界に入るものを切り付けているものと思います。
真っ直ぐに向かわれては危険です」
守屋なら大丈夫ではあると思うが、何かあってからでは遅いのだ。
「そこら辺はリサーチ済みです。視界に入るということは、見えなくしたら問題ないでしょう?」
そう言うと守屋は左手を握り締めると、光が溢れてきた。
その力をそういう使い方をするのか。
「群青百足、やつを縛れ」
守屋の首元から百足が飛び出すとやつの体に巻きついた。
その状態で守屋は左手を突きだした。
「天よ。この者に忍び込みし、小さき悪しき者を照らし洗いだす光をお与えください」
溢れていた光が通路の影すら消し飛ばすような、眩い光を放ち始めた。
「お、これで問題無さそうだな。群青百足、喰いもらすなよ」
守屋の声しか聞こえない。しかし、もう少しで終わるのだろう。
眩い光が薄くなっていくのを、まぶたの裏から感じ目を開けた。
やつは疲れ切ったのか、寝息を立てている。
あれだけ動くことに執着しているようだったのに……。
・ ・ ・
「守屋さん、すいませんでした!」
神尾からすごい勢いと声で謝られた。
これでは何も言うことができない。
「神尾さん、結果オーライということで。とりあえず脅威は取り除きましたよ」
「ありがとうございました。その…、今回のは何だったんですか?」
神尾はしっかりとこの事件を知りたいのだろう。
報告はどうするのか分からないが、説明をしよう。
「今回の怪異は人の脳の中の視覚に入り込むやつです。
入り込まれた人は幻覚を見せられます。
ただ、その幻覚は人によるようですが、結構エグイものです」
「エグイもの…、ですか?」
神尾の気になる顔が更に深まっていった。
「ええ。見せる幻覚はまず1体です。その1体が憑りついた人を傷つけてきます。
それから逃げるように動くと、次に見た人も幻覚と同じものに見えます」
「だから、やつは増えたや減ったと言ったんですね……」
何かを他の警官から聞いたのだろう。神尾は小さく頷いていた。
「今回は薬物をきめていた所為か、怪異にかなり深くまで乗っ取られていたようですね。
見える幻覚が自分を傷つけるよりも、殺しに掛かってくる程の力を持っているように見えたのでしょう。
自分が殺される恐怖……。その恐怖が大きな力となって人々を襲った」
普通では殺される程ではなく、虫や小型生物等の嫌なものが体を噛んだり、刺す程度とのことだった。
「それでは怪異に深く支配されて、強い死への脅迫観念を見せ続けられ、実際に傷を受けた。
動かないと殺される。その為に動き続けて逃げた結果が、この事件ということですね」
こんな荒唐無稽な話を神尾はしっかりと受け止めてくれた。
「その通りです。結局は薬物を使用していた人の所為ですがね。
人も怪異もどちらも悪い。よくある話ですが、後味が悪いもんです」
言って悲しくなる。怪異は人の弱みに付け込むものが多いが、付け入る隙や悪化させる人がいるのも、また事実だ。
「そうですね……。闇に堕ちて、闇に憑りつかれて……。
闇にいる怪異にとっては嬉しい存在だったんでしょうね」
いつも通り毅然としている神尾の声に、哀愁のようなものを感じた。
「ですね。人を守るという警察の仕事は尊いものだと思います。
しかし、白い存在であり続ける。これは大変なことでしょう。
だからこそ闇と紙一重なのかもしれませんね」
白いものこそ、黒に染まりやすい。純粋な思いも、やがて黒く汚れてしまうのかもしれない。
「紙一重ですか……。確かにそうかもしれません。
ただ、自分は忘れたくはありません。警察官を目指した時の思いを」
改めて力強い声色で神尾は口にした。
そうだ。俺も忘れていない。怪異に苦しめられている人を助けると決めた時の思いを。
鳴り止まないサイレンの音が響く中で、俺と神尾は改めて決意した時の思いを確かめた。