踏み出す一歩
うつむき加減で語った女性の言葉に、嫌でも集中させられた。
自分の今の状況と同じ……?
それであれば、乗ってもまたどこかの地点に戻される。
しかし、そうであればもう少し暗い顔や、俺の登場に何かの反応があってもいいのでは?
「すいません、そのぉ、乗れないとは?」
色々と聞き方を考えたが、これしか聞きようが思いつかなかった。
俺の言葉で少し女性は顔を上げた。
「乗れない、というよりかは乗る勇気がないんです」
乗れない訳ではない。乗る勇気がないだけというだけのこと。
なら、何故、電車に乗る勇気がないのか。
「度々すいません、踏み入った話になりますが、どうして乗る勇気が?」
「…乗るのが怖い……。乗ってしまえば、後戻りができないですから」
女性の声からまだ寂しさを感じる。
目を俺から少し逸らしていることから、踏み入られたくはないのかもしれない。
ただ、後戻りができないという言葉が気になった。
「後戻りができない、と仰いましたが、ここに戻れない。という訳ではないですよね?」
「そうですね。ここには戻れます……。ただ、戻れるだけです」
「ただ…ですか。電車に乗ることは、あなたにとって、世界が変わるってことなんですね」
俺の言葉に女性は目を大きく開いた。
どうやら的を射ていたようだ。
どこかに出かけるのとは違う。
今の世界から決別して、新しい世界に向かおうとしているのだろう。
それに躊躇しているのだ。
「そう…なんでしょうね。変わらないと思いたいんですけど……」
女性はまだ俺から目を少し背けて言った。
変わらないと思いたいか……。
「ですね。変わらない世界…それは楽な世界かもしれませんもんね」
「楽…楽なんでしょうね。慣れてしまえば……」
「そうでしょう。慣れれば、疑問も持たず、自分の世界に浸れますからね」
俺の言葉に女性は少し睨みつけるように、視線を送ってきた。
だが、間違ったことを言ったつもりはない。
変わらない自分の世界が楽なものであれば、誰もがその中にいたいだろう。
「あなたは…あなたにだって、変えたくないこともあるんじゃないんですか……?」
「まぁ、いくらでもありますよ。ただ、嫌でも世界は変わります。自分が向き合わないだけで」
「そんな! …それじゃあ、あなたは全部に向き合ったんですか?」
「いえ、それは無理でしょう。分からないこともありますし、向き合いたくないこともあります。
ただ、変わらなければいけない時には、向き合って、足を踏み出します」
変わらなければいけない時、俺にも多くあった。
逃げ出したくなることも多くあったし、気付かない、忘れているだけで逃げた事もあるだろう。
ただ、分かっているのならば、向き合わないとどうしようもない。
それから逃げるのも1つの手であろう。
その先には、更なる困難が待ち構えているかもしれない。
だが、それは別の世界に行ってみないと分からない。
女性は口をつぐんだ。俺の言葉は女性に痛いものだったのかもしれない。
ただ、女性に分かってもらいたいことがある。
「傷をつけたのなら、謝罪いたします。すいません。
ですが、あなたはここに…電車に乗りに来た。それだけで世界は変わっていると思いませんか?
あなたは向き合って、足を踏み出した。…それは今の世界と決別した証だと、私は思います」
女性は足を踏み出したのだ。怖かろうが、何だろうが、向き合って、ここまで来た。
ここで戻っても、先に進んでも、彼女の世界は変わる。
もう元の世界には戻れないのだ。
これからは、足を踏み込んだ世界で女性は生きる事になる。
「…私は戻れない。そう言いたいんですか?」
「ええ、そうです。あなたがここまで来た、逃げずにね」
「私が電車に乗らなくても、もう元には戻れない…と?」
「はい。ここに来た、その事実があなたに残ります。その一歩があなたの世界からの旅立ちだと思います」
女性はしっかりと俺の目を見据えて、話しをしている。
声色も少しずつ、しっかりしたものになってきている。
「……私は…恋人…だった人の所に、行こうとしていたんです」
女性は自分のことを語り出した。こちらは顔色を変えず、目を見て話しを聞く。
「彼は私と幼馴染でした。その関係から、そのまま恋人になって楽しい時間を過ごしました。
…でも、彼が就職で離れると、離れた分だけ彼の心も離れていきました。
気付けば、彼は別の女性と付き合って、結婚をしていました……」
少し遠い目をして女性は語った。
恋人との楽しい時間が彼女の世界に残り続けていたのだろう。
しかし、彼には様変わりする世界の中で、女性の存在が遠くなった。
女性と同じ世界に居続けるのは難しいことだろう。
彼と女性は違う世界で過ごしたのだ。
「それでも、どこかで彼のことが残っていました……。
行ってどうなる訳でもないと思います。
ただ、一言だけ言いたかったんです…本当に大好きだったって……」
女性は最後に振り絞るように言葉を出すと、顔をうつむけた。
思いを伝えたい。それが彼女にとって、違う世界への旅立ちの1つの方法なのだろう。
それを知ってか知らずか、ここまで来た。
「…言いたいのなら、言いに行かれるのが良いでしょう。
誰の為でもない……。あなたにとって、それが新たな世界へ飛び込むことになるんですから」
うつむいている女性に笑顔で少し明るい声色で言った。
誰の為でもないのだ。自分が新しい世界に進む為に……。
「そうですよね。私が…私の為にするべきなんでしょうね」
「ええ。あなたが納得して、先へ…新たな世界に進む。これほど良い事はないでしょう」
自分が納得して選ぶ世界。それは時に苦しいものかもしれない。
ただ、自分が選んだ。それだけは間違いではない。
2人で微笑み合っていると、電車が駅に近づく音が響いて来た。
待合室から2人してホームに出る。
電車の車両からの灯りが女性を微かに照らす。
女性は電車の中に乗り込むと、こちらに振り返った。
「ありがとうございました。私を励ましてくれて」
笑顔で女性は優しく俺に声を掛けた。
「いえ。すいません、失礼な言葉をいくつも掛けてしまって。
…あなたの旅立ちをここで見送らせていただきますね」
「はい。行ってきます」
女性の言葉と共に電車のドアが閉まる。
窓ガラス越しに見える女性を目で追い、電車が消えるまでホームに立ち尽くした。




