後編・下
リーダー格の彼女の首の痣は手の平の形をしていました。
そう、丁度女性の手で絞められたような跡になっていました。
あの、妙にリアルな夢が現実のものだったら?
私には奇妙な力がることは事実で、非現実的だとは言ってられません。
そう考えて、私はそれまで立っていた地面が一気に音を立てて崩れて行く様な錯覚を覚えました。
これまで父親や母親に厳しく道徳観念を教え込まれていたので、
人を傷つけることはしてはならないことだと固く信じていました。
なので、加害者側に回るぐらいなら、被害者側になる方がまだマシだとすら思っていたのです。
そう、私は自分の事を善良な人間だと信じ切っていました。
しかし、夢の中で彼女に仄暗い殺意を抱いて、
ポキンと音を立てて折れそうな首に、気が付いたら手を添えていたのも確かです。
彼女が目を覚まさなかったらどうなってたでしょう。
それは考えるのも恐ろしく、
その瞬間、自分自身が急に幽霊よりも、
不気味な存在になり下がってしまった様な心地がして鳥肌が立ちました。
とにかく篠宮さんに一度相談しようと決心をして、授業中も気もそぞろでした。
そうして下校時間になると、私は急いで彼の事務所を目指したのです。
電車に飛び降り、事務所の最寄り駅の改札口を出て、
小走りになりながらも歩いていると、
途中の小さな喫茶店の窓際の席に篠宮さん居る所が見えました。
私が自分の幸運を噛み締めながら、
彼に手を振ろうとしたところで凍りつきました。
篠宮さんと傍には女性の姿があったのです。
しかし、それはよく見たらあの半透明な女の子でした。
溶けて消えてしまいそうな、はかなげな彼女は静かに彼に寄り添っていました。
篠宮さんもそんな彼女意外は目に入らないと言いた様子の穏やかな眼差しで見詰めています。
遠くから見た彼等の関係は兄弟の様にも恋人の様にも親友の様にも見えました。
ただ一つ分かったのは彼等の間に割って入れる様な存在は誰も居ないと言うことです。
私は酷いショックを受けて、暫くその場に立ち竦みました。
彼等は私などの存在には目もくれず、気が付きもしませんでした。
どれぐらい時間が経ったでしょう、
私はぎこちなく体を動かすと通行人の訝しげな眼にも構わず走り出しました。
その場から一行も早く立ち去りたかったのです。
私は篠宮さんに裏切られて様な気持ちで頭が一杯で、持って居たお札も道端に捨ててしまいました。
それから、更に走って走って、
私は気が付いたら見知らぬ暗い道に辿り着いていました。
そこは妙に湿っていて、魚が腐ったような嫌な匂いがしました。
それは鼻にツンとするような匂いで、制服に染みない内に引き返そうとしたその時です。
こっちにおいでよ。
背筋がぞわぞわする様な声でした。
私は寒気を感じながらも、反射的に振り返ると、
そこには白い着物を着た、不健康そうな若い男の人が立っていました。
全体的に色素が薄く、端正な顔をした優男だと言う所が篠宮さんに似ていました。
私は吸い寄せられるようにふらふらと彼の傍に近寄ると、名前も知らない男性は私に手を差し出しました。
それは骨ばった枯れ木の様な手で篠宮さんとは全然違っていました。
それでも構いませんでした。
この時、私はどうしても誰かに必要とされたかったのです。
私が若い男の手を取ると、彼は赤い唇と緩ませ凄絶に笑いました。
その表情に一歩引いた私の腕を急に引っ張り、
視界が暗転しました。
若い男と私は気が付いたら手を繋いで黙々と知らない道を歩いていました。
そこは暗くて、何処か生臭くて血の匂いもしました。
記憶が霞みが掛った様に朧で数百年前からずっとこうしていたような、
そうして、遠い未来の先までこの人とこうして歩いて行くのだという考えに支配されてしまいた。
ここがとても寂しくて、私以外には誰も居ない彼はずっと自分の事を必要としてくれます。
それは、とても幸福なことの筈でした。
しかし、急に優しい母親や温かい父親の横顔が私の脳裏に過りました。
私は何をやっているのだろうと言う想いが私の小さな体を駆け廻り、
中身が空っぽの人形の様に虚ろだった私は、一気に正気に戻りました。
すると、今まで縋りついていた若い男の手が、
体温が全くない事に気が付き、心臓が急に煩く鳴り始めました。
彼は茫洋とした目で真っ暗な道先だけを見ていました。
私のことを見てはいません。
この人は誰でも良いから道連れが欲しかっただけだ、それを痛いほど感じました。
そうして、その手を思いっきり振り払うと、
今まで歩いてきたのとは逆の方向に思いっきり走り出しました。
若い男は何が起きたのか分からないかの様に暫くの間、立ち竦んでいました。
そうして、ここから一刻も早く離れようと走っている私に彼の暗い声が聞こてきました。
うらぎ、ったな、
どうして、どうして、
むかし、のおんなもそ、うだった、
だれ、もかれもおれのこと、をばかにする、
にがしはし、ない、
だれ、がにがす、ものか、
じゅうじゅ、んにしてれ、ばいいものを、
たっ、ぷりとこうかいを、
走っている最中の私に、
彼の陰気な掠れている声が、
途切れ途切れに、
聞こえて、
どうしたら、
酸欠と恐怖で、
パニックになっていた所、
ぽつんと篠宮さんが立っていました。
隣に控えめに佇む半透明な女の子が邪魔なものの、
これは私の脳が見せている都合の良い幻覚だと思いました。
それでも体は正直な物で、力が抜けてしまい彼のすぐ傍に倒れ込みました。
篠宮さんは私を一瞥すると助け起こすでもなく若い男と向き合いました。
ただ、儚げな彼女だけが心配そうな眼差しで見ていました。
それは私の心臓を酷く締めつけました。
篠宮さんと若い男は険しい顔で、話し合っていました。
その内容はよく覚えていません。
この人は何者なんだろうと言う思考が頭の中をぐるぐると回っていたからです。
ただ、最後に何を話していたのかは覚えています。
なら、かわりにおまえのおんなをよこせ。
そのおどろおどろしい声に私は胸中で首を傾げました。
そうして、気が付いたのです。
あの脆そうな人形の様な彼女意外にいません。
慌てて私が篠宮さんを見ると、彼と目が合いました。
篠宮さんは氷の様な冷たい眼差しで私を見下ろしました。
自分が無機物になった様な錯覚を覚えて、ようやく私は気が付いたのです。
彼の中で大事なのは半透明のうつくしい彼女だけで、
それ以外の人間は幾ら時間を重ねても通りすがりの他人と全く変わらないのだと言う事を。
多分、誰かに重ねて多少親切にしていた私が原因で
儚げな彼女を危険に晒すことになったのを心底悔いているのです。
きっと私が大事に思っていた篠宮さんとの時間は、
彼にとってはゴミ屑のように価値のない物だったのです。
それをひしひしと感じたのを最後に私は意識を手放しました。
そうして気が付いたら、病院でした。
何でも路地裏で倒れていた私を親切な誰かが救急車で病院に運んでくれたそうです。
外傷はこれと言ってないのに、3日間程昏睡状態になっていたので念のために精密検査を受ける事になりました。
両親はすぐに駆けつけてくれ、私を涙ながらに抱きしめました。
私は小さく謝罪を零すと、
身に馴染んだ家族の香りに身を委ねながら、帰って来たという実感に浸りました。
異変に気が付いたのは、その少し後でした。
私は奇妙な物が全く見えなくなってしまったのです。
その後進級したこともあり、ごく普通の生徒として私はクラスに溶け込みました。
無難な中学校生活を送っていた私はもう2度と篠宮さんに会いに行こうとは思いませんでした。
私はコツコツと勉強をして、中堅の高校に入学しました。
そこでは仲の良い親友も出来、恋人も出来たこともあって、
今までのスクールライフが嘘の様な楽しい生活を送りました。
こうして、篠宮さんはどんどん遠い思い出の中の人になって行きました。
しかし、事務として就職をした私が後輩のミスで残業をした帰り道、
信号の向こう側で篠宮さんの姿を見たのです。
彼の隣には当然の様にあの折れそうに細い彼女がいました。
勿論、私は声を掛けませんでした。
あれから随分年月が経っていたし、苦い失恋の相手でもありましたから。
それから数年後に私は結婚をして子供にも恵まれました。
それでも、時折彼等の事を思い出すのです。
篠宮さんはどれだけ周りに人間がいたとしても、あの儚い女の子しか目に映さないでしょう。
たった一人そこまで執着する事が果たして、幸福な事なのか、それとも不幸な事なのか、
年を重ねた今となっても分からないのです。